226 「僕は遊びでは付き合えない。結婚を考えている」 彼女は、そっとうなずいた。 翌年の元具我孫子市の彼女の家を訪ね、両親に挨拶しようとした。すると、彼女の父親は、 かわいいわが娘を奪い去っていく男の顔など見たくなかったのだろう、彼女に、「電気を消して くれ」と言った。長澤は真っ暗な中で、自己紹介せざるを得なかった。 そうして長澤は、その年の一〇月、一一六歳で彼女とした。 就職の第一志望を土壇場で変更 長澤は一九五三年 ( 昭和一一八年 ) 一〇月、千葉市の幕張に、長男として生まれた。父親は、 一九一四年 ( 大正三年 ) 生まれで、大学卒業後、第一銀行に入行、勧業銀行とのム曇則にシチ ズン時計にし、役員にまで登り詰めた。母親は、旧満鉄幹部だった祖父の一人娘として大 だいれん 事に育てられ、中国・大連の女学校を卒業後、現地のラジオ・アナウンサーとして活躍した。 大連では冷暖房完備の豪邸に住み、裕に生活していたという。敗戦後、里泉へ引き揚げ、一 九五一一年 ( 昭和一一七年 ) に長澤の父親と結婚した。 長澤は、しつけに厳しい母親の大きな影響を受けて育った。小さいころから彼が勉強する習 慣を身につけたのも、地一兀の進学塾へ通ったのも、開成中学へ入学したのも、すべて母親の意 向からだった。祖父のスパルタ教育で育った父親は、長澤には何も言わなかった。
106 「明治生まれの父は、しつけにはことのほか厳しかった。人を裏切ったり、親に反発したりす ると徹底的にやられました」 彼女は一九三〇年 ( 昭 父親は″専制君主〃的な存在だった。母親も父親には逆らえなかった。 , 和五年 ) 、岐阜県の造り酒屋に生まれた。五〇年 ( 昭和一一五年 ) 、父親が岐阜県の発電所建設の仕 事に携わっていたときに、見そめられて、結婚した。 母親は父親に、自分の夫としてというより、〃父親〃として仕えていたようだ。 小学校低学年のとき、吉岡は銭湯のような会社の寮の風呂によく入りに行った。ある日、父 親は風呂の前に置かれている洗濯用の流し台をタイル張りにすることにした。吉岡は昼間、職 人がその水槽部分をかたどったセメントの上に、一枚一枚タイルを張っているのを見ていた。 職人は、日干しにし、完全に乾けば屋内の流し台の上にのせるのだ、と言っていた。 夕方、吉岡は風呂から上がり、外に干してあった生乾きのタイルの上にポ 1 ンと乗っかった。 タイルは大きくズレた。そのことを聞いた父親は血相を変えて怒り出し、思い切り平手打ちを 食らわせた。何で、ここまでされなくてはならないのか、彼には理解できなかった。 翌朝、父親は顔のはれ上がった吉岡に言って聞かせた。 みずいと 「ーーあの流し台は職人さんが汗水たらして一所縣叩につくった芸術品だ。一枚ずつ水糸 ( 水 平を示すために張る糸 ) を張りながら整然と並べる苦労は大変なもの。それをおまえは遊び半 分に台無しにしてしまった」
しかし、そこに至るまでの芸術家・尾坂の人生は、決して平坦な道のりではなかった。 尾坂は、もともと東京芸術大学大学院修了の、日本を代表する環境デザイナー。同大大学 院・環境造形デザイン研究室の第一期卒業生として、街づくりなど各分野で才能を発揮、名声 を博していた。そんな彼が、なぜべンチャー企業を起こしたのか。 プロも舌を巻く画才の持ち主 そうじゃ 尾坂は、一九五六年 ( 昭和三一年 ) 四月、岡山県総社市に、三人兄弟の末っ子として生まれ 父親は一九一八年 ( 大正七年 ) 生まれ。戦則は、中国の関東軍司令部参謀部に勤務、主に中 国・ロシア語の通訳などの仕事に携わっていた。終戦と同時にソ連軍の捕虜となり、シベリア 送りとなったが、五〇年 ( 昭和一一五年 ) 、復員した。岡山市内のパチンコ店で数年働いた後、五 五年 ( 昭和三〇年 ) 、戦友の勧めで母親の営む旅館を改造、総社市内唯一の鮮魚店を始めた。 素人商売の両親は、知人から魚のさばき方、仕入れの仕方を教わり、朝早くからコッコッと 働いた。母親は毎晩、慣れない手つきで、さばき方の練習をし、父親も仕入れのため、毎朝四 時に起床し、荷箱を積んだ自転車で岡山までの一一〇キロの道のりを往復した。 尾坂が物心ついたころには鮮魚店は繁盛していた。しかし、同志社大の学生だった長兄に仕 ひつばく 送りしていたために、家計は逼迫していた。
