座ったまま手も足も動かさないで何でもできる、宇宙の各空間の本当の理が見え、 常人の見えないものが見えてくるなどがその一例であるが、このような功能を身に付 けた者を「大覚者ーという。 古代インドの言葉では、「覚者ーのことを「フォートウオ」というが、これを中国 ふつだ 語では「佛陀」と表記した。すなわち、覚者とは「佛ーそのものになりきった人のこ とであり、「気功」は本来そのためにあるのだ。 ワ 修煉のニつの次元 しゆっせけんほう キ本当の修煉は、「世間法修煉」と「出世間法修煉ーの二つの次元よりなる。これは、 の 人体修煉における二つの主な次元で起こる変化のことである。 法 大 まず第 1 番目の「世間法修煉ーの次元であるが、これは「常人」レベルからの昇華 琺をめざすもので、修煉を重ねるものの身体は絶えず浄化され続けていき、世間法の最 高形式に達すると、身体全体が完全に「高エネルギ 1 物質ーに取って代わられる。 章 そして第 2 番目の「出世間法修煉ーの次元に移ると、本質的に「佛体ーの修煉とな 第 り、身体は既に高エネルギー物質に取って代わられているので、煉功者はさらに大き な「功能」 ( 超能力 ) を現すようになってくる ことわり
116 2 宇宙 字宙は、「真ー「善ー「忍」という最高の特性 (Characteristic of the Universe) を持 っており、本源的に善良なものである。 3 人間 人間も、生まれたときは一個の生命体として「字宙」と同じ特性を持っており、無 垢の状況下では本質的に善良な存在であったはずだ。しかし、生命体の数が多くなり、 その集団に社会的な関係ができると、その成員の中の一部の人々が次第に利己的な性 向を強めていくようになり、必然的に本来の高い次元 ( 字宙次元 ) にとどまっていら れなくなり、どんどん低い次元に墜ちていってしまう。 そして、このようにして下へ下へと墜ち行った結果が、「常人」すなわち「修煉し ない普通の人ーからなる現実の人類社会なのだ。 4 人類社会 現存の人類社会 ( 常人社会Ⅱ ordinary human society) は、生来善そのものであっ たはずの人間が、その社会的しがらみや利己心、執着心などのためどんどん低い次元
138 しやっこう 借功 (Energy Borrowing) 修煉したいと思ったものが、最も素晴らしい師を探し求め「功を借りる」ことを 「借功 , と言う。そのためには心性が特に高くなければならないが、「借功ーさえでき れば、その功には「功能」もついていることが多いから、非常に早く高い次元に昇る ことが可能となる。 3 宇宙語 (Cosmic Language) 人間の思惟が外来の霊体に支配されて、突如わけのわからない言葉をベラベラしゃ べり出すことがあるが、これを「宇宙語」という。字宙語は、功能でも何でもなく、 修煉者の次元のものではないのだから、万物の霊長である人間は、そのようなものに 思う人が多い。しかし、その人の徳が高ければ、李洪志師は、かなり高いレベルから いきなり修煉を始められるようにしてあげることもできる。これを「返修」というが、 あくまでも心性の高さが要求されていることを忘れてはならない。重ねて言う。この ような高次元のモメントを与えられる気功師は、この世には李洪志師一人しかいない、
182 発しているだけあって、実に高い心性を求めていると思うからです。しかし、 あくまでも、それらはより高い次元の″宇宙の特性〃に照らし合わせてみれば、 そのごく一部を扱っているに過ぎません。 私の法輪功は、もっともっと広いすべての次元の宇宙の真理に迫ろうとする ものですから、わざわざ「佛法」という言葉を用いています。すなわち、狭義 の「宗教」としての「仏教ーなどと較べるとはるかに広大で深遠な「字宙の最 しんし 高基準 , ( 真・善・忍 ) をめざして真摯に修煉を積み重ね、より高い次元に昇 華して行こう、というものなのです。 