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検索対象: 会社を辞めて成功した男たち
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1. 会社を辞めて成功した男たち

彼は、三菱、 ZQO 、日立などの日本企業から、テキサス・インスツルメント、フェアチャ イルド、など、そうそうたる世界の大企業に至るまで招聘を受けたが、東芝に決めた。 最初に声をかけてくれた東芝—0 研究所の所長の人柄に魅せられたからだ。 一九七五年 ( 昭和五〇年 ) 四月、飯塚は東芝に入社。配属先は東芝総合研究所内にある—o 研究所だった。まず、一年間で五本の研究論文を書き、一一年目から、 o—äoco ( 金属酸化膜半 導体 ) の研究を行い、東芝の o ー開発の基礎を築き上げた。 「 0 ーは消費電力が小さい一方、たくさん詰め込むのは難しいという性質があります。 それを解決する素子をいくつも開発していったわけです。 o—äooo の低消費電力という特性 を生かしつつ、集積密度を高めるということを研究の中心にしていったんです」 その結果、東芝は、一メガビットのメモリー分野のー ( ダイナミック読み出し書き 込みメモリー ) の開発で他社に先行。その際、飯塚の果たした役割は大きく、世界の先端産業 界にその名をとどろかせた。 一九八〇年 ( 昭和五五年 ) 一一一月、飯塚は、前述のようにに出向した。そこで、アメリ 力のエリート技術者たちが、次々と自分の才覚で勝負するために会社を飛び出し、成功するケ ースを見て、憧れた。 同時に、日本の社会ではなぜ、アメリカのように大企業の技術者が自分で希望の職種を選べ ないのか、腑に落ちない思いを抱いて帰国した。 しトつへい

2. 会社を辞めて成功した男たち

その後、思案に暮れる日々を送りながらも、起業への淮庸を々と進めていった。 機が熟した一〇年後、東芝を退職し、いよいよ独立することになる。 起業のために″副業開始 「実は、東芝の部長になったころから、副業としてゴルフ練習場を経営し、起業の準備を進め ていたんです」 飯塚が独立したのは一九九一年 ( 平成三年 ) 五月だが、その三年前に、すでに起業する淮庸 を進めていたというのだ。 粥への出向を終え、帰国して間もないころ、飯塚は、の人から茨城県内にある一万坪 の の土地を活用してくれないかと頼まれた。一瞬、彼の頭にひらめいたのは、起業のための準備 になる " 副第ということだった。彼は、知人に一〇年契約で土地を貸した。知人は、ゴルフ 車練習場を経営し、八九年 ( 平成元年 ) に返却した。 歯 飯塚は、ゴルフ練習場をリニューアルし、運営に乗り出した。バブル時期と重なったことも 章あり、ゴルフ練習場は大盛況となり、九〇年 ( 平成一一年 ) には売り上げ一億五〇〇〇万円に達 第した。 その利益を一兀手にべンチャーを起こそうと、何人かの東芝の同僚に呼びかけたが、みんな及 び腰だった。

3. 会社を辞めて成功した男たち

に去りぬ』の中古のレーザーディスクはいくらの値段がつくかと。そのビジネスに資金協力し てあげようという人も現れ、まさに会社の登記をやろうとしていた矢先のことでした」 これには藤村も驚いた。 貿易部長が一一年前の一九八一年 ( 昭和五六年 ) 暮れに赤井電機を退職し、東芝のサウジアラ ビア現地代理店の社長を務めているは承知していた。 藤村がジャミールに転職して間もないころのことである 東芝の代理店権を獲得したジャミール財閥は、サウジアラビアに東芝の代理店をつくろうと していたが、肝心の人材がいなかった。ジャミ 1 ル・ジャパンの佐久間社長から相談を受けた 藤村の頭に浮かんだのは、赤井電機の取締役貿易部長だった。だが、紹介したものの、貿易部 長はその話には乗らないだろう、と思っていた。赤井電機は一部上場会社であり、そこの役員 にまで登り詰めた″偉い人〃であったからだ。 ところが、紹介して一カ月後、意外にも、貿易部長は藤村に、「赤井を辞めて、オレは五年間 サウジへ行くぞ」と言った。しかし、何があったのか、結局、貿易部長はオーナーと対立して 五年の契約を破棄し、一一年で帰ってきた。そして帰国後、藤村に言った。 「オレは稼いできたからカネは持っている。何をやるかは、おまえが考えろ」 藤村は、そのときすでに山亠白ディスク専門店を起業するために、一一社のべンチャーキャピタ ルから一億円を融資してもらう手はずになっていた。

