140 一九八七年 ( 昭和六一一年 ) 、彼は日本郵船を退職し、松井家の養子になり、後継者として松井 証券に入社した。 三四歳の春だった。 「この業界はどこかおかしい」 「松井証券に入社してから、〃この業界はどこかおかしい〃と感じていたんです。海運業界で自 由化のすさまじい嵐を経験していましたから、いびつな経営はいっか必ず破綻すると思いまし 当時はバブルの真っただ中で、頂点に向かっていた。日経平均株価は一万七〇〇〇円から急 きようじゅ 上昇し、証券各社は過去局の利益を享受していた。その年の決算で業界最大手の野村証券は 五〇〇〇億円の経常利益を上げ、利益日本一となった。社員数が一〇〇人ちょっとの松井証券 でさえも四〇億円の手数料収入、一七億円の経常利益を記録した。 松井は、取締役法人部長として、機関投資家を相手に営業に駆け回った。 「いったいなんだ、この世界は、と思いました。うちのような証券会社でも、機関投資家から 一日に一〇〇万株単位の注文が来て、五〇〇万円から一〇〇〇万円までの手数料をバンバン落 とす。黙ってたってカネは転がり込んでくるし、株価はどんどん上がるんですから」 当時、日本郵船は一一一〇〇人の陸上社員と一一一〇〇〇人の海上社員を抱えて、経常利益が一〇 はたん
124 チャンスを逃さず、外国人経営者に直談判 そのころ、小売業にボランタリーチェーン ( 独立小売店が共同して営業活動を行うチェーン けいも、つ 組織 ) を啓蒙していた通産省は、海外チェーン店の経営者を欧米から招いて、セミナーを開い ていた。企画部の仕事の関係で通産省とコネのあった大久保は、これを絶好のチャンスだと思 、毎回出席した。そしてセミナーが終わっても一人居残って、外国人経営者に、「私に研修の じかだんばん 機会を与えてくれないか」と直談判した。熱意は彼らに伝わり、後日、「オーケー」の返事が 次々と届いた。 英語も毎朝、会社へ行く前に、ラジオとテレビの英会話で勉強し、仕事が終わると英会話教 室に通い、土日はで勉強したりして、何とか通じるようになった。その一一年間で、研 修の日程が決まり、ホームスティのネットワークもでき、言葉も詰め込みで何とか話せるよう こよっこ。 そうして、大久保は会社を辞め、夢にまで見たアメリカへ渡ろうとした ところが、そこに、予期せぬ難関が待っていた。 「あのころの私はきっと、海外体験の熱病に冒されていたんですね。まわりの反対をすべて押 し切って、アメリカに渡っちゃいましたからね」 一九六七年 ( 昭和四一一年 ) 一一月、降りしきる雪の中、大久保は里足・文京区にある、妻の実 おか
142 ことを聞くんだぞ ! 』と、威張っている。証券会社は投資家のことなど考えずに、大蔵省の意 向ばかりうかがい、天下り先をせっせと提供しているんですから」 松井はかって、「海運同盟」の崩壊で、世界の海運業界が一夜にして大競争時代に突入し、海 運会社が次々と倒産していく実態を見てきた。その経験から、証券会社もこんなやり方ではい ずれ通らなくなる、自由競争にさらされればひとたまりもない、と思った。 さらに、証券業界もやがて自由化される、と予想した。そうなれば、大蔵省はかっての運輸 どたんば 省のように、土壇場ではしごをはずすだろう。「ーーだから、将来の自由化に備え、松井証券自 体を変えなければならない」と決意した。 しかし、何をどう変えるのか、具体的な姿が一向に浮かばなかった。 義父に相談しても、「あなたに任せたのですから、好きなようにやりなさい」と一 = ロう以外に何 も言わなかった。義父は一九八七年 ( 昭和六一一年 ) 、自らの義弟に社長を譲り、会長に就任して 八九年 ( 平成元年 ) 一一一月、株価は三万八九〇〇円の史上曩局値を付け、バブルはピ 1 クを 迎えた。それを境に体八市場は大暴落の一途をたどる。 そんな中で、松井は、九〇年 ( 平成一一年 ) 、常務取締役営業本部長に就任したのである。 古参社員と衝突を繰り返しても
