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検索対象: 会社を辞めて成功した男たち
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1. 会社を辞めて成功した男たち

「ーーーオレは自分の親みたいにはなりたくない。息子にはやりたいことを自由にやらせる」が 父親の口癖だった。 開成中に入学すると、テ一一ス部に入った。高校と合同の練習は厳しく、新入生の脱落は、後 を絶たなかった。、ゝ、 カ長澤は「オレは絶対、辞めないぞ」と決心した。テニスに夢中になった ために、成績は五〇人中四〇番台。そのために母親は学校から呼び出されたが、テ一一スはやめ なかった。それから勉強し始め、成績は上がり、高校では上位三分の一に入った。慶応大学経 済学部に入学すると、テニスも続け、クラブ活動と、テニスコーチ、ペンキ屋、デパートの配 送、家庭教師、塾の講師などのアルバイトに熱中した。 一一一そして、就職シーズンを迎え、三越、西武百貨店、三陽商会、朝日生命保険などの入社試験 一一を受けることになる。 生一九七五年 ( 昭和五〇年 ) 一〇月、示・日本橋にある一一一越の面接試験会場ーー ご、つまん も三越の人事担当者は、傲慢な口調で長澤に質問し続けた。 仕「オイルショックといわれているけど、今、全世界に何万バ 1 レル埋蔵されているか知って 章る ? 第「では、世界のに占める日本の割合は ? 予期せぬ質問に、長澤は首をかしげながら「わかりません」を連発した。 「君、勉強不足だな。フツ、フッ」

2. 会社を辞めて成功した男たち

226 「僕は遊びでは付き合えない。結婚を考えている」 彼女は、そっとうなずいた。 翌年の元具我孫子市の彼女の家を訪ね、両親に挨拶しようとした。すると、彼女の父親は、 かわいいわが娘を奪い去っていく男の顔など見たくなかったのだろう、彼女に、「電気を消して くれ」と言った。長澤は真っ暗な中で、自己紹介せざるを得なかった。 そうして長澤は、その年の一〇月、一一六歳で彼女とした。 就職の第一志望を土壇場で変更 長澤は一九五三年 ( 昭和一一八年 ) 一〇月、千葉市の幕張に、長男として生まれた。父親は、 一九一四年 ( 大正三年 ) 生まれで、大学卒業後、第一銀行に入行、勧業銀行とのム曇則にシチ ズン時計にし、役員にまで登り詰めた。母親は、旧満鉄幹部だった祖父の一人娘として大 だいれん 事に育てられ、中国・大連の女学校を卒業後、現地のラジオ・アナウンサーとして活躍した。 大連では冷暖房完備の豪邸に住み、裕に生活していたという。敗戦後、里泉へ引き揚げ、一 九五一一年 ( 昭和一一七年 ) に長澤の父親と結婚した。 長澤は、しつけに厳しい母親の大きな影響を受けて育った。小さいころから彼が勉強する習 慣を身につけたのも、地一兀の進学塾へ通ったのも、開成中学へ入学したのも、すべて母親の意 向からだった。祖父のスパルタ教育で育った父親は、長澤には何も言わなかった。

3. 会社を辞めて成功した男たち

2 2 0 ても何とかなりそうだなと思いました」 一九九五年 ( 平成七年 ) 六月、熊谷はアメリカのデータベース会社、プログレスソフトウェ ア日本法人の社長に就任した。ヘッドハンティング会社の紹介だった。そこで熊谷は起業の鉱 脈を掘り当てることになる。きっかけは〃不満〃である。 プログレス社では、アメリカから送られてくる膨大なソフトウェアのマニュアルを翻訳会社 に訳してもらっていたが、品質が悪く、コスト、納期が遅れるなど非常に不満だった。 ーーならば自分でやろう、と熊谷は考えた。一九九六年 ( 平成八年 ) 一一一月、べンチャーエ ンタープライズセンターから債務保証を得てアイディ 1 エスを設立した。ソニーを辞めてから 八年目の独立だった。 熊谷は、家内工業の色彩の強い翻訳業界に製造業のビジネスモデルを導入した。翻訳した文 章をデータ化し、インターネットを利用した品質管理の徹底を行った。翻訳煮校閲者、発注 者などはインターネットで情報を共有化でき、受注者は納期と品質をリアルタイムでチェック できるのだ。 熊谷は笑顔で楽しそうに語る。 荷を見ても、事業と績びつけて考えてしまうんです。たとえば、夜の銀座の屋台を見れば、 インタ 1 ネットのホ 1 ムページを売る屋台を考える。の端末とノ 1 トパソコンを置いて ″ホームページ、いらんかね〃と、売り歩くとか。事業というのは夢があるから、面白いんです」

