に対してことさら敵対的な言動を多発するようになってきている。その深層心理に かのとい しん力い 1 1 -1 年、辛亥の年に中国で起こった民主主義革命で、翌肥年に「中 「辛亥革命」 ( 華民国」が成立した ) 誘発の引き金となった「義和団ーの戦略が無意識に投影されて いるからであろ、つ ただでさえ相次ぐ干魃や洪水のため疲弊しきっているのに、阿片戦争や日清戦争の 黠大敗北のため、外国に支払わなければならない莫大な賠償金の重荷がすべて民衆の肩 に転嫁されてくるのだから、たまったものではない。しかも、外国資本の儲けは本国 A 」 に持っていかれ、中国自身の産業振興には全く投資されないから、失業者の数は増え 蜂るばかり。 農「諸悪の根源は外国だ ! 」 といった巧みな責任転嫁のアジテーション ( 政治的扇動 ) が、中国人一流の「中華 る思想」と相まって人々の心を強く揺り動かし、義和団の勢力はみるみる膨れ上がって 恐 いく一方であった。 章 1899 年に初めて「扶清滅洋」の旗印を押し立てて山東の運河地帯に進出した義 第 どとう 和団は、 1900 年代が明けるや、怒濤のように天津と北京をめざして突き進み始め た。なぜなら、それらの大都会には、西洋文明の進出のため職を失ってしまった運 7 ・
志で、 1940 年の長征のときにも万難を排して延安まで行を共にしました。そして、 母の徳鴻も学生時代から共産党のために熱心に働き、 1951 年には正式な党員資格 を取得したほどです。要するに、毛沢東の主唱する中国式の社会主義革命運動を心か ら信奉し、粉骨砕身頑張っていたのです。 私が生まれたのは 19 5 2 年のことですが、その翌年には党の命令で四川省の省 都・成都に一家で移り、四川省宣伝部副部長という高い肩書を与えられた父の下で、 何不自由なく暮らしていました。 ところが、母が成都の東城区の宣伝部長に抜擢されたのをきっかけに、仲間の激し 志 い妬みを受けるようになり、折から始まった「隠蔵反革命分子摘発運動。の密告奨励 のため全く身に覚えのないレッテルを貼られて、隔離施設に入れられてしまいました。 民 今にして思えば、既にこの頃から毛沢東の率いる共産党の一党独裁体制はおかしな 方向に歪められ暴走しはじめていたのです。しかし、あくまでも社会主義革命の大理 想を信じて疑わない父は、 1956 年から始まった「百花斉放」政策や年の「大躍 章 進ー運動などにも心から賛同し、「人民公社ーの創設と発展に全力を傾注しました。 第 ところが、結果は大失敗で、農村は荒廃し、天候異変もないのに大飢饉が続き、中国 人民は以前よりももっと酷く惨めな飢えに苦しむようになりました。あまりのことに、 ねた トー・ホン チョンツ
半年たらず後に「建国浦周年記念」の一大ページェントを繰り広げ、それを強力な テコとして、ややもすれば緩みがちになる「一枚岩の団結」体制を一挙に確立、『新 憲法』の規定ではいちおう「西暦 2003 年まで」とされている自分の任期 ( 5 年間 ) もくろ をさらに延長しようと目論んでいた江沢民は、激怒した。 かしゅんおう きょえいやく 公安相の賈春旺や、国家安全相の許永躍らを呼びつけて、徹底的に原因を究明させ てみたところ、さらに驚くべき情報が次から次へと明るみに出てきて、なおのこと顔 が蒼ざめてゆく一方であった。すなわち、法輪功のメンバ。 ( ーこよ共産党や人民軍の幹 部たちも沢山含まれており、ロ 門題の「中南海座り込みデモーの際の代表者 3 人のうち の 2 人までが現役および退役の体制側指導者だった、というのである。 ワン・チウエン (Wang Zhiwen) : : : 鉄道省元幹部 ワン・ユウクアン (Wang Youqun) ・ : ・ : 監察省幹部 朱鎔基首相がああまで簡単に面会に応じたのも、以上のような政府内部の人間が混 じっていたからだ、というのだ。しかも、公安当局の調査によれば、法輪功の創始者 りこうし マスター で弟子たちから「師」と呼ばれて畏敬されている李洪志という人物は、既に捜査の手 が全く及ばないアメリカに移住しており、彼自身の口から、 「中国本土だけでも 1 億人近い弟子がおり、中には共産党や軍・政府の内部にも懸命
「革命第三世代ー ( ポスト鄧小平時代 ) の新政権を大いに動揺させていた。たとえば、 おうしん 1991 年 3 月に、鄧体制の副主席王震が発表した『農村における封建勢力の挑戦』 と題する談話の中には、次のような注目すべき報告が入っている 「全国の農村において、共産党の権威が失墜し、宗教団体への加入希望者が急増して かんたん いる。たとえば、河北省の邯鄲県では、 1990 年における共産党加入者がわずか 2 70 名であったのに対して、天主教 ( キリスト教 ) 徒となった者は 813 名にものば 欺っている」 皮肉なことに、中国人民の革命政権に対する関心を引き戻そうとして「改革開放、 壮 政策に力を入れている姿勢を誇示したのに、かえって人心は共産党一党独裁政権から 主急激に離れて行き、李洪志が主宰する「法輪功ーに象徴されるような精神的な修煉団 と、つと、つ 救体や様々の宗教結社、秘密結社のたぐいに滔々と吸い寄せられていき始めたのである。 の 国 当然、李洪志に対する政府当局の疑心暗鬼や抑圧も強くなり、 1993 年には政府 救 公認の「気功師免許」も没収・取り消しとなった。こうした社会主義中国の内情をよ 章 く知らない外国のメディアや人権擁護団体、民主化推進組織の人々は、あたかも 19 第 99 年 4 月の「法輪功の中南海座り込みデモー事件が初めて政府を刺激して弾圧の方 向に踏み切らせたかのように思っている。しかし、江沢民政権の抑圧政策は、それよ