「毛沢東や鄧小平に勝るとも劣らぬ嚇々たる実績を上げている」 と切 ということを内外に誇示し、幻世紀にも中国の絶対権力者として君臨したい、 望する熱い想いがことのほか強いのであろう。 いずれにしても、中国革命の成就の日からわずか 2 年目の 1951 年生まれの李洪 志は、誰が何と言おうと、生え抜きの「革命の子ーであり、かつまた骨がらみの「毛 沢東世代」であった、と断ぜざるを得ない。 事実、「農民の農民による農民のための革命」を標榜して懸命に頑張り抜いてきた 毛沢東の画期的な新政策は、当時の中国大陸の全人民から温かく受け入れられ、李洪 壮 志が 1 歳になったときには、早くも新中国は目を瞠るような復興と躍進を遂げていた。 ごく一部の特権階級に独占されていた中国の『大地』 ( パール・バック ) は、遂に、 主 救毛沢東主席の果敢な大号令のもとで、貧しい小作人たちに分け与えられたのである。 国いわゆる「土地改革ー政策であるが、建国後わずか 3 年後の 1952 年までには完全 に遂行され、当時の中国の全農業人口の行バ 1 セントにも及ぶ約 7 億人の農民が総計 章 4 7 0 万ヘクタ 1 ルの土地を分配され、嬉々として増産に励み始めた。そのため、毎 第 1 セント以上の猛スピ 1 ドで食糧の生産が増え、中国人民は慢性的な飢餓状態 四から解放されたばかりではなく、その他の主要産業 ( 芻種工業 ) の生産額も驚異的に
村から都市へ ! 」というスローガンを掲げて革命闘争の先頭に立った毛沢東の基本姿 勢も、そのような生まれ育ちと決して無縁ではなかったのである こっきようがっさく おうちょうめい しよう そして、いわゆる「国共合作」が破綻して、汪兆銘 ( 188351944 年 ) や蒋 たもと 介石 ( 188751975 年 ) らの「国民党」政府と完全に袂を分かって決定的な対 せいこうざん 立関係に入ったとき、真っ先に「農民軍」を率いて湖南省と江西省の境にある井岡山 ににたてこもり「紅軍」の根拠地を打ち立てたのも毛沢東であった。しかし、共産党 しゆとく の「正規軍」をまかされたのは士官学校卒のエリート朱徳 ( 188651976 年 ) ちょうせい であり、 1934 年に厳しい国民党政府軍の包囲網を突破して、死を賭した「長征」 ( 西遷 ) に出発したときも、初めのうち、毛沢東の主張はほとんど取り入れられなか った。 毛沢東が名実ともに中国革命の主導権を握ることができたのは、長征の途中、貴州 省の遵義で開かれた中央拡大政治局会議の席上のことで、 「戦闘と政治工作を同時・並行的に敢行しなければこの未曾有の危局から脱出するの は難しい」 という、彼の「解放区」 ( ソビエト ) 経営以来の実践的経験論がようやくみんなか ら認められ、いよいよ本格的な「人民解放軍」が形作られて以降のことである。 かいせき じゅんぎ こうぐん 0 きしゅう
しかし、この「安禄山の乱」が唐代の民衆に与えたインパクトはたとえようもなく 大きく、今さらながらのように「易姓革命の主役は自分たちなのだ」という意識を再 確認させることとなった。 千年後の「共産党革命」に連なる 唐代末期の「黄巣の乱」 度重なる農民や群盗の叛乱のため、もはや風前の灯のような状態になっていた唐王 朝の末期、山東および華南地方一帯は毎年のように干魃に襲われ、未曾有の大飢饉の ため、ただでさえ疲弊しきっていた農民たちは、ますます悲惨な状態に追いつめられ ていた。 そして、そのような貧農や流民の苦しみと恨みに巧みに乗じて勢力を伸ばしたのが 徒党を組んで長江流域の街や村を荒ら 「江賊ーと呼ばれる盗賊の地下組織であった。 / し回ったところからそのような名前が付けられたというが、当時その地方の役人であ った詩人の杜牧は、次のような実態報告を書き送っている。 「江賊は、ふつう人から 100 人くらいで集団を組み、 2 、 3 艘の舟に分乗して、 こうぞく そう
