される「中欧帝国」の構造は、中国がめざしている家産制的な「中華帝国」とはおのずから性 格を異にするだろう。だが、日本にとっての最大の問題は、アジア的規模でボーダレス化の流 れに棹さした家産制的な「中華帝国」の建設が進んでゆく事態に、いかに対応するかである。 それは、これまでドイツをふくむ西欧諸国をモデルとし、社会と緊密に一体化した近代国家を 作り上げ、その基盤の上に繁栄と安定を享受してきた日本人にとって、いかに難しい課題であ ることか。われわれは、いたずらにアジア回帰の心情におぼれることなく、なによりも日本の 命運がかかっているこの課題の困難さを自覚すべきであろう。 華夷秩序ふたたび ここで見逃してならないのは、こうして中国が多少とも伝統的な帝国のタイプの支配に戻る 日とともに、かって矢野が指摘した中国の「無国境」的な性格も、ふたたび頭をもたげているこ 国とである。周辺諸国との境界を一種の「邊疆」に見立て、あわよくばフロンティアの前進をは 華かろうとする中国の伝統的な傾向が、一一十世紀の末にきて意外に現実性をおびはじめているの 中 である。 章 七といって、通常の意味での国境にたいして、中国政府が無関心になったわけではない。尖閣 諸島やスプラトリー諸島の例をもち出すまでもなく、現在の中国は、国境線そのものの前進に 203
いるとは言いがたいからである。現在のアメリカ政府がロシアや中国などにたいして取ってい る長期的な政策は、どうやら、ウイルソン流の民主的な国民国家を単位とする世界秩序とは別 のものを目指しているように思われる。 では、一一十世紀末のアメリカは、民族自決の原則をふくむウイルソン的な世界秩序に代えて、 どんな世界秩序を志向しているのか。 それを問う前に、一一十世紀の歴史をもう少し詳しくふり返っておくことにしたい。アメリカ を旗手として一一十世紀の世界に大きな影響力をふるった国民国家あるいは民族自決の原則とは、 どんな歴史的背景のもとに生まれたものなのか。また、この理念を実際に適用する過程でどん な不都合や悲劇か生じなければならなかったか。こういった問題をできるだけ具体的な事実に 即しながら、考えておくことにしたい。 世 カ民主主義のための戦争 メアメリカ大統領ウイルソンが自由主義インターナショナリズムと称すべき独自の世界秩序の プランをたずさえて世界史の舞台に登場したのは、第一次世界大戦も後半の一九一七年のこと 章 一である。まだヨーロツ。ハの戦争にたいしてアメリカが中立にとどまっていた一七年初め、ウィ ルソンは、上院で「ヨーロツ。ハにおける講和の基本的条件」と題する演説をおこなう。そのな
ばしば見られたのである。 ドイツ人の東方植民がこれほど長い歴史をもっているとすれば、それは、第一一次世界大戦直 後の強引な大量追放によって抹消できるほど簡単な問題ではなかった。たしかに、東欧がソ連 によって支配されていた冷戦時代には、西ドイツにおける被追放民たちの声高な「郷土権ーの 主張にもかかわらず、この問題が動き出す余地はほとんどなかった。だが、いったん冷戦が終 わって東欧諸国がソ連の支配から解放され、しかもドイツが再統一されると、たちまちのうち にこの問題が現実味をおびて浮上してきたのである。 一九九一年から九一一年にかけて、統一したばかりのドイツは、ポーランドおよびチェコスロ ヴァキアとの間でそれぞれ善隣友好条約なるものを結んだ。これらの条約を結んだドイツの意 上図は、たんに両国との過去の悲劇を想起し、相互の善隣友好関係を謳いあげることにとどまる のものではなかった。ドイツ側としては、これらの条約の締結を通じて、第二次世界大戦直後に 国シレジアやズデーテンから追放されたドイツ系住民が、自分たちの故郷に帰還できるための確 欧実な足がかりを作っておきたいという狙いもあったのである。 現に、たとえばチェコスロヴァキアとの条約交渉の過程では、ドイツの与党政治家の間から、 章 六「ズデーテンⅡドイツ人か追放とともに失った土地財産にかんして、チェコスロヴァキア政府 は補償を約東せよ」といった声があげられた。このような要求を掲げるドイツ政治家のなかに 169
