〈 5 〉世界に広がる「華僑」の巨大ネットワーク みル、 - しム、つ いまや海外在留の中国系民族、すなわち「華僑」 ( 海外の華人社会 ) は、「社会主義 的資本主義ー ( 中国型の特殊の市場経済 ) をめざす中華人民共和国にとっては、最も 頼りになる外資導入政策の依存先である。 る しかしながら、自由主義と民主主義こそ資本主義の最も重要な基本であるというこ て っ とを骨身に沁みて知り尽くしている華僑たちは、鄧小平から江沢民に至る北京政府の、 黙 剃「経済体制だけはやむを得す資本主義化するが、政治体制そのものは永久に社会主 義・共産主義の大原則を変えないー 億 という御都合主義を心底から軽蔑している。要するに、「そんなことが一体いつま p' で続くと思っているのか」と、全く信用してはいないのだ。 し だからこそ、「お布施など一切いらない」と豪語する李洪志の下には、どこからと 果 もなく莫大な寄付金が暗黙裡に流れ込んでくるのだ。ましてや、今度の事件を通じて、 章 「法輪功のような穏健な非政治的団体にまで抑圧の手を伸ばしてくるようでは、いっ 第 何どき我々海外の投資家の資産を没収したり弾圧を仕掛けてくるかわかったものでは
「かくなる上は、 1989 年の天安門事件よりも大規模な一大デモンストレーション 行動に打って出よう ! 」 とする空気が澎湃と起こり始めた。 こうなると、江沢民としても「もはや一歩も後によーナよ、 ( リしオしーという追い詰められ た気分に追い込まれる。そして、激しい大弾圧を加える不退転の決意を固め、公安・ 警察・軍などの諜報当局にかねてから徹底的な事前調査を命じておいた詳細な情報を る もとに、全国一斉の強制捜査に踏み切り、各地の法輪功信者とその共鳴者たちを数千 人・数万人単位で逮捕・拘引し始めた。折から異常な猛暑に見舞われていた中国であ 聞るが、後ろ手錠をかけられた「李洪志の弟子たち、が次々と送り込まれたのは屋根も 書ない屋外競技場などであった。。 シリジリと照りつける烈日のもとで、水も食べ物も与 えられず、便所にさえも行かせてもらえないという拷問同様の劣悪な環境の中で、 の 代タバタと倒れていくものが後を絶たなかった。 そればかりではない。あくまでも「元凶は李洪志だ ! 」と目の敵にしてやまない江 章 沢民は、インターポール ( 国際刑事警察機構 ) に対して指名手配を要求する一方、折 第 しもベオグラードの中国大使館に対する米軍の誤爆事件などで最悪の外交関係にあっ たアメリカに対しても、
た、という。これに関して、李洪志自身は、あくまでも、 「法輪功は組織体ではないから、私から直接みんなに指令を発するなどということは 断じてない と、頑強に関与を否定し続けている。しかし、共産党や人民軍の内部粛清が始まっ て以来、中国全土で数千人もしくは数万人単位の抗議行動が一斉に開始された、とい う厳然たる事実を重視した政府当局は、 「李洪志こそ諸悪の根源であり、彼の命令一下、一斉に″叛乱〃に立ち上がった法輪 る 功は迷信と邪教を広めるカルト教団以外の何者でもなく、このまま放置しておけば社 聞会秩序が著しく損なわれ、国家の安定が破壊されるー 坑 と断定、さらに以下のように取り締まりを強化し始めた。 書 代①みんなで集まって気功を修煉したり、法輪功を広める活動を一切厳禁する。 ②法輪功のメノヾ 、ノーによる座り込みや上訴、集会、デモ行進などを一切厳禁する。 章 ③共産党員が法輪功の修煉をすることを一切厳禁する。 第 ④各地の共産党支部は、党員に対する「科学的無神論」の教育を一層強化する。 ⑤政府関係機関や国有企業の職員が法輪功の修煉や集会を行うことを一切厳禁し、
鷲系結社である「慈恵堂」は、 1990 年に中国本土に進出しようと図ったが、公安 当局に阻止されたため、その後はもつばらアングラ活動で潜行しているという また、キリスト教も、文化大革命以来様々な迫害を受けてきたが、最近では、ロー マ・カトリック教会の指令を受けた「忠貞教会」と呼ばれる秘密結社が公安当局の目 かを巧みにかいくぐって活発な地下布教活動を繰り広げている ちなみに、この秘密結社は、天安門事件の主要リーダーの一人であった王丹の黒幕 て っ であったとも言われている。 黙 剃そして、宗教結社ばかりではなく、藁にもすがる思いの中国人民の願いを巧みに利 用して、「黒社会」とか「幇会」「聯会」などという暴力団まがいの中国マフィア組織 億 の暗躍もものすごく、生活に追われた貧農や失業者たちを日本や香港、マカオ、フィ p' リピン、タイ、オーストラリアなどに密出国させ、莫大な手数料を巻き上げるという ケースが激増している。原則は前払いであるが、最近では相手国に入国して闇労働で 果 稼ぎはじめてからという「麦ム、 彳才しー制もできており、約束を守らなかったものは遠慮 章 会釈なく惨殺するという凄まじさである 第 それもこれも、共産党政治の失敗が民衆にしわ寄せされた結果であるが、今後、大 弾圧のため「法輪功ーを断念せざるを得なくなった人々が大量にこれらの秘密結社や おうたん