化す。そして、冬ともなると大陸特有の厳しい氷雪に閉じこめられ、迫りくる飢餓地 獄とも戦わねばならない。しかも、雨期にはたびたび洪水に襲われ田も畑も全滅の危 機にさらされるが、その一方、年間の平均降雨量は極めて少ないから、干魃に悩まさ れる年のほうが多いのだ。 そのような農民たちの苦境を見ても、日本のように地域に密着した支配者がおらず、 社 黠みんな中央政府から派遣されてきた腰かけ官僚ばかりなので、自分の成績を上げるた 秘 め情け容赦なく税金を取り立てるばかりだ。しかも、税金は貨幣 ( 特に銀貨 ) で納め なければならないので、自分たちの食い扶持まで売り払わなければとても間に合わず、 蜂利にさとい商人たちに足元を見られて徹底的に買い叩かれる。やむを得ず金持ちの豪 農農などに金を借りると、これまた途方もない高利に追い立てられて、結局のところ土 りゅうみん 地や家屋を手放し、子供を奴隷に売り渡したあげく、「流民」となって泣く泣く故郷 さまよ るの地から離れ、あてどもなく彷徨い歩かなければならない : 恐 こうして、西暦 184 年、「後漢」王朝の中期に、遂に中国史上でも初めてと言わ 章 れる大規模な農民の叛乱「黄巾の乱。が起こるわけであるが、その支えとなったのは 第 たいへいどう 「太平道」と呼ばれる当時の新興宗教組織であった。 こうきん かんばっ
和国の基盤を確立した毛沢東も、延安で革命軍 ( 紅軍 ) を再組織したときから終始一 貫して「農村から都市へ ! 」を呼号し、事実、圧倒的な農民たちの支持を得ながら、 北京めざして大行軍していった。その意味においては、革命初期の中華人民共和国は、 かな 確かに「易姓革命」の大原則に適っていたのかもしれない。 しかし、その後に起こった「文化大革命」や「天安門事件ーなどに見られる、信じ 嵐られないような圧政や独裁を目のあたりにするにつけ、「長征・延安時代の農民革命 制の大理想など今いずこ」といった感をぬぐえないのだ。 姓毛沢東、鄧小平に次ぐ「第三の独裁者、として、いま 1999 年川月 1 日の「革命 易 周年記念日」の盛大な軍事パレードをテコに、しやにむに独裁的権力基盤を固めよ る え うとしている江沢民・国家主席兼共産党総書記兼中央軍事委員会主席が、異常なくら 脅 「法輪功 . や「李洪志」を恐れ、スタ 1 リンもかくやと思わせるばかりの大弾圧政 沢策を敢行しつつあるのも、以上に述べたような「易姓革命」の思想に逆らっているこ とを自ら最もよく知り尽くしているからではあるまいか 章 思えば、長い中国の歴史において、画期的な曲がり角、すなわちめばしい「易姓革 第 命」の引き金が引かれたときには、必ずと言っていいくらい、そこには「困窮する農 民」とその潜在的なエネルギーを巧みに吸収し組織化することに成功した「大衆組織。
たという。歴史家の市古宙三氏は一一一一口う 「老若男女をふくんでいても、 300 万とは、太平天国も大世帯になったものだ。そ の多くは、みずから好んで天国にとびこんできた連中で、水夫、鉱夫、貧農、流民な ど。圧倒的に多かったのは、貧苦の農民や流民であったろう。彼らは、もともと道教 もう道教の神々は信用できない。新しい救いの神を待ちこがれてい の信者だったが、 た。すなわち、天父である。その天父は、『土地、食料、その他の公平な分配』をす 。もっとも土地分 るというのであるから、彼らにとって魅力的であったにちがいない すくなくともその初期においては、太平天 配はじっさいにはおこなわれなかったが、 国の規律は厳格、強きをくじき弱きを助けて、物資は公平に分配され、いたるところ で貧苦、流亡の民から歓迎をうけた。『太平天国に行けば食える』ということは、彼 らをなによりも天国にひきつけたに相違ないー ( 中公文庫『世界の歴史』第巻 ) しかし、始祖・洪秀全の教義はあまりにも厳格で、「何々してはいけない」という ことばかり多くて、もしその戒律を犯せば五馬分肢とか点天燈とか、実に残酷な刑に 処せられる。「五馬分肢ーとは、文字通り、頭と両手、両足を五頭の馬に引っ張らせ てバラバラにしてしまう刑であり、組織に対する謀反を企んだ者は直ちに五つ裂きに てんてんとう された。また、「点天燈」というのは、垂直に立てた棒の上に人間を縛り付け、下か てんぶ むほん
240 に満ちた鄧小平の二面性を見抜き、一斉に抗議に立ち上がったのだ。にもかかわらず、 一方で学生たちに弾圧を加えておきながら、他方で胡耀邦をスケ 1 プ・ゴートに仕立 てあげて自分だけは何食わぬ顔で責任逃れをするという、実に卑怯な手段に打って出 たのだ。 あとがま 1987 年、鄧小平は、趙紫陽を共産党の総書記に横滑りさせ、その後釜に李鵬 ( 1928 年上海生まれ。現・全人代委員長 ) を据えることによって、何とか危機を 脱出した。当時、江沢民は、上海市の市長を務めていたが、鄧小平のお声掛かりで、 早くも共産党の「政治局員」片名の一角に名を連ねるまでになっていた。 