おろしさき 丸紅に入ると、いち早くガルフと交渉、日本へ輸入する権利を獲得した。卸先は日本石油だ った。丸紅にとってはメジャ 1 からの買い付けも、日本石油への卸も、いずれも初めてのこと であった。 当時、日石と取引のあった商社は三菱商事、三井物産、日商岩井、伊藤忠の四社であり、丸 紅は蚊帳の外に置かれていた。業界最大の日石への食い込みは、丸紅にとって長年の念願だっ のど た。一方、日石にとっても、当臟石油化宀 k 界全体が喉から手が出るほど欲しがっていたナ フサの卸は、願ってもない事業だった。 獄「僕はナフサの第一船を日本石油に卸し、年三〇万トン入れました。石油部門は業界最大の と美日本石油〃と取引しない限り大きくなれません。それだけに日本石油との取引は格段の効果 国 、がありました」 の 森脇の活躍によって、丸紅は石油の取り扱いで日商岩井を追い抜いた。彼は、一躍″スター ち オイルマン〃として業界の中で則をとどろかせた。 家 業森脇にとって、まさに天国のような日々が続いた。 それから三年。森脇の生活は一転する。部長と衝突し、突然、会社を辞めてしまうのだ。森 章 第脇が三三歳のときだった。 かや
ず、適当に世の中を渡って歩こうとしていたから逆鱗に触れたのだ : ・ その出来亊以来、平松は心を入れ替え、仕事も勉強も精魂込めてやり遂げた。 大学も、ジャ 1 ナリズム学科のあるアメリカン大学へ編入し、卒業した。七三年 ( 昭和四八 年 ) 六月、一一七歳だった。 卒業数カ弖則、ソニーの現地法人、ソニー・ コーポレーション・オプ・アメリカから声がか いわまかずお かった。一一ユーヨーク本社を訪ねると、人事担当者と、岩間和夫社長が出てきて、社風などを 説明した。「出る杭を求めている」、「英語でケンカができる人が欲しい」という話を聞くと、平 松は、ますますソニーにひかれ、入社する腹を決めた。 粥大学を卒業し、帰国するや読売新聞社へ駆け込んで、解説部長に就任していた渡辺に、卒業 の したことを報告した。渡辺は笑顔で、労をねぎらった。ソニーへ行くなんて一一 = ロうと、烈火のご とく怒り出すだろうな : ・ じゃ 車鬼が出るか蛇が出るかと平松がためらっていると、渡辺は、「一一一一口いたいことがあるなら言え 歯 章平松は覚悟を決めて言った。 第「実はソニ 1 から誘いが来ているのですが」 「おう、そうか。おまえ、そっちの話のほうがいいぞ」 意外な反応だった。 げきりん
客さまから支持されています。今後もその方向で事業を組み立てていきたいと考えています」 大久保は、一一〇〇〇年 ( 平成一一一年 ) 一月、ダイオーズを戦略決定、資金調達などを行う純 ち株会社に転換。国内部門を受け持っダイオーズサービシーズと米国部門となるダイオー ズをそれぞれ新設し、営業譲渡した。狙いは事業部門の収益管理を徹底するためであり、 これによりム「後は & ( 企業の合併・買収 ) を積極的に推進する方針だ。 る まついみちお っ 松井 ( 松井証券 ) 見 を 「兜町の風雲児」がニ 0 年前に見た″地獄々 ン「僕は、日本郵船時代に、運輸省の護送船団からある日突然はしごをはずされ、完全自由競争 チ の世界に入ってゆき、同金名が潰れ、船員は全部首を切ら ス ネ れるという世界を見てきました。現在、証券業界が味わっ ジ ている苦しみを、一一〇年則に体験しているんです」 章 道そう語るや、松井証券社長の松井道夫 ( 四六きの表情 第 松から、笑顔が消えた。 松井証券は、営業マンのセ 1 ルス活動の全廃、有価証券 保護預かり手数料の萪化、店頭株の売買委託手数料半額 つぶ
域の人々のための薬局づくりは永久の課題ですね」 河端は、一一〇〇〇年 ( 平成一一一年 ) に入って、新たな事業展開に乗り出している。まず、三 月からインターネットを利用した無料健康相談サービスを開始。専属の薬剤師が、利用客とネ ット上で対話する形で、客一人ひとりに合った薬や食生活に関して助言するというもの。さら に四月、インターネット事業拡大、強化のためにソフトバンク・グル 1 プと資本提携した。他 店とのネットワーク化を強力に推進し、どこの薬局でも薬日本堂の漢方が購入できるようにし たい、と河端は語っている。 おさかしレっ・じ 尾坂鹹 ( シナジー ) 「環境デサイナー」として介護支援システムを開発 「僕がインタ 1 ネットによる在宅介護支援システムを開発するようになったのは、高知県の橋 もとだいじろう 本大一一郎知事からの一本の電話がきっかけでした」 こう語るのは、シナジー社長の尾坂昇治 ( 四三歳 ) 。 同社は地域開発、街づくりのコンセプト・クリエ 1 ター会社として業界最大手である。スタ ッフ三〇人で、一九九九年 ( 平成一一年 ) の売上高約五億円、一一〇〇〇年 ( 平成一一一年 ) は、 マルチメディア事業の開花で一一〇億円の売り上げを見込んでいる。