4. 会社を辞めて成功した男たち

造・販売会社ュ一一テックテクノロジ 1 ズを設立。熊谷は社長として合弁会社をゼロから立ち上 げた。最初の一生平は急激に業績を伸ばし、そのままいけば、北米に次ぐ欧州市場の売り上げ らつわん 谷社長〃は一躍有名となり、その辣腕ぶりはマスコミにも取り上げ を追い越す勢いだった。″熊、 られるようになった。 熊谷は有頂天になり、中国の自社工場にどんどん発注した。しかし、三年目に入ると、販売 に陰りが出始め、業績不振に陥った。東芝、、松下電器などの大手電機メーカーの参入 で供給過剰になったからである。 「真因は、僕らが中国人のビジネスをまったく理解していない素人だったためです。中国政府 三はうちだけに無の販売許可を与えてくれたものとばかり思っていたんですが、実際は他の 一一メーカーにも許可を与えていたんです」 しんしようひつばっ 生オーナー経営者である藤本は、信賞必罰には厳しかった。熊谷は解任され、本社の常務取締 も役から無任所の部長へと、一一階級降格という厳しい処置がとられた。その後、一年間、社長ス 仕タッフを務めたが、「社長になりたい」という思いはつのるばかりだった。 章 五 第何を見ても事業に結びつかないものはない 「僕は、ポストン・コンサルティングで経営のセオリーを、ユニデンで経営の情けの部分を学 び、データベース会社のプログレスでは情報システムを勉強しました。これなら、いっ起業し

5. 会社を辞めて成功した男たち

218 ることだった。それを熊谷は一年で成し洋けた。一番目は情報システム化の問題として捉え、 各関連会社から同じ形の経営リポ 1 トが出てくるようにシステム化した。一一番目はの取 得者を獲得することと考え、アメリカの六つのビジネススクールを回って一一人の優秀な人材 を採用した。 そんな熊谷をオーナーの藤本が放っておくわけがない。藤本は、しばしば、「晩メシ食いに行 こう」と熊谷を誘った。行き先はいつも里示・新橋の焼き鳥屋だった。藤本は、酔うと遠慮な く相手の肩や頭をたたく癖があったが、熊谷に対しても頭をベタベタたたきながら、経営者の 心構えを説いたのである。 「人を使うコツはな、 ( ペタッ ) 使う人間がどうあるべきかをまず示すことが大事なんだ。いい な、熊谷 ( ペタッ ) ー 熊谷は、藤本を父親のように慕い、敬愛した。 「藤本さんは、勘で経営しているように見えますけど、極めてロジカルに経営されていた。そ れと、一度決めたら必ず実現させる人だということですね」 ばってき その後、熊谷は、藤本から中国のム只廾会社の社長に抜擢されるのだが、そこで見たのはまさ に天国と地獄であった。 一九九三年 ( 平成五年 ) 四月、ユ一一デンは中国の無線通機市場に参入するために、中国国 営の投資会社、 0—e—0 ( 国際投資信託公司 ) とヤオハンとの共同出資で、無線通信機の製 とら

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「求む経営者 / 年齢一一一五歳前後 / 連絡先・社長」 たった三行しかない、新聞の一面を使った広告が熊谷の目をとらえた。 無線通器メ 1 カ—' ュ一一デンの経営者募集広告だった。 ふじもとひでろう 彼は迷わず受話器を取った。するとユ一一デンのオーナ 1 会長、藤本秀朗が直接出てきた。 「キミは技術はあるのか」「経営に興味はあるかね」 というやりとりの後、三日後に訪ねることになった。熊谷は心の中で小躍りした。 藤本は熊谷に言った。 「ーー私は海外でいろいろな事業をやりたい。今、アメリカや中国などで展開する海外子会社 = 一の経営者を探している。それも、だれかに決裁を仰ぐサラリーマン経営者ではなく、自分で決 一一めることのできる経営者だ」 生願ってもない話であった。でやりかけていたプロジェクトを済ませ、一九九一年 ( 平 も成三年 ) 二月、ユニデンに入社した。三七歳のときだ。 じゅんぶうまんばん 仕しかし、そこでも決して順風満帆というわけにはいかなかった。 章ュニデンには四年数カ月間在籍。その間、部長から取締役、常務へとトントン拍子に出世し 第たが、最後の一年は閑職に追いやられた。 ュニデンに入ると、藤枩ム長から一一つの課題を与えられた。一つは、海外の関連会社の経営 状況が把握できるような仕組みをつくること。もう一つは、関連会社の若手経営者候補を集め

7. 会社を辞めて成功した男たち

2 16 すれども、プロジェクトごとの彼の評価は、奇想天外で天才的な発想を持っスタッフには及ば ず、平均点を大幅に下回るという悲惨なものだった。 熊谷にとって、生まれて初めて味わう屈辱だった。 ある夏の日の夕方。熊谷はミーティングの席で、上司に、「どうしてキミはそんな稚拙な発想 しかできないのかね」と嫌みを言われた。みんなの前で、罷力のレッテルを貼られ、熊谷の プライドはずたずたに切り裂かれた。その夜、熊谷は珍しく飲み屋で荒れた。 ぶじよく 「稚拙な発想だと ? 人を侮辱するのもいい加減にしろ ! こんな会社辞めてやる ! 」と何度 も心の中でののしった。 帰りのタクシーの中で、その日一日を振り返り、「オレはまるで網から逃れようともがいてい かも る鴨のようだな」と心の中でつぶやいた。すると、思わず胸から熱いものがこみ上げてきた。 「では一一年間、冷や飯を食いました。挫折したのはそのときが初めてですね。しかし、 きようじん ものごとを考えることを途中で止めず、考え抜く強靭な頭脳をつくることを鍛えられました」 ″経営の情け々を教えてくれた一人の経営者 経営をやりたい。 熊谷の、経営者になることへの熱望は変わらなかった。 の仕事も三年目に入ろうとしていた一九九〇年 ( 平成二年 ) 一一一月のある日。 ちせつ

