飯塚 - みる会図書館


検索対象: 会社を辞めて成功した男たち
22件見つかりました。

1. 会社を辞めて成功した男たち

302 ーー日本の優秀な技術者は大企業で窒息死してしまうか、外へ出て野垂れ死にするかしかな 彼らに生き方の選択肢を提供しなくてはならない。そのためにはまず、自らが朝となっ て、べンチャーで成功してみる必要がある、と飯塚は本気で考えた。 といっても、飯塚に起業成功の目算があったわけではない。ただ、子供のころから、「試練に は強いという自負はあった。 いなしき 飯塚は一九四七年 ( 昭和一三年 ) 四月、茨城県稲敷郡に三姉弟の長男として生まれた。父親 は、戦則は鉄道省に勤め、戦後は独立して川崎市で犠工場を経賞母親は土浦第一高校の教 師を務めていた。 子供のころの飯塚は、″ガキ大で、近所の子供を引き連れて野原を駆け回った。その一方、 モノづくりも好きで、よく模型飛行機や真空管のラジオなどをつくった。中でも熱中したのは マジックハンドづくり。小三のとき、見学に行った東海村の原子力発電所で、研究者がマジッ あやっ クハンドを使ってガラスの向こうのフラスコを巧妙に操る光景を目にし、いたく感激。家に帰 って早速、竹とゴムひもから成るマジックハンドづくりに挑戦し、一〇日間かけて完成させた。 快活な少年であった飯塚に、転機が訪れたのは、中学入学のときだった。 えっ 両親から、主浦の公立出子校のほうが教育水準は高い。そこへ住んで勉強しなさい」と、越 きよ、つ 境入学を強要されて、知り合いの家に預けられた。教育熱心だったのは、父親よりも、教員を から」 っ与つら

2. 会社を辞めて成功した男たち

3 12 この一言で、飯塚はハッと目が覚めた。 そうだ、オレはザインを創業したんだ。なぜ、創業したのか。 よみがえ すると、技術者が報われる会社をつくりたい、という創業時の熱い思いが蘇ってきた。 その翌日、飯塚は、売却話を丁重に断った その一年前の、飯塚による自社プランドのシステム ( 大規模集積回路 ) 開発の結果、 九七年 ( 平成九年 ) は二億円であった売り上げが、九八年 ( 平成一〇年 ) は七億円に拡大。グ ループ全体では約一〇〇億円となった。 飯塚は自信に満ちた表情で語る。 「できるだけ早期の体八公開を目指したいと思っています。日本人の持っ潜 ~ 北力はまだまだ 大きい。ないのは、〃夢とロマ / です。自由な環境で設計し、製品企画を立案し、工場管理、 販売など自ら立ち上げていく喜びを知るべきだと思いますね。その点、ザインには、大手メ 1 カーでは見られない〃夢とロマン〃があります」 大村弘道 ( 安全センター ) 会社が反対するなら自分でやればい 「僕がこの仕事をしているのは、母が亡くなったときの苦い思い出が強烈に残っているからで おおむらひろみち

3. 会社を辞めて成功した男たち

それなのに飯塚はなぜ、エリート街道を捨てたのか 転機が訪れたのは、八〇年 ( 昭和五五年 ) 一一一月のことだった。 飯塚は自ら考案、導入した技術者交換制度の第一号として、シリコンバレ 1 にあるヒューレ ットパッカード (=a«) に出向した。 に赴任して一〇日後、一緒に勉強し、情父換をし合っていた技術者、エドモンド・サ ンが突然、飯塚に言った。 「オレ、を辞めてべンチャーを始めるんだ」 自信に満ちた明るい表情だった。 粥飯塚が驚いたのは、独立起業するサンを送り出す歓送パーティ 1 でのの上司たちのスピ の 1 チだった。彼らはみんな、「失敗したらまたに戻ってこいよ」と、激励の一一一一口葉を贈ったの である。 生 人 日本では考えられないことだった。日本の大企業なら、 車 歯 独立する際には、一一度と会社の敷居をまたぐなよ、という 章 = 哲冷たい視線を浴びる。日米の価の差をまざまざと見せ 七 第 飯つけられた瞬間であった。 しかも、カリフォルニア大学で博士号を取得していたサ ンは、その後、画像圧縮関連の半導体フアプレス会社シー

