298 いいづかてつや 飯塚哲哉 ( ザインエレクトロニクス ) 会社を辞めるⅡ落伍者か ? 「アメリカの技術者は伸び伸びとやっているのに、日本の技術者には選択肢が少ない。ずっと らくごしやらくいん サラリーマンでいるか、会社を辞めて落伍者の烙印を押されるか。情けないですね」 こうるのは、、 サインエレクトロニクス社長の飯塚哲哉 ( 五二歳 ) だ。 同社は現在、液晶用 ( 大規模集積回路 ) で独走する半導体べンチャー企業。自社プラ ンドの半導体チップを月一〇〇万個生産するフアプレス ( 工場を持たない ) メ 1 カーで、台湾 にも進当売り上げは、ザイン・グル 1 プ全体で約一〇〇億円、日本で一五億円。従業員は日 本一三人、台湾一一五人である。 飯塚は、一九七五年 ( 昭和五〇年 ) に示大学大学院工学系研究科 ( 電子工学 ) を修了し、 東芝に入社。以後、九一年 ( 平成三年 ) に独立してザインマイクロシステム研究所を設立する まで、一六年間、東芝でエリ 1 ト技術者として半導体の研究開発に取り組んできた。大学院で 工学博士号を取得し、八八年 ( 昭和六三年 ) には四一歳の若さで坐・導体技術研究所第一一 開発部長まで登り詰めた。 「役員就任はまず間違いなし」と社内外で言われた逸材だった。 いっざい
288 「夢プロ」入選から数カ月後のある日。営業の鉄鋼担当部長から新事業担当部長に就任し て間もない服部は、茶封筒に入れた書類一式を、上司の営業部長に差し出した。 はんこ 「通産省に応募するための製品企画書をつくったんですが、ぜひ判子を押してください」 通産省の「医療福祉機器技術研究開発プロジェクト」に応募する、脳出血や脳梗塞で一 = ロ葉を はなつづみ 失った人のリハビリ用ソフト「花鼓」の企画書だった。それに選ばれれば、数億円の開発資金 かもらえる。 統括部長は型通りパラバラと見ると、顔をゆがめた。 「これは営業部の仕事じゃない。おまえが勝手にやっていることだろう」 「新事業担当部長としてお願いしているのです」 「自分のノルマの仕事をやらないで余計な仕事ばかりやっている。出したいのなら勝手に出せ ばいいじゃないか。オレは判子は押さないよ」 が′きん そう言うや、部長はさっさと席を立ってしまった。その無責任な態度に愕然とすると同 時に、はらわたが煮えくり返った。その苦い思いは、自分で会社を設立したあともずっと尾を まんえん そもそも「夢プロ」は会社に蔓延しつつある大企業庫ー・・セクショナリズムや権威主義など かったっ を排除し、自由闊達で風通しのよい組織にし、社員の意識を高揚させることを目的に創設され たプロジェクトではないか。ところが、「夢プロ」自体が大企業病にはばまれて前へ進まないと
2 ラ 8 そのために近藤は、コ 1 ネル大学ビジネススクールに入学すると、「起業家綿 . 、と「製造業 研究」の二つの科目を真剣に勉強した。製造業研究は、従業員の管理、プラントの建設など製 造業からみた経営の研究である。東海岸の工場を、三カ月間で一一〇カ所ほど見て回り、リポ 1 トを提出した。 近藤に価値観の多様性を考えさせる機会となったのは、「起業家綿」の授業だった。ケ 1 ス スタディーの時間では、ある企業の経営状況が報告された後、学生が社長の立場に立って課題 や問題をどうやって克服するのか、対策を発表する機会がある。 あるとき、近藤が方策を述べると、「ロバ 1 トは間違っている。レイオフすべきなのだ」など と一斉に反対意見が上がった。痛烈な批判を浴びせられたことにショックを覚えたが、さらに 驚いたのは議論が終わった直後だった。ケ 1 ススタディーとして取り上げられた当の会社の社 長が紹介され、「いろいろ議論されたが、正解は実はこうです。私はこういうふうにやったか ら、うまくいったんです」と手の内を明かした。 すると、全員手を挙げて、「ーーーそんな経営をするから、あなたの会社はそこまでしか伸びな いんだ。オレが社長だったら、こういうふうにやる。そうすれば一一倍は伸びているはずだ」な どと次々と反対意見をまくしたてた。 「ーー確かに、私のやり方はまずかったかもしれない。皆さんみたいな創造的な発想の人たち をぜひ採用したい」と、社長は率直に語った。