にたいして人権問題をもち出すなど、西欧的な自由や民主主義の拡大という使命感を完全には 放棄していない。また、アメリカの政治家やジャーナリストのなかには、人権問題等で政府が もっと積極的な姿勢をとるべきだと主張する人びとも数多くいる。そして、『フォーリンア フェアーズ』等の誌上では、これからの世界政治の座標軸を文明の対立にもとめるハンティン トンの説を批判する論文を見かけることも少なくない。 にもかかわらず、冷戦が終わってブッシュ大統領が「世界新秩序ーを高らかに唱え、フクャ マの「歴史の終わり」と題する論文がもてはやされたころと比較してみると、クリントン大統 その分 領のもとでのアメリカが、多分に内向きで防御的な姿勢に転じたことは否定できない。 だけ、アメリカは、他の文明圏で起こった紛争に介入することに慎重になっているということ 活かできよう。 び実際、ポスニアへの米軍派兵に踏み切るまでのクリントン政権の腰はおそろしく重かったし、 帝また、グルジアやチェチェンの紛争では、解决の主導権をロシアの手にゆだねてしまった。そ 明して、中国との関係にかんしても、米政府は、人権問題を時折ちらっかせながらも、米中間の 文 文明の本質的相違を認めてかかる方向に向かっているように思われる。 四ごく控え目にいっても、ウイルソンからブッシュにいたるまでの歴代大統領がもち合わせて いたアメリカ的理念の普遍性にかんする素朴な自信と使命感は、クリントン大統領の場合、す ー 2 ー
同じく第一次世界大戦によって誕生したユーゴスラヴィアの場合には、民族問題による国内 の対立は、チェコスロヴァキア以上に深刻だった。経済的には圧倒的に農業国で人口の七六 ーセントを農民がしめたこの国は、民族的には、セルビア人、クロアティア人、スロヴェニア 人、ボスニアⅡイスラム教徒、マケドニア人、アルバニア人というふうに実に複雑な構成をも っていた。さらに、そこへ正教徒、カトリック教徒、イスラム教徒という宗教的区別が加わる ことで、この国の統合はいっそうむずかしいものとなった。 とりわけ、セルビア人とクロアティア人との対立は、すでに第一次世界大戦末期の国家建設 の過程でもあらわれていたが、第一一次世界大戦中のクロアティアでは、大量のセルビア人がウ スタシア ( クロアティアのファシスト政党 ) によって殺害されるという悲劇も起こる。冷戦終 結後の一九九〇年代には、バルカン半島を舞台にセルビア人対クロアティア人をはじめとして 世民族間・宗教間のとめどもない殺戮が繰り返されたことは、周知の通りである。 の カ だが、第一次世界大戦後にウイルソンの民族自決の原則をもとに東欧に擬似的な民族国家を 作り出したために生じた民族問題の最たるものは、なんといっても、東欧諸国に分散したドイ ア ツ人の問題であろう。なにせ、ドイツ本国 ( 人口約六千一二百万 ) 以外に、オーストリアに六百 章 一五十万、ポーランドに七十四万、チェコスロヴァキアに三百二十万というように、ドイツをの ぞく中部および東部ヨーロッパの諸国に全部で千一一百万あるいは千三百万にものぼるドイツ系
スカレートし、国家そのものが解体することになりやすい。国家の枠組みのなかで多一兀的なエ ー間に中心と周辺という関係が必要だというスミ スニーの文化が展開されるためにも、エスニ スの主張は、傾聴にあたいするだろう。 国民国家を補完するもの ところで、以上に見てきたようなエスニーの問題は、これからの日本にとってどのような意 味をもつのだろうか。すでに述べたように、エスニーの台頭という世界的な趨勢は、冲縄問題 という形をとってわが国にも及んでいる。だが、たとえばイギリスにおけるスコットランドや 琉球民族やア ウェールズに匹敵するほどの規模のエスニーは、現在のわが国には見当らない。し イヌ民族が存在するといっても、その規模はあまりに小さく、スミスをはじめとする最近の欧 米の研究者が説くような意味で、日本を多元的なエスニーの複合体として思い描くことは難し 一いだろう。 ス ヾル化の進展ととも たしかに、関西、中部、九州といった地域の観念はあり、今後のグロー 工 しかし、たとえ に、それらかとくに経済的に自立化の方向に向かうことはあるかもしれない。 章 三ばイタリアにおける北部地域、ドイツにおけるバイエルンなどとくらべた場合、これらの日本 の地域には、歴史の記憶をともなった独自性の意識は稀薄である。
よりも下位の単位が自己を主張しはじめていることは確かである。 そして、こういう世界的傾向は、近年になって、わが国にも及んできているのである。しば らく前から、沖縄問題が多くの議論を呼ぶようになった直接の契機は、アメリカ兵士による少 女暴行事件を招いた基地の問題であった。しかし、これに関連して沖縄の将来が論ぜられる過 程では、冲縄だけに特別の自由貿易地域を設定するといった構想が、地元の経済界から聞かれ るようになった。さらには、まだごく少数意見とはいえ、いわゆる琉球処分の過去にまで遡っ て、沖縄の独立を説く声さえ出はじめている。こういうことを見れば、従来のネイションより も下位のエスニーあるいは地域が独自性を主張しはじめているという点で、わが国も例外では ないことが分かるのである。 エスニーから大ネイションへ それにしても、一一十世紀の末にきて、従来のネイションよりももっと小さい単位のエスニー や地域がにわかに意味をもち出したのは、なぜか。ただちに考えられるのは、経済的な理由で ある。つまり、経済のグロー ノノ化か進展して国民国家というまとまりの経済的なメリットが 減じた分だけ、より小さいエスニーや地域という単位で独自の経済活動を展開できる余地が増 大したというわけである。
