186 大学ニ年までは父親の言いなり 「親父は、自分が果たせなかったお家再興の夢を息子に託したんですね。『おまえは理科糸へ行 って、酒、ウイスキーをつくる技術を身につけろ』とよく言っていました」 すいた 一九五五年 ( 昭和三〇年 ) 夏、大阪府吹田市の杉尾家ーー 高校三年生の杉尾が受験勉強していると、背後から父親が、「伸太郎、大学はどこを狙っとる んや」と声をかけた。 「国立文科糸に入って弁護士にでもなろうかと思ってる」 「文科糸はあかん。これからは技術がものをいう時代なんや。理科ゃないと駄目やな」 せき そう一一一一口うと、病気がちで寝込む日が続いていた父親は咳をした。 「理科糸 ? 杉尾は一瞬ムッとした表情になったが、父親は構わず続けた。 「伸太郎、自分が果たせなかった杉尾家の再興をぜひ、やってほしいと思ってる」 反抗したい気持ちは山々だったが、常に父親の言いつけに従ってきた杉尾は、「はい」とうな ずくしか応えるすべがなかった。 その一言で彼は、酒づくりに関係のある農芸化学を目指して京都大学農学部に入学した その一七年後、杉尾が設立したプレック研究所の商標となっている鶏マークの図案は、かっ
ーーー大企業で働く学歴の高い人材ほど変化を好まない。それを彼は痛感した。 一九九一年 ( 平成三年 ) 五月、飯塚は、半導体の設計・製造を行うメ 1 カ—' ザインマイク ロシステム研究所を設立した。資本金の一一〇〇〇万円は、ゴルフ練習場の経営で稼いだ資金で まかなった。 設立当初は、特定顧客の注文どおりに半導体を設計する下請け業務が中心だった。 「初めて顧客を訪問し、ザインの技術力や自分の実績をいくら説明しても、なかなか信用して くれませんでした。東芝で部長職にあったが、辞めて独立したと一一一一口うと、荷か失敗したのか』 と聞かれるんです。これに対して、アメリカはもちろん、韓国や台湾でも、まず技術や実績の 話が優先されるんです」 最初、半導体の設計の注文をくれたのは、など外国企業数社で、日本企業は相手にして くれなかった。やがて日本の半導体メ 1 カーからも注文が来るようになり、受注件数の増加に ともなって社員を増やした。しかし、収益は一向に上がらなかった。 下請け業務だけでは立ち行かない。 飯塚は、九二年 ( 平成四年 ) 六月、韓国の財閥サムスン電子と合弁企業を設立し、受託開発 あ・ごかよういち を開始した。東芝時代から交流のあった三菱電機の赤坂洋一 ( 現アプライドマテリアルズジ ・リー ( 李潤雨 ) に会っ ャパン社長 ) の仲立ちで、サムスン電子の半導体部門の社長の・ た。彼は飯塚の技術力と経験を評価し、出資要請にすぐ応諾した。資本金一一一〇〇〇万円の出資
信するプロデュース会社をつくろう 近藤は、一九九八年 ( 平成一〇年 ) 三月、有限会社レゾナンス出版を設立した。メンバ 1 は 高畑と、講談社を退職した編集者の一一一人。 近藤は設立に当たり、今までにない新しい仕組みをつくり出そうと知恵を絞った。その結果、 「出版ファンド」という資金調達システムを導入した。アメリカでは映画業界のファンド設立は 一般的だが、出版界では初の試みだった。 出版ファンドとは、出版資金を募集して、売り上げに応じて利益を還一兀する仕組みで、彼は まず一〇件の事業会社や個人投資家から一口五〇〇万円の出版資金を調達することにした。 三年間で四冊の本を出版し、実売三万部で年一四・一一バーセントの利回り」という見通しを立 て、投資家から四〇〇〇万円の資金を集めた。 そのため投資家に、一冊のファンドにどれくらいコストをかけるのかという収支計画を開示 し、会計士を入れて財務の数字をチェックする。その財務会計の仕事が、のちに中小出版社へ の支援システムという新しい事業を生むことになる。 また、本の製作は、著者・編集・カメラマン・営業・デザイナ 1 らを一つのプロジェクトチ 1 ムにまとめ、それぞれと個人契約を結んで歩合制で報酬を払う方式を打ち出したり、宣伝も 本屋でタレントによるイベントを行い、それをインタ 1 ネットで同時中継するなどの「クロス メディア戦略」を展開したりした。
