たい何が不足で、大企業の室長代理の座を捨てねばならないのか。 大村は、辞表を出した後、一カ月ほど妻を説得し続けた。こうと決めたら後に引かない夫の 強情な生格を知り尽くしていた妻は、あきらめざるを得なかった。 大村が結婚したのは、一九六四年 ( 昭和三九年 ) 。大学教授の娘であった妻とは高校の同級生 であった。一一人は、大学三年のときに開かれた高校の同大ムに出席するまで、ロをきいたこと もなかった。最初に熱を上げたのは大村のほうで、お茶の水女子大の学生だった妻は関心がな かった。 しかし、いっしか大村の情にほだされて交際を始めるようになった。大学を卒業すると、彼 は住友商事本社のある大阪へ引っ越し、妻は大学院へ入った。 の 後しばらくの間、妻は和歌山大の助教授を務めた。 「いざとなれば、私がまた教壇に立ちますから」 車妻の心強い一一 = ロ葉に支えられて、大村は八七年 ( 昭和六一一年 ) 六月、安全センターを立ち上げ 歯 章四八歳の夏だった。 第「僕がこんにちあるのは、家内の協力があったればこそです。彼女には感謝しています」 しかし、夢を追いかけて起業したものの、待っていたのは借金地獄であった。
里示・神田にある住友商事の子会社、住商機電販売の大会議室で、六〇〇人の社員が全員出 席するという異例の「社長賞」授与式が行われた。 「ただいまから社長賞の表彰式を行います。電子部の責任者の方は壇上へ 司会者役の総務部長がマイクに向かって言った。 ああ、オレも苦労のしがいがあったな。 そう心の中でつぶやきながら、住商機電販売・電子部長代理の大村は、堂々と胸を張って前 へ出て行った。 すると、司会者は慌てて制止した。 「表彰されるのは大村さんじゃありません。現部長の鈴木さんです」 の 大村は一瞬呆気にとられて、頭をかしげながら席へ戻った。場内のあちこちからクスッとい う笑い声が漏れた 車「子会社再建の立て役者は僕だから、てつきり自分が表彰されると思っていたんです。ところ 、が、おまえじゃない、新任の部長だと。その数日前の辞令で、僕は住友商事本社・効率化推進 章部に異動していましたからね。その年は表彰どころか、業務〈哭違反ということで最悪の人事 第考課でした」 大村は、一九六一年 ( 昭和三六年 ) 四月に住友商事に入社。最初の八年は総務部事務管理課 でコンピューター導入の仕事に携わった。その後、機電開発店報機器課で、コンピュ 1 ター あっけ
「しかし、僕はそのとき、『この事業は何としてでも実現させなければならん』という、強い使 命感のようなものを感じたんですね」 それは、母親が他界したときの経験からだった。 一一五歳の夏だった。故郷の熊本で、買い物から帰ってきた当時五四歳の母親が、勝手口で倒 れてしまった。六時間後に帰宅した弟が虫の息になっている彼女を発見し、病院に担ぎ込んだ が遅かった。翌日、母親は死去。心臓発作だった。 大村が里示で一大事を知ったのは、深夜の一一一時。母親が倒れているときには、鼻唄まじり ぎよってん にバカつきのマ 1 ジャンに興じていた。弟からの急報に仰天した大村は、翌日、朝一番の飛行 機で熊本へ飛んだ。 の ーーー母ちゃん死ぬなよ ! 病院へたどり着くまで、彼は優しかった母親を思いだしながら心の中で叫び続けた。 車大村の生家は代々大地主であった。跡取りで銀行員の父親は、長男のしつけには厳しかった。 歯 昼間は外へ出て、遊んでこい。勉強ばかりして点取り虫になるなーー。従わないときは容赦な 章くけ飛ばされた。 第そんな父親から、母親はよくかばってくれた。それに、詰め襟からランドセル、鳥かごに至 るまで、よく手づくりであつらえてもくれた。そんな遠い昔の母親の優しい姿が浮かんでは消 えた。
オレもエリートの仲間入りだ。やってやるぞ。 こうぜん 大村は、体の底からカがわいてくるのを感じ、昂然たる面持ちで仕事に立ち向かった。そし て大いに実力を発揮し、成果を上げるのである。 コストを徹底的に分析し、コスト高の原因を突き止めた。事務用品の印刷経費なども習慣的 な″もたれあい価格〃を逃さず、容赦なく切り捨てたのである。そして経費構造を改善する方 法論を理詰めで追求した。 それだけではない。社内の古いも改革した。たとえば荷でも書類〃の文書主義を排除 りんぎしょはんこ したり、稟議書も判子の使用からサインへと改めさせたりした。 「ある部長が『オレは反対したんだ』と言うから、『でも、判子を押されてますよ』と。すると、 の 『よく見ろ。オレは反対だったから、逆さに押したんだ』とくだらんことを真顔で一一一口う部長がい たんですよ」 車大村は信念を持って、業務改革をやり遂げた。しかし、彼に対して社内から、「あいつはやり 歯 すぎだ」という批判の声が出始めた。最初のうちは、「正しいことは正しい」といささかも動じ 章ることなく、ナタを振るい続けた。そんな彼を、社長はほめ讃えた。すると皮肉なことに、批 第判は妬みから出た非難へと変わっていくのである。 「ーーーあいつは社長にゴマをすっている」 社内のあちこちから漏れ聞こえてきた。そのたびに大村は、心の中で、「見当違いもはなはだ ねた