険である。少なくとも、人びとが国民国家という繋留点を失「て、アイデンティティの危機に 陥らないための配慮がもとめられる。 イギリスなどは、連ムロ王国をイングランド、スコットランド、ウェーレ。 ノスというエスニーの 穏やかな連合体に再編成することで、この問題を解決しようとしている。プレア労働党政権が スコットランドとウェールズの自冶を拡大しようとしているのも、そうしたこころみの表れで ある。これからは、たとえばエディンバラに住む人は、自分を連合王国という意味でのイギリ スに属する一人であると同時に、スコットランド人に属する一人であるというふうに思うだろ う。そういう一一重の帰属意識をもっことで、人びとは、プリティッシ = という大ネイションが 弛緩しつつある時代のアイデンティティの危機を比較的うまく乗り切ることができるのではな 、ゝ 0 台そして、そのことは、かえってイギリスという近代国民国家の延命にも役立つものと思われ 一る。グロ ーノル化のなかで国民国家の枠組みが弛緩してゆくことは避けられないが、複数のエ ススニーの穏やかな連合体への再編成をはかることで、国民国家は生き延びることができる。人 びともまた、そうした大ネイションとエスニーという一一重の帰属意識の対象をもっことで、ア 章 三イデンティティの危機を免れることができるだろう。それは、ひょっとすると北アイルランド の問題にたいしても、意外な解決のいとぐちを提供することになるかもしれない。
近代国民国家が本来こうしたディレンマを抱えていることを知ってはじめて、最近になって ヾルの一 世界の各地でエスニック・ナショナリズムの台頭が著しいことも納得がゆく。グロー 進展に誘発されて、これまで隠されていた近代国民国家の多元的な民族構造が表にあらわれ、 政治の中枢を支配してきたエスニーにたいする周辺的なエスニーの反撃がはじまったのである。 これが、現在の私たちの目の前にある状況であろう。 アイデンティティの危機 ここであらためて強調しておかねばならないことは、最近のエスニック・ナショナリズムや 地域主義の台頭が、たんに経済的な理由によるものではないことである。もちろん、すでに指 摘したように、グロ ーヾル化の進展によって国民国家の経済的役割が減退し、その分だけ、比 較的小さな地域が単位となって経済活動をおこなう余地が増大している。そういう事情が、エ スニック・ナショナリズムや地域主義の活発化を招いていることは間違いない。しかし、そう いう経済的理由以上に重要なのは、人びとのアイデンティティの危機という問題である。 近代に入って国民国家が時代の趨勢となって以来、人びとは、それぞれ国民国家の枠内で大 ネイションに自分たちのアイデンティティの拠り所を見出してきた。「アイデンティティ」な どというと難しく聞こえるか、個々人が何に帰属していると自覚しているかという問題だと言
外に脆いものとなるであろう。したがって、急速に中国の巨大な影がひろがる茫洋たるボーダ レス化したアジア世界にあって、個々の日本人が、いずれの確たる帰属関係の網によっても捕 捉されることなく、大きな浮き草の群のように漂流してゆくといった姿も、簡単に悪い夢とだ けは片づけられないのである。 東洋文化の中心 著名な東洋学者の内藤湖南は、大正十三年 ( 一九二四年 ) に刊行された『新支那論』 ( 全集第 五巻所収、筑摩書房 ) のなかで、「東洋文化中心の移動」という次のような興味ある説を唱えて 「支那とか日本とか朝鮮とか安南という各国民の存在は、東洋文化の発展という全体の問題か 日ら考えると、実に言うに足りない問題である。東洋文化の発展は、上古から国民の区別を無視 国して、その中心を移動させながら進んできた。そして、今日においては、支那文化を受け入れ 華る点では広東などよりも決して遅くはなかった日本が、東洋文化の中心になろうとしている」 ( 大意 ) 章 七つまり、中国も日本も同じ東洋文化圏Ⅱ中国文化圏に包摂され、現在は、この文化圏の中心リ が日本に移っているというのが、内藤の解釈である。これは、日本が先進的であって中国が後