256 自立心を養ういい訓練になった。 慶応大学時代は、家庭教師、新聞配達などいろいろなアルバイトを手掛けたが、中でも最も 勉強になったのは四年のときに一年間、コンサルティング会社、マッキンゼーの調査要員とし てテレビ番組のシナリオづくりに参画したことだ。その番組は、さまざまな仮説が立てられ、 それを検証するという内容のものだった。 経済学部の学生だった近藤にとって、仮説を立てて検証に入るというプロフェッショナルな 仕事の進め方、考え方に触れられた音様は大きく、のちに彼の事業プフンのアプロ 1 チ方法と もなった。 就職先はモルガンスタンレー、ゴールドマンサックスなどの外資系金融と決めていた。 外資系では日本語ができることが武器になると思ったからである。しかし、父親は外資への就 職には難色を示し続けた。 さと 「ーー外資に行くのはいい。けれども、日本の企業も見て、納得してから外資へ行け」と諭さ れ、三菱銀行、日本生命など日本の金融や保険会社も回り始めた。日本興業銀行について は、ある外資系企業の人事担当者からその存在を教えてもらうまで、名則さえ知らなかった。 近藤が、就職先を興銀に決めたのは、担当者の次の一 = ロ葉に心を動かされたからである。 もう 「ーーうちは儲けることが目的ではない。日本の産業構造を変え、経済を活性化していくとい う役割を担うために存在している。日本経済の活性化のために一緒にやりませんか」
「求む経営者 / 年齢一一一五歳前後 / 連絡先・社長」 たった三行しかない、新聞の一面を使った広告が熊谷の目をとらえた。 無線通器メ 1 カ—' ュ一一デンの経営者募集広告だった。 ふじもとひでろう 彼は迷わず受話器を取った。するとユ一一デンのオーナ 1 会長、藤本秀朗が直接出てきた。 「キミは技術はあるのか」「経営に興味はあるかね」 というやりとりの後、三日後に訪ねることになった。熊谷は心の中で小躍りした。 藤本は熊谷に言った。 「ーー私は海外でいろいろな事業をやりたい。今、アメリカや中国などで展開する海外子会社 = 一の経営者を探している。それも、だれかに決裁を仰ぐサラリーマン経営者ではなく、自分で決 一一めることのできる経営者だ」 生願ってもない話であった。でやりかけていたプロジェクトを済ませ、一九九一年 ( 平 も成三年 ) 二月、ユニデンに入社した。三七歳のときだ。 じゅんぶうまんばん 仕しかし、そこでも決して順風満帆というわけにはいかなかった。 章ュニデンには四年数カ月間在籍。その間、部長から取締役、常務へとトントン拍子に出世し 第たが、最後の一年は閑職に追いやられた。 ュニデンに入ると、藤枩ム長から一一つの課題を与えられた。一つは、海外の関連会社の経営 状況が把握できるような仕組みをつくること。もう一つは、関連会社の若手経営者候補を集め
らない人種で、設計屋のやったものに対して内容を改善するなんて、思いもよらない。だから 僕は、残りの人生を建て主の側からサービスできるような仕事をしてみたいと思った」 一九八四年 ( 昭和五九年 ) 、桑原は、岐阜営業所に転勤となり、工事全体に責任を持っという 重責の工事長に就任。そこで彼は「会社を辞めて独立する」という意志を固めつつあった。一一 っちか 十数年、清水建設で培った経験とノウハウを挙げて、顧客へよい建築物を安く提供しようと決 どんよく 心したのである。独立を目指し、貪欲に仕事をこなした。 清水建設にいる間に情報量を増やしておきたいと思った彼は、毎日、現場と現場の間をクル ち マで駆けめぐる生活が続いた。 男 賭あらゆることを″集団討論々方式で 一退社一年前、桑原はユ 1 ザー側に立った建築事務所をつくるという考えをまとめ、部下たち チに読ませた。部下たちの多くは賛鳳一カ月に一回、設立準備会を開き、どういう会社にする べのか、コンピューターソフトは何にするか、日程はどうするかなどを全員で討議した。 章一九八八年 ( 昭和六三年 ) 五月、彼は上司に「お礼状」をしたためて辞表を提出した。 第そして九月、意気揚々として、ユーザー側に立っという新しいコンセプトの建築事務所、希 望社を立ち上げた。 しかし、その先は険しい道のりだった。
に再受験した。 発表は八月だったが、手ごたえを感じた三輪は、通知を待たずに七月に・ co ・エデュケー ションを設立した。 資本金の一〇〇〇万円は自己資金でまかなった。事務所は啝尺・文京区に一三坪の狭いマン ションを借りた。八月に合格通知をもらうと同時に、生徒募集のパンフレット配布を開始し、 新聞に広告を掲載した。一〇人の生徒が集まり、九月からプログラムを開始した。 資脩フームもあって、生徒は順調に集まり、売り上げや利益も好調に推移した。 ち 三輪は″夢〃を語る。 男 「受講者は大会社にお勤めの三〇歳前後の方が多い。その方々は、このまま会社にいればいい 賭という意識から、世界で通用する資格を持ちたいという意識に変わってきている。そうしたビ 一ジネスマンがキャリアを身につけ、国際的な競争力をつけるのをお手伝いすることが僕の夢だ ャ チと思います」 べ三輪は、一一〇〇〇年 ( 平成一二年 ) 四月、アメリカで企業研修するインターンシッププログ 章ラムを開始した。会計と情饕術の一一分野の基礎知識を持っ経験者が対象で、実務経験を積ま 第せて次の就職を支援する。今後は、受講生の人材紹介事業にも進出し、資格取得から就職まで 幅広い事業で収益基盤を拡大し、里証券取引所のべンチャー向け市場、マザーズへの上場を 目指す。