ニ五歳にして薬局開業 一九六八年 ( 昭和四三年 ) 三月、河端は、会社を退職し、独立に備えた。しかし、頭では薬 局の開業と割り切っていても、それだけで独立すべきかどうか、迷った。 そんなとき、母親から「おまえは薬剤師なんだから、薬局から始めればいい」という内容を したためた手紙が届いた。薬局は手段でいいんだ、という母親のアドバイスに納得した彼は、 まず薬局の開業を決断した。早速、大学の先輩の経営する薬局へ、無報酬で見習いに行った。 半年後、四店舗展開していた先輩が、里示・足立区の店舗を売りに出した。ところが、だれ も買い手がっかず、「おまえ、どうだ」と河端に振ってきた。 彼は、一一つ返事で権利を買った。早速、旭川から母親を呼び出し、店で新装の相談をしてい ると、突然、先輩がやって来て、険しい表情で「話があるんだ。ちょっと出られないか」と、 外へ出るよう促した。喫茶店に入るといきなり「店は売らない」と言い出すのだ。 困惑した顔で店に帰ると、母親が、胸をたたいて「私に任せなさい」と、先輩の家へひとり 出かけて行き、話をまとめてきた。 さすがだな。 母親の交渉能力に改めて感心した。 はなはた 一九六九年 ( 昭和四四年 ) 五月、一一五歳の河端は足立区花畑に個人薬局「薬カワバタ」を開
育する恩師の姿に、服部は胸を打たれた。 もっと性能のいい器具はないのかな。 と思った後、急にあるアイデアがひらめいた。 そうだ。それをオレがやろうー 耳の不目由な子供たちのために、会話訓練用装置をつくろうと、一瞬にして決意したのであ たる 服部は一九七〇年 ( 昭和四五年 ) 、慶応大学経済学部を卒業し、富士通に入社する。 き最初の配属は、示・丸の内の小型コンピュ 1 タ 1 販売部門そこで四年間、営業の基本を てみっちり教え込まれた後、製造営業部に移り、川崎製鉄の担当者として、大型コンピュ 1 ター やシステムの販売を手掛けた。 六年間、一台一〇億円以上もするシステムの販売と、川鉄からのさまざまなクレーム処理に、 こ 寝食を忘れて全力を注いだ。 好「服部はできる」と、社内での評価も高くなった。 障その間の七一一年 ( 昭和四七年 ) 、服部は大学が一緒だった妻と。三人の男の子に恵まれ、 第充実した生活が始まった。 転機は八〇年 ( 昭和五五年 ) に訪れる。三一一歳のときに、プラジルへの赴任を命じられた。 当時、川鉄を含めた大手鉄鋼メ 1 カー各社が、プラジルのビトリアに「ツバロン製鉄所」とい
276 」っ一」 0 ところが、教授からはデザイン技術を教わらずに、「建築概論」などでも、「ーーなぜ人間は建 築するのか」「ーーわれわれ人間はなぜ生きているのか」という根源的な問題を問い続ける講義 ばしようさい、よう ぜあみ ばかり聞かされた。芭蕉や西行、それに世阿弥についての講義などになると、全然理解できな かった。 ーー教授は何が言いたいのか。 彼は教授の口から出たハイデッガ 1 からキルケゴ 1 ル、西行、世阿弥に至るまで必死に読み あさった。哲宀「市日を読むのは生まれて初めてだった。やがて彼は、大いに感化された。 「ーー人はいかに生きるべきか。人間の存在音牋とは何か」 「ーー建築は、そんな根源的な問いかけのうえに立脚したものだ」 彼は、建築学をデザイン技術面からでなく、哲学からとらえるようになった。 「建築論といっても、哲学の講義になるんですね。テクニックは何も教わらなかった。その代 わり、″生〃に対する根源的な問いかけを教わった。生まれて初めて、自分は何のために生きて いるのか、自分はなぜ存在しているのか、と考えるようになり、それは実社会に出てからも、 ずっと続きました。教授との出会いとその講義は、かけがえのない財産だと言えますね」 人間はいかに生きるべきかを問い続けなさい。 そんな哲学を植えつけられた筒見は、一九八一年 ( 昭和五六年 ) 、清水建設に入社した。最初