4. 会社を辞めて成功した男たち

がっている。そのために僕は独立してパートナーとなる電機メーカーを探すつもりだ。事業計 画書づくりを手伝ってもらえないかという内容だった。 将来への確かな手掛かりを模索していた藤村は、一一つ返事で了解した。以来一年間、藤村は 赤井に在籍しながら、事業計画書の作成を手伝ったり、東芝の代理店権を取得する際にも、大 学の後輩の東芝社員を使い、佐久間に貢献した。 雪然キミも来てくれるよね」 佐久間は起業したとき、藤村に確認した。 藤村は社員六人のジャミール・ジャパンに転職した。二八歳のときである。 ジャミールでは、一年目は東芝製品の輸出の仕事、一一年目からはべンチャーキャピタル事業 に携わった。そこで藤村は起業について徹底的に勉強し、独立への意思を固めた。 「べンチャ 1 キャピタルをやって″寝た子〃を起こされた感じでした。世の中には知恵と情熱 さえあれば、おカネを出してくれる仕組みがあることがわかった。自分でもやってみたいと思 うようになりました」 事業計画の作成の仕方を覚えた藤村は、土日になると、自らの事業計画書づくりに取り組ん だ。ベビーシッターの派遣、バイク便、山亠・ロの o= 、レ 1 ザーディスクの販売店、ビデオソフ トの販売店ーー。それらの計画書を片っ端から外資系のべンチャーキャピタルに持ち込んだが、 ことごとく拒不口されてしまう。

5. 会社を辞めて成功した男たち

キュ 1 プなど、数社のべンチャ 1 企業を次々と起こし、成功させている。その活躍ぶりを目の しよくぼう 当たりにしてきた飯塚は、将来を嘱望されたエリートが自分の才覚で勝負するために会社を飛 び出し、成功する、その姿がうらやましくて仕方がなかった。 その一方でーー 日本の社会では、なぜ、アメリカのように技術者が自分で希望の職種を選べないのか。そん な不満が日に日に強くなっていく。 への一年間の出向で多くの国際人脈を得た飯塚は、帰国後も、起業へ挑戦するアメリカ へいそく の技術者と会うたびに、日本の閉塞状況を実感した。 そんな中で、飯塚が独立する直接のきっかけとなったのが、九〇年 ( 平成一一年 ) 春、東芝が シリコンバレ 1 のべンチャーと組んだ次世代半導体の共同開発を体験したときだった。 東芝は、 ZQO や日立など他の半導体メーカーと同じように、次々とシリコンバレーのべン チャ 1 企業に数千万円単位の資金をつぎ込み、同時に技術者も優秀な人材を選んで、送り込ん でいた。 八年 ( 昭和六三年 ) に部長になった飯塚も、直属の部下を派遣した。彼らは喜々として現 地へ乗り込む。 その結果、画期的な半導体の設計が実現し、べンチャー企業は三、四年で店頭公開する。 何かおかしい。