そんな光景が思い浮かんでは消えた。 異動の連続を糧にして 一九七九年 ( 昭和五四年 ) 一一月。効率化推進部の課長を務めていた大村は突然、機電本部・ 通信電子部から呼ばれ、製コンピューターの海外販売拠点網づくりの仕事に駆り出され 「コンピュ 1 タ 1 がわかり、英語ができ、打たれ強く、図々しいやつを探したら、僕だったと し。冫し力ないということだったんです」 いう。しかし、个ョは僕に業務改革を続けさせるわサこまゝゝ 粥当時、はコンピューターの輸出をしていなかった。が海外に自社販売網を築け 。それが住友商事の基本 のば、商社の出る幕はない。その前に現地代理店を設置してしまえ 方針となった。ただし、カネは住友商事からは一円も出さず、全額現地資本に出させる。それ 車でいて経営権を握ろうという虫のいい話だから、簡単にいくわけがないとみられていた。 歯 ところが、大村は、見事にそれをやり遂けた。現地資本に全額出資で販売店をつくらせたの 章だ。そのうえ店舗の設計から従業員の採用、教頁販売ノウハウの指導に至るまで全部一人で 第やり、代理店を立ち上げたのである。 どくだんじよう 当時、アジアのコンピューター市場はの独壇場で、香港も例外ではなかった。実績ゼ ロのを、大村は、わずか一年半でシェア・ランキング一〇位に付けたのである。
320 「信念の人」に社内の鉐み 「僕は住友商事の一一六年間、新しい仕事↓クビの繰り返しでした。つまり、苦労して料理し、 食べようと思うと、別の新しい仕事に駆り出される。おいしい料理を食べさせてもらえない。 当時はそんな人事をする上司を憎みましたが、起業のいい勉強となりました」 大村がエリート商社マンの道を捨て、起業家へ転身した最大の理由は、「自分がやりたいと思 う緊急通報サービス k を会社がやらせてくれないから」であった。もし、会社がその事業に 乗り出していれば独立はあり得なかったという。 しかし、それだけでは独立への道には踏み切れまい。事業を成功へ導く、揺るぎない信念と 自信があったからこそ、独立が実現したと見るべきだろう。 では、彼の仕事に対する姿勢はどうだったか 一九七七年 ( 昭和五一一年 ) 四月、大村は住友商事・効率化推進部の課長に就任した。コンピ ューター関連部署や子会社出向を経て、一七年目にして初めて手に入れたスタッフ部門の仕事 だった。効率化推進部とは、大企業病を一掃するために社内のムリ、ムダ、ムラをなくすこと を目的に設置された社長直属の部署で、各部署選抜のエリート八人からなる少数精鋭部隊だっ 大村は、自分がその部隊へ入れられたことを誇りに思った。ここ数カ月、子会社再建の功労 を評価してもらえず、落胆の日々を送っていただけに、喜びもひとしおだった。
る、と確信した。 大村は、半導体部門の仕事の主体を販売から仕入れに換えた。明らかに業務〈哭違反であっ たが、そんなことは構わず断行した。 すると、沈滞ムードの社員に活気が出てきた。彼らは ZQO や沖電気などのメーカーの半年 後の生産計画や—0 の使用情報を集め、メ 1 カーが半年後に欲しがるであろう機種をから 大量に買った。予想はズバリ当たり、各メ 1 カ 1 から注文が殺到した。大村はその機を逃さず、 不良在庫と化していた一一〇〇〇機種を売ったのである。 さらに、彼は、製造中止となっていた古い機種を買いあさった。わずか数百円の部品一個が 粥何千万円もの価値を生む。たとえば、一〇〇〇万円のコンピュータ 1 を使っているユ 1 ザーか の らすれば、製造中止している一一〇〇円の部品のために設計を変えるのは面倒である。 「僕は『落ちいの哲学』と言ってました。半導体メーカーが捨てようとしている古い機種 車を一個一一〇〇円で買う。それを今度はコンピュータ 1 ・メ 1 カ 1 へ八〇〇〇円で売るんです。 もう 歯 これは儲かりました」 章結局、大村は半導体部門をつぶすどころか、一一年目から墨子転換させ、住商機電販売の最大 第の利益部門に押し上げたのである。 しかし、業務〈哭下違反に問われ、「社長賞」は彼の手に入らなかった。
