に耐久品の買い占めや銀行預金の引き下ろしに走ったため、各地でパニック騒ぎが起 きたりもした。 そして、 1989 年の春、胡耀邦前総書記が死去したのをきっかけに、「名誉回復ー や「民主化を求める学生や市民が一斉に北京の天安門広場に押し寄せ始め、 6 月 3 日には革命寸前といった緊迫感を呈するまでになってきた。しかし、この期に及んで も、なお鄧小平のことを「自由化と民主化の旗手ーであると信じて疑わない人民も多 く、「必ずや彼が善処してくれるに違いないーと大きな期待をかけていた。ところが、 3 日の夜から 4 日の未明にかけて、あろうことか「人民解放軍」が戦車で人民を砲撃、 蹂躙するという未曾有の大虐殺が行われ、死者だけでも 400 人近くに達するという 惨劇に発展した。 その後も、鄧小平は、最後まで自分の責任を認めす、事件に直接関わったことすら 沁隠し続けたまま、あの世に旅立ってしまった。しかし、当時のことを明確に記した共 同通信社の『世界年鑑』 ( 年版 ) には、次のように書かれている 章 第 《今回の民主化運動は、跖年末の学生運動とは量、質とも明らかに異なる。まず運動 の主体が、跖年はほば学生だけだったのに対し、今回は広範な市民、労働者が参加 じゅうりん 0
跳ね上がり、蒋介石の国民党政権以来の業病のようなインフレもびたりと終焉した。 まさに、共産主義革命万々歳だったのである 「百花斉放」「百家争鳴」時代の 自由な空気を吸って 経済的な問題ばかりではない。精神的にも、革命初期の毛沢東の為政は、孫文が夢 見ていた「三民主義」 ( 民族主義、民権主義、民主主義 ) を忠実に継承・実現したも ののように見えた。 うるわ ソ連のスターリンによる共産主義化は、麗しい謳い文句とは全くうらはらに、恐怖 と粛清に打ちひしがれた、まさに人民抑圧の超独裁政治でしかなかった。 しかし、中国の毛沢東のそれは本当に温かい実のこもった「人民のための改革」で ある、ということが誰の目にもハッキリと分かった。そして、″唯物論〃を基本とす るマルクス主義的共産主義社会の実現を標榜していながら、毛沢東は精神的な問題に も常に深い配慮を払っていた。 ファンシェン たとえば、「道徳」の問題であるが、中国語で「翻身」と呼ばれる精神修養に、非 0
部文献ーによれば、鄧小平の強力な指導の下で打ち出された一連の民主化政策も、 「経済面で自由主義諸国との交流をより円滑に進めるためには、形式だけでも民主化 された国家のように装う必要がある」といった非常に政治的な思惑から、様々の基本 的人権をいかにも擁護するような文書や法令が多発された、という事実が明らかにさ れている。すなわち、「宗教の自由」に関しても、次のようなダブル・スタンダード 三重基準 ) があった、というのだ。 歩輔仁大学発行の『大陸中国天主教四十年大事記』は言、つ 詐 「鄧小平体制成立以降の宗教政策も、一見、宗教信仰の自由を公認するようになった 壮 かにみせかけてはいるが、実際には旧態依然たる『人類の歴史において、宗教は究極 的には消滅すべきもの』という前提に立っており、決して宗教そのものの存在意義を 救是認したものではなかった。『物質文明・精神文明が高度に発達した段階においては、 国大多数の公民は、科学的世界観を持っことによって、もはや虚構の幻想世界に精神的 な拠り所を求める必要はない』などと、間題の内部文書にははっきりと書かれていた 章 のである」 第