1988 年、鄧小平は、空席になっていた「国家主席ーの座に、同じ四川省出身で、 ようしようこん しかも「長征」以来の後輩である楊尚昆 ( 1907 年四川省生まれ ) を据えると同時 に、上海市長の座を朱鎔基に譲らせた江沢民を上海市の共産党委員会書記に就任させ、 いまや中央に勝るとも劣らぬ経済戦略上の重要拠点・上海を最も信頼できる子分 2 人 でガッチリと固めさせた。 しかし、あまりにも急激な「経済改革 , のため、上海などの沿岸都市の市民と内陸 部の農民や辺境の少数民族の間の経済格差は広がる一方であった。また、「商品価格 の自由化ー方針などを不用意に打ち出したため、上海や北京などの大都市市民が一斉
苛斂誅求にあえぐ 貧農たちの恨み 「ああ、成王、この農夫を率いて、その百穀を蒔け ! 」 ( 『詩経』 ) 周の武王の跡を継いで「西周ー ( 紀元前 10275771 年 ) を打ち立てた成王が 最も重視したのは、やはり当時最大の産業であった農業である。その実質的な担い手 ざんし である「農民」は、依然として古代からの奴隷制労働の残滓を引きずってはいたが、 もちろん非常に大切にされた。そして、農民たちは領主のためにさまざまな奉仕を行 いながらも、村の中で自由で平等で幸せな生活を送っていた。 しかし、時代が移り、同じ農民たちの間にも次第に貧富の差が出てきて、「漢」代 ( 前漢は前 2025 後 2 年 ) に入ると貧農の生活は悲惨を極めるようになってきた。 農民たちをとりまく自然環境は非常に厳しく、春はモンゴル高原から吹き下ろす季節 風が猛烈な勢いで砂塵を舞いあげ、ちょっと油断をすると乳飲み児など窒息死してし さえぎ まうぐらいのものすごさだ。また、夏は烈日かジリジリと照りつけるが、これを遮る 樹木など一本もないし、秋には陰雨が果てしなく降り続け、見渡す限り黄土の泥沼と さじん しきよう
っ 4 「太平道」「五斗米道」 と「黄巾の乱」 こうろうどう 「太平道」を編み出したのは張角 ( ? 5184 年 ) という人物で、「黄老道」 ( 道教の 祖と言われる黄帝と老子の学 ) と名付けられた教えを奉じ、自ら「大賢良師」と名乗 って、川年あまりの間に数十万人もの信者を集めた。今日の「法輪功ーと非常によく 似た教義を掲げ、「人間の罪と病気の間には密接な因果関係がある」と称して、集ま ざんげ ってくる者にまず罪の懺悔をさせ、お札や霊水を飲ませて、呪文を唱え、病気の治療 を行った。 貧窮と病苦にあえぐ貧農や流民たちは、藁にもすがる思いでこの新興宗教に飛びつ いた。おかげで、張角はみるみるうちに信者の数を増やし、全国に散らばる数十万人 の信徒を方 ( 方面本部 ) の軍隊組織に編成して、それぞれの「方」に指導者 ( 司令 ほうき 官 ) を配置、自ら「天公将軍」と称して一斉に蜂起した。 そして、このような形で農民たちの間に広まった新興宗教は、ひとり「太平道」だ けにとどまらなかった。 ちょ、つカく ふだ わら じゅもん
230 その後、私は、フランス政府やアメリカ政府から差し伸べられた温かい庇護の手に 守られて、世界中を旅をしながら、天安門事件の真実を訴え続けてきました。それば かりではなく、時のアメリカ合衆国政府は、パスポ 1 トのない私に居住権まで与えて くれて、「好きな所に住んで、どんな政治活動をしても構わない」という自由まで保 証してくれたのです。ニクソン政権のときの初代北京駐在アメリカ代表 ( 実質上の特 命全権大使 ) として中国政府の要人たちとは特に親密な関係にあると言われていたプ ッシュ大統領 ( 当時 ) でさえも、こと自由や人権に関する限り、それほどまでの熱い 信念をもって、迫害されているものを庇護しようとする気概をみせてくれたのです。 自由とは何と素晴らしいことでしよう ! 今でも、私の故郷である新疆ウイグル自 治区では、何万人という人々が、ただ「自由」を求めたと一言うだけの理由で逮捕され、 冬は酷寒、夏は猛暑の「人間の檻」の中につながれたまま、次々と死んでいます。江 沢民も、これまでの独裁者たちと同じく、自由の素晴らしさを国民に悟らせないため、 必死に弾圧を加え続けるに相違ありません。しかし、億の中国人民が永遠に「共産 主義ーの迷妄に縛りつけられたままでいると思ったら大間違いです。人間は、本能的 きゅうかく に自己の尊厳や自由についての嗅覚を身に付けているのです。かっての私もそうでし た。法輪功の皆さんも頑張り抜いてほしいと切望しております》 おり