尾坂 - みる会図書館


検索対象: 会社を辞めて成功した男たち
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1. 会社を辞めて成功した男たち

創設者の尾坂は、芸術大学大学院修了の日本を代表する環境デザイナ 1 だが、その彼が インターネットによる在宅介護支援システムを開発するようになった直接のきっかけは、橋本 知事からの一本の電話だった。 一九九五年 ( 平成七年 ) 一一月。 電話の向こうから橋本知事は、尾坂に言った。 むらおこ 「実は、広告代理店に村興しのイベントを頼んできたんですが、それだと単なる観光にしかな らない。何か、地元から噴き上げるような、いいアイデアはありませんか」 尾坂は、知事からの突然の電話に恐縮し、直立不動で返事をした。 あき 高知県果部の安芸郡などは全国で最も過疎化が進み、高齢化地域になっている。地域に役立 戦ち、全国の地方自治体のモデルとなるような情報化をベースにした " 村興し。をぜひやりたい、 の と橋本は言い、「ーー一度、高知に来ていただけませんか」 者 しようへい 営 と招聘した。 経 一週間後、尾坂は庁知事室を訪ね、面談したーー 若 ムロ 尾坂は、一九八〇年 ( 昭和五五年 ) 、多摩美術大学立体デ 章 尾ザイン科を卒業し、啝足芸術大学大学院・環境造形デザイ 第 ン研究室に入学した。八三年 ( 昭和五八年 ) に卒業後、建 たんげけんぞう 築家の丹下健三の事務所に入社したが、数日間で退社。翌

2. 会社を辞めて成功した男たち

にじっと耳を傾けた。 9 「デザインをやりたいのなら、芸大大学院の環境造形デザイン研究室を受けてみたらどうです か。去年できたばかりで、まだ大学院生は一人もいないですよ」 「芸大大学院に ? 環境デザインの研究は日本では初めてですね。面白そうだな」 そこへ英字誌のカメラマンがやって来て、「多摩美じゃ、テクニックばかり教えているそうじ ゃないか。そんな学校に残っていても仕方ないぞ」と一 = ロうや、芝生の上にごろりと寝ころがっ またた 空には星が瞬いていた。 「そう。環境をやれよ」 背後からロックシンガーが尾坂の肩に手を置いて続けた。 「最近、環境音楽だってあるし、これからは環境だよ。オレ : : : 」 さえぎ 一一 = ロ葉を遮って、芸大卒業生が再び尾坂に、「研究室を知っているから電話一本入れておくよ。 一回行ってみたらいい」と勧めた。 結局、尾坂は、その一言で進路を決めたーー 「彼の、あの一言がなければ芸大大学院には行っていなかったし、今日の自分はなかったです ね」

3. 会社を辞めて成功した男たち

しかし、そこに至るまでの芸術家・尾坂の人生は、決して平坦な道のりではなかった。 尾坂は、もともと東京芸術大学大学院修了の、日本を代表する環境デザイナー。同大大学 院・環境造形デザイン研究室の第一期卒業生として、街づくりなど各分野で才能を発揮、名声 を博していた。そんな彼が、なぜべンチャー企業を起こしたのか。 プロも舌を巻く画才の持ち主 そうじゃ 尾坂は、一九五六年 ( 昭和三一年 ) 四月、岡山県総社市に、三人兄弟の末っ子として生まれ 父親は一九一八年 ( 大正七年 ) 生まれ。戦則は、中国の関東軍司令部参謀部に勤務、主に中 国・ロシア語の通訳などの仕事に携わっていた。終戦と同時にソ連軍の捕虜となり、シベリア 送りとなったが、五〇年 ( 昭和一一五年 ) 、復員した。岡山市内のパチンコ店で数年働いた後、五 五年 ( 昭和三〇年 ) 、戦友の勧めで母親の営む旅館を改造、総社市内唯一の鮮魚店を始めた。 素人商売の両親は、知人から魚のさばき方、仕入れの仕方を教わり、朝早くからコッコッと 働いた。母親は毎晩、慣れない手つきで、さばき方の練習をし、父親も仕入れのため、毎朝四 時に起床し、荷箱を積んだ自転車で岡山までの一一〇キロの道のりを往復した。 尾坂が物心ついたころには鮮魚店は繁盛していた。しかし、同志社大の学生だった長兄に仕 ひつばく 送りしていたために、家計は逼迫していた。

