高校となると、生徒を送れなくなる。おまえは大阪に小僧に行くからいいだろうけども、一流 企業へ行こうとしている人間は、入社試験の枠がもらえなくなる。そこをどう思ってるんだ」 大久保は、その教頭の言葉で、大阪へ奉公に行く考えを変えた。本当に一流会社に入れない のかどうか、自分で試してやると、三越の入社試験に挑戦し、見事に合格した。 やればできるんだ。 る これで大久保はますます自信を強め、今度は、選択科目の中に自分の得意とする簿記が入っ っていた中央大学経済学部の受験に挑戦することにした。 「三越に受からなかったら、大学にチャレンジしようという気持ちにはならなかったでしょ をう。受かったから、やればできるかもしれないと思ったんです」 ス ン大久保は受験に成功。 チ「もういい。米屋はオレ一代で終わりだ」 ネ父は気が抜けたようにポツリと言った。 大久保は、そのときの父のがつくりと肩を落とした姿を今でも忘れない。 章 第「流通チェーンの本場、欧米に行きたい」 一九五九年 ( 昭和三四年 ) 、大久保は中央大学経済学部に入学。子供のころから、中学卒業後 は大阪の米問屋へ奉公に出て家業を継ぐっもりでいた大久保にとっては、予想だにしなかった
て知られていた。しかし、石油部門はわずか七人で、弱小だった。石油課は工場と船舶向けの 燃料 ( バンカーオイル ) を扱っていたが、森脇の担当はバンカーオイルだった。 森脇は、入社一年目から新規契約をどんどん獲得し、その結果、石油課の年間取扱高は五〇 万トンから一気に七〇万トンに増えた。 「僕は、最も多く燃料を消費する川崎汽船とジャパンラインの高速コンテナに目をつけたんで す。毎日両社に通い、契約を取った。安宅産業は十大商社の最下位でしたから、先輩たちはみ んな初めからあきらめていた。僕は、これじゃいけないと思ったんです」 森脇には成果を上げたごほうびとして、欧州出張のチャンスが与えられた。入社一一一年目の九 月、欧州出張に出かけたが、その活躍ぶりは目を見張るものがあった。約一カ月間、欧州一〇 カ国の船会社を回り、次々と新規契約を取った。その結果、課全体の扱い高は一気に一一倍に増 えた。 「当時、安宅は日本の船会社としか契約していなかった。僕は世界の船会社相手の商売をした かったんです。だから、欧州出張の前から、世界の船会社を徹底的に調査していたんです」 入社三年目にして大手柄 森脇は、〃できる新人〃として上司から一目置かれるようになった。一一カ月後、欧拓の報 酬として、ニュ 1 ョ 1 ク出張のチャンスが与えられた。現地の石油トレ 1 ダーと一緒に、モ 1
「ーーーオレは自分の親みたいにはなりたくない。息子にはやりたいことを自由にやらせる」が 父親の口癖だった。 開成中に入学すると、テ一一ス部に入った。高校と合同の練習は厳しく、新入生の脱落は、後 を絶たなかった。、ゝ、 カ長澤は「オレは絶対、辞めないぞ」と決心した。テニスに夢中になった ために、成績は五〇人中四〇番台。そのために母親は学校から呼び出されたが、テ一一スはやめ なかった。それから勉強し始め、成績は上がり、高校では上位三分の一に入った。慶応大学経 済学部に入学すると、テニスも続け、クラブ活動と、テニスコーチ、ペンキ屋、デパートの配 送、家庭教師、塾の講師などのアルバイトに熱中した。 一一一そして、就職シーズンを迎え、三越、西武百貨店、三陽商会、朝日生命保険などの入社試験 一一を受けることになる。 生一九七五年 ( 昭和五〇年 ) 一〇月、示・日本橋にある一一一越の面接試験会場ーー ご、つまん も三越の人事担当者は、傲慢な口調で長澤に質問し続けた。 仕「オイルショックといわれているけど、今、全世界に何万バ 1 レル埋蔵されているか知って 章る ? 第「では、世界のに占める日本の割合は ? 予期せぬ質問に、長澤は首をかしげながら「わかりません」を連発した。 「君、勉強不足だな。フツ、フッ」