できないのだ。ましてや、「グリーン・カ 1 ドと呼ばれる永住権付き入国および滞 在許可証を取得するのは至難のわざである。 にもかかわらず、李洪志とその妻子はいとも簡単に「永住権ーを与えられ、ニュー ヨークで自由にのびのびと暮らしている。なぜか ? 理由は至って単純明快で、アメリカの国務省や司法省の上層部に、「社会主義中国 る の人権抑圧政策ーを心から苦々しく不快に思い、かっ危険な傾向を感じ取っているリ て っ べラルな人々が沢山いるからである。だからこそ、クリントン大統領がいかに江沢民 黙 きゅうきゅう 剃政権のご機嫌取りに汲々としていようとも、イミグレ 1 ション・オフィス ( 移民局 ) は驚くべき早さで入国を認めたし、またニューヨークに定住後も、公安当局や警察、 ひなた 億 諜報などの諸機関も、陰になり日向になり李洪志一家の身の安全を守り、さらには法 輪功の活動家たちの自由も保障されているのだ。 し 少なくとも、このようなリべラル官僚や官憲の基本的な姿勢は、民主党政権下であ 果 きよ、つとうほ ろうと、共和党政権下であろうと、「自由と民主主義の橋頭堡Ⅱアメリカ合衆国ーで 章 は永久に保持されていくに違いない。なぜなら、「アメリカはそのためにこそ建国さ 第 れたのだ」という「世界の警察官」ないしは「グロボ・コップ」 ( 地球のお巡りさん ) 的な市民意識が土台にあるからだ。
しかし、そもそも、 「経済に関しては自由主義化を進めるが、政治については従来通り社会主義化の方針 を貫く といった御都合主義の中途半端なダブル・スタンダード三重基準 ) 的「改革路線ー にこそ根源的な問題があるわけであるから、中国人民の不満は次第に高まる一方で、 1986 年肥月、遂に全国の主要都市を中心に大規模な学生デモが巻き起こった。こ ことっても、体制の根 れは、「自由化と民主化を錦の御旗として掲げてきた鄧小平。 幹を揺るがす大問題であった。そこで、我が身に火の粉が降りかかって来る前に先手 志 軋を打って、 「学生をよく指導できなかったところに重大なミスがある」 民 と、胡耀邦総書記にすべての責任を押しつけ、辞任に追い込んでしまった。 沁鄧小平は、「文化、思想面における『放』と『収』、という言葉を好んで用いてきた。 すなわち、自由に表現させるのが『放』であるが、その半面『収』 ( 引き締め ) も忘 章 れてはならないと称して、実権掌握後もたびたび徹底的な抑圧を加えてきたのだ。 1 第 979 年の「北京の春」と呼ばれる民主化運動に対する大弾圧や、 1983 年の「精 神汚染一掃運動ーなどがその典型的なものであるが、敏感な学生たちはいち早く矛盾
259 第 9 章「江沢民」 vs 「李洪志」 を香港に近づけていき、できるだけ早い時機に一国単一体制を実現するつもりだ」と、 内外に率直に本音を打ち明けるべきだと思います。鄧小平がやり残したことーーそれ はただ一つ、「本当の自由化と民主化」それ以外にはあり得ないのです。江沢民体制 が続くか続かないか、などというのは枝葉末節のことにしか過ぎません。中国の未来 はひとえに鄧小平の「見果てぬ夢」がどのような形で現実化されるかどうかの、ただ 一点にかかっているのです。
から脱することはできなかった。つまり、「鄧小平の負の遺産」と骨がらみになった せっせん まま、江沢民もまた「経済ーと「政治」の自由化・民主化を截然と峻別する矛盾に満 ちた政治手法を踏襲せざるを得なかったのだ。 どうちゃく 当然、そのような自家撞着は、最も弱い立場の農民たちや少数民族にしわ寄せされ ることとなるから、江沢民は各地で頻発するデモやテロ騒ぎに対して、天安門事件の し ( ( し力なカった。 際の鄧小平以上の強硬な弾圧姿勢で対処しないわナこよ、、 たとえば、 1992 年の暮れからわずか半年あまりの間に、中国全土で 170 件以 上の農民暴動が発生したが、これに対して江沢民はただ居丈高に武装警官隊を差し向 志 けてカずくで鎮圧するだけで、何ら抜本的な対策も打ち出せなかった。そして、暴動 李 やテロが起こるのは言論機関が煽り立てるからだ、などという責任転嫁も甚だしい抑 圧政策を続け、 1993 年には遂に「最高刑は死刑」とする『国家安全法』を施行す 齷るなど、情報・文化面での取り締まりを一層厳しくした。 章 第
