やがて、藤村は、テレビ映画の版権会社を軌道に乗せて、貿易部長とたもとを分かつ。 辞表を提出したその足で、藤村は荻原を訪ねた。彼は笑顔で歓迎してくれた。 「ようやくその気になったね。いつでも融資してあげるよ」 藤村は一九八六年 ( 昭和六一年 ) 一月、ギャガ・コミュニケ 1 ションズを設立。資本金は一 〇〇〇万円。荻原と折半出資の形態をとったが、彼の手元には一円もなく、五〇〇万円は荻原 から個人的に借り、毎月の給与からローンで返済していくことにした。事業資金は三億円と見 っ積もり、日本テープの保証により全額銀行からの融資でまかなった。 事務所は示・浜松町に開き、映画版権の輸入から始めた。 を買い付けは、一一月のアメリカン・フィルムマーケット、五月のカンヌ映画祭、一〇月のミラ ュニバーサル、世 ンノの映画版権見杢巾の三会場で行った。映画マ 1 ケットは、ディズニ 1 チ紀フォックスなどのメジャ 1 系と独立系の一一つに大別されるが、藤村は日本に子会社を持たな ネい独立系を狙った。最初、映画をビデオにするためのビデオ化権を買った。独立系の映画の版 ビ権を買い、それをビデオ会社に売り、ビデオ化するのである。 章最初の買い付けは、会社設立直後の八六年一一月。アメリカ西海岸、ロサンゼルスにほど近い 第サンタモニカで開かれたアメリカン・フィルムマーケットの会場は、世界中の映画会社のプー スが並び、入場者でごった返していた。 藤村は、空いている独立系のプースに片っ端から飛び込む。資金力のある松竹富士、東宝東
りようカ 八方ふさがりの中でも、折ロは″次の事業計画〃を練っていた。それはジュリアナを凌駕す る巨大なディスコであった。世間に自分の存在を示すためには、それしかないと思ったのであ る。資金繰りに奔走しながらも、新しいプランを練り上げ、それを現実のものとするために、 土地探しに走り回った。港区、渋谷区の空き地を中心に一一一〇〇平方メ 1 トル以上の土地を片 っ端からあたった。 これだー ある日、友人と会った後、六本木の路地裏を入ってふと横を見ると、イメージにびったり合 せをごいい亠、う う更地が眼前に現れた。千載一遇だった。早速、折ロは所有者を探し、毎日粘り強く説得、土 地を借りた。 , 。 後よスポンサ 1 探しだ。このプロジェクトに必要な資金を三〇億円と見積もり、 日商岩井時代の友人が在籍するリース会社に融資を申し込んだ。リース会社はジュリアナでの 彼の実績を高く評価し、融資を確約してくれた。ようやく復活の足がかりを得た折ロだった。 その構想とは 。まず、リ 1 ス会社にビルをつくってもらう。それをディスコを運営する ために新たに設立する会社が借り受ける。そして、社長には折口が就任するーーというものだ っ一」 0 「問題は運営会社をどこにするかでした。僕はディスコで音楽を提供できるレコード会社が理 想的だと考えたんです」 おもわく 折ロの思惑通りに、コトは運んだ。一九九四年 ( 平成六年 ) 一一一月、六本木の中心地に、地 さらち
て知られていた。しかし、石油部門はわずか七人で、弱小だった。石油課は工場と船舶向けの 燃料 ( バンカーオイル ) を扱っていたが、森脇の担当はバンカーオイルだった。 森脇は、入社一年目から新規契約をどんどん獲得し、その結果、石油課の年間取扱高は五〇 万トンから一気に七〇万トンに増えた。 「僕は、最も多く燃料を消費する川崎汽船とジャパンラインの高速コンテナに目をつけたんで す。毎日両社に通い、契約を取った。安宅産業は十大商社の最下位でしたから、先輩たちはみ んな初めからあきらめていた。僕は、これじゃいけないと思ったんです」 森脇には成果を上げたごほうびとして、欧州出張のチャンスが与えられた。入社一一一年目の九 月、欧州出張に出かけたが、その活躍ぶりは目を見張るものがあった。約一カ月間、欧州一〇 カ国の船会社を回り、次々と新規契約を取った。その結果、課全体の扱い高は一気に一一倍に増 えた。 「当時、安宅は日本の船会社としか契約していなかった。僕は世界の船会社相手の商売をした かったんです。だから、欧州出張の前から、世界の船会社を徹底的に調査していたんです」 入社三年目にして大手柄 森脇は、〃できる新人〃として上司から一目置かれるようになった。一一カ月後、欧拓の報 酬として、ニュ 1 ョ 1 ク出張のチャンスが与えられた。現地の石油トレ 1 ダーと一緒に、モ 1