280 九一一年一一月、筒見は、一一住平勤めた清水建設を退社し、日本総研へ入社。事業企画部に 入り、主任研究員として得意分野である都市づくりにアプローチし、一年ほど環境に優しい都 市づくりの研究に打ち込む。やがて都市環境との接点である省エネルギー問題にたどり着い た。入社一一一年目に環境問題に熱心に取り組んでいる欧米各国を視察。その際、アメリカで電力 やガス会社の子会社でエスコ ( エナジ 1 ・サービス・カンパニー ) といわれる省エネ会社と出 合った。彼らは顧客の依頼に応じて具体的な省エネ対策を提案、必要な改修工事の手配および 監督、フォロ 1 アップまで行っていた。 一九九五年 ( 平成七年 ) 八月、帰国途上の機内で、筒見は、「ーー日本初のエスコ事業をやっ てやろう ! 」と、決意した。 ただちに事業計画を作成し、省エネ技術に関心のありそうな企業五〇社に声をかけた。その 中で関心を示した一三社と組んで研究会を発足。半年かけて市場調査した結果、事業性がある いしかわじまはりま よこがわ とし、九七年 ( 平成九年 ) 五月、石川島播磨重工業や横河電機など、研究会に参茄してい た大手企業八社と、会社を立ち上げた。ファ 1 ストエスコ設立に際し、参茄企業からほば均等 に出資を受けたが、筒見自らも出資し、社長に就任した。〃企業内起業〃である。 以来、同社は工場、事務所ビル、スポーツ施設、ホテルなど五〇件もの受注をこなしてきた。 また、三重県から県庁杢只車示・三鷹市から市庁舎など、自治体に対しても受注の実績を積み 重ねている。受注額は、九八年 ( 平成一〇年 ) は四億八〇〇〇万円、九九年 ( 平成一一年 ) は
リ 4 化、そして一九九八年 ( 平成一〇年 ) 五月からスタ 1 トしたインタ 1 ネット取引 : : : など、次々 かぶレ・よう と証券業界の常識を破る経営革命で、増収増益を続けている。社長の松井は「兜町の風雲児」 として注目されている。その松井が、かっては地獄のような海運会社の潰し合いを見たという のだ。 この優れた経営者は、いったいどんな〃競争〃を体験したのか 一九七六年 ( 昭和五一年 ) 、一橋大学経済学部を卒業した松井は、海外勤務に憧れて、日本郵 船へ入社し、そこで一一年間過ごした。最初は、神戸支店に配属された。 入社して間もないある日。松井は、研修で日本郵船の関連子会社に出向し、輸出用船荷の依 頼書 ( TO Ⅱシッピング・オーダー ) の受け付け業務に携わった。 CO は、港湾作業を一手に 引き受ける業者が商社の代理として持ってくるのが常だった。商社にとって c00 は死活問題 で、それを提出しないと、輸出代金が支払ってもらえなかったからだ。 夜一〇時過ぎ、伝票を整理していた松井のところへ若い金名が c00 を持ってやってきた。 「ーーこれ頼む」 依頼書の裏側には一万円札が入っていた。 こんなのは駄目だよ。これ返すから、順番を待て」 すると、相手は松井をにらみつけてドスの効いた声で、 「ちょっと来い ! 」
づき、他の株を売って購入した。 翌日の午後、再び研修を抜け出して証券会社へ行って、株価を見ると、昨日購入した銘柄は 三〇〇円高になっていた。そこで、「これはいけるぞ」と、有りガネを全部はたき、その銘柄に 投資した。 彼は、株価は数カ月で五倍以上になると予想し、カネを集められるだけ集めて大儲けしてや る、と一計を案じた。 「一カ月一割儲けさせてあげるから、僕に投資しないか。損はさせない」 河端は、初任給を手にしたばかりの五五人の研修社員を、一人一人口説いて回り、全員から 一口五〇〇〇円ずつ集金した。予想は当たり、投資した銘柄の値は上がる一方だった。 戦入社研修中にも株の売買に明け暮れていた彼は、ある日、一大決心をして何列車に飛び乗 の 者 営 若 章 第 北海道生まれの河端は、「あんたには薬剤師になってほ 敏しい」という母の意を受け、仙台の東北薬科大学に入学し 可た。北海道・東北には、薬学部のある私学は東北薬科大し かなかった。ところが、いざ入学してみると、複雑な化学 式を覚えたり、実験に明け暮れる毎日だった。 おおもう
スタッフたちはコンソール ( 大型の制御・操作卓 ) に飛びつき、正面のスクリーン画面が別 のものに変わった。スタッフの顔が引きつり、殺気が部屋中を埋め尽くした。関はカメラバッ グごと、部屋から退去させられた。まもなく擎報は解除され、撮影を再開。 そうして関は、興奮と緊張の中で、核戦争用地下要塞のスクープ写真をものにしたのである 関の人生を変えたという「 ZOX<<Q 」の取材は、どういう経緯で実現したのか。 一九八〇年 ( 昭和五五年 ) 四月、早稲田大学政治経済学部を中退し、毎日新聞社に入社した 関は、大阪本社写真部に配属された。入社早々、強盗事件や誘拐事件の現場を経験させられ、 一一一写真記者の取材のイロハと技術を徹底的に教わった。最初は仕事を覚えるのに必死で、無我夢 一一中で現場を走り回っていたが、やがて要領を覚え、写真部の体質がわかるようになると「オレ 生の理想とする仕事ではないな」と不満がつのり、会社を辞めようと思った。 オレは環境・公害問題など、社会問題の本質を衝く報道に憧れて新聞社に入った。とこ 仕ろが、写真部に要求されるのはスキャンダル的な写真はかりだ。いったい何のために報道カメ 章ラマンになったのか。 もんもん 第悶々とした日々を送っていたある日、親しくしていた寮の先輩に悩みを打ち明けた。すると 先輩は「辞めちゃいかん ! ーとたしなめた。 。それまではどんなに苦しくても 「おまえの実力が新聞社を上回るようになれば辞めてもいし