6. 会社を辞めて成功した男たち

298 いいづかてつや 飯塚哲哉 ( ザインエレクトロニクス ) 会社を辞めるⅡ落伍者か ? 「アメリカの技術者は伸び伸びとやっているのに、日本の技術者には選択肢が少ない。ずっと らくごしやらくいん サラリーマンでいるか、会社を辞めて落伍者の烙印を押されるか。情けないですね」 こうるのは、、 サインエレクトロニクス社長の飯塚哲哉 ( 五二歳 ) だ。 同社は現在、液晶用 ( 大規模集積回路 ) で独走する半導体べンチャー企業。自社プラ ンドの半導体チップを月一〇〇万個生産するフアプレス ( 工場を持たない ) メ 1 カーで、台湾 にも進当売り上げは、ザイン・グル 1 プ全体で約一〇〇億円、日本で一五億円。従業員は日 本一三人、台湾一一五人である。 飯塚は、一九七五年 ( 昭和五〇年 ) に示大学大学院工学系研究科 ( 電子工学 ) を修了し、 東芝に入社。以後、九一年 ( 平成三年 ) に独立してザインマイクロシステム研究所を設立する まで、一六年間、東芝でエリ 1 ト技術者として半導体の研究開発に取り組んできた。大学院で 工学博士号を取得し、八八年 ( 昭和六三年 ) には四一歳の若さで坐・導体技術研究所第一一 開発部長まで登り詰めた。 「役員就任はまず間違いなし」と社内外で言われた逸材だった。 いっざい

7. 会社を辞めて成功した男たち

ーーー大企業で働く学歴の高い人材ほど変化を好まない。それを彼は痛感した。 一九九一年 ( 平成三年 ) 五月、飯塚は、半導体の設計・製造を行うメ 1 カ—' ザインマイク ロシステム研究所を設立した。資本金の一一〇〇〇万円は、ゴルフ練習場の経営で稼いだ資金で まかなった。 設立当初は、特定顧客の注文どおりに半導体を設計する下請け業務が中心だった。 「初めて顧客を訪問し、ザインの技術力や自分の実績をいくら説明しても、なかなか信用して くれませんでした。東芝で部長職にあったが、辞めて独立したと一一一一口うと、荷か失敗したのか』 と聞かれるんです。これに対して、アメリカはもちろん、韓国や台湾でも、まず技術や実績の 話が優先されるんです」 最初、半導体の設計の注文をくれたのは、など外国企業数社で、日本企業は相手にして くれなかった。やがて日本の半導体メ 1 カーからも注文が来るようになり、受注件数の増加に ともなって社員を増やした。しかし、収益は一向に上がらなかった。 下請け業務だけでは立ち行かない。 飯塚は、九二年 ( 平成四年 ) 六月、韓国の財閥サムスン電子と合弁企業を設立し、受託開発 あ・ごかよういち を開始した。東芝時代から交流のあった三菱電機の赤坂洋一 ( 現アプライドマテリアルズジ ・リー ( 李潤雨 ) に会っ ャパン社長 ) の仲立ちで、サムスン電子の半導体部門の社長の・ た。彼は飯塚の技術力と経験を評価し、出資要請にすぐ応諾した。資本金一一一〇〇〇万円の出資

8. 会社を辞めて成功した男たち

大学受験のための特別な準備はしなかったが、すんなり現役で東大にムし、工学部応用物 理学科に入学した。六六年 ( 昭和四一年 ) のことだ。 大学時代は勉強ばかりの日々を送っていたわけではない。一、一一年のときは剣道部、ワンダ ーフォーゲル部に所属し、汗を流した。勉強と研究一筋の生活に入ったのは三年以降のことだ。 四年のとき、飯塚は、「就職するなら、日立製作所だ」と決めていた。ところが、その年、応 1 した。選び方に 用物理学科から日立への就職希望者は七人と、定員五人に対して一一人オー 興味を持ったが、ジャンケンで決める慣習となっていたことにはいささか驚いた。 結局、彼はジャンケンに敗れ、大学院へ進んだ。それも応用物理学ではなく、畑違いの電気 粥電子工学であった。それが半導体との出会いとなった。 の 修士課程では、集積回路の基礎になるシリコンの表面の物性を研究。ところが博士課程では、 それまでと違う磁性半導体分野の研究を一から始め、わずか一一一年間で博士号を取得するという じもく 車偉業をなし洋けた。そうして飯塚は、電気電子学界でも耳目を集める存在になっていった。 歯 七五年 ( 昭和五〇年 ) 、今後の身の振り方を考えたが、大学に残るつもりは毛頭なく、半導体 章メーカーへ就職する考えだった。その一一年前に結婚し、家庭を築いていたからである。妻は、 第大学の先輩の妹で、啝鼻云大卒の音楽家だった。 「大学院へ進んだのも、東芝に入ったのも、すべて成り行きまかせでした。決して計画的に進 めてきたわけじゃない。好きなことに打ち込んでいるうちに東芝に入社したという感じです」