の国内営業を四年間行った。 そんな大村が、子会社の住商機電販売へ電子部長代理として出向を命じられたのは、一九七 三年 ( 昭和四八年 ) 七月のことだった。 当時、住商機電販売は、半導体から精密犠、エに至るまで幅広い商品を扱っていた が、半導体部門の電子部の大幅な子のために、会社全体が経営不振に陥るという状況にあっ た。住友商事は半導体部門を清算するという方針を決定、その責任者としてコンピュータ 1 に 強い大村に白羽の矢が立ったわけだが、本人は左遷人事だと思った。 半導体部門の五一一人を解雇ないし配置転換せよ。 それが彼に与えられた主な任務だった。しかし、住商機電販売の半導体部門は世界最大の半 導体メーカー ( テキサス・インスツルメント ) の指定代理店の一つであり、その実績をつ ぶすのはもったいないと考えた。 着任するや、大村は、一一〇〇〇機種の不良在庫の山を見て驚いた。前任者の超積極経営によ る結果ではあったが、その後、在庫の買い増しを一切禁じていた会社にも責任があった。売れ 筋商品の仕入れさえも許可しなかったからだ。 彼は、数カ月間、どうすべきかを考えた。やがて、半導体は景気に非常に左右されやすい相 場商品的ながあることに気づいた。時期によって、余る機種と不足する機種がある。それ は半導体メ 1 カーとコンピュ 1 ター・メーカ 1 の需給関係で決まる。ならば情報と知恵で勝て しらは させん
こぶし 大村は膝の上にのせた両の拳にグッと力を入れた。 ーーー道楽とはなんだ。 いきどお 彼は憤りを感じ、興奮しながら銀行を出ていった。 気がつくと、大学時代に妻とよく散歩した多摩川の土手の上に立っていた。急に「このオレ はなんて惨めな男なんだ」と思えて、涙が込み上げてきた。 枕に頭を横たえ、絶望感に打ちひしがれながら、まんじりともせずに夜を送る日々が続いた。 窮地に追い込まれた大村は、何とか食いつなごうと、ムは個人の資格で友人や友人の友人、 と - つほんせいそう さらにその友人にカネを借りに東奔西走し、やっとの思いで五〇〇〇万円をかき集めた。 やがて、大村の事業に懸ける思いは実を結んでいく。 やまと 八年 ( 昭和六三年 ) には神奈川県大和市と業務委託契約をし、八九年 ( 平成元年 ) には「知 識融合型企業第一号」として、 ( 財 ) 研究開発型企枩月成センタ 1 の債務保証を受けて、通報シ ステムをリニューアル。営業の重点を地方自治体に置くことによって、事業は軌道に乗ってき 九一年 ( 平成三年 ) 一〇月には、ニュービジネス協央ムから「ニュービジネス大賞奨励賞」 を受賞するなど、本格的な高齢化社会を前にシルバービジネスとして注目が集まってきたこと も追い風になった。 設立九年目の九五年 ( 平成七年 ) には当期利益べ 1 スで黒字を確保し、現在に至っている。
326 ″道楽々呼ばわりに涙をのんだ日 大村は一一六年間勤めた住友商事を退職し、退職金一六〇〇万円に預金を加えた一一〇〇〇万円 で、安全センターを設立した。 高齢者に通報用ペンダントを携帯してもらう。突然の ~ や事故で倒れるようなことがあっ た場合、そのペンダントを押すと、ただちに通信センターに通報が届き、火事ならば消防車を、 急病ならば救急車を呼ぶ。五年目に単生度黒字を出し、七年目までに累墳失を一掃するーー そんな目標を掲げてスタートした。 ところが、開業早々に計画は色あせてしまった。どの客も便利なサ 1 ビスだと評価するが、 具体的な商談に入ると、「契約するなんて縁起でもない」と敬遠された。 開業以来一年半ほど、顧客は諟のお婆さんとその友人の一一人だけだった。にもかかわらず、 大村は看護婦と相談員総勢一四人をも抱え、三六五日、一一四時間、常時一一人以上待機させ、通 報があれば適切な処置をとる、あるいは親身になって相談に乗るという態勢をとった。これで 経営が成り立つはずがない。 資本金は四カ月で食いつぶし、銀行からの融資と、家族、親類縁者から借りたカネでつない だ。しかし、それも一年で使い果たした。 一九九〇年 ( 平成一一年 ) 、大村が五一一歳の夏。借金は膨らむばかりだった。都銀からの追加融 資も担保不足で全部断られ、万策尽き果てた。