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1. 会社を辞めて成功した男たち

本作品は、一九九九年四月六日から九月一一日まで「タ刊 フジ」に連載されたものに加筆したオリジナル文庫です。

2. 会社を辞めて成功した男たち

2 16 すれども、プロジェクトごとの彼の評価は、奇想天外で天才的な発想を持っスタッフには及ば ず、平均点を大幅に下回るという悲惨なものだった。 熊谷にとって、生まれて初めて味わう屈辱だった。 ある夏の日の夕方。熊谷はミーティングの席で、上司に、「どうしてキミはそんな稚拙な発想 しかできないのかね」と嫌みを言われた。みんなの前で、罷力のレッテルを貼られ、熊谷の プライドはずたずたに切り裂かれた。その夜、熊谷は珍しく飲み屋で荒れた。 ぶじよく 「稚拙な発想だと ? 人を侮辱するのもいい加減にしろ ! こんな会社辞めてやる ! 」と何度 も心の中でののしった。 帰りのタクシーの中で、その日一日を振り返り、「オレはまるで網から逃れようともがいてい かも る鴨のようだな」と心の中でつぶやいた。すると、思わず胸から熱いものがこみ上げてきた。 「では一一年間、冷や飯を食いました。挫折したのはそのときが初めてですね。しかし、 きようじん ものごとを考えることを途中で止めず、考え抜く強靭な頭脳をつくることを鍛えられました」 ″経営の情け々を教えてくれた一人の経営者 経営をやりたい。 熊谷の、経営者になることへの熱望は変わらなかった。 の仕事も三年目に入ろうとしていた一九九〇年 ( 平成二年 ) 一一一月のある日。 ちせつ

3. 会社を辞めて成功した男たち

っていた 前述のように、日独薬品で新人からカネを集めた河端は、その一一日後、何列車で一日半か けて大阪から旭川に帰った。カネを無心するためだった。家に着くなり、両親に話を持ちかけ 「ーー今すぐ一〇〇〇万円、出してほしい。その代わり僕は財産飆机を放棄するから」 これには両親も唖然とし、しばらく押し黙ったまま動かなかった。やがて母親が、一つ大き な吐息をついてから、ロを開いた。 「そんな大金、うちにない。研修中に会社を抜け出してきて、おまえ、何を言ってるの」 と、つ A 」う 河端は、株はあくまでも事業を始めるための資金稼ぎにすぎないことを滔々と説明し、今買 戦わなければ、下がってしまうと力説した。結局、両親は根負けして一〇〇万円出すことになっ 者た。彼はそのカネを株に注ぎ込み、儲けた資金を一兀手に薬局を開業することになる。 営 経 き 母の描いたシナリオ通りに 若 「僕の人生はおふくろの影響が大きい。振り返れば、子供のころから勉強嫌いな僕が薬大に行 章 「たのも、薬局事業を始めたのも、みんなおふくろの意を受けてのことなんです。だから、今 日の僕があるのはおふくろのお陰です」 埇は一九四三年 ( 昭和一八年 ) 九月、北海道旭川市で、酒屋の五番目の子として生まれた。 あ

4. 会社を辞めて成功した男たち

おもむ 一九七〇年 ( 昭和四五年 ) 三月、平松はワシントン支局に赴き、社費でメリ 1 ランド大学に 入学、まず語学の勉強から始めることになった。デ 1 タ集めや電話当番など雑用に近い仕事で あったにもかかわらず、有頂天になった。憧れていた支局員の々を持ち肩で風を切り、 カードを首にぶら下げてホワイトハウスや央ムなどを自由に出入りできる身分に酔ってしまっ たのだ。 大学に通っていることも、箔が付けばいいや、ぐらいの安易な考え方だった。勉学に対する 姿勢は、懶に陥りつつあった。 彼の日課は、朝、支局へ行き、日本の夕刊の締め切りの仕事をこなし、午後は大学へ行き、 粥授業が終わると議員のところへ回るというもの。 の アメリカへ来て二カ月たった五月一一日のことだった。その日は土曜日で、平松一人で留守番 彼ま荷も起こりやしないさ」と思い、勝 をしていた。正午までの勤務となっていたのだが、 , 。 きゅう 車手に午前一一時半に支局を出た。ところが、正午すぎ、ホワイトハウスでレアド国防長官が急 しんかん 歯 遽、記者会見を行い、「北爆再開もあり得る」という世界を震撼させる重大声明を発表した。 章二日前の四月三〇日、ニクソン大統領がテレビ演説し、米軍は南ベトナム政府軍と共同でカ 第ンポジア領内の北ベトナム解放戦線軍の司令部を本格攻撃するという衝撃的な発表を行い、そ の直後から空と陸から激しい攻撃を行っていた。もし米軍がカンポジア侵攻作戦に続いて北べ トナム爆撃を開始すれば、一九六八年 ( 昭和四三年 ) 一一月の北爆全面停止以来の深刻な事態 きょ らんだ