っ一 っていた。 もちろん、毛沢東もそのような空気を敏感に察知して、懸命に対抗手段を講じた。 中でも、長年の革命闘争を通じて、直感的に「最も大切なこと」と認識していたのは、 「必ず″軍〃を味方につけておく」 という一点であった。そこで、自分が手塩にかけて育て上げてきた「人民解放軍」 りんびよう の実質的な指揮権を掌握している林彪将軍を副主席の座に就けるとともに、「彼こそ ポスト毛の正当なる権力継承者である」ということを事あるごとに示唆するようにな っていった。 しかし、問題の「大躍進」政策の失敗はいかんともし難く、 1959 年の夏、毛沢 りようしようき 東は遂に国家主席の座を宿命的なライバルともいうべき劉少奇副主席に譲って、首 都・北京から脱出、上海の野に下らざるを得なくなった。 当時、上海には依然として毛沢東神話を信奉する熱烈な支持者が沢山たむろしてい た。そして、 1965 年Ⅱ月、遂に「プロレタリア文化大革命」の狼煙は上げられた。 ようぶんげん まず、上海市の共産党委員会書記で若き文芸批評家としても有名であった姚文元が、 北京の実権派のイデオローグとして名高い歴史学者の呉晗に対する徹底的な批判論文 こうせいちょうしゅんきよう を発表した。そして、これに続いて間髪を入れず、江青や張春橋ら、上海に本拠をお シャンハイ のろし
234 年、武漢で開かれた「 8 ・ 7 緊急会議ーに出席。四年に広西省の「百色蜂 起」を指導し、「紅軍ーの第 7 軍政治委員となる。そして、 1933 年、当時まだ革 命軍の反主流派にしか過ぎなかった毛沢東を支持、そのため一時、失脚の憂き目を見 た。これが、第一回目の挫折である しかし、翌 1934 年には、第 1 軍団の政治部員として、有名な「長征ーに参加、 1935 年に開かれた歴史的な「遵義会議ーに出席して、再び毛沢東を支持した。 ・結局、これを機に、毛沢東が革命軍の主導権を握るに至り、 1893 年生まれの毛 沢東よりⅡ歳年下の鄧小平も、着実に出世階段を登り始めた。 そして、 1949 年川月 1 日の「中華人民共和国」の成立とともに、「人民政府委員」 となり、年には早くも「副首相」の座に就いた。 1953 年、毛沢東の「五か年計 画」がスタートすると同時に「財政相」となり、浦年に「反党分子」と名指しされた こ、つこ、つ 高崗を追放するうえで大いに功績があったという理由で「政治局員ーに抜擢された。 1956 年、中国共産党のナンバーワンである「総書記」に就任、前途洋々のように 見えた。 ところが、 1961 年からの経済調整の際、毛沢東の「大躍進」政策に批判的な劉 少奇の市場重視政策を支持したため、保守派から睨まれることとなり、 1966 年か
半年たらず後に「建国浦周年記念」の一大ページェントを繰り広げ、それを強力な テコとして、ややもすれば緩みがちになる「一枚岩の団結」体制を一挙に確立、『新 憲法』の規定ではいちおう「西暦 2003 年まで」とされている自分の任期 ( 5 年間 ) もくろ をさらに延長しようと目論んでいた江沢民は、激怒した。 かしゅんおう きょえいやく 公安相の賈春旺や、国家安全相の許永躍らを呼びつけて、徹底的に原因を究明させ てみたところ、さらに驚くべき情報が次から次へと明るみに出てきて、なおのこと顔 が蒼ざめてゆく一方であった。すなわち、法輪功のメンバ。 ( ーこよ共産党や人民軍の幹 部たちも沢山含まれており、ロ 門題の「中南海座り込みデモーの際の代表者 3 人のうち の 2 人までが現役および退役の体制側指導者だった、というのである。 ワン・チウエン (Wang Zhiwen) : : : 鉄道省元幹部 ワン・ユウクアン (Wang Youqun) ・ : ・ : 監察省幹部 朱鎔基首相がああまで簡単に面会に応じたのも、以上のような政府内部の人間が混 じっていたからだ、というのだ。しかも、公安当局の調査によれば、法輪功の創始者 りこうし マスター で弟子たちから「師」と呼ばれて畏敬されている李洪志という人物は、既に捜査の手 が全く及ばないアメリカに移住しており、彼自身の口から、 「中国本土だけでも 1 億人近い弟子がおり、中には共産党や軍・政府の内部にも懸命
「革命第三世代ー ( ポスト鄧小平時代 ) の新政権を大いに動揺させていた。たとえば、 おうしん 1991 年 3 月に、鄧体制の副主席王震が発表した『農村における封建勢力の挑戦』 と題する談話の中には、次のような注目すべき報告が入っている 「全国の農村において、共産党の権威が失墜し、宗教団体への加入希望者が急増して かんたん いる。たとえば、河北省の邯鄲県では、 1990 年における共産党加入者がわずか 2 70 名であったのに対して、天主教 ( キリスト教 ) 徒となった者は 813 名にものば 欺っている」 皮肉なことに、中国人民の革命政権に対する関心を引き戻そうとして「改革開放、 壮 政策に力を入れている姿勢を誇示したのに、かえって人心は共産党一党独裁政権から 主急激に離れて行き、李洪志が主宰する「法輪功ーに象徴されるような精神的な修煉団 と、つと、つ 救体や様々の宗教結社、秘密結社のたぐいに滔々と吸い寄せられていき始めたのである。 の 国 当然、李洪志に対する政府当局の疑心暗鬼や抑圧も強くなり、 1993 年には政府 救 公認の「気功師免許」も没収・取り消しとなった。こうした社会主義中国の内情をよ 章 く知らない外国のメディアや人権擁護団体、民主化推進組織の人々は、あたかも 19 第 99 年 4 月の「法輪功の中南海座り込みデモー事件が初めて政府を刺激して弾圧の方 向に踏み切らせたかのように思っている。しかし、江沢民政権の抑圧政策は、それよ