リ 4 化、そして一九九八年 ( 平成一〇年 ) 五月からスタ 1 トしたインタ 1 ネット取引 : : : など、次々 かぶレ・よう と証券業界の常識を破る経営革命で、増収増益を続けている。社長の松井は「兜町の風雲児」 として注目されている。その松井が、かっては地獄のような海運会社の潰し合いを見たという のだ。 この優れた経営者は、いったいどんな〃競争〃を体験したのか 一九七六年 ( 昭和五一年 ) 、一橋大学経済学部を卒業した松井は、海外勤務に憧れて、日本郵 船へ入社し、そこで一一年間過ごした。最初は、神戸支店に配属された。 入社して間もないある日。松井は、研修で日本郵船の関連子会社に出向し、輸出用船荷の依 頼書 ( TO Ⅱシッピング・オーダー ) の受け付け業務に携わった。 CO は、港湾作業を一手に 引き受ける業者が商社の代理として持ってくるのが常だった。商社にとって c00 は死活問題 で、それを提出しないと、輸出代金が支払ってもらえなかったからだ。 夜一〇時過ぎ、伝票を整理していた松井のところへ若い金名が c00 を持ってやってきた。 「ーーこれ頼む」 依頼書の裏側には一万円札が入っていた。 こんなのは駄目だよ。これ返すから、順番を待て」 すると、相手は松井をにらみつけてドスの効いた声で、 「ちょっと来い ! 」
に絞り、月一一回配達する。経費をかけずに、在庫を持たなければ、薄利だが、利益は必ず出る 。それが彼の考え方だった。 「私は、米屋を米屋として捉えるのではなく、配達する北として捉えたんです。それが今日 のダイオーズの原形となりました」 1 を一斉に開始。顧客から好評を博し、注 各米店は大久保のアイデアに共鳴し、配達ス 1 る文は増える一方だった。ところが、肝心の収益は一向に上がらなかった。 パーにない、いかにユニークな商品を扱うかを研究。その結果、スー っそこで、大久保はスー ーでは売れないダスキンを扱うことにした。米屋大久保がスタートして数カ月後のことであ をる。米店一〇店単位でダスキン本社とフランチャイジー契約を績び、汞の要らない子ぞうき 1 の目玉商品の一つにした。最初のうちは、あまり売れなかったが、収益性 ンん〃を配達スー チは高かった。顧客と直結したルートを持っ米店の販売力は強かった。 ネ大久保は、やがて家庭用市場からオフィス用市場に路線を転換した。 「たまたまパンフレットを見たら、モップとか玄関マットなどのオフィス用商品があったんで 章す。ところが、ダスキン本社はそれにあまりカを入れていなかった。そこで積極的に売ってみ 第ると、面白いように契約が取れたんです」 学生アルバイトを戦力にして、営業キャンペ 1 ンを張ると、売り上げ、利益とも大幅に増え ていった。
決めた進路だと思っていた。 母親は、朗らかで、だれからも好かれる河端に、自分の〃夢〃を託した。子供は男三人、女 三人の六人いたが、勉強のよくできた長男は教職に携わるなど、堅すぎて商売には向かない、 と母親は考えていた。 長男の下は女が三人、その次に河端、三男と続いたが、だれが一番商売センスがあるか、事 業家の娘として親の背中を見て育った母親は、とっくに見抜いていた。 まかな それだけに母親は河端のことが気になって仕方がなかった。学生時代彼が賄い付きのエ佰 を出て、大学近くのアパートに引っ越すと、住環境が心配で、ただちに飛んで行ったし、就職 のときも外資系製 ~ 契ム社に勤めていた姉婿に日独薬品を世話させたりしている。 戦河端は、日独薬品に営業マンとして一一年間勤めた。一年間は開業医回りを、一一年目からは病 の 院回りをした。 者 ゅちゃく 営そこで彼が見たのは、医療のいい加減さと、製薬会社とのひどい癒着だった。医者の中には、 安い薬を患者に投入しておきながら高い薬を代替請求する者もいたし、患者のことよりも製薬 若 章会社の儲けを優先させる医者もいた。また、医者のたかり、製薬会社による医者の接待漬けな ど、目に余るものがあった。 第 ーー医、薬。薬は医療の下にあるのか。 そのとき、初めて気がついた冷徹な構図に、彼はずっと後になってまされることになる。
こうアドバイスする先輩や上司たちを心の中で侮蔑していた。オレは学生時代から協調性が なく、人との付き合いは苦手だった。酒はもともと飲めない体質だし、賭け事もオンナを買う ことも、好きではない。それを無理やりャレと一一 = ロうのか。商社マンとはそんな人種だったのか 心の中にためている嫌悪感は、いっか態度に現れ、傍目にもわかるだろう。評価が低いのも 仕方がない、と柳田はあきらめた。 そんな柳田も、いっしか自分なりにプライベ 1 トライフを楽しむようになった。 獄長身で甘いマスクの柳田は、女性社員の憧れの的だった。同期は、年長の女性社員たち 国からもよく食事に誘われた。 天 ところが、かなり好みのタイプの女性から声がかかっても、決して深入りはしなかった。ま のだ独身でいたかったからだ。当時は社内恋愛イコールというのが不文律になっていた。 社会人一一一年目、営業の舞台裏から、組織・人事のあり方に至るまで総合商社の実態を知った 家 起柳田は、そろそろ胸の内を打ち明けられる相手が欲しくなった。 ある日、彼はエレベ 1 ターに乗り合わせた女性に目を奪われた。ただ単に綺麗というだけで 章 一はなく、どこか母親に似ていた。名札に目をやると、「精密化学品部豊島裕子」と書かれてい 9 た。隣の部署の貝だった。早速、後輩に飲み会のアレンジを依頼し、その週末に四人で六本 木の串揚げ屋で会った。 ぶべっ はため きれい