ところが、北京政府は、あなたが「釈迦牟尼と同じ日 ( 4 月 8 日 ) に生まれた」 かいざん などと、生年月日を改竄してまで自分のことを神秘化して人民を惑わしていると 言って、さかんに非難中傷していますよ。 李洪志実に卑劣なやりかたです ! 確かに、私は後になって「 1954 年生まれ」 から「 1951 年生まれ」に書き換えたことはあります。しかし、社会主義中 国が誕生して間もないあの頃 ( 1950 年代 ) は、何もかもが混乱していて、 戸籍の記載ひとつにしても間違いだらけのことが多かったのです。また、文化
に堕落して行き、その最低のレベルに置かれているのだ。本来ならば、このような社 会は当然消滅させられて然るべきものである。しかし、大覚者たちがその慈悲心によ り、もう一度だけ「より高い次元」に立ち戻る機会を与えたため、滅亡寸前ではある が、辛うじて生き延びているという、今日の極めて特殊な環境と空間を維持すること が許されているのだ。 へんぽんきしん 5 返本帰真 (return to his original true self ) 堕落しきった現存の人類社会に生きている生命体、すなわち普通の人間 ( 常人 ) に ワ ごう はより高次な宇宙の生命体が見えず、また字宙の真相も見えないので、さまざまの業 キ の や病にとりつかれて悩み苦しんでいるのだ。したがって、病気の快復や災難の回避、 た業力の消去などを願うものは、すべて「返本帰真」すなわち宇宙次元への回帰と真・ 触善・忍という最高の真理を求めて、ひたすら修煉を積まねばならないのだ。「常人 . という最低のレベルから抜け出してより高い次元に昇華しようとひたすら努力し精進 章 すること、それ以外に「返本帰真ーの道はなく、それこそが『法輪大法』のいう本当 第 の「修煉、なのである。 ごうりき
会で勝手に功能を使わせないためである。常人社会の秩序を破壊させないためである 四功カ (Gongli " energy potency) 修煉を積む ( 功を煉る ) ことによって獲得される新しいカ、すなわち「次元を向上 させる功ーのことを「功カーという。 「次元が高まる」っまり「功カーが高まることによって、「天目」を開いたり、「遠隔 透視」や「宿命通」など、様々の「功能ーが身につく。 がんしん キ一兀神 (Yuanshen Ⅱ the true s 三ュ ( ) すべての人間に備わっている根源的な本性で、一般には「意識」と呼ばれている た元神には、「主元神ー ( 主意識 ) と「副元神ー ( 副意識 ) の二つがある。人によっては 触「副元神ーを二つも三つも持っている場合があり、中には五つも持っている人もいる。 人間の「副元神」は、多くの場合、「主元神ーより次元が高く、特にある一部の者 の副元神は、非常に高いところから来ている。「副元神」は、人間の誕生と同時に母 胎から生まれ、人間の身体の一部を成している 普段、何かを考えたり、何かをするときは、「主元神ーの一存で決定される てんもく
146 大法 ) や道家が説いた道、修煉過程において自分が出会った苦難などを理解できるか どうか、また受け入れられるかどうか、自分が「修煉者ーであるということを悟れる かどうか、修煉過程においてこの法 ( 法輪大法 ) に従って実行できるかどうか、とい うことである。そして、そのような高い心性を「性と呼ぶ。 人間の「悟性」とは、修煉過程において出現するあらゆる次元、または李洪志師が 説いた特定のものや特定の法に対する、人々の理解の程度をいう。さらに根本的な 「悟」とは、命ある限り、修煉の最初から絶えず上へ昇華し、絶えす人間の執着心や 欲望をなくし、絶えす功を伸ばし、修煉の最後の一歩まで真っ直ぐに突き進むことで ある。 「徳」という物質が全部「功ーに演化されて、李洪志師によって準備された修煉の道 の終点まで昇りつめると、その瞬間、鎖がパッと全部炸裂して、「天目」がその人の いる次元の最高点に達するので、自分のいる次元の各空間の実像や、各時空の様々な 生命体の存在形式、各時空における物質の存在形式、宇宙の真理が見えてくる。そし て、「神通力」が大いに顕れて、様々な生命体と通い合うことが可能となる。これこ そ、「大覚者」であり、「修煉して悟った人」なのである。
