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検索対象: 会社を辞めて成功した男たち
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1. 会社を辞めて成功した男たち

した安宅にこのままいても、将来の展望は切り開けない 森脇は人生の大きな転機を迎えた。 丸紅に転職、一躍スターオイルマンに 「丸紅でも大いに暴れてやるぞ ! 一九七四年 ( 昭和四九年 ) 四月一日朝。崩壊寸前の安宅産業から丸紅へ転職を決めたばかり さぬま の森脇は、気合を入れながら川崎市鷺沼の自宅から啝・大手町へ向かった。一一八歳のときで ある。 以来、森脇は丸紅・石油本部製品部製品第一課の課長補佐として実力を発揮した。製品第一 こうじん 課の石油輸入の取り扱い高は、大手総合商社の中で常に後塵を拝していた。森脇は、安宅産業 っちか 時代に培った国際的な人脈と独自の取引ノウハウで、四年間で取り扱い高を三万トンから五〇 万トンに押し上げた。 特に森脇が力を注いだのは、当時、需要が急増していたナフサ ( ガソリンと灯油の中間の粗 製ガソリン ) の取り扱いだった。 森脇は安宅産業を辞めるとき、セプン・メジャー ( 七大国際石油資本 ) のガルフォイルがイ ンドネシア産原油を原料にシンガポールの製油所で良質のナフサを生産するという貴重な情報 をつかんでいた。

2. 会社を辞めて成功した男たち

ビル、エクソンなど石油メジャーを回った。 そして、帰国途上、彼は一「三日、遊ぶつもりでロサンゼルスへ立ち寄った。 ところが ロス滞在中の森脇に、信じられない話が舞い込んできたのだ。 ロス支店長のところへ挨拶しに行くと、「キミに会わせたい人間がいる」と、いきなりある人 物を紹介された。アメリカで住友金属製の鋼管を扱う鉄鋼貿易会社を経営していたマ一一エル・ ロハスである。そのマニエル・ロハスがにわかに信じがたいことを口にした。 獄「私はインドネシアに鋼管を供給している。その関係でインドネシア国営石油プルタミナのゼ 国ネラル・スト 1 総裁とは親しい。キミにプルタミナの石油を売ってあげたいが、どうか」 飫当時、商社がで石油取引することなど、想像すらできなかった。石油の開発から販売ま のでを押さえていたメジャ 1 ( 国際石油資本 ) は、産油国との取引をも支配していたからである。 森脇は、「そんなことは不可能だ。オレをかついでいるな」と、心のなかでつぶやいた。 家 業マニエルは繰り返した。 「个ョの話だ。私の顧問弁護士は前カリフォルニア州知事のジョージ・プラウンだ。明朝、私 章 一の事務所へ来ればわかる」 プラウン前知事は、ニクソン大統領の次の州知事になった大物政治家である。 森脇が翌朝、マニエルを事務所に訪ねると、応接間に白人の初老の紳士が座っていた。彼は

3. 会社を辞めて成功した男たち

日本への輸入を開始すると、電力向けの重油として注文が殺到した。このため安宅はに エネルギー本部を新設した。 しかし、安宅のは長く続かず、わずか一一年間で終わる。マニエルがプルタミナのアメリ カ総代理店プルタオイルを起業し、プルタミナと独占契約したからだ。ストー総裁は後に社長 しようへい として招聘された。 それに、安宅自体も健全な取引ができなくなっていった。一九七三年 ( 昭和四八年 ) 初め、 国際詐欺事件に巻き込まれ、莫大な損失をこうむっていることが発覚したからだ。 「一九七一一年 ( 昭和四七年 ) 秋、僕は石油トレーダーから " カナダのシャヒーンが石油をたた き売りしている〃と聞いた。プロジェクトを推進していた安宅のニューヨーク支店は発覚を恐 国 れ、データを隠し続けていたんです。わかったときには、すでに六〇〇億円が焦げ付いていま のした」 安宅は石油商と称する詐欺師シャヒ 1 ンにすっかりだまされた格好となった。安宅は、 家 業 ( プリティッシュ・ベトロリアム ) からイラン原油を買い付け、カナダのニューファンドランド にある製油会社シャヒ 1 ン・ナチュラル・リソースに供給した。ところが開始して間もなくシ 章 レ」こお 一ャヒーンからの支払いが滞る。しかし、安宅は愚かにも、原油の引き取り権を確保していなか ったために焦げ付いた。 4 一 それが主因となって安宅は、一九七六年 ( 昭和五一年 ) に崩壊することになる。危機にひん ばくだい