入学当初は、弁護士になろうと思ったが、どうも法律が好きになれず、就職先を決めるにあ たり、総合商社を希望した。 ヘリから降り立っ商社マンに憧れて 「僕が商社を受けたのは学生時代の海外旅行の体験で、世界を股に掛ける商社マンの姿に憧れ たからです。あの当時、商社のテレビに、『アラウンド・ザ・ワールド』の曲が流れ、商社 くっさく マンがヘリコプターから海上の石油掘削リグに降り立ち、外国人とガッチリ握手するというの があった。あれが実にカッコよかった」 柳田は、五〇科目中、四七科目の「優」の成績を引っさげて商社を回った。 国 その結果、三菱商事、三井物産、伊藤忠商事に受かったが、先輩の勧めもあり、三井物産に の入社することになった。 リバリ仕事をやってやる。 さあ、世界に羽はたく商社マンになった。バ 家 一九七六年 ( 昭和五一年 ) 四月一日、彼は胸を躍らせて、泉・大手町の三井物産本社へ初 出勤した。 章 一一カ月の研修も終わり、配属先が決まった。化学品総括部の受渡施設室という地味な職場で、 第 うんでい 全世界が相手である営業の部署とは、雲泥の差があった。 仕事は、各海外支店から送られてくる書類をチェックし、輸入化学製品の通関と倉庫への配
の国内営業を四年間行った。 そんな大村が、子会社の住商機電販売へ電子部長代理として出向を命じられたのは、一九七 三年 ( 昭和四八年 ) 七月のことだった。 当時、住商機電販売は、半導体から精密犠、エに至るまで幅広い商品を扱っていた が、半導体部門の電子部の大幅な子のために、会社全体が経営不振に陥るという状況にあっ た。住友商事は半導体部門を清算するという方針を決定、その責任者としてコンピュータ 1 に 強い大村に白羽の矢が立ったわけだが、本人は左遷人事だと思った。 半導体部門の五一一人を解雇ないし配置転換せよ。 それが彼に与えられた主な任務だった。しかし、住商機電販売の半導体部門は世界最大の半 導体メーカー ( テキサス・インスツルメント ) の指定代理店の一つであり、その実績をつ ぶすのはもったいないと考えた。 着任するや、大村は、一一〇〇〇機種の不良在庫の山を見て驚いた。前任者の超積極経営によ る結果ではあったが、その後、在庫の買い増しを一切禁じていた会社にも責任があった。売れ 筋商品の仕入れさえも許可しなかったからだ。 彼は、数カ月間、どうすべきかを考えた。やがて、半導体は景気に非常に左右されやすい相 場商品的ながあることに気づいた。時期によって、余る機種と不足する機種がある。それ は半導体メ 1 カーとコンピュ 1 ター・メーカ 1 の需給関係で決まる。ならば情報と知恵で勝て しらは させん
学は別問題だ」と彼は思った。留学したのは遊ぶためではない、を取得するためだった。 あのときは、胃の痛くなる思いをし、夜も寝ないで必死に勉強した。あれほど真剣に勉強に打 ち込んだことはなかった。留学で学んだことを仕事に生かさなければ無駄になるではないか、 と心の中でつぶやいた。 「ーーなのに、留学をよき思い出として胸の中にしまっておけという。この会社は一体、何を いきどお 考えているんだ」と、彼は憤った。 もんもん それから筒見は悶々とした日々を送った。このままでは自分は駄目になる。 筒見が一一住平勤めた清水建設を退職したのは、その一年一〇カ月後だった。 彼が転職を決意した背景には、アメリカでの生活体験もあった。 筒見は一九八一年 ( 昭和五六年 ) 、京都大学大学院建築意匠研究室を修了し、清水建設に入 社。以来ずっと設計本部に所属した。 ポストン大学に留学したのは、八九年 ( 平成元年 ) 一月。社内留学に応募したのは、営業設 計の仕事に携わっていたときだった。このまま設計屋で終わりたくない、新しい仕事にチャレ ンジしたいという思いからだった。 アメリカへは妻をともなって行った。ビジネススクールへの入学は八九年一月だったが、英 語の勉強と生活に慣れるために、半年前の八八年 ( 昭和六三年 ) 夏から渡米し、コンドミニア ムを借りて住んだ。夫婦で英会話スクールへ通ったが、妻のほうが上達が早かった。