290 ハイリスク・ハイリターンは望むところ この発声訓練ソフトビジネスを進め、社会貢献することがライフワ 1 クだ。そう 確信を深めていたある日、「社内べンチャー制度に応募してみないか」と、役員から声をかけら れた。 この制度は、社員が新規事業プランを経営企画室に提案し、審査をパスすると、富士通から 資本金の一部を出資してもらって新会社を設立できる。ただし、富士通を退職しなければなら ない。新会社が成功すれば、高値で体八を富士通に引き渡せるが、失敗しても復職は認められ ないという内容。まさに望むところのハイリスク・ハイリターンだ。 自分のやりたいことをやる。それに比べて、会社でのエリートの椅子など、何の意味があろ 「ーーやります」 服部は、迷わず答えた。 エリ 1 トの座を捨て、起業に走った服部は、いったいどんな人生を歩んできたのか 服部は一九四八年 ( 昭和一一三年 ) 一月、神奈川県逗子市に実業家の長男として生まれた。姉 妹がいる。 父親は新潟旧雫一まれで大学卒業後、示都庁の職員として数年働いた後、実業家に転身した。
づき、他の株を売って購入した。 翌日の午後、再び研修を抜け出して証券会社へ行って、株価を見ると、昨日購入した銘柄は 三〇〇円高になっていた。そこで、「これはいけるぞ」と、有りガネを全部はたき、その銘柄に 投資した。 彼は、株価は数カ月で五倍以上になると予想し、カネを集められるだけ集めて大儲けしてや る、と一計を案じた。 「一カ月一割儲けさせてあげるから、僕に投資しないか。損はさせない」 河端は、初任給を手にしたばかりの五五人の研修社員を、一人一人口説いて回り、全員から 一口五〇〇〇円ずつ集金した。予想は当たり、投資した銘柄の値は上がる一方だった。 戦入社研修中にも株の売買に明け暮れていた彼は、ある日、一大決心をして何列車に飛び乗 の 者 営 若 章 第 北海道生まれの河端は、「あんたには薬剤師になってほ 敏しい」という母の意を受け、仙台の東北薬科大学に入学し 可た。北海道・東北には、薬学部のある私学は東北薬科大し かなかった。ところが、いざ入学してみると、複雑な化学 式を覚えたり、実験に明け暮れる毎日だった。 おおもう
270 アメリカで長男誕生、人生観が変わる 「留学体験で、生きる価が変わりましたね。好きなことをやって、充実した人生を送りた いと思うようになりました」 一九八九年 ( 平成元年 ) 夏、マサチューセッツ州ボストン 筒見が妻から身体の異変を聞かされたのは、夏休みに一一人で行った西海岸各地への旅行から 帰ってきた直後だった。 「早速、病院へ行こう」 笑顔でそうこたえたものの、その夜、机に向かいながら、「ーーまいったな」とつぶやいた。 授業も軌道に乗り、日常生活もペ 1 スを取り戻してきたのに、妻が妊娠したとなると、生活の リズムが一変し、勉強に集中することができなくなってしまうのでは、という不安が頭をもた げてきた。ならばいっそのこと妻を帰国させようか。 「ーーーいや、それはできない」と、心の中で首を横に振った。では、自分のとるべき道は何か。 自問自答の末、学生である前にまずは夫である。夫である以上、妻の世話をするのは当然のこ とだ、という結論を導いた。 翌朝、筒見は妻に、「赤ちゃんはポストン生まれとなるね」と言った。妻は「そう、アメリカ 人よ」と笑った。当地で産むことを決めていたようだ。 筒見は、妻と一緒にセントマリアンナ病院で産婦人科医の話に耳を傾けた。
妻の目には涙があふれた。 「もし失敗したらどうするの。子供も路頭に迷うのよ。あまりにも自分勝手すぎるわ ! それ以来、妻は折口に、「辞めたら絶対駄目よ」と念を押し続けた。 折ロは一九八八年 ( 昭和六三年 ) に結婚した。オーディオメーカーの国際部に所属していた 妻とは仕事関係で知り合った。 妻は長野県生まれ。父は大手精密機械メーカーに勤め、母は高校教諭というごく中流の家庭 環境のなかで育った。それだけに物欲はたいしてなく、それよりも日本的価値観から見た大手 商社マンという社会的地位がなくなることのほうがショックだったのである。 考えてみれば、妻が怒るのも当然だった。日商岩井を辞めて別の会社に就職するのならまだ 納得できただろう。ところが、折口が捨てようとしていたのは、サラリ 1 マンそのものだった のだから。 しかし、妻の反対に屈するような折ロではない。 ジュリアナは起まとなる最大のチャンスだ。何としても妻にウンと言わせなきや。 ぜんだ 折ロは妻の説得工作を考え、お膳立てを整えた。ロだけでは説得できないと思い、さまざま な趣向を凝らした。ある日、ジュリアナの経費でフェラーリ・テスタロッサの新車を購入、自 宅にさっそうと乗りつけた。 妻をフェラーリに乗せて「オレたちは、これからこういう生活をするようになるんだ。ジュ