4. 会社を辞めて成功した男たち

「おまえはそんなに偉いのか ! 」 連休明けの一九七九年 ( 昭和五四年 ) 一一月のある朝。石油第一部の部内ミーティングの席で、 森脇は自らが立案した『丸紅の世界戦略』の資料を全員に配り、「丸紅は世界を視野に入れた石 油戦略を始めなければならない」と持論を展開した。 ーー三菱商事、三井物産を抜くためには原油を確保する必要がある。それには現地へ人 を送り込み、現地政府やメジャーとのパイプを太くする工作をしなければならない。情報を石 油トレ 1 ダ 1 に依存していてはなど確保できない。 「とりあえず、四、五人を中近東へ派遣し、世界的なマ 1 ケティングをやらなきゃなりません。 ムスイランはホメイニの革命で大変だけど、そんなことは言っていられない」 すると突然、部長が「キミも行くんだな」と言って、厳しい口調で続けた。 「そんなら、全員行かなきや駄目だよ。キミも、イランへ行くべきだ」 森脇は一瞬耳を疑った。 ーー自分が行くと、ピッチャ 1 の球を受けるキャッチャ 1 役が日本にいなくなる。これでは 石油ビジネスは立ち行かない。部長は物資出身だからご存じないのだ。 森脇はそう一一 = ロった。 すると、部長は、「物資出身とはなんだ ! 」と、机をたたいて怒鳴った。 「部の人事を勝手に決めるな。おまえは、人事部長か ! 人事本部長か ! おまえはそんなに

5. 会社を辞めて成功した男たち

象情報で成長している気象情報会社である。 アース・ウェザーは、製油所や停泊中のタンカ 1 から事故で海上に流出した油の拡散状況を 予測する「流出油移流拡散予測システム」などの独自の気象情報システム技術を次々と開発し、 顧客に局地的な気象情報を提供している。その独自性から、数々の「べンチャ 1 賞」を受賞し ている森脇は、かっては日本初の原油を獲得するほど優秀な商社マンであった。 森脇が石油のを手掛けたのは、一九七一年 ( 昭和四六年 ) 一一月。安宅に入社して三年 目、一一六歳のときだった。 獄 地 森脇は、終戦直前の一九四五年 ( 昭和一一〇年 ) 七月、中国・南京で生まれ、北九州の戸畑市 国 ( 現北九州市戸畑区 ) で少年時代を過 ) 」す。六九年 ( 昭和四四年 ) 、西南学院大学外国語学部を卒 の 業し、安宅産業に入社。動機は「得意の英語を生かして世 ち 家 、一 ( ~ ~ 界に羽はたきたい」であった。 業 ( / ″ ( 中学・高校のときから英語が得意で、大学時代から海外 起 記亮 の仕事を熱望。幸運にも、その念願はかない、最初から国 章 脇 森際舞台で活躍できる原燃料部石油課に配属された。以来、 第 当時、安宅産業は鉄鋼、木材部門に強いカネ偏商社とし へん

6. 会社を辞めて成功した男たち

おろしさき 丸紅に入ると、いち早くガルフと交渉、日本へ輸入する権利を獲得した。卸先は日本石油だ った。丸紅にとってはメジャ 1 からの買い付けも、日本石油への卸も、いずれも初めてのこと であった。 当時、日石と取引のあった商社は三菱商事、三井物産、日商岩井、伊藤忠の四社であり、丸 紅は蚊帳の外に置かれていた。業界最大の日石への食い込みは、丸紅にとって長年の念願だっ のど た。一方、日石にとっても、当臟石油化宀 k 界全体が喉から手が出るほど欲しがっていたナ フサの卸は、願ってもない事業だった。 獄「僕はナフサの第一船を日本石油に卸し、年三〇万トン入れました。石油部門は業界最大の と美日本石油〃と取引しない限り大きくなれません。それだけに日本石油との取引は格段の効果 国 、がありました」 の 森脇の活躍によって、丸紅は石油の取り扱いで日商岩井を追い抜いた。彼は、一躍″スター ち オイルマン〃として業界の中で則をとどろかせた。 家 業森脇にとって、まさに天国のような日々が続いた。 それから三年。森脇の生活は一転する。部長と衝突し、突然、会社を辞めてしまうのだ。森 章 第脇が三三歳のときだった。 かや

7. 会社を辞めて成功した男たち

プラウン前知事の顔を知らなかった。 「まだ、半信半疑でした。しかし、あとで、ロス支店長に確認すると、マニエルの一一一一口うことは 本当だと言う」 森脇は大阪本社に国際電話をかけ、タンカー用船の準備を要請した。 翌日、森脇とマニエルはインドネシアへ飛んだ。 じゅったん 森脇はインドネシアに入ると、マニエル・ロハスと一緒に、真紅の絨毯が敷きつめられたプ ルタミナの総裁室に入った。マニエルが森脇をゼネラル・スト 1 総裁に紹介すると、総裁は笑 顔で森脇に手を差し出した。 「マイク ( 森脇の愛称 ) 、日本での販売をお願いする。細かい取引条件は部下と交渉してくれ」 その日の夜、ホテルでマニエル主催の、プルタミナの取引先を招待する「サンキュー ティー」が華やかに開かれたが、その会場で森脇は、プルタミナのウトモ石油部長とインドラ 課長を相手に重油の買い付け交渉を行った。 その結果、安宅は、年間五四万トンの重油をプルタミナから直接買い付けることになった。 日本最初の石油の登場である。 「当時は石油課の上司もみんな、その重要性がわからなかった。のすごさがわかったのは、 その半年後でした。日本石油や大協石油などが『インドネシアの石油を持っているんだって』 と聞いてくる。『直接もらった』と言っても信用されませんでしたから」