4. 会社を辞めて成功した男たち

キュ 1 プなど、数社のべンチャ 1 企業を次々と起こし、成功させている。その活躍ぶりを目の しよくぼう 当たりにしてきた飯塚は、将来を嘱望されたエリートが自分の才覚で勝負するために会社を飛 び出し、成功する、その姿がうらやましくて仕方がなかった。 その一方でーー 日本の社会では、なぜ、アメリカのように技術者が自分で希望の職種を選べないのか。そん な不満が日に日に強くなっていく。 への一年間の出向で多くの国際人脈を得た飯塚は、帰国後も、起業へ挑戦するアメリカ へいそく の技術者と会うたびに、日本の閉塞状況を実感した。 そんな中で、飯塚が独立する直接のきっかけとなったのが、九〇年 ( 平成一一年 ) 春、東芝が シリコンバレ 1 のべンチャーと組んだ次世代半導体の共同開発を体験したときだった。 東芝は、 ZQO や日立など他の半導体メーカーと同じように、次々とシリコンバレーのべン チャ 1 企業に数千万円単位の資金をつぎ込み、同時に技術者も優秀な人材を選んで、送り込ん でいた。 八年 ( 昭和六三年 ) に部長になった飯塚も、直属の部下を派遣した。彼らは喜々として現 地へ乗り込む。 その結果、画期的な半導体の設計が実現し、べンチャー企業は三、四年で店頭公開する。 何かおかしい。

5. 会社を辞めて成功した男たち

在、同社は半導体の製造・販売で、売り上げ八十数億円の規模に達している。 「アメリカのある大手エレクトロニクスメーカーから、『ザインを売らないか』という話が持ち 込まれたときは迷いましたね」 九七年 ( 平成九年 ) の夏。飯塚のところに、アメリカの証券会社を通じて、米大手メーカー からザインを数十億円で買いたいという話が持ち込まれてきた。買収といっても、相手が欲し がっているのはザインの技術力。だから、従業員は全員そのまま引き継がれ、自分もオーナー ではなくなるが、経営者として残ることになるという。 粥その申し出に、飯塚は心を揺さぶられた。 の ーー数十億円あれば、創業以来の苦労も十分、報われる。決して悪い話ではない。売却する 生カ 車そう考える一方、せつかくここまで大きくした会社を手放すのは愚かなことだ、という気持 しゅんじゅん 歯 ちが頭をもたげ、飯塚の逡巡は続いた。 だんらん 章そんなある日曜の夜。家族団欒での夕食後、何気なく大学生の長男に胸の内を打ち明けた。 第普段はほとんど口をきかない長男がポツリと言った。 「ザインはお父さんがつくった会社なんだろう。だったら、お父さんの思うとおりにすればい いと思うよ」

6. 会社を辞めて成功した男たち

その後、思案に暮れる日々を送りながらも、起業への淮庸を々と進めていった。 機が熟した一〇年後、東芝を退職し、いよいよ独立することになる。 起業のために″副業開始 「実は、東芝の部長になったころから、副業としてゴルフ練習場を経営し、起業の準備を進め ていたんです」 飯塚が独立したのは一九九一年 ( 平成三年 ) 五月だが、その三年前に、すでに起業する淮庸 を進めていたというのだ。 粥への出向を終え、帰国して間もないころ、飯塚は、の人から茨城県内にある一万坪 の の土地を活用してくれないかと頼まれた。一瞬、彼の頭にひらめいたのは、起業のための準備 になる " 副第ということだった。彼は、知人に一〇年契約で土地を貸した。知人は、ゴルフ 車練習場を経営し、八九年 ( 平成元年 ) に返却した。 歯 飯塚は、ゴルフ練習場をリニューアルし、運営に乗り出した。バブル時期と重なったことも 章あり、ゴルフ練習場は大盛況となり、九〇年 ( 平成一一年 ) には売り上げ一億五〇〇〇万円に達 第した。 その利益を一兀手にべンチャーを起こそうと、何人かの東芝の同僚に呼びかけたが、みんな及 び腰だった。

7. 会社を辞めて成功した男たち

304 「あんたは自分の目的がわかっていない。今何をすることが正しいのか、よく考えなさい ! 」 彼女は、息子に勉強する習慣を身につけさせようと、説き聞かせた。 その夜、飯塚は母親と布団を並べて寝た。このときほど、母親の愛情に包まれている自分を 幸せだと思ったことはなかった。 ーー土浦の連中に負けてなるものか。 飯塚は、雑念を払って勉強に打ち込んだ。すると、成績は中一の後半からクラストップにな り、中一一になると学年でトップに躍り出る。他の生徒から、注目され、尊敬の念を抱かれるよ うになると、本米の自分のペースを取り戻した。 っちか この中学時代に、すべて自分で判断する習慣が身につき、強い綿力が培われたのである。 ジャンケンに負けて大学院へ 一九六三年 ( 昭和三八年 ) 、土浦第一高校に越境入学した飯塚は、どの学科も局点を獲得し ていたが、ことのほか物理が好きだった。物理部を創設し、オシロスコ 1 プなどをつくったり おうか して、学園生活を謳歌した。 「電気を肌で感じる世代です。真空管ですから一五〇ポルトぐらいの電圧で、触るとずきんと くる。だから電気というものはビリビリするものだと。今は三ポルト、五ポルトで動かしてい るから肌で感じませんが」