9. 会社を辞めて成功した男たち

造・販売会社ュ一一テックテクノロジ 1 ズを設立。熊谷は社長として合弁会社をゼロから立ち上 げた。最初の一生平は急激に業績を伸ばし、そのままいけば、北米に次ぐ欧州市場の売り上げ らつわん 谷社長〃は一躍有名となり、その辣腕ぶりはマスコミにも取り上げ を追い越す勢いだった。″熊、 られるようになった。 熊谷は有頂天になり、中国の自社工場にどんどん発注した。しかし、三年目に入ると、販売 に陰りが出始め、業績不振に陥った。東芝、、松下電器などの大手電機メーカーの参入 で供給過剰になったからである。 「真因は、僕らが中国人のビジネスをまったく理解していない素人だったためです。中国政府 三はうちだけに無の販売許可を与えてくれたものとばかり思っていたんですが、実際は他の 一一メーカーにも許可を与えていたんです」 しんしようひつばっ 生オーナー経営者である藤本は、信賞必罰には厳しかった。熊谷は解任され、本社の常務取締 も役から無任所の部長へと、一一階級降格という厳しい処置がとられた。その後、一年間、社長ス 仕タッフを務めたが、「社長になりたい」という思いはつのるばかりだった。 章 五 第何を見ても事業に結びつかないものはない 「僕は、ポストン・コンサルティングで経営のセオリーを、ユニデンで経営の情けの部分を学 び、データベース会社のプログレスでは情報システムを勉強しました。これなら、いっ起業し

10. 会社を辞めて成功した男たち

″新しいこと々にこだわり続け 吉岡は、工事請負先の新規開拓を図った。 当時、吉岡電気工業は、全売り上げの九五パーセント以上を中部電力に依存。それでは収益 に限界がある。重電メーカーにも食い込み、設備組み立ての下請け杢名に炬疋してもらおう。 だが、重電メーカーは中部電力へ納入する際、専属の下請け金名に組み立てを発注していた。 そのために役員はみんな、最初から「無理だ」とあきらめていた。しかし、顧客開拓には社長 。吉岡は必死だ として存在意義がかかっている。やり遂げなければ社員から認められまい っ一」 0 中部電力への根回しを徹底的に行い、メ 1 カーに頻繁に足を運び、精力的に動いた。最初、 メーカ 1 の反応は冷淡だったが、努力のかいがあり、一一年後の一九八一年 ( 昭和五六年 ) 、よう やく日立、東芝、三菱電機の請負名になることに成功した。 その後も、吉岡は新しいことをやり遂げることにこだわった。一九八三年 ( 昭和五八年 ) に は新社屋を建設。八六年 ( 昭和六一年 ) には新たに発電所・変電所のメンテナンス事業を手掛 けることになった。 社員の吉岡を見る目は次第に変わっていったが、彼は改革の火を燃やし続けた。一九九〇年 ( 平成一一年 ) 、社員の意識改革、組織の活性化を図るために「中長期計画策定室」を設け、シンク タンクの助言を得て組織、給与規程、人古圭巧課などのあり方を全面的に洗い直した。その過程 ひんばん