数料の大幅な値下げだった。横並びで、一口座当たり大手で年三〇〇〇円、中小で一一〇〇〇円 を徴収する慣習を破り、一〇〇〇円に引き下げた。業界は大反発し、日本証券業協会も最後ま で難色を示したが、突破した。その後一九九七年 ( 平成九年 ) には、無料化を実現している。 「日本証券業協会は、業界秩序を乱すなと怒りました。やっちゃいけないとは言わない。独禁 法違反になりますから。業界の連中もみんな大騒ぎしましたが、その後、うちが無料化のロ火 を切ると、あっという間に業界全体に広がったんです」 さらにその後、店頭公開株の売買手数料を半額に引き下げるという挙に出た。客から注文を 受けた体八売買のうち一〇億円未満の取引は固定手数料になっているが、店頭株は上限が決め られているだけ、という点に目をつけたのだ。 松井の跳ねっ返りぶりには業界も慣れ始めていたが、これには驚いた。 「上場株が手数料自由化されるときの準備をしただけのことで、勝負はこれからです。大手は 上場株の大幅な手数罸き下げなどできないと思いますよ」 こう強気になる背景には、低コスト経営体質の実現があった。多人数の営業マンと支店を抱 えている会社は経費がかかり、やっていけなくなる。その点、外回り営業を電話営業に切り替 えた松井は、低コスト化移行へのノウハウを蓄積してきた自信があった。 一九九六年 ( 平成八年 ) 一一月、アメリカでコンピューターソフト会社、 g.@トレードがインタ ーネット取引を開始し、その三カ月後にはディスカウントプローカーとして急成長してきたチ
リ 6 「よし、決めた」 松井は、胸をなで下ろしてプロ 1 カ 1 と一緒に銀座へ出て酒を飲んだ。深夜一一時ごろ、気に なって会社へ戻ると、三光汽船が四三で決め、明け方になると、ジャパンラインが四五で決め たという。がつくりと肩を落とした松井に、部長と課長は「ようやった」と激励の一一 = ロ葉をかけ た。ところが、その後、副社長が課長を叱責した。「ーーなんでこんなの決めたんだ。担当はだ れだ、担当は ! 」 その話を後で聞いた松井は、はらわたが煮えくり返る思いがし、 相場の世界って、だれもわからない。それを結果だけを見て、担当者がどうのこうのと 言われる筋合いはない。僕、辞めます」 松井は課長に辞表を出した。しかし、課長はその場で辞表を破り捨てた。 一九八〇年 ( 昭和五五年 ) 、松井は定期船部へ異動。その翌年、米国のレ 1 ガン政権が規制緩 和を進めると、政府公認のカルテル「海運同盟」は翌日崩壊した。たちまち自由化の波が世界 中に押し寄せ、すさまじい過当競争が始まった。海運会社はいずれも大赤字に陥り、中核六社 の中で生き残ったのは、日本郵船、商船三井、川崎汽船の三社しかなかった。 「僕は定期船の仕事をしていたんですが、北米から束尺湾までの四〇フィ 1 タ 1 コンテナの運 賃が四〇〇〇ドルから一一五〇ドルにまで下がった。固定化していた運賃相場が毎日変わるよう になり、社員はくたくたになるまで働いているのに利益は減る一方で、大変な世界だと思いま
344 業や、損保代理店がキャプテイプ機能をレンタルで使えるようにすれば、収益改善につながる。 それにキャプテイプ会社と機能が同じだから、世界の再保険マーケットにアクセスでき、海外 の安い再保険を自由に購入できる。時流にかなったビジネスだ , ーーと、新は思った。 九八年 ( 平成一〇年 ) 三月、新は二四年間勤めた三井海上を退職し、三カ月後にニューネッ トワ 1 ク・インシュアランスを設立した。資本金は、辞める直前に同僚たちに出資を呼びかけ、 一三〇人から三〇〇〇万円を集めた。その後、べンチャーキャピタル数社から資本調達が内定 した。 九九年 ( 平成一一年 ) 一月には住友商事と合弁で、「レンタキャプテイプ再保険会社」をバミ ューダに設立した。セミナーを月一「三回の割合で行う一方、顧客獲得の営業を展開。四年後 に店頭公開を果たす計画だ。 四九歳の新は、確信を持って語る。 「レンタキャプテイプを利用していただくと、欧米の規制のない自由な再保険マーケットにア クセスでき、取引信用保険、環境賠償責任保険など、日本では買えない商品が自由に買える。 また、同じの保険でも、日本よりも卸値で安く買えるんです。それでみなさん、非常に関 心を持ってセミナ 1 に集まっていらっしゃいます。これで日本の保険業界は大きく変わってい きますよ」 新は、一一〇〇〇年 ( 平成一二年 ) 四月、銀行、生保系を中心とするべンチャーキャピタル一