266 ゾナンス」と変え、社長に就任した。今後は中小出版社や編集プロダクションをファイナンス、 マーケティングの両面で支援し、クリエーターがコンテンツ制作に専念できる環境づくりを主 な事業とし、一一〇〇一年 ( 平成一三年 ) 四月に体八公開を計画している。 つつみけんぞう 筒見憲三 ( ファーストエスコ ) 思いもよらぬ上司の″本音々 「僕は、アメリカのポストン大学ビジネススクールで ( 経営学修士 ) を取得してから、 ビジネス観がガラリと変わりましたね」 そう語るのは、ファーストエスコ社長の筒見憲三 ( 四三歳 ) 。同社は建物の省エネ対策を専門 に事業展開する、日本初の省エネ・コンサルティング会社。 ファーストエスコは、一九九七年 ( 平成九年 ) 五月設立。顧客の依頼に応じて、具体的な省 エネ対策を提案し、必要な改修工事の手配および監賢フォローアップまで行う。創業者の筒 見は、シンクタンク、日本総研の主任研究員を兼務する企業内起業家だ。 筒見は、京大大学院修了のエリ 1 ト技術者だったが、心ない上司の一一 = 暴が、彼に″安住の地〃 を捨てさせることになる。 話は九年前にさかのばる。一九九一年 ( 平成四年 ) 一月、清水建設本社ーー・
2 折ロ襷ッドウイル ) すべてを賭けたジュリアナ東京 「ジュリアナほど起まとしてのデビュ 1 戦にふさわしい事業はないと思いました。あれ は僕のすべてを賭けてもいいと思えるほど価値あるビッグチャンスでした」 そう弁舌さわやかに語ると、グッドウイル会長の折ロ雅博 ( 三七歳Ⅱ年齢は取材時、以下同 ) は一気にコーヒーを飲み干した。 三〇歳のとき、将来を約束されたエリート商社マンの道を投け捨て、起業家へ転身した折ロ は、今や総合人材派一ム社グッドウイルの若き経営者として手腕をいかんなく発揮している。 グッドウイルは物流・配送作業、倉庫内の検品作業、イベント会場の設営・撤去などの軽作 業から、在宅介護などの分野への人材派遣、べンチャーキャピタルまで手掛けている企業。事 業規模は、売り上げ約七五億円、経常利益約三億円、従業員数一一六〇人。一九九九年 ( 平成一一 年 ) 七月には店頭公開を果たす。 折ロは一九六一年 ( 昭和三六年 ) 、啝で生まれる。八四年 ( 昭和五九年 ) 、防衛大学校理工学 部を卒業。一年間外資系企業に勤務した後、八五年 ( 昭和六〇年 ) に日商岩井に入社した。動 機は「大きな仕事がしたい」だった。 おりぐちまさひろ
280 九一一年一一月、筒見は、一一住平勤めた清水建設を退社し、日本総研へ入社。事業企画部に 入り、主任研究員として得意分野である都市づくりにアプローチし、一年ほど環境に優しい都 市づくりの研究に打ち込む。やがて都市環境との接点である省エネルギー問題にたどり着い た。入社一一一年目に環境問題に熱心に取り組んでいる欧米各国を視察。その際、アメリカで電力 やガス会社の子会社でエスコ ( エナジ 1 ・サービス・カンパニー ) といわれる省エネ会社と出 合った。彼らは顧客の依頼に応じて具体的な省エネ対策を提案、必要な改修工事の手配および 監督、フォロ 1 アップまで行っていた。 一九九五年 ( 平成七年 ) 八月、帰国途上の機内で、筒見は、「ーー日本初のエスコ事業をやっ てやろう ! 」と、決意した。 ただちに事業計画を作成し、省エネ技術に関心のありそうな企業五〇社に声をかけた。その 中で関心を示した一三社と組んで研究会を発足。半年かけて市場調査した結果、事業性がある いしかわじまはりま よこがわ とし、九七年 ( 平成九年 ) 五月、石川島播磨重工業や横河電機など、研究会に参茄してい た大手企業八社と、会社を立ち上げた。ファ 1 ストエスコ設立に際し、参茄企業からほば均等 に出資を受けたが、筒見自らも出資し、社長に就任した。〃企業内起業〃である。 以来、同社は工場、事務所ビル、スポーツ施設、ホテルなど五〇件もの受注をこなしてきた。 また、三重県から県庁杢只車示・三鷹市から市庁舎など、自治体に対しても受注の実績を積み 重ねている。受注額は、九八年 ( 平成一〇年 ) は四億八〇〇〇万円、九九年 ( 平成一一年 ) は