4. 会社を辞めて成功した男たち

替えて一所縣叩、課題に取り組んだ。 彼が米軍ハウスに入居したのは、三年生の夏だった。動機は、友人たちから、「面白い人が集 まっていて、心機一転にはいい場所だ」と勧められたからだ。 / 。 彼ま横田基地、立川基地周辺を 何度も探し歩き、ようやく空き家を見つけて入居した。家は三に一〇〇坪の中庭が付く など贅沢なっくりとなっていた。それで家賃八万円だった。 米軍ハウスの住人たちは外国人も含めて、みんな親しく行き来し、議論し合っていた。尾坂 がワイワイガャガヤの雰囲気に溶け込むのに、さほど時間はかからなかった 「僕は、かって立川基地に隣接している米軍ハウスに住んでいたとき、多種多様な職業の人と 出会いました。その出会いが、その後の人生に大きく影響していますね」 一九七九年 ( 昭和五四年 ) 四月ーー のある夜、尾坂の家で、米軍ハウスに引っ越してきたばかりの芸大卒業生の歓迎パーティーが 経開かれた。簡単な手料理に、参加者が思い思いに持参してきたビール、ウイスキーだけの " 飲 き み会〃だった。 若 ロックシンガー、カメラマン、映画プロデューサ 1 、彫刻家、画家、作家など、さまざまな 章 一一職業の人たちが集まり、賑わった。リビングルームで卒業生が自己紹介すると、あとはいつも のように、各自飲み物を持って庭に出た。 ノトワイザ 1 を飲みながら、その日の主役、芸大卒業生の話 多摩美術大学四年生の尾坂は、ヾ、 ぜいたく

5. 会社を辞めて成功した男たち

そのとき、さすが只芸大出の先生は違う、ぜひ体感したい、と尾坂は思った。土日になる と、影を求めて校庭の反射光の入るところに六時間座ってじっと葉っぱを見たり、大原美術館 のソフアとか、高校の廊下に何時間も座ってじっと壁を見つめたりしたが、影の動く気配はま ったく感じなかった。 そんな彼を見て、事情を知らない人は、「かわいそうにね」と、小声で言って通りすぎたもの だ。外では雑音で気が散るために、やがて家で挑戦することにした 勉強部屋でのときは、七度目の挑戦だった。時計が四時を告げた。 するとその瞬間、 戦尾坂は、感じた。確かに壁に落ちていた影がスーツと動くのを感じとった。そうやって彼は の アーティストへの道をたどり始めていった 者 営大学ではデザインを勉強するんだと決めていた。特にクルマのデザインに興味があった。 うるお 当時、家業の鮮魚店はスー ーの鮮魚コーナーに入り、売り上げは急増した。家計は潤い、 若 もはや彼は大学にかかる金銭面を心配する必要がなくなった。父親は美大ではなく、早稲田大 章 一一学や慶応大学に入ることを望んでいたが、「ーー多摩美術大学へ入学してクルマのデザイナー 3 になる」と腹を決めていた。 一九七五年 ( 昭和五〇年 ) 四月、尾坂は多摩美術大宝並体デザイン科に入学した。

6. 会社を辞めて成功した男たち

八四年 ( 昭和五九年 ) にコンセプト会社シナジーを設立した。以来、地域開発、空間プロデュ ース、リゾートプロデュースまで幅広い環境デザインを展開してきた。ちなみに、手掛けたプ ロデュースは「ラフォ 1 レ原宿」「浅草」「六甲アイランド」「西武ロフト」「六本木 」など。 その間、開発コンセプトをシミュレ 1 ションするために O()D ( コンピューター・グラフィッ クス ) を導入し、マルチメディアも推進。は最初、海外に依存していたが、やがて自社で 独自技術を開発。技術が蓄積されてきたころ、ちょうど全国に地域振興化の波が押し寄せ、各 自治体から″村興しみのアドバイスを求められるようになった。尾坂の名則は、自分が思う以 上にとどろいていたのだ。 橋本知事からの電話があったのも、そんな時期だった 高知で、橋本は尾坂に、これからは地方分権にしなければならない、そのためにも情報化を 図っていく必要がある、と熱く語った。尾坂は、国土庁が推進している地域高度情報化につい て持論を展開した後、こう提案した。 「国土庁が地域情報化のモデル事業として富山県山田村 ( 婦負郡 ) でインターネットをやって いますが、あのコンセプトで介護システムを開発して、盾報センターをつくったらどうでしよう」 橋本は笑みを浮かべた。 「それはいいアイデアだ。介護に必要ないろいろな情報を収集し、システム化を考えてくれま

7. 会社を辞めて成功した男たち

せんか。地元の若い人を使って、産業・人材とも育ててほしい」 尾坂は目を輝かせた。 彼はただちに、高知に事務所を設け、地一兀の若者を採用し、地元の人たちの意見を聞きなが ら、インタ 1 ネットによる介護ネットワークの開発に取り組んだ。 一九九六年 ( 平成八年 ) 四月、高齢化・過疎化に悩む安芸郡の五町村はホームヘルバーの派 遣事業などを担当する財団法人「中芸介護公社」を設立。それまで各町村の社会福祉協議会に 所属していたヘルバ 1 を介護公社にすべて呂し、ホームヘルプ事業を一元化した。 尾坂は、一一年間で数億円投資し、「介援隊」 ( 在宅介護総合支援システム ) を完成させた。この システムを使えば、それまでヘレ。、 ノノーたちが、事務所に帰着後一一時間ほどかけて作成していた 日報ーー介護老人の食事、入浴などの日常生活動作旧報や体温、血圧、脈拍といった数値の記 の 録ーーが訪問先でその都度、簡単に記入できるようになる。あとは帰宅後、入力内容を介護公 者 営 社のサー バーに転送するだけで済む。公社ではその介護実績を集計し、わかりやすい個人デー 経 タとして管理する。 若 橋本知事は、一九九八年 ( 平成一〇年 ) 春、報告にやって来た尾坂に、「このシステムはパソ 章 コンによる福祉サービスの先例になるね」と話しかけながら片手を差し出した。高知での実績 第 7 が買われ、介護支援システムは各地方自治体からオ 1 ダーが殺到、マルチメディア事業は軌道 に乗った。