来性は大いにあるんです。〃人〃をポイントにしたビジネスほど夢があり、面白いものはないで すよ」 そう語ると、折ロの顔に笑みが広がった。 折ロは、一九九九年 ( 平成一一年 ) 七月、グッドウイル・グループを店頭公開させ、資本金 一〇〇〇万円で設立した会社を、四年五カ月で時価総額九三八億円の企業にした。現在、グル ープ事業を急速に拡大しつつあり、とりわけ中核事業となる在宅介護サ 1 ビスの子会社コムス ンに力を注いでいる。コムスンは、介護保険が導入された一一〇〇〇年 ( 平成一二年 ) 四月まで に、拠点を全国八〇〇カ所に設立し、各拠点にホームヘルバーの有資格者を一一〇〇人配置し、 ム昇一一万人体制を構築している。 もりわ * - まこと 羸亮 ( アース・ウェザー ) 出発点は商社の弱小石油部門 あたか 「実は、僕は安宅産業時代に、といわれる石油の産地直接取引をしたことがあるんです。 相手はインドネシア国営石油のプルタミナオイル。それも、当時のプルタミナの総裁と直接会 って、商談をまとめました」 こう打ち明けるのはア 1 ス・ウェザー社長の森脇亮 ( 五三歳 ) 。同社はムス特定範囲の局地気
2 ラ 2 近藤正純ロバート ( レゾナンス ) 出版界に新風を吹き込んだ男 「僕のビジネスは、アメリカへの留学体験がきっかけとなりました。好きなことにこだわって 生きているアメリカの人たちを見て、このままサラリ 1 マンを続けていていいものか、と思っ たんです」 そう語るのは、レゾナンス出版会長の近藤正純ロバート ( 三四歳 ) 。 設立以来、レゾナンス出版は、さまざまなメディアと連動させて派手なイベントを展開した 、「出版ファンド」を設立して投資家から資金を調達、また最近では中小出版社の経理事務、 流通の代行業務を行う「パプリッシャーズ・クラブ」を創設するなど、出版業界に旋風を巻き 起こしている。従業員は現在一五人。売り上げは一九九九年 ( 平成一一年 ) は約六億円。一一〇 〇〇年 ( 平成一一一年 ) には一五億円を見込んでいる。 創設者の近藤は、「出版界に新風を吹き込んだ当として注目されている。その近藤が、人生 の転機となったのは、アメリカ留学だという。アメリカでいったい何を見たのか 一九九四年 ( 平成六年 ) 一〇月。ニューヨーク州シラキュースの、あるレストラン。 「ところでロバート、おまえの将来の夢は何だ」 こんどうまさずみ
ある。結論は少し待ってくれないか」 その数カ月後、許可が得られた。グローバルインシュアランス設立一年半前のことだった 一九九六年 ( 平成八年 ) 四月、柳田はグローバルインシュアランスを設立。現在、同社は約 四〇社の代理店となっている。 四六歳の柳田は意気揚々と語る。 「各社の商品に精通した上で最適プランを組む。それがうちのノウハウになっています。将来 的には保険会社と同じくらいの規模になって複数の保険会社と交渉し、有利な料率を取ってお 客さんに販売していく保険、フローカー業務をメ 1 ンにしたいと思っています」 柳田は、一一〇〇〇年 ( 平成一一一年 ) 四月、多様な生損保の中から顧客に適した商品を提示す る新タイプの販売網の木を開始した。販売網に参茄する生保販売経験者や損保代理店を募集 し、同社の契約社員として採用、合計四三社の生損保商品を販売してもらう。契約社員は一一〇 〇一年 ( 平成一三年 ) 三月末に四〇人、一一〇〇一一年 ( 平成一四年 ) 三月末に八〇人に増やす計 画で、販売網全体で一一〇〇一一年三月期に一五億円の売り上げを見込んでいる。
も、需要が出てくると確信したんです」 帰国後、新ビジネスの開始を決意したものの、日本には業務用コーヒーメーカ 1 自体がなく、 ファーストフードの店でさえ輸入を使っていた。だが、それでは高すぎて採算が合わない。 そこで大久保は、機の独自開発を決意、数億円を投資して、業務用コーヒーミルなど〃コー ヒーメーカー〃一式を開発した。 る一九七七年 ( 昭和五二年 ) 、パイロットショップを開設してテスト・マ 1 ケティングを行い、 っ翌年にはフランチャイズチェ 1 ンを設立して、本格的に事業を開始した。 缶コーヒーよりもおいしくて、経済的な点が武器となって、顧安取扱店ともに着実に増え をていった。 ス ン ところが、売り上げが一〇億円を達成した四、五年後には、清涼飲料会社をはじめ自動販売 ャ ばいせん チ機運営会社、コ 1 ヒー豆の焙煎会社などが相次いで新規参入してきた。大久保は、戦々恐々と あんど ネしたが、むしろそれによって市場全体が拡大したことに安堵した。 一九八八年 ( 昭和六三年 ) には本場のアメリカに逆進出した。現地の同業一一〇社を買収して、 章支社を設立、〃ファースト・チョイスサービス〃のネ 1 ミングで事業を展開した。現在カリフォ 第ルニア州でのシェアは一位、全米でも三位という実績を上げている。 「これでやっと、長年の夢だった体八店頭公開を果たすことができたな : : : 」