と思ったからこそです。『法輪大法』は、 性に少しでも近づいてもらいたい、 やれ唯物論だ、やれ唯心論だ、といったようなイデオロギッシュなものではな く、そんな低い次元の考え方から完全に解き放たれた、もっともっと高い次元 をめざしたものなのです。だからこそ、権力闘争みたいなこの世の執着心から の 完全に昇華して、超然としていられるのです。 る あ 明「李洪志は釈迦牟尼気取りだ」 という批判に対しては ? の 志 むほんぎ 李 たとえ本人にその気 ( 権力奪取、国家転覆などの謀反気 ) がなくても、信奉者の 者 数が増え、いわゆる「全体の意思」として、「このままでは祖国 ( 中国 ) がダメ 導 指 になる」と言い出して、みんなが決起を迫ったりしたら、もともと「組織」がな う ) 」う 最 「烏合の衆」みたいなもので「鉄の規律」のようなものも存在しない以上、マ 章 スター・リーとしても抑えようかないのではないでしようか ? 第 李洪志あなたは、「ディサイプルー ( 弟子 ) たちに対する私 ( マスタ 1 Ⅱ師 ) の力を 過小評価している。私自身が「法輪、をみんなの体内 ( 丹田 ) に植え付けるこ たんでん
178 そして、また、修煉を積めば、必然的に「功能ー ( 超能力 ) が身についてき ますが、私たちは「常人社会をいたずらに混乱させる」という理由から、それ を実際に行使したりしないよう、厳重に戒め合っています。要するに、既成の 秩序を破壊したり国家を転覆したりする心配など全くない。「すべからく無為」 というのが、我が「法輪功」の本質なのです。 しかし、現在の社会主義政権が、あまり「唯心論」的な活動が活発になるのは困 る、と非常に心配していることだけは確かなようですね。なぜなら、自分たちの 志向する社会主義や共産主義は「唯物論」の土台の上に成り立っているから : ・ 李洪志私に言わせると、そのような考え方そのものが根本的に間違っている、と思 いますよ。なぜ、「物質」と「精神」を全く別個のものとして峻別するのです か ? この宇宙は物質だけででき上がり物質だけで動いている、とでも思って いるのでしよ、つか ? とんでもないことです ! そもそも、私が法輪功を創始したのも、そのよう な常人社会の低い次元の考え方や行動様式から離れて、もっと「心性」の高い 次元にみんなを導きたい、と考えたからこそです。真・善・忍という字宙の特
ることにはならす、完全な宇宙と一言うことはできません。そのため、われわれの功法 には道家的な部分もあります。『それなら、道教だけでなく、他にキリスト教や儒教 などもあるではないか』と尋ねる人がいます。実を一言うと、儒教はきわめて高い次元 まで修煉したあと、道家に帰属することになります。それに対し、西洋の多くの宗教 は高い次元まで修煉したあと、佛家に帰属することになり、佛家の体系のものとなり ます。結局はこの ( 字宙には仏教と道教の ) 二つの体系しかありません」 また、老子と同じ頃に次のように説いた荀子の思想も、「法輪功ーの主張と実によ く似ている 「人の天性は悪であり、利を好み嫉妬・憎悪の念があり、感覚的な欲望がある。これ はを善に導くには、人為が必要となる。ここで言う人為とは、すなわち礼である。人は、 AJ この礼を身につけるため修養しなければならない 功 気 もっ いずれにしても、中国の「気功ーには、ただ単なる身体の修煉だけではない、 ともっと深遠な精神の修煉が含まれており、それはまた数千年にわたる中国の長い歴 章 史と文化に深く根ざしているのだ。 第