五社に、第三聞当増資を実施、三億六五〇〇万円を調達している。 ひらまっこうぞう 平松庚三 ( <0-1 ジャパン ) 国際企業を渡り歩く「自由人」 「僕の原体験は大学時代のアジア放浪の旅です。八カ月間、台湾、フィリピンを回り、現地の 人々に触れたことが、ビジネス人生の出発点となりました」 そう語るのは、 <<O*-Äジャパン社長の平松庚一二 ( 五三歳 ) 。同社はインターネット利用者の急 飛躍的な成長を遂け、— ( 情報技術 ) 化の波に乗って業種の枠を超え、注目され 訣増に半い、 の アメリカン・オンライン (<0=) は会員総数一八〇〇 生 人 万人以上を誇る世界最大の米インターネット・オンライン 車 歯 サ 1 ビス会社。 <O*-Äジャパンは一九九六年 ( 平成八年 ) 章 庚五月、と三井物産、日本経済新聞社の共同出資で設 七 第 「平立。会員数は三五万人。 一一一年半勤務した後、 平松は元ソニ 1 マンで、ソニーに 信販会社のアメックス・ジャパン副社長、出版社の
合商社から買った覚えはない」と言い始めたのだ。イトマンに流れた商品の総額は、森脇経由 の分を含めると一一一〇億円もの巨額に達していた。 そこで、各総合商社はイトマンを相手取り、損害賠償の訴訟に持ち込んだ。裁判ざたになれ ば、支払いは結審まで一切凍結される。結審は一〇年後だった。結局、イトマンは、各商社に 石油代金を支払うことを命じられた。その間、森脇は支払いを凍結されていた商社から一円も 入金がなかった。にもかかわらず、彼は期日どおり日本石油や出光興産などに代金を支払った。 ねんしゆっ 資金は全財産をなげうって捻出したのだ。 獄「僕の売った商品がどこの商社を経由してイトマンへ流れようが、本来僕には責任はない。だ とけど、これまでお世話になった石油会社の方々のためにも支払わなきゃいけないと思いまし た。僕が無一文から始め、儲けさせてもらったのも、その方々のお陰ですからね。恩人を裏切 の るわけにはいかない。もし、送金しなければ、その方々は責任をとらされて会社を辞めさせら ち させん れたり、左遷されたりしたことでしよう」 家 バブル経済が幸いした。所有していた豪邸やゴルフ会員権などの資産は、数倍もの値段で売 却できた。処理したおカネで総額九億円を石油会社に支払った。 章 森脇に残されたものは、安宅時代に購入した川崎市の自宅だけだった。森脇は再び浪人の身 第 くもん となり、家に閉じこもり、苦悶の日々を過ごすことになった。 そんな彼に手を差し伸べてくれたのは、安宅時代の同期であった。
さらに、九九年 ( 平成一一年 ) 七月には中小出版社の経理事務・ファイナンスなどの業務を 代行する「クラブ ( パプリッシャーズ・クラブ ) 」を創設。良質なコンテンツ ( 情報の内容 ) を持ちながら資金調達力に乏しく、取次会社と取引してもらえない中小出版社が、編集に専念 できるような経営環境を与えることを目的としている。 「中小出版社は、いい本をつくりたいという人間が集まり、宝のようなコンテンツを持ってい たる。しかし、財務などをやる人がいないため、資金繰りに失敗して倒れ、良質のコンテンツが みすみす死んでいくことが多い。そこでうちがコンテンツづくりに一〇〇パーセント集中でき て きる体制をつくって差し上げるということです」 て同社はコンテンツをー XOä、キャラクターなどにする一一次利用を行い、大企業などへ やパッケージとして販売する事業を主体にしていく方針。 クラブは、九九年には五〇社、一一〇〇〇年 ( 平成一一一年 ) には一五〇社に拡大し、総売り な上げ一五億円を目標にしている。 好イギリスのヴァージン航空グループを立ち上げたリチャード・プランソンを尊敬する近藤 章は、少年のような無邪気な表情で語った。 第「プランソンに会ったとき、僕が『夢は日本のプランソンになることだ』と一一 = ロうと、『なれるよ。 オレのスタートも学生新聞の出版だった』と言われたんですよ」 近藤は、一九九九年一一一月、レゾナンス出版を有限会社から体八会社に転換、社名も「レ こ