208 くまがいたくや 熊谷髢 ( アイディーエス ) 背中を押した妻の一言 「僕が設計だけじゃなく、マネジメントをやりたいと思うようになったのは、女房の影響があ るかもしれません」 アイディーエス社長の熊谷卓也 ( 四五歳 ) は、そう言って苦笑した。 熊谷は、一一一年間ソニーに勤務してから、三つの会社を転々とした後に独立した。ソニーマ ンから異業種のべンチャー企業の経営者へ転身、成功している数少ないケースである。 熊谷が起業したアイディ 1 エスは、デジタル・オンライン翻訳システム、ソフトウェアのパ ッケージング、コンサルティング事業などで急成長、創業四年目で従業員一六人、売り上げ約 四億円、利益約一一〇〇〇万円の規模に達している。熊谷はソニーの中でも東大卒の″スターエ ンジニア〃として知られていた。その彼がなぜ、ソニーを退社し、起業家への道を歩むように なったのか 熊谷は、一九五三年 ( 昭和二八年 ) 一一月、岩手旧汞沢市に生まれる。子供のころから機械 いじりが好きで、時計やラジオをはじめ家中にある機械という機械を全部分解して壊した。中 学時代には音に興味を持ち始め、ラジオや真空管のアンプをつくるようになる。高校に入ると、
1 12 が、読み取れた。 しようあく 吉岡は、社長就任数カ月で示・名古屋間の往復ペ 1 スをつかみ、会社の内容も掌握しつつ あった。 大学もあと一年ちょっとだ。がんばるぞ。 そんな折、思いがけないことが起こった。一九七三年 ( 昭和四八年 ) 一〇月、史果戦争によ こうむ る第一次石油ショックが日本を襲ったのである。石油が入ってこず、甚大な損害を被った電力 会社は、推進していた火力発電所の建設・設備工事の中止を余儀なくされた。そのために発電 所・変電所の工事を請け負っていた同社は危機的状況に陥った。 きゅうきょ 一一月初匁事態を打開するために、吉岡が急遽、名古屋の自宅へ戻ると、参集した役員た ちが途方に暮れて泣いていた。専務は、中電の幹部に工事を続行するよう願い出たが、「ーー・つ いに大型工事をストップすると通告してきたんです」と涙声で報告した。吉岡は、「泣いたって しようがない。対応策を考え、事業化できるものを探ろう」。 みんな、新事業についてアイデアを出し合った。やがてある役員が、「ーーうちにある大型ク レーン車をリースするリース業はどうですか」。 吉岡はひざをたたいた。当会社には発電所・変電所建設用の大型クレーン車が一三両あ り、それをオペレータ 1 付きでビル建設会社などにリースするという事業だ。ただちに大型重 機のリース業を開始した。事業は当たり、年間数千万円を稼ぎ出した。
になれた。そのことを自覚していなかったんです」 「人材ビジネス」に宝の山発見 そんなとき、折ロは顧問弁護士を通じて知り合った佐腰 ( 現グッドウイル副会長 ) から、 引っ越しやイベント会場整理といった軽作業の人材アウトソーシング会社グッドウイルへの出 資を要請された。 人の分野ではまだ超大企業が存在していない。これはまたとないチャンスだ。 獄そう確信した折ロは快諾し、一九九五年 ( 平成七年 ) 一一月、ヴェルファーレに籍を置いたま まグッドウイルの代表取締役会長に就任。その後一年一一カ月間、一一足のわらじの生活が続いた。 国 彼がグッドウイルに専念し始めたのは一九九六年 ( 平成八年 ) 三月からのことだ。 の 折ロは、最先端のデータベースを構築し、急速に支店網を拡大していった。その結果、登録 ち 顧客は一万社を突破。しかし、まだ緒に就いたばかりのグッドウイルの成功に満足するわけに 家 業はいかなかった。そこで彼は九七年 ( 平成九年 ) 、コムスンを買収し、新たに介護ビジネス分野 に参入した。 章 「今、うちは人材ビジネス、アウトソ 1 シング、医療福祉を三本柱にしています。ビジョンは、 第 総合人材サービスのリーディングカンパニーになること。三つの市場を合わせるとざっと一五 〇兆円の巨大な規模になる。しかも、これからマーケット化される分野だから、事業として将 しょ
さらに、九九年 ( 平成一一年 ) 七月には中小出版社の経理事務・ファイナンスなどの業務を 代行する「クラブ ( パプリッシャーズ・クラブ ) 」を創設。良質なコンテンツ ( 情報の内容 ) を持ちながら資金調達力に乏しく、取次会社と取引してもらえない中小出版社が、編集に専念 できるような経営環境を与えることを目的としている。 「中小出版社は、いい本をつくりたいという人間が集まり、宝のようなコンテンツを持ってい たる。しかし、財務などをやる人がいないため、資金繰りに失敗して倒れ、良質のコンテンツが みすみす死んでいくことが多い。そこでうちがコンテンツづくりに一〇〇パーセント集中でき て きる体制をつくって差し上げるということです」 て同社はコンテンツをー XOä、キャラクターなどにする一一次利用を行い、大企業などへ やパッケージとして販売する事業を主体にしていく方針。 クラブは、九九年には五〇社、一一〇〇〇年 ( 平成一一一年 ) には一五〇社に拡大し、総売り な上げ一五億円を目標にしている。 好イギリスのヴァージン航空グループを立ち上げたリチャード・プランソンを尊敬する近藤 章は、少年のような無邪気な表情で語った。 第「プランソンに会ったとき、僕が『夢は日本のプランソンになることだ』と一一 = ロうと、『なれるよ。 オレのスタートも学生新聞の出版だった』と言われたんですよ」 近藤は、一九九九年一一一月、レゾナンス出版を有限会社から体八会社に転換、社名も「レ こ