8. 会社を辞めて成功した男たち

3 10 請けを行う受託開発会社に比べると、売り上げ、利益とも格段の差がある。 飯塚は、ザインエレクトロニクスを″フアプレスメーカー化〃するために、まず台湾への進 出を考えた。台湾には ( 台湾セミコンダクター・マニファクチャリング ) など半導体 受託製造工場がたくさんあり、アメリカのフアプレスメーカーのほとんどは台湾へ進出してい た。フアプレスメーカ 1 になるためには、台湾とのパイプの構築が絶対必要だと考えた。 「九三年 ( 平成五年 ) 当時は、台湾のが頭角を現してきた時期で、僕はその時点で日 本にもフアプレスメーカーの時代が必ず来ると予感していました。シリコンバレーのべンチャ 1 企業は、ほとんどがフアプレスメーカーですからね」 飯塚は九一一一年から、いろいろなってを頼って台湾の受託製造工場を訪問してきたものの、「今 後五年間の受託製造料を前金で一括払いしてください」と法外な条件を突きつけられるだけで 相手にされなかった。 何とかせねば。 思いどおりにいかず、業を煮やしていた折、″救世主〃が現れた。ザインを立ち上げた際、事 務所を提供してくれた茨城県土浦市で不動産業を経営する友人が、台湾屈指の財閥、光友グル ープのオ 1 ナ 1 を紹介してくれたのだ。友人は土浦と台北の両ライオンズクラブの交流会で、 光友グループのオーナーと旧知の仲だった。 話はまとまり、九五年 ( 平成七年 ) 、飯塚は光友グループと共同出資で台湾ザインを設立。現

9. 会社を辞めて成功した男たち

298 いいづかてつや 飯塚哲哉 ( ザインエレクトロニクス ) 会社を辞めるⅡ落伍者か ? 「アメリカの技術者は伸び伸びとやっているのに、日本の技術者には選択肢が少ない。ずっと らくごしやらくいん サラリーマンでいるか、会社を辞めて落伍者の烙印を押されるか。情けないですね」 こうるのは、、 サインエレクトロニクス社長の飯塚哲哉 ( 五二歳 ) だ。 同社は現在、液晶用 ( 大規模集積回路 ) で独走する半導体べンチャー企業。自社プラ ンドの半導体チップを月一〇〇万個生産するフアプレス ( 工場を持たない ) メ 1 カーで、台湾 にも進当売り上げは、ザイン・グル 1 プ全体で約一〇〇億円、日本で一五億円。従業員は日 本一三人、台湾一一五人である。 飯塚は、一九七五年 ( 昭和五〇年 ) に示大学大学院工学系研究科 ( 電子工学 ) を修了し、 東芝に入社。以後、九一年 ( 平成三年 ) に独立してザインマイクロシステム研究所を設立する まで、一六年間、東芝でエリ 1 ト技術者として半導体の研究開発に取り組んできた。大学院で 工学博士号を取得し、八八年 ( 昭和六三年 ) には四一歳の若さで坐・導体技術研究所第一一 開発部長まで登り詰めた。 「役員就任はまず間違いなし」と社内外で言われた逸材だった。 いっざい

10. 会社を辞めて成功した男たち

比率は、サムスン電子九五パーセント、ザインマイクロシステム研究所五パーセントだった。 受託開発は、製吐呂理問題も、販売のことも考える必要がなく、開発に譱できるために、 経営効率が高かった。しかし、自分の描いていたフアプレス ( 工場を持たない ) メーカーとは ほど遠かった。そこで、飯塚は、思い切って合弁会社ザインエレクトロニクスの株を全部取得 し、ム只廾会社が親会社ザインマイクロシステム研究所の株を全部取得、親子関係を逆にした。 母親は、苦労する飯塚の姿を見て、しばしば「大学の教員になったらいいのに」と漏らした。 母親にすれば、中小企業を経営し、倒産の憂き目にあった父親の一一の舞いだけはさせたくない という思いかあった。 粥そんな折も坂東京大学から、「正教授にならないか」という話が舞い込んできた。九三年 の ( 平成五年 ) のことだ。国立大学の教官は、国家公務員であるから、ザインの経営は他に譲らな と きよっぺん ければならない。しかし、客員教授なら問題はないと一時期、教鞭をとった。母親は、「中小企 車業の経営者よりも尺大学の教員のほうがいい」と喜んだ 歯 章大手メーカーにはないな夢とロマン″ 第そんな母親の気持ちをよそに、飯塚は一九九五年 ( 平成七年 ) 、ザインエレクトロニクスを半 導体の受託開発会社から自社プランドの製品を供給するフアプレスメーカーへと脱皮させ、長 年追っかけていた″夢〃を実現した。フアプレスメーカ 1 は、メ 1 カーそのもので、設計の下