292 望んでいなかったので、卒業後は堅い会社に就職するつもりだった。 大学四年の夏、彼は松下電器産業、三井銀行の入社試験にム繕したが、富士電機製造 ( 現富士 電機 ) の人事課長を務めていた義兄に勧められ、一九七〇年 ( 昭和四五年 ) 四月、富士通に縁 故入社した。最初、小型コンピュ 1 ター販売部門に配属された。 営業マンとしてビルの最上階から一階までオフィスを回り、一日で丸の内から渋谷まで歩い たこともしばしばあった。そこでは、企業分析と、地道に足で回ることの重要性を肌で覚えた。 そんな折、がんに冒されていた父親が他界した。七二年 ( 昭和四七年 ) 、服部が一一四歳のとき だった。母親は、会社の株を全部他人に譲渡し、服部家は三社の経営から完全に手を引くこと こよっこ。 オレはもっと積極的にならないといけない。 父親の死後、自分自身にそう言い聞かせ続けてきた服部は、やりたい仕事を直接上司に訴え るようになった。入社四年目、営業部長の自宅にまで押しかけて、「小型機は十分やりましたの じ * 嵳、 で、大型機の営業にかえてください」と直訴した。上司はその意気込みを大いに評価した。 希望はかなえられ、製造営業部に異動、川崎製鉄担当として大型コンピューターを手掛けた。 し , ・つ その後、服部はプラジルの子会社を立ち上げ、帰国後は新規事業に心血を注いだ。 やがて、前述の「夢プロジェクト」に見事入選を果たし、パソコンを使った発声訓練システ ム「スピーチトレーナー」を完成させ、それを機に独立を決意するのだった。
逆境の友こそ真の友 一九九〇年 ( 平成一一年 ) 初頭、森脇は、安宅産業の同期だった総ム象情報会社ウェザ 1 一一 いしばしひろよし ューズ社長の石橋博良とホテルで会った。 石橋は一九六九年 ( 昭和四四年 ) 、北九州大学を卒業後、安宅産業に入社した。その後、アメ リカの海上気象情報会社に転職し、八六年 ( 昭和六一年 ) 夏、自力でウェザーニューズを設立 した。当時メディア向けの情報供給で売り上げ五〇億円を達成し、上場を計画していた石橋は 鼻息が荒かった。 「おまえ、羽振りよかったのに、残念だったな。うちはもうすぐ上場する。営業マンのおまえ が来てくれたら助かるんだけどな」 この石橋の言葉に、森脇は胸を打たれた。逆境に立たされたときに声をかけてくれるのが親 友だと思っていた彼は、「石橋こそ真の友だ」と思った。 未知の分野へ挑戦することになった森脇は、九〇年 ( 平成二年 ) 三月、ウェザーニューズに 入社。肩書はウェザーテクノロジー事業部長。以来、石油時代の人脈をフルに使って営業に走 り回った。 一年たったある日、森脇は人員削減を推進していたある大企業と、年間十数億円で気象情報 サービスを肩代わりする話を進めた。条件は五〇人の人間をウェザ 1 ニューズが引き取ること
288 「夢プロ」入選から数カ月後のある日。営業の鉄鋼担当部長から新事業担当部長に就任し て間もない服部は、茶封筒に入れた書類一式を、上司の営業部長に差し出した。 はんこ 「通産省に応募するための製品企画書をつくったんですが、ぜひ判子を押してください」 通産省の「医療福祉機器技術研究開発プロジェクト」に応募する、脳出血や脳梗塞で一 = ロ葉を はなつづみ 失った人のリハビリ用ソフト「花鼓」の企画書だった。それに選ばれれば、数億円の開発資金 かもらえる。 統括部長は型通りパラバラと見ると、顔をゆがめた。 「これは営業部の仕事じゃない。おまえが勝手にやっていることだろう」 「新事業担当部長としてお願いしているのです」 「自分のノルマの仕事をやらないで余計な仕事ばかりやっている。出したいのなら勝手に出せ ばいいじゃないか。オレは判子は押さないよ」 が′きん そう言うや、部長はさっさと席を立ってしまった。その無責任な態度に愕然とすると同 時に、はらわたが煮えくり返った。その苦い思いは、自分で会社を設立したあともずっと尾を まんえん そもそも「夢プロ」は会社に蔓延しつつある大企業庫ー・・セクショナリズムや権威主義など かったっ を排除し、自由闊達で風通しのよい組織にし、社員の意識を高揚させることを目的に創設され たプロジェクトではないか。ところが、「夢プロ」自体が大企業病にはばまれて前へ進まないと