363 第七章、、歯車人生 ' ' との訣別 インサ 1 ビスのナンバ 1 ワンの会社にしていくのが目標。家族のみんなが楽しく使えるよう、 質の高いサービスを提供して、一刻も早く会員を一〇〇万人にまで増やしたいね」 そう語る平松の目は光り輝いていた。 平松は、アクセスポイントの増強に乗り出しており、一一〇〇〇年 ( 平成一一一年 ) 六月末まで に現在の四三カ所から一八三カ所に増やす計画である。
しかし、苦難は続く。会社は会社で、工事の中止によって莫大な借金を抱え、個人的にも株、 土地などの相続税を支払うために銀行借入を行い、毎月の返済に追われた。そんな中で吉岡は、 どんなに経営が苦しくとも、他社が踏み切っているような「社員の給料カット」、だけはすまい もろて と決断した。その方針に、社員は諸手を挙げて喜んで見せた。 しかし、その後、貝から賃金問題が提起され、労働争議一歩手前まで発展する。そのとき 吉岡は、自分はまだ社員の心をつかんでいないことを悟った。 社員の信頼を得るには、先代ができなかったことを一つひとっ形にしていくことだ 大学を卒業した一九七五年 ( 昭和五〇年 ) から、吉岡の本当の闘いが始まった。 まず、七八年 ( 昭和五三年 ) 、社員の間から退職金・賃金規程に対する不満が噴出、放置すれ 戦 挑ば労働争議にまで発展しかねない険悪な状況だった。そのとき吉岡は前面に出て、「ーーすべて 者オレに責任がある。言いたいことを言ってくれ」と社員の意見に耳を傾けた。一カ月間社員と 経話し合った結果、退職金制度の改定に踏み切った。同時に時間外手当を含めた給与規程も変え 章このとき吉岡は、父親に恩義を感じていた社員も、代が替われば忠誠心も失われていく、結 第局、親の遺産は三年しか持たないことをつくづく思い知らされた。 ばくだい
逆境の友こそ真の友 一九九〇年 ( 平成一一年 ) 初頭、森脇は、安宅産業の同期だった総ム象情報会社ウェザ 1 一一 いしばしひろよし ューズ社長の石橋博良とホテルで会った。 石橋は一九六九年 ( 昭和四四年 ) 、北九州大学を卒業後、安宅産業に入社した。その後、アメ リカの海上気象情報会社に転職し、八六年 ( 昭和六一年 ) 夏、自力でウェザーニューズを設立 した。当時メディア向けの情報供給で売り上げ五〇億円を達成し、上場を計画していた石橋は 鼻息が荒かった。 「おまえ、羽振りよかったのに、残念だったな。うちはもうすぐ上場する。営業マンのおまえ が来てくれたら助かるんだけどな」 この石橋の言葉に、森脇は胸を打たれた。逆境に立たされたときに声をかけてくれるのが親 友だと思っていた彼は、「石橋こそ真の友だ」と思った。 未知の分野へ挑戦することになった森脇は、九〇年 ( 平成二年 ) 三月、ウェザーニューズに 入社。肩書はウェザーテクノロジー事業部長。以来、石油時代の人脈をフルに使って営業に走 り回った。 一年たったある日、森脇は人員削減を推進していたある大企業と、年間十数億円で気象情報 サービスを肩代わりする話を進めた。条件は五〇人の人間をウェザ 1 ニューズが引き取ること
業を始めたんです。業界の仲間はみんな協力的で、気持ちよく買ってくれました。売り上げは もう 初年度が一億円、一一年目以降は毎年一一億円ずつ増えて、こんなに儲けていいのかなという感じ でした」 森脇は、毎年三億円から五億円入ってくるカネの使途に戸惑った。税金に持っていかれるく ぜいたくざんまい らいなら使ってしまえと、贅沢三昧の生活を始める。まず、一億八〇〇〇万円で横浜市のたま プラーザの閑静な高級住宅街に一一〇〇坪の豪邸を購入。さらに高級車を買い、啝示よみうりカ ントリーなどのゴルフ会員権を買いあさった。 「おカネってそう使えるものではないってことがわかりましたよ。銀座の高級クラブに数人で 行ってもせいぜい三〇万円。一〇〇万も一一〇〇万も使えないですね」 しかし、そんな浮いた暮らしは五年と続かなかった。 一九八九年 ( 平成元年 ) 夏、森脇は、イトマン詐欺事件に巻き込まれて、すべての財産を投 げ出すことになったのだ。 詐欺事件に巻き込まれ、全財産を失う 当時、森脇は石油会社から仕入れた商品を主に大手総合商社に卸していた。商社はその商品 をイトマンに売り、イトマンがそれを第三者 >< に流していた。商品の流れは、石油会社↓サン ワ物産↓総合商社↓イトマン↓第三者という図式だったが、イトマンが突然「商品を大手総