らの会社の記事を過去数年にさかのばって読んでいった。最終的には無線通器メーカーの ふじもレでろう ュニ一アンと、スー 1 のヤオハンに絞ったが、オーナーの藤本秀朗会長の魅力に惹かれてユニ デンに決めた。 彼は早速、ユ一一デンの人事部宛に、履歴書と、一度面接していただけないかという内容の手 紙を発送した。年明けの八九年 ( 平成元年 ) 一月のことだった。 しかし、ユニデンからは待てど暮らせど、なしのつぶてだった。しびれを切らした三輪は、 四月に人事部に電話を入れた。だが、出てきた課長の答えは、「募集はありません」だった。そ ち れで引き下がる三輪ではなかった。千葉県川市のユニデン本社へ人事課長を訪ねた。 男 が、反応は冷淡だった。 賭彼は落胆し、あきらめかけていた。 きざ ところか 八九年も夏の兆しが訪れるころ、ユニデンから待ちに待った連絡が入った。 ャ チ ン べ三輪が大和証券からユニデンに転職したのは、一九八九年 ( 平成元年 ) 八月。転職を申し込 章んでから半年後だった。 第ュニデンでは、まずグループ本部に配属され、グル 1 プ全体の予算を管理する仕事に携わっ た。半年後の翌年一月、彼は藤本に同行してアメリカへ出張した。当時、テキサス州タラスに あるユニデン・アメリカは、過剰在庫のため経営難に陥っていた。
職先を決めておく必要がある。彼は最終的に起業することを前提に就職先を考えた。そのため には、まず金融臠へ就職し、金融のことを学ぶと同時に、取引のある業界についても勉強す そういうスケジュールを立て る。次にべンチャー企業に入り、起業のいろはを習得する ていた。 だが、一一六歳の新卒を採用する会社はどこもなかった。かろうじて大和証券だけが可能性を 残してくれていた。 バラ校へ留学した。 三輪は大学四年の六月、カリフォルニア大学サンタバ ち 起業のためにあらゆることにトライしてみよう。 男 彼は何でもやりたいことをやった。中でもクリスマス休暇を利用した中米のホンジュラスへ ぼつばっ 賭の旅は刺激的だった。その当時はニカラグアとの間で戦争が勃発し、危険な状況にあったが、 一現地でインカの遺跡を発掘していた青年海外協力隊員である先輩を訪ねた。先輩はすこぶる元 チ気で、真っ黒に日焼けしていた。もうすぐ現地の女性として定住するんだ、という先輩の 彼よ、自分流の生き方を実践していた先輩を見て、自分も他の人とは違う べ表情は明るかった。 , 。 章生き方をしてみたいと思った。 第ホンジュラスでは、空港や市内の至るところに装里早、トラックなどとともに軍隊が配備さ れ、厳重な警戒態勢が敷かれていた。バスでホンジュラスからグアテマラに向かう途中、何度 も自動小銃を肩にした軍人が乗り込み、乗客に身分証明書の提示を求めた。見ると中・高生ぐ
「まあ、一めよ」 そう言って父は彼にコップを渡し、ウイスキ 1 を注いだ。 お父さんは東大にこだわらないよ。おまえ 「くよくよするなよ。大学なんか、どこでもいし が好きなように進路を決めればいい」 父は、大学を出て経理財務畑を歩んできたサラリーマンで、地道にコッコツやる実務タイプ の人だった。三輪の進路についても、うるさく言いたてる母に対して、「豊明には豊明の考え方 があるだろう」と口を挟もうとはしなかった。自分を慰めるために酒を注ぐ父の姿に胸を打た ち れた三輪は、その夜、泣き明かした。 男 父の一 = 暴に奮起した三輪は、翌日から心を入れ替えて受験勉強に取り組んだ。 その結果、推薦で滋賀大学経済学部にム繕。半年ほど滋賀大へ通ったが、関西の大学にはな じめず、在籍したまま、翌年、四度目の受験に挑戦した。そして見事に希望校の東北大学経済 チ学部に入学したのである。 べ一九八三年 ( 昭和五八年 ) 春、二一歳の春だった。 章かねてから大学に入ったら自分を試してみたいと思っていた三輪は、いろいろな新しいこと 第に挑戦した。 大学一、一一年のときは政治家に憧れて、仙台市の社会党系市民グループに参加。革新糸市会 議員を誕生させる運動に加わったりしていた。しかし、やがて、政治家にうさん臭さを感じる