客さまから支持されています。今後もその方向で事業を組み立てていきたいと考えています」 大久保は、一一〇〇〇年 ( 平成一一一年 ) 一月、ダイオーズを戦略決定、資金調達などを行う純 ち株会社に転換。国内部門を受け持っダイオーズサービシーズと米国部門となるダイオー ズをそれぞれ新設し、営業譲渡した。狙いは事業部門の収益管理を徹底するためであり、 これによりム「後は & ( 企業の合併・買収 ) を積極的に推進する方針だ。 る まついみちお っ 松井 ( 松井証券 ) 見 を 「兜町の風雲児」がニ 0 年前に見た″地獄々 ン「僕は、日本郵船時代に、運輸省の護送船団からある日突然はしごをはずされ、完全自由競争 チ の世界に入ってゆき、同金名が潰れ、船員は全部首を切ら ス ネ れるという世界を見てきました。現在、証券業界が味わっ ジ ている苦しみを、一一〇年則に体験しているんです」 章 道そう語るや、松井証券社長の松井道夫 ( 四六きの表情 第 松から、笑顔が消えた。 松井証券は、営業マンのセ 1 ルス活動の全廃、有価証券 保護預かり手数料の萪化、店頭株の売買委託手数料半額 つぶ
本社でも地方でもノウハウは同じ 「僕は、エリ 1 ト集団といわれた大企業相手の本社法人営業に移っても、地方営業でのやり方 をそのまま使って、新しいマーケットを開拓してきました」 新は、一九八四年 ( 昭和五九年 ) 、大正海上火災保険の札幌支店から本社法人営業部門の一つ である企業一部営業一一課に課長代理として異動した。そこは歴代社長を輩出した伝統あるエリ ト部署で、営業一一課は、電機メーカ—' 電力会社、エンジニアリング会社を担当した。 一〇年則の入社当時、あれほど本社勤務を熱望し、本社の同期たちにライバル意識を燃やし ていた新ではあったが、辞令を受け取っても、喜びはわいてこなかった。それよりも、エリー 粥ト集団の中でどうやれば存在感を示せるかという思いで頭の中は一杯になった。 の どうせオレは地方宀黹山のよそ者だ。本社生え抜きのエリート連中のまねはできない。 過去一〇年間に地方で体得した営業ノウハウを駆使してあばれてやる、と心の中でつぶやい 人 歯 彼は、同僚や部下たちに企業一部だろうが、地方支店だろうが、営業に変わりはない、とカ 章説し続けた。 第・ーー里只の営業などたいしたことはない。里示の一〇〇万円は地方では一〇万円だ。 当時、″エリート〃たちからひんしゆくを買い、「新は企業営業部の恥さらしだ」と陰口をた たかれた。しかし、そんな声など気にせずに新しいマ 1 ケットの開拓に奔走した。
2 折ロ襷ッドウイル ) すべてを賭けたジュリアナ東京 「ジュリアナほど起まとしてのデビュ 1 戦にふさわしい事業はないと思いました。あれ は僕のすべてを賭けてもいいと思えるほど価値あるビッグチャンスでした」 そう弁舌さわやかに語ると、グッドウイル会長の折ロ雅博 ( 三七歳Ⅱ年齢は取材時、以下同 ) は一気にコーヒーを飲み干した。 三〇歳のとき、将来を約束されたエリート商社マンの道を投け捨て、起業家へ転身した折ロ は、今や総合人材派一ム社グッドウイルの若き経営者として手腕をいかんなく発揮している。 グッドウイルは物流・配送作業、倉庫内の検品作業、イベント会場の設営・撤去などの軽作 業から、在宅介護などの分野への人材派遣、べンチャーキャピタルまで手掛けている企業。事 業規模は、売り上げ約七五億円、経常利益約三億円、従業員数一一六〇人。一九九九年 ( 平成一一 年 ) 七月には店頭公開を果たす。 折ロは一九六一年 ( 昭和三六年 ) 、啝で生まれる。八四年 ( 昭和五九年 ) 、防衛大学校理工学 部を卒業。一年間外資系企業に勤務した後、八五年 ( 昭和六〇年 ) に日商岩井に入社した。動 機は「大きな仕事がしたい」だった。 おりぐちまさひろ
一九八八年 ( 昭和六三年 ) の春、近藤は、夢を膨らませて興銀へ就職した。 経営にも生き方にも正解はない 興銀では、里只支店に配属され、五年間、同行と取引のない中堅企業の新規開拓の仕事に携 わった。 , 。 彼よ、オーナー企業ではトップを攻めなければ成果は得られないと考えた。毎日、一 〇社の社長に「経営の話がしたい」とアポイントメントの電話を入れ、直接社長と面談すると いう営業手法を取った。そのために、必死で企業の経営問題を勉強し、提案し続けた。その結 き果、五年間で合計約一一〇〇社の経営者と会い、五〇社の新規開拓に成功した。 てそんな業績が評価されて、近藤は一九九三年 ( 平成五年 ) 一月、本店業務部に異動。中期経 や営計画の第疋、営業マ一一ユアル作成などに携わった後、計算センター、人材派医ム社など事務 部門の別会社化を企画・運営する業務をこなした。 こ 近藤が、取得のために行内留学募集に手を挙げたのは、入社六年目の九一一一年秋。動機 好は、「経営者養成専門学校のビジネススクールへ行って、いろいろなグロ 1 バル企業の経営疑似 章体験がしたい」ということだった。 ル彼はそのとき、 *Q<< を引っさげて帰国すれば、必ず興銀の発展に役立っと確信していた。 また、日本の経営者に、アメリカ企業の再生ケトスをレクチャ 1 し、経営の参考にしてもら う、そうすれば営業の強力な武器になると考えていた。