5. 会社を辞めて成功した男たち

すると、少佐は藤村をにらみつけて、「その話なら夜一〇時にもう一度来い ! 」とム哭下口調で 言った。藤村は、少佐が疑う素振りを見せなかったことに安堵しかけていたが、その一言で恐 よみがえ 彼はホテルへ引き返し、退屈で不安な時間を過ごした。 怖心が蘇った。 一〇時。少佐は定刻どおり出てきた。藤村は、「誘導尋問に引っ掛かるな」と自分に言い聞か せた。だが、少佐は、彼の話を聞くだけで、「それは経理担当につないでおく。明日来い」とし るか言わなかった。 っ結局、尋問はなく、藤村は肩透かしを食らう格好となった。恐怖心がなくなると、急に空腹 感に襲われた。 を翌日から藤村は、経理担当中尉と交渉することになったが、「交渉になればこっちのものだ」 かばん ンと思った。アクセサリーを鞄に詰め込んで持ってきていたのである。妻の実家はアクセサリ 1 ャ チを製造している。そのためにジュエリー、カフスポタン、ネクタイピン、ネックレスなどいく ネらでも手に入った。 ビ 藤村は毎日、アクセサリーを一つずつ持参し、「プレゼントです」と、経理担当中尉に手渡し 章た。一日目は、ネクタイピン、二日目はカフス、三日目は夫人へのイヤリング、とプレゼント そ、つ′」う 第攻撃を行った。すると、三日目くらいから経理担当中尉は厚を崩して世間話をするようにな 刃った。四日月中尉は開口一董藤村に言った。 「家内は大喜びだった」

6. 会社を辞めて成功した男たち

しよう 「それでオレの性に合わんと思って、一一年のときに中退しようとしたんです。でも、おふくろ 7 にコンコンと説教されて大学はきちんと出ると決めたんです」 初めて経験する独り暮らしは、自由で、楽しかった。そんな生活の中で彼が考えたことは、 「将来、人がまねできないことをやってやる」ということだった。 人にぬきんでる。 ばくち といっても、学生の頭では、博打か、泥棒か、実用新案の特許しか考えられなかった。泥棒 は無論、やるわサこよ ) ゝ 。。ーし力ないし、マージャン、競輪、競馬も感心しないし、実用新案も難し かった。河端は、ヒントを求めて毎日、本屋へ通った。 ある日、偶然、目の前にあった『株式入という本を手にしてみた。立ったまま読むと、 実に面白く、にわかに株への興味がわいてきた。 これだツ。本を購入し、その一一日後、山一証券で五万円を一兀手に体八投資を始めた。そ れは、旭川に帰省するたびに家業の酒屋の手伝いで稼いだカネだったが、大卒初任給が三万円 の当時にすれば、かなりの額だった。 その日から、河端は″投資家〃になり、数日おきに詰め襟で証券会社の窓口へ顔を出し、顔 見知りの証券マンから値上がりの激しい有望銘柄を聞き出しては、売買した。五万円で買った 株は、一一倍の値がついたところで売り、新しい銘柄を購入した。すると、その銘柄がまた一一倍 になった。そうやって大学を卒業するころには、合計一一〇〇万円くらいの株を動かすようにな

7. 会社を辞めて成功した男たち

河端敏博 ( 薬日奔 ) いつばしの学生投資家 「僕は、若いころ一時、株に凝っていて、毎日、証券会社に通いつめたことがあるんです。 イトで稼いだ五万円を一兀手に、一一一八〇万円稼ぎ、それを資金にして薬局事業を始めたんです」 こう打ち明けるのは、薬日査星社長の河端敏博 ( 五五歳 ) 。同社は、和漢薬の相談調剤薬局チ エーン会社として業界最大手である。 薬日本堂は、店内に相談コーナ 1 を設置し、薬剤師がカウンセリングをして調合する″相談 よう 調剤薬局〃のスタイルで成長。現在、全国に薬局一一六店舗、その他にも自然食レストランや養 じよう 生セミナーなどさまざまな事業を展開。売り上げは年間四一一億円、一一〇〇〇年 ( 平成一一一年 ) は 一〇〇億円を見込む。創設者の河端は、相談調剤薬局のパイオニアとして名声を博している。 その河端が、かっては株に憑かれたように夢中になったというのだ。 一一一十数年前を振り返る。 一九六六年 ( 昭和四一年 ) 、河端が一三歳の春。彼は、ドイツ系薬品メーカ—' 日独薬品 ( そ の後、日本シェ 1 リング社と社名変更 ) の大阪本社で行われていた新人研修をサポり、証券会 社へ株を買いに行った。すると、注目していたある銘柄が数日前から急上昇していることに気 かわばたとしひろ こ