していた母親のほうだった。 明治末期生まれの母親は、明朗な近代女性で、昭和の初期、日本女子大を卒業すると、長崎 に単身赴任し、女学校の教師を数年間務めた。当時、若き女性の単身赴任は先例がなかった。 ましてや長崎となれば遥か遠くである。家族や周囲の反対も無理はなかったが、長崎に憧れて いた彼女は、意志を押し通した。 理性、規律、そして意志力の価値を信じていた母親は、自身の完璧主義の性格をそっくり息 彼女は、息子のしつけにも厳しかった。勉強のできる環境を与えてやりたい、と 子に伝えた。 , き」っ・じん 思うと同時に、自分で考えて行動する強靭な綿力の持ち主になるよう願っていた。かわいい 粥息子に " 旅。をさせることにしたのもそのためだった。 の そんな親の気持ちも知らずに、飯塚は最初のうちは母親を憎んだ。 いなか 田舎育ちの飯塚にしてみれば土浦は大都会だ。人前に出るとコンプレックスで気後れした。 車しかも、他の生徒はみんな実家から通っており、孤独感にさいなまれた。夜になると寂しくて、 歯 しばしば、布団の中で忍び泣きした。 章「他人の家で気をつかいながら生活する。あれは大変なストレスでした。けれども、相手が何 第を思い、自分は今何をしなければならないか、よく考えるようになりましたね」 ある夜、エ佰先の自分の部屋でポンヤリしていると、いきなり母親が現れ、「哲哉 ! 」と、厳 しい口調で呼んだ。帰宅途中に寄ったのである。 はる
す。もう少し早く手当てをしていれば、母は助かったかもしれないと。だから、この仕事を始 めたんでしようね」 近年、緊急通報サ 1 ビスで急成長を遂けた安全センター社長の大村弘道 ( 六〇歳 ) はしみじ み語った。 安全センターは、独り暮らしの老人などが」や事故にあった場合、代わりに救急車を呼ん だり、近くのボランティア団体などへの連絡を代行するサ 1 ビスを展開している。一九九八年 ( 平成一〇年 ) 度の売り上げは約一一億円。従業員は一六一人。うち一一一六人は看護婦、保健婦、 薬剤師、介護福祉士など専門職のパ 1 トタイマーだ。 大村は、一九三八年 ( 昭和一三年 ) 、熊杢巾生まれ。六一年 ( 昭和三六年 ) = 一月に慶応大学経 の 済学部を卒業、住友商事に入社した。以後、退職までの一一六年間、エリ 1 ト商社マンとしての 人生を歩む。 生 最初はコンピューター関連部署や子会社出向を経て、本 車 歯 社スタッフ部門の効率化推進部へ移り、八三年 ( 昭和五八 道 章 弘年 ) 、情報産業開発室へ異動する。 七 第 大大村は情報産業開発室の室長代理として、充実した毎日 を送った。積極的に O<*> ( ケ 1 プルテレビ ) 用番組ソ フトの海外買い付けを行ったり、プロデューサーとして映
食品、繊維、貨包の一一一つの会社を経営し、ム昇五〇〇人の従業員を雇うなど、事まとし て大いに成功を収め、一家は裕促な生活を送っていた。 母親は里示生まれで、大会社の重役のお嬢さまとして育ったため、商家の環境には最後まで なじめなかった。彼女が衝撃を受けたのは、服部が最初に覚えた言葉が、夫の電話に出てくる 〃手形〃だったということだ。それだけに彼女は服部を、大学を出し、社会的にもステータスの 高い大会社のサラリーマンの道を歩ませようと、教育した。そのために中・高校は神奈川県の き一 名門、カトリック系の栄光学園に学ばせた。服部の成績は常に上位に入っており、得意な学科 て きは英語だった。 て服部はクリスチャンではないが、倫理の教師で神父でもある大木童次郎から大きな影響を受 やけた。「人間には運命がある」「神の意思が働いている」と教えられてきた。 と 「今でもはっきりと覚えていることがあります。先生が、箱の中に時計の部品を入れてカチャ なカチャ振る。そして『一〇〇万回振っても、時計はできませんね。ところが、野原や山を見な 好さい。これが偶然にできたと思いますか。必ず創造主がいるんです』と。そういう教えを六年 章間刷り込まれていると、運命を考えざるを得ない。やはり僕は独立する運命にあるのかなと」 第大学は慶応へ進み、友だちに誘われて自動車クラブに所属、スカイラインやムスタン グなどを乗り回し、ラリーや自動車レースに夢中になった。 健康を害していた父親は、服部に「後継者になれ」と一言も言わなかったし、母親もそれを こ こんぼう