288 「夢プロ」入選から数カ月後のある日。営業の鉄鋼担当部長から新事業担当部長に就任し て間もない服部は、茶封筒に入れた書類一式を、上司の営業部長に差し出した。 はんこ 「通産省に応募するための製品企画書をつくったんですが、ぜひ判子を押してください」 通産省の「医療福祉機器技術研究開発プロジェクト」に応募する、脳出血や脳梗塞で一 = ロ葉を はなつづみ 失った人のリハビリ用ソフト「花鼓」の企画書だった。それに選ばれれば、数億円の開発資金 かもらえる。 統括部長は型通りパラバラと見ると、顔をゆがめた。 「これは営業部の仕事じゃない。おまえが勝手にやっていることだろう」 「新事業担当部長としてお願いしているのです」 「自分のノルマの仕事をやらないで余計な仕事ばかりやっている。出したいのなら勝手に出せ ばいいじゃないか。オレは判子は押さないよ」 が′きん そう言うや、部長はさっさと席を立ってしまった。その無責任な態度に愕然とすると同 時に、はらわたが煮えくり返った。その苦い思いは、自分で会社を設立したあともずっと尾を まんえん そもそも「夢プロ」は会社に蔓延しつつある大企業庫ー・・セクショナリズムや権威主義など かったっ を排除し、自由闊達で風通しのよい組織にし、社員の意識を高揚させることを目的に創設され たプロジェクトではないか。ところが、「夢プロ」自体が大企業病にはばまれて前へ進まないと
130 一九七五年 ( 昭和五〇年 ) にはついに、ダスキンの全国一一〇〇〇社のフランチャイジー ( 契約 店 ) の中で売り上げトップに立った。「ダスキンで売り上げ日本一になろう」を合い一 = ロ葉に顧客 開拓を進めた成果であった。その翌年一一月、大久保は売り上げ一位で表彰された。 しかし、それで満足はせず、大久保は次なるターゲットを模索し始めた。 オフィスコーヒーサービスの需要を掘り起こす 「ーー・オフィス環境サービスのノウハウが身についた今こそ、新事業に乗り出すチャンスだ」 そう考え、新たに乗り出すべくビジネス探しを始めた。オフィスを対象とし、オリジナルな 事業で、しかも、自らチェーン店を持っフランチャイザ 1 ( 親業者 ) になれる、という条件で 考えていたところ、ふと脳袰に浮かんだのは、カリフォルニアのス 1 1 で働いたときに見た、 オフィスコーヒーサービス事 k だった。 これお」ー きゅ、つきょ 大久保は、現状を調べるために、急遽アメリカへ飛んだ。そして世界最大のオフィスコーヒ ーサービス会社の一兀副社長と会い、経営ノウハウを教わったり、また他の企業のサービスぶり を見て回ったりした。 「アメリカではそのビジネスが急速に伸びていたんです。日本もやがてアメリカ型のビジネス 社会になると予想していた私は、インスタントコーヒーしか飲まれていない日本のオフィスで
来性は大いにあるんです。〃人〃をポイントにしたビジネスほど夢があり、面白いものはないで すよ」 そう語ると、折ロの顔に笑みが広がった。 折ロは、一九九九年 ( 平成一一年 ) 七月、グッドウイル・グループを店頭公開させ、資本金 一〇〇〇万円で設立した会社を、四年五カ月で時価総額九三八億円の企業にした。現在、グル ープ事業を急速に拡大しつつあり、とりわけ中核事業となる在宅介護サ 1 ビスの子会社コムス ンに力を注いでいる。コムスンは、介護保険が導入された一一〇〇〇年 ( 平成一二年 ) 四月まで に、拠点を全国八〇〇カ所に設立し、各拠点にホームヘルバーの有資格者を一一〇〇人配置し、 ム昇一一万人体制を構築している。 もりわ * - まこと 羸亮 ( アース・ウェザー ) 出発点は商社の弱小石油部門 あたか 「実は、僕は安宅産業時代に、といわれる石油の産地直接取引をしたことがあるんです。 相手はインドネシア国営石油のプルタミナオイル。それも、当時のプルタミナの総裁と直接会 って、商談をまとめました」 こう打ち明けるのはア 1 ス・ウェザー社長の森脇亮 ( 五三歳 ) 。同社はムス特定範囲の局地気