8. 会社を辞めて成功した男たち

すさまじい″頭脳集団″の中で 「ポストン・コンサルティングでは、徹底的にたたかれましたね。生まれて初めて自分の知的 レベルが他の人より劣っているかもしれないと思い、挫折感を味わいましたよ」 意気揚々とに入社したものの、コンサルティングの仕事は甘くはなかった。 すさまじいばかりの頭脳集団の中で、彼は打ちのめされてしまった。 の顧客は企業の経営者である。彼らは市場のトレンド、将来の競争要因などを読み切 ったうえで五年先、一〇年先の経営問題などを持ち込んでくる。顧客のウオンツ ( 欲求 ) を満 三たすためには、彼らの目からうろこが落ちるような新しい視点を提示していかなければならな 一一い。顧客は付加価値に対する代価としてコンサルタント料を払っているのだ。 生そこで、のスタッフに求められるのは、いかに顧客のレベル以上のプレゼンテーショ もンを行っていくかということになる 仕しかし、熊谷にはそれができなかった。どうやっても付加価値をつけるレベルには達しなか 章った。 = = 調査資料を徹底的に分析し、あらゆる角度から検討して顧客に提示しようとするのだが、 第プロジェクトリーダーから、「そのレベルでは駄目だ。もう一回やり直せ」と突き返されるばか りだった。何度つくり直しても突き返される。半年間、そんな込が続いた。 負けず嫌いの熊谷は、毎日深夜まで残業し、休日返上で会社の机に向かった。しかし、努力

9. 会社を辞めて成功した男たち

214 思うと、思いがけぬほど悲観的になるなど、感情が激しく起伏した。こうなると、万紀の意見 を聞くしかない 一九八八年 ( 昭和六三年 ) 一一一月の暮れも押し詰まったある日。熊谷はそっと切りだした。 さと すると、万紀は子供を諭すような口調で言った。 「あなた、リタ 1 ン・オン・インベストメント (XO—) という一一一一口葉を習ったでしよう。投資 収益生よ。に行くのにいくらかかったと思っているの ? 」 「授業料だけで五〇〇万円。生活費を入れると全部で一〇〇〇万円ほどかかったね」 さらに、万紀は、ソニーとの給料の差を聞いた。熊谷は、ソニーは六〇〇万円で、 0()5 はその二倍ぐらいだと答えた。 その途端、万紀は甘えるような口調で言った。 「あなた、私、これからも仕事を続けたいと思っているの。そのためにはベビーシッターさん も、掃除するお手伝いさんも雇わないといけない。そんな生活をさせてほしいのよ : そこで万紀は一息つくと、声色を変えて、「あなた、どうしたらいいかわかるわね ! 」と畳み かけるようにビシッと一 = ロった。 一九八九年 ( 平成元年 ) 一一月、熊谷は一一一年間勤めたソニ 1 を辞めて心機一転、へ転 職した。 しかし、待っていたのは過酷な試練であった。

10. 会社を辞めて成功した男たち

熊谷は、彼女に負けたくないという気持ちとは裏腹に、彼女を頼り、彼女の一一一一口うことをよく 聞いた。彼女は、熊谷ほどに一時的な咸僣に動かされたり、惑わされたりすることがない、意 らしんばん 志強固な人で、彼にとっては人生行路の羅針盤のような存在であった。 熊谷が一年半でを取得したのも、彼女と相談してのことだった。ビジネススクールは 一一年間で卒業するのが普通なのだが、日本に置いている妻子のために、カリキュラムを半年間 短縮して詰め込んだのだ。 「あのときは死ぬほど勉強しました。土日は朝九時から勉強を始めて、昼食をとって、夜まで 勉強することにしたんです。日曜日は午後三時から四時半まで買い物時間をとって、一週間分 三の食料を買い込む。これが何よりの楽しみでした」 一一を取得し、帰国した熊谷に、早速、ポストン・コンサルティング・グループ (noe) 生から声がかかってきた。迷うことはなかったはずの熊谷ではあったが、いざとなると、ソニ 1 かっと、つ もに復帰すべきか、に転職すべきか、心の中で葛藤が続いた。 仕 ソニ 1 は自分に休職扱いという特別な計らいをしてくれたうえに、授業料を払ってやる 章とまで言ってくれている。ここで辞めては義理が立たない。 第 は自分の経営能力を試すために取ったのではないか。一介の技術者として終わり リたくなければ、で経営を勉強すべきだ。 熊谷はいくら考えても自分では結論を出すことができなかった。過度に楽観的になったかと