344 業や、損保代理店がキャプテイプ機能をレンタルで使えるようにすれば、収益改善につながる。 それにキャプテイプ会社と機能が同じだから、世界の再保険マーケットにアクセスでき、海外 の安い再保険を自由に購入できる。時流にかなったビジネスだ , ーーと、新は思った。 九八年 ( 平成一〇年 ) 三月、新は二四年間勤めた三井海上を退職し、三カ月後にニューネッ トワ 1 ク・インシュアランスを設立した。資本金は、辞める直前に同僚たちに出資を呼びかけ、 一三〇人から三〇〇〇万円を集めた。その後、べンチャーキャピタル数社から資本調達が内定 した。 九九年 ( 平成一一年 ) 一月には住友商事と合弁で、「レンタキャプテイプ再保険会社」をバミ ューダに設立した。セミナーを月一「三回の割合で行う一方、顧客獲得の営業を展開。四年後 に店頭公開を果たす計画だ。 四九歳の新は、確信を持って語る。 「レンタキャプテイプを利用していただくと、欧米の規制のない自由な再保険マーケットにア クセスでき、取引信用保険、環境賠償責任保険など、日本では買えない商品が自由に買える。 また、同じの保険でも、日本よりも卸値で安く買えるんです。それでみなさん、非常に関 心を持ってセミナ 1 に集まっていらっしゃいます。これで日本の保険業界は大きく変わってい きますよ」 新は、一一〇〇〇年 ( 平成一二年 ) 四月、銀行、生保系を中心とするべンチャーキャピタル一
やがて、藤村は、テレビ映画の版権会社を軌道に乗せて、貿易部長とたもとを分かつ。 辞表を提出したその足で、藤村は荻原を訪ねた。彼は笑顔で歓迎してくれた。 「ようやくその気になったね。いつでも融資してあげるよ」 藤村は一九八六年 ( 昭和六一年 ) 一月、ギャガ・コミュニケ 1 ションズを設立。資本金は一 〇〇〇万円。荻原と折半出資の形態をとったが、彼の手元には一円もなく、五〇〇万円は荻原 から個人的に借り、毎月の給与からローンで返済していくことにした。事業資金は三億円と見 っ積もり、日本テープの保証により全額銀行からの融資でまかなった。 事務所は示・浜松町に開き、映画版権の輸入から始めた。 を買い付けは、一一月のアメリカン・フィルムマーケット、五月のカンヌ映画祭、一〇月のミラ ュニバーサル、世 ンノの映画版権見杢巾の三会場で行った。映画マ 1 ケットは、ディズニ 1 チ紀フォックスなどのメジャ 1 系と独立系の一一つに大別されるが、藤村は日本に子会社を持たな ネい独立系を狙った。最初、映画をビデオにするためのビデオ化権を買った。独立系の映画の版 ビ権を買い、それをビデオ会社に売り、ビデオ化するのである。 章最初の買い付けは、会社設立直後の八六年一一月。アメリカ西海岸、ロサンゼルスにほど近い 第サンタモニカで開かれたアメリカン・フィルムマーケットの会場は、世界中の映画会社のプー スが並び、入場者でごった返していた。 藤村は、空いている独立系のプースに片っ端から飛び込む。資金力のある松竹富士、東宝東
大繁盛の″医薬一体″か思わぬ挫折 一九八一一年 ( 昭和五七年 ) 、凛粫は、病院管理会社メディカル・ジャパンを設立し、病院経営 に乗り出した。三八歳のときだった。 医療機関への進出は、その一一年則と前年の「アメリカ病院視察ツアー」がヒントになった。 その際、彼は、全米各地の医療制度と薬局の実態を見て回った。アメリカでは、医者が経営す る病院よりも、体八会社が経営する病院のほうがはやっていた。いずれ日本にも体八会社の経 営する病院が出現し、医療法人に代わって主導権を握るだろうーーと彼は予想した。 帰国後早速、弁護士と打ち合わせをし、薬局「薬日査星ーの子会社として、病院を経営する 株式会社を設立した。表向きには院長を経営者に立てるが、実質経営は河端の手によった。 戦彼は " 医。と " 薬。が一体になって地域医療に貢献する、という理想を掲けて和漢薬の診療 の 者所を展開。一一年間で日本橋をはじめ八王子、自由が丘などに七つの診療所を開設し、漢方医学 営に強い医者も一一五人雇用した。 。まず、薬局に来た患者に、漢方は医療保険が適 薬局「薬日査呂と診療所との連携はーー 若 用できるからと診療所を紹介する。診察を受けた患者は院外証明書を持って薬局に来る。薬局 章 一一は処方せんに基づいて調剤し、さらに相談を受けるというもの。 この " 医・第一体化戦略はズバリ当たった。診療所、薬局とも大繁盛し、医薬業界の話題 こよっこ。