8. 会社を辞めて成功した男たち

偉いのかー ののし そうまで言われると、普段温厚な森脇も切れる。罵り合いがしばらく続いた後、最後にこう 断言した。 「わかってもらえないなら、会社を辞める ! 明日、辞表を持ってきます ! 森脇は、周囲の者が反対するいとまもなく翌日退職した。 さいな たかっき 以来、森脇は大阪府高槻市の妻の実家に引きこもり、不安と孤独感に苛まれる日々を送った。 そんなある日、森脇に思いもかけない人物から一本の電話がかかってきた。 獄「里示へ来て石油をやりなさいよ。面倒はできる範囲で見てあげる」という日本石油の知り合 国いからの電話だった。 森脇は、貿易会社でも始めようかどうか、と進路を決めかねていただけに、ありがたい話だ いくどうおん のった。胸躍らせながら上京すると、安宅・丸紅時代の知人たちは、みな異ロ同音に支援を約束 たしてくれた。彼らの温情に咸し、体の底からカがみなぎってくるのを感じた。家族を高槻市 業に残し、一人で川崎の自宅に移り住んだ。 仕事は、石油会社からナフサなどの商品を買い付けて総合商社などに卸す石油トレ 1 ダ 1 で 章 あった。 第 「最初、日本石油から六〇〇万円の手形をもらって、それを元手に示・赤坂にサンワ物産と いう会社をつくりました。家賃一一〇万円、五〇平方メートルの事務所に女性一人を雇って、事

9. 会社を辞めて成功した男たち

合商社から買った覚えはない」と言い始めたのだ。イトマンに流れた商品の総額は、森脇経由 の分を含めると一一一〇億円もの巨額に達していた。 そこで、各総合商社はイトマンを相手取り、損害賠償の訴訟に持ち込んだ。裁判ざたになれ ば、支払いは結審まで一切凍結される。結審は一〇年後だった。結局、イトマンは、各商社に 石油代金を支払うことを命じられた。その間、森脇は支払いを凍結されていた商社から一円も 入金がなかった。にもかかわらず、彼は期日どおり日本石油や出光興産などに代金を支払った。 ねんしゆっ 資金は全財産をなげうって捻出したのだ。 獄「僕の売った商品がどこの商社を経由してイトマンへ流れようが、本来僕には責任はない。だ とけど、これまでお世話になった石油会社の方々のためにも支払わなきゃいけないと思いまし た。僕が無一文から始め、儲けさせてもらったのも、その方々のお陰ですからね。恩人を裏切 の るわけにはいかない。もし、送金しなければ、その方々は責任をとらされて会社を辞めさせら ち させん れたり、左遷されたりしたことでしよう」 家 バブル経済が幸いした。所有していた豪邸やゴルフ会員権などの資産は、数倍もの値段で売 却できた。処理したおカネで総額九億円を石油会社に支払った。 章 森脇に残されたものは、安宅時代に購入した川崎市の自宅だけだった。森脇は再び浪人の身 第 くもん となり、家に閉じこもり、苦悶の日々を過ごすことになった。 そんな彼に手を差し伸べてくれたのは、安宅時代の同期であった。

10. 会社を辞めて成功した男たち

て知られていた。しかし、石油部門はわずか七人で、弱小だった。石油課は工場と船舶向けの 燃料 ( バンカーオイル ) を扱っていたが、森脇の担当はバンカーオイルだった。 森脇は、入社一年目から新規契約をどんどん獲得し、その結果、石油課の年間取扱高は五〇 万トンから一気に七〇万トンに増えた。 「僕は、最も多く燃料を消費する川崎汽船とジャパンラインの高速コンテナに目をつけたんで す。毎日両社に通い、契約を取った。安宅産業は十大商社の最下位でしたから、先輩たちはみ んな初めからあきらめていた。僕は、これじゃいけないと思ったんです」 森脇には成果を上げたごほうびとして、欧州出張のチャンスが与えられた。入社一一一年目の九 月、欧州出張に出かけたが、その活躍ぶりは目を見張るものがあった。約一カ月間、欧州一〇 カ国の船会社を回り、次々と新規契約を取った。その結果、課全体の扱い高は一気に一一倍に増 えた。 「当時、安宅は日本の船会社としか契約していなかった。僕は世界の船会社相手の商売をした かったんです。だから、欧州出張の前から、世界の船会社を徹底的に調査していたんです」 入社三年目にして大手柄 森脇は、〃できる新人〃として上司から一目置かれるようになった。一一カ月後、欧拓の報 酬として、ニュ 1 ョ 1 ク出張のチャンスが与えられた。現地の石油トレ 1 ダーと一緒に、モ 1