8. 会社を辞めて成功した男たち

100 「僕の夢は、一一一世紀を時代ごとにデジタルで残すことです。各産業から生活に至るまで一〇 年区切りの時代の変遷をお茶の間で見られるようにする。過去がわかれば未来もわかるでしょ 尾坂の完成させた在宅介護支援システムは、大反響を呼び、すでに全国一〇〇カ所での導入 が決まっている。 尾坂は、一一〇〇〇年 ( 平成一一一年 ) 四月、高知県北川村に、フランスとの民間交流により「モ ネの庭」を再現することに成功した。また、五月には、以前から国土庁の地域情報化事業の一 環として、その情報システムづくりを手掛けていた富山県山田村に通産省のプロジェクト、 ーチャル山田村を立ち上げ、そこに住民六万人に住んでもらう計画をスタート。一一〇〇一一年 ( 平成一四年 ) までに、株式店頭公開を目指すという。 よしおかまさと 士正人 ( 士電気工業 ) 創業者の父が急逝 「私は、大学一一年のとき父を亡くし、あとを継いで社長になったんです。あのときはもう、頭 がまっ白になりました」 そうしみじみ語るのは、吉岡電気工業社長の吉岡正人 ( 四六歳 ) 。同社は、名古屋市に本社を

9. 会社を辞めて成功した男たち

域の人々のための薬局づくりは永久の課題ですね」 河端は、一一〇〇〇年 ( 平成一一一年 ) に入って、新たな事業展開に乗り出している。まず、三 月からインターネットを利用した無料健康相談サービスを開始。専属の薬剤師が、利用客とネ ット上で対話する形で、客一人ひとりに合った薬や食生活に関して助言するというもの。さら に四月、インターネット事業拡大、強化のためにソフトバンク・グル 1 プと資本提携した。他 店とのネットワーク化を強力に推進し、どこの薬局でも薬日本堂の漢方が購入できるようにし たい、と河端は語っている。 おさかしレっ・じ 尾坂鹹 ( シナジー ) 「環境デサイナー」として介護支援システムを開発 「僕がインタ 1 ネットによる在宅介護支援システムを開発するようになったのは、高知県の橋 もとだいじろう 本大一一郎知事からの一本の電話がきっかけでした」 こう語るのは、シナジー社長の尾坂昇治 ( 四三歳 ) 。 同社は地域開発、街づくりのコンセプト・クリエ 1 ター会社として業界最大手である。スタ ッフ三〇人で、一九九九年 ( 平成一一年 ) の売上高約五億円、一一〇〇〇年 ( 平成一一一年 ) は、 マルチメディア事業の開花で一一〇億円の売り上げを見込んでいる。

10. 会社を辞めて成功した男たち

大学院時代に見た「日本と世界」 多摩美術大学四年生の尾坂が、芸大大学院の環境造形デザイン研究室に教授を訪ねたのは、 一九七九年 ( 昭和五四年 ) 五月。教授は物静かな宀工名で、デザイナー兼務でギラギラしている かも 多摩美の教授とは違った雰囲気を醸しだしていた。教授は受験相談にやって来た彼に、穏やか 彼ま「観念的なモノづくりです」と答えた。 な口調で、「何がやりたいの」と聞いた。 , 冫 当時、彼は既成概念を打ち破るようなデザインづくりに熱中していた。たとえば、椅子は座 ふっしよく るもの、店は平行・垂直の空間、という固定観念を払拭するために、アクリルでつくった、た だ見るためだけの座れない椅子とか、床、天井、壁が全部ゆがみ、平行・垂直になっていると ころが一カ所もない〃ねじれた空間〃の店など。 戦「変なものばかりつくっているのです」 の 教授は「じゃ、受けてみたらどう」と微笑んだ。 者 営九月に受験し、一一月にム憘発表。受かったのは彼と芸大生の一一人だけ。朗報を耳にした両 親は喜び、親戚中に触れ回った。 若 一九八〇年 ( 昭和五五年 ) 四月、尾坂は鑒示芸術大学大学院環境造形デザイン研究室に入学。 章 一一同研究室にとって初の大学院生となった。 大学院一年のときは、何をやればいいのかわからず、毎日、美術関係の本ばかり読んでいた。 中でも特に、日本美術に関心を持ち、日本の建物の源流となった民家を研究したーー。大黒柱