230 「別館プロジェクト」のプロジェクトリーダーに抜擢されたのだ。彼はただちにチームを結成、 毎週一回事業研究会を開き、業態を提案させた。 しかし、街づくり構想、専門館構想などさまざまな案が上がり、収拾がっかず、基本構想を まとめることすらままならなかった。 その三カ月後の五月末。 西武百貨店本部・関東地域事業部の役員が、長澤を直々に呼び出した。 「実は川崎店が大不振なんだ。なんとか立て直さなきゃいけない。そのためには現場を熟知し、 しかも営業企画を立てられる人材が必要なのだが、それは君しかいない」 川崎店はその前年、開店したばかりだったが、毎月赤字の連続だった。そのために長澤を新 たな営業企画担当 ( 課長 ) として就任させ、経費構造の改善と営業強化を図ろうとしたのだ。 長澤はただちに過去一年間の各売り場のデータを集め、各課長にも実態を聞いて回った。そ の結果、若い母親が顧客の中心層とわかり、徹底的にターゲットを絞った店づくりを開始した。 ところが、どの課長も長澤に対して冷淡で、協力しようという者は一人もいなかった。中に は会議の席で「営業企画は変えるというけど、現場は精いつばい苦労してやってんだよ」と声 を荒らげる者さえいた。予想外の現場の反発に長澤は頭を抱えた。 暮れも押し詰まった一一一月のある夜。長澤は、川崎駅前のおでん屋でビールを飲みながら、 業績不振に苦しむ川崎店の店長の話に咄な表情でうなずいていた。
340 その一つに、大正海上では難攻不落といわれていた ( 第二電電 ) があった。同社は八 四年 ( 昭和五九年 ) 、京セラの呼びかけで三菱商事、セコムなど中核五社の共同出資で設立。損 保は京セラ、三菱商事とも車只海上が主導権を握っていることから、への食い込みはま ず不可能とされていた。 新は、三菱商事から来ていたキーマンを一日に数回訪問し、新しい保険を提案し続けた。や がて工夫に工夫を重ね、保険金を只海上のほば三分の一まで引き下げる案を打ち出した。そ れがキーマンを動かした。その結果、只海上の牙城であったは、建物関係の幹事保険 会社に只海上、従業目関係の幹事保険会社に大正海上をそれぞれ疋することになった。 新は、その後も京セラ、セコムに食い込み、″企業営業部に新あり〃と言われるに至った。 八九年 ( 平成元年 ) 四月、新は啝只営業第四部開発課長に就任。 そこはもともと新宿の高層ビルの新進優良企業を攻め落とす目的で設置された部署だった が、彼は業界最大手の企業と組織を目標とする方針へと転換した。 「当時の部隊は若手三人からなる〃竹槍軍団 % 竹槍で業界最大手の企業に挑むなんてバカじゃ ないかと社内では言われました。でも僕は、セコムを落とせば中小の擎磆保障会社が落とせる、 、、ツバをかけたんです」 を攻め落とせば中小の旅行会社を落とせると はてんこう 破天荒な〃竹槍軍団〃は、大正海上の″正規軍〃である企業営業部が手つかずの会社や、過 去挑んだが落城しなかった会社、組織を次々と開拓していった。それもセコム、、
その思いは、顧客に伝わり、中小企業を中心に三〇社の契約先を確保した。だが、それだけ では運転資金が回らず、経営が行き詰まってしまった。 パプル崩壊で失ったもの、手にしたもの 頭を抱え込んでいた桑原に助け舟を出したのが、清水建設時代から懇意にしていた、ある中 きゅうきょ 小企業の経営者だった。急遽、工場や営業所などの建物の意匠の依頼がもたらされた。創業し てからの三年間は、その仕事でつないできた。 ち 実績が出て、業界でもその存在が知られるようになり、大手ゼネコンから施工図製作の仕事 たが舞い込んできた。 O<<Q ( キャドⅡコンピューター援用設計 ) 機を一一台導入し、大量の注文 に備えると、清水建設、大成建設、大朴組などの大手ゼネコンから次々と施工図製作の下請け の仕事が持ち込まれた。希望社は急成長を遂げ、総勢一〇〇人の施工図請け負い会社へと様変 チわりした。 べしかし、そんな好況も、バブル崩壊で長くは続かない。一九九四年 ( 平成六年 ) 九月期決算 章で、四七〇〇万円の大赤字を出し、経営不振に陥ってしまった。社員も続々と辞めていき、六 第〇人にまで急減した。 桑原は全社員と対応策を討議し、賃金減額や有給休暇短縮の自己申告を実施することになっ 0 ーセントの減額となったが、四〇パーセントカットを申告した社員が た。賃金は、平均一八。、