322 ハカ一一 = ロうな ! と叫んだ。オレは与えられたチャンスにチャレンジしているにすぎない。 0 出世など考えたこともない。悲しいな そんなある秋晴れの日の午後。彼は会社を出て、千代田区一ッ橋から日比谷公園まで歩いて っ一」 0 し十 / なぜ、社長にゴマをする必要があるんだ。 たわむ 公園のべンチに座って考え込んだ。ふと噴水を見ると、無邪気に戯れている子供たちの姿が 目に入った。 オレも純真な気持ちでやっているんだ。 そういえばあのときも かってコンピューター導入で味わった苦い経験が思い起こされ、怒りがこみ上げてきた。彼 は入社早々、総務部事呂理課でコンピューター導入の仕事に携わり、初代のプログラマーと して給与計算、会計システムなどを木した。苦労したのは膨大な数の商品のコード表作成だ った。ところが、コード表が完成すると、社内から「番号を覚えて記入するのに手間がかかる ではないか。よけいなことをするな ! 」と一斉に反発を食らった。予期せぬ出来事に、突殀、 横っ面を張り飛ばされたような思いであった。 そのとき、大村は、悔し涙を抑えて、「そう言わずに番号を記入してください」とひたすら頭 を下げて回った 0
「求む経営者 / 年齢一一一五歳前後 / 連絡先・社長」 たった三行しかない、新聞の一面を使った広告が熊谷の目をとらえた。 無線通器メ 1 カ—' ュ一一デンの経営者募集広告だった。 ふじもとひでろう 彼は迷わず受話器を取った。するとユ一一デンのオーナ 1 会長、藤本秀朗が直接出てきた。 「キミは技術はあるのか」「経営に興味はあるかね」 というやりとりの後、三日後に訪ねることになった。熊谷は心の中で小躍りした。 藤本は熊谷に言った。 「ーー私は海外でいろいろな事業をやりたい。今、アメリカや中国などで展開する海外子会社 = 一の経営者を探している。それも、だれかに決裁を仰ぐサラリーマン経営者ではなく、自分で決 一一めることのできる経営者だ」 生願ってもない話であった。でやりかけていたプロジェクトを済ませ、一九九一年 ( 平 も成三年 ) 二月、ユニデンに入社した。三七歳のときだ。 じゅんぶうまんばん 仕しかし、そこでも決して順風満帆というわけにはいかなかった。 章ュニデンには四年数カ月間在籍。その間、部長から取締役、常務へとトントン拍子に出世し 第たが、最後の一年は閑職に追いやられた。 ュニデンに入ると、藤枩ム長から一一つの課題を与えられた。一つは、海外の関連会社の経営 状況が把握できるような仕組みをつくること。もう一つは、関連会社の若手経営者候補を集め
292 望んでいなかったので、卒業後は堅い会社に就職するつもりだった。 大学四年の夏、彼は松下電器産業、三井銀行の入社試験にム繕したが、富士電機製造 ( 現富士 電機 ) の人事課長を務めていた義兄に勧められ、一九七〇年 ( 昭和四五年 ) 四月、富士通に縁 故入社した。最初、小型コンピュ 1 ター販売部門に配属された。 営業マンとしてビルの最上階から一階までオフィスを回り、一日で丸の内から渋谷まで歩い たこともしばしばあった。そこでは、企業分析と、地道に足で回ることの重要性を肌で覚えた。 そんな折、がんに冒されていた父親が他界した。七二年 ( 昭和四七年 ) 、服部が一一四歳のとき だった。母親は、会社の株を全部他人に譲渡し、服部家は三社の経営から完全に手を引くこと こよっこ。 オレはもっと積極的にならないといけない。 父親の死後、自分自身にそう言い聞かせ続けてきた服部は、やりたい仕事を直接上司に訴え るようになった。入社四年目、営業部長の自宅にまで押しかけて、「小型機は十分やりましたの じ * 嵳、 で、大型機の営業にかえてください」と直訴した。上司はその意気込みを大いに評価した。 希望はかなえられ、製造営業部に異動、川崎製鉄担当として大型コンピューターを手掛けた。 し , ・つ その後、服部はプラジルの子会社を立ち上げ、帰国後は新規事業に心血を注いだ。 やがて、前述の「夢プロジェクト」に見事入選を果たし、パソコンを使った発声訓練システ ム「スピーチトレーナー」を完成させ、それを機に独立を決意するのだった。