( 紅衛兵たちが懲罰のため無理矢理かぶらせた赤い頭巾 ) から逃れようと必死にカム フラージュした、とい、つ しかし、彼に言わせれば、「凡百のインチキ気功師たちとは全く異なる字宙次元の 真理を探求しているのだ」と、いわゆる病気治療や健康増進などの御利益ばかりを売 り物にしている諸派との大きな開きを語気を荒らげて強調する 長春に本拠を築いて 急激に信徒を増やす 1982 年、李洪志は長春市 ( 吉林省の省都 ) に移り、さらに修行を積み重ねると ともに、社会主義政府公認の「気功師ーの免許も取得した。そのため、公然と組織活 動ができるようになり、ますます「ディサイプルー ( 弟子Ⅱ信徒 ) の数は急増する一 方であった。 既に、 1978 年月の「第Ⅱ期 3 中総会」で、かって「走資派ーの代表として大 とうしようへい 弾圧されていた鄧小平が見事に 3 度目の復権を遂げ、社会主義中国も「自由化と ばくしん 「民主化の新しい道を驀進し始めていた。いわゆる「改革開放政策」の離陸である
242 特に体制を支える側の中央各省の役人、軍人、人民日報ら報道関係者がデモに数多く 参加したこと。次いで要求の質が運動初期の「官倒反対」、「民主化要求」、「報道の自 由」からエスカレ 1 トして「共産党の独裁打倒。、「長老支配反対、、「打倒鄧小平、、 「打倒李鵬 , など、共産党指導体制と最高実力者・鄧小平に矛先が向けられた点。 ( 中 これに対し、鄧小平の運動に対する姿勢は当初から厳しかった。 ( 彼は ) 自宅で李 鵬首相、楊尚昆国家主席らに対し、 「これは動乱だ。迅速に阻止する有効な手段を取らねばならない」 と、早くも力による抑え込みを主張。 ( この ) 鄧談話の中で注目されるのは、 ンカリー、 ソ連の自由化 ①動乱を起こした者は、ユ 1 ゴスラビア、ポーランド、 分子に影響されている ②彼らは、共産党指導部を転覆しようとしている。 ③われわれには、数百万の人民解放軍がある ④民衆の悪評や国際的反応を恐れてはならない。 としている点だ。 ( 中略 ) この鄧小平の一貫した認識と姿勢が、武力制圧の基本的 背景にある》
186 ジリジリと照りつける太陽を遮るものとてない屋外の運動場に詰め込まれたま ま、水も食べ物も与えられす、便所にさえ行くことを許されない状態のもとで、 来る日も来る日も尋問され、法輪大法を捨てて転ぶよう強要されたのです。そ して、そのような拷問的な抑圧は、今もなお休みなく続いているのです。 伝えられるところによれば、かなり修煉を積んだ高弟の中にも、次々と転んで、 共産党政府寄りの発言や告白をし始めている人が沢山出てきているようですね 李洪志そのような強権的プロバガンダ ( 政治宣伝 ) が嘘で塗り固められているとい 、つことハ、らい いまや中国の民衆はみんな見抜いていますよ。だからこそ、わ ずか数年の間に 1 億人もの弟子たちが私の下に集まってきたのです。そして、 これほどの大弾圧を受け続けていても、その数は減るどころか、ますます増え ていく一方なのです。 2 億人の大台を突破するのも、いまや時間の問題でしょ 日本の人たちにも声を大にしてお願いしたいと思います。どうか、このよう な無法極まりない人権抑圧が一日も早く取りやめられるよう、そして中国が本 当に自由化・民主化された立派な国になるよう祈って下さい。アジアで最も民 0 0