8. 会社を辞めて成功した男たち

234 障害を持つわが子のためにも そんなころ、妻の、「あの子のために独立したら」という一言で、長澤は独立を決心するので ある。 一九九三年 ( 平成五年 ) 九月、長澤はウエルネスを設立した。資本金一〇〇〇万円のうち、 自己資金は五〇〇万円で、残りは両親と弟に出してもらった。通販のコンピューターシステム は完成し、生産者との契約も済ませ、集荷できる態勢はできあがっていたが、問題は販売力が ないことだった。そこで、長澤は、自社で通販事業をやる以外にも販売力のある会社との提携、 あるいはマーケットを法人に絞る方法などを考えた。 しかし、束縛されない自由な事業展開となると自社通販しかなかった。長澤は自社通販一本 に賭けた。 コンピューターシステムも毎年見直し、改善していった。最も大事なのは誕生日、結婚印 ~ 念 日、事務所開設祝いなど、届け日の指定があることだ。「一週間ぐらいでお届けします」という のでは、事業が成り立たない。宅配便会社と提携し、コンピューターもその会社の配送システ ムに合わせた。現在、ウエルネスは、花の出荷所を全国六カ所に設置。注文件数は累計で一八 万件に達している。商品も、バラの他に、ユリ、観葉植物、桃などのフルーツと広げつつある。 長澤は、今度は妻の夢を実現させてあげなければならない、とこう語る。

9. 会社を辞めて成功した男たち

これならいける。地域の人々はこんなに喜んでくれているのだ。気をよくした彼は、診 療所の全国展開を考え、主要都市で医者の採用を計画し始めた。 ところか 。四年たったころ、じわじわと医師会と薬業界からの圧力を感じ始めた。保険 適用の医療機関と薬局は、一一年ごとに厚生省の検査を受けることになっているが、そのたびに 管理会社と薬日査呈の関係を追及され、クレームを付けられた。医薬業界に実態を知られ、ね たまれてしまったのだ。 「違法ではなかったけれど、役所からあれやこれやと言われて疲れちゃった。そのうち、これ はやっていけないなと思い、診療所経営をやめたんです」 一九八八年 ( 昭和六一一一年 ) 、河端は管理会社を閉鎖し、診療所も全部、医者に売却した。 そこから彼の苦悩が始まった。患者が診療所に取られてしまったために、薬日査星の全売り 上げ一一一億円の五五パーセントを占める処方せん料が、一一年間でゼロになった。経営は危機に ひんした。だが河端は、患者が再び戻ってくることを信じ、ひたすら歯を食いしばって持ちこ たえようと努力した。踏ん張ったかいがあり、やがて、患者は戻ってきた。 薬日査呈のほうが、診療所より地域の人々に根づいていたのである。 郊外型店舗で再スタートを切る 原点に帰ろう。

10. 会社を辞めて成功した男たち

334 取りました。おそらく一一位を大きく引き離すでしよう」と言うや、新は三〇メートルの地点で 抜かれてしまった。みんな想像さえしなかったチャンピオンの敗北。本人は顔色を失い、大シ ョックを受け、立ち直れずに陸上部を退部した。たった一度の失敗だが、「チャンピオン」の自 尊心は二の舞いを演じることをおそれさせた。 しかし、先生からのあたたかく絶え間ない激励もあり、走り高跳びの選手に転向し、県大会 で二位という見事な成績を収めた。一位はその後、全国大会で優勝した選手だった。 かまもと 運動は高校に入ってからも続けた。ャンマーの釜本選手に憧れてサッカー部に入ったが、来 る日も来る日も地味なキー ーをさせられ、一年でやめた。 新は勉強はできた。小・中では成績は絶えず一番、高校に入ってからも三、四番だった。と ころが、高一一からは成績が急に落ち、受験のころには五〇〇人中三八〇番まで下がった。 彼は高校でも小・中と同様に学級委員長を務め、生徒をまとめていた。ある日のホームルー ムの時間に、教務主任と一緒にクラスの生徒を引き連れてスケートリンクへ行った。教務主任 は、そこに担任の教諭がいないことに気がっき、職員室に電話をかけた。 一方、担任は教室で幻灯会をやるつもりで、その用意をしていた。ところが、生徒は待てど 暮らせど現れない。新が担任に無断で生徒を連れ出したのだ。 学校は大騒動になった。担任は校長からこっぴどく叱られ、校長は教育委員会から叱責され た。それを機に担任の〃新はずし〃が始まり、露骨に無視されるようになった。