十五日、台湾守備兵力を交代させてこれら老兵部隊を内地に帰還させることが決定された。 満州の戦場で戦闘に従事した近衛師団および第一から第十二師団までの野戦師団は多くの現役兵を 失い、兵力の多くの部分が召集された補充兵であり、戦争が終結すればこれら補充兵も復員、召集を 解除しなければならなかった。増設師団のうち、戦争末期に急遽増設された第十五、第十六師団の兵 ずれは一九〇五年、明治三十八年十二月入営の増徴現役兵の 力も補充兵をかき集めたものであり、い 教育が終わったのち、編成がえを行わなければならなかった。陸軍が復員を顧慮することなく、当面 使用することができる現役兵師団は、第十三、第十四の二個師団しかなかった。第十四師団には満州 に新しく獲得した租借地および利権地域の警備という任務が課せられた。新しく台湾および韓国に振 りむける兵力としては第十三師団しかなかった。 九月十五日、歩兵第五十連隊、歩兵第五十一一連隊、野戦砲兵第十九連隊第一一大隊の台湾派遣が令達 された。その編成は、将校はすべて現役、准士官、下士は派遣命令以後一年以上現役期限を有するも合 の、兵卒は現役一、二年兵と規定されていた。三年兵はこの十一月末かぎりで現役服務の年限を終了加 し、満期除隊となるので派遣部隊からはずれた。三十五年十二月入営の広島開助は三年兵である。広島 島が台湾派遣部隊に属したことは、再役願いをだし下士を志願したことをしめしている。広島は戦争 終結とともに故郷に帰るという望みを捨て、軍隊に残ることを決意したのである。 の 軍隊には古くから「下士官とはおおむね貧家の次男、三男にして、まれに不良性を帯びたる長男を 含む」という『悪魔の辞典』的な定義が伝えられていたが、決してゆたかではない農家の次男である 広島には、この定義どおりの道を進む以外になかった。
を基幹兵とし、大部分の兵が新しく増徴した現役初年兵でしめられる部隊であった。現役兵として十 二月一日に入営した初年兵は、約四ヶ月の訓練ののちに三月に第一期の検閲をうけてやっと一人前の 兵士となる。入営後四ヶ月は兵士として使えない。三年の現役を終わった兵士の予備役服役年限が四 年四ヶ月という中途半端な期間になっているのも、この四ヶ月間のあいだに動員がある場合を考慮し てのことである。したがって初年兵主体の新設師団の動員は早くとも三月三十一日になる。東日本の 各留守師団から編成された第十三師団は三月三十一日に、西日本の各留守師団から編成された第十四 師団は四月十二日に、それぞれ動員下令となった。 第十三師団の歩兵旅団の番号は第二十五と第二十六、歩兵連隊の番号は第四十九から第五十二まで、 騎兵連隊の番号は第十七、野戦砲兵連隊の番号は第十九、エ兵大隊と輜重兵大隊の番号は第十三であ った。留守第九師団から編成された歩兵部隊は歩兵第五十一連隊 ( 名古屋編成 ) 第三大隊と歩兵第五十 二連隊 ( 弘前編成 ) 第一大隊であり、鯖江の補充大隊で編成されたのが歩兵第五十二連隊の第三、第四 の二個中隊であった。広島は、この新設師団の基幹兵として、歩兵第五十二連隊第四中隊に編入され 第十三師団の動員担任部隊は、青森県弘前に司令部を置く留守第八師団であった。この新設師団は 樺太 ( サハリン ) 攻略作戦の引き当て兵力として動員され、当面弘前・敦賀間に集中して訓練に従事し た。おりしもヨーロッパから回航中のロシア第二・第三太平洋艦隊 ( バルチック艦隊 ) の迎撃作戦に全 力をかたむけていた海軍が、輸送船団の護衛に兵力をさくことができず樺太攻略作戦の発動を時期尚 早としたため、第十三師団は長い待機の日をすごすことになった。
それぞれ会員愛国婦人会員は茶を酌み、実に盛大に歓迎を受けたり。 広島市は西九軒町の岸本に十五日の朝まで、それまでは教練武器類の手入れ、十五日当市を出 発し宇品港に至り、午後二時ごろ博多丸に三六の六、七、八中隊、金沢の七連隊の三個中隊、輜重兵 の馬匹三百その他附属都合千六七百ばかり、この博多丸は長さ八十間幅八間、ただちに出帆いた し、この日海上静穏にして十六日午前一時二十分馬関すこし手前で碇泊し、同五時ごろただちに 抜錨馬関通過す。午後五時ごろ玄海灘を通過す。十七日に至り四方山を見ず、正午より雨降りの ため些少船体動きだしそれより朝鮮灘を通過、十八日前日同〔様〕濃霧のため針路を緩々し、午前 十一時より急に山を見る。漸次進んで十九日本日は多分龍岩浦附近にて上陸するはずとの話なり。 生儀幸に海上船中思いのほか無事で暮したり。ただし命令なきゅえ何所へ行くかは安神しがたし。 留守中無事お祝い申しあげ候。 ( 明・ 8 ・四 ) くだりて生儀八月二十日海上無事にて安東県ロロに上陸いたし、ロロロロ九連城まで行軍いた し、午後三時ごろより散歩許可、鴨緑江右岸の高地ロて五月一日の戦地、近衛連隊および第二師 団第十六連隊の戦死者の墓所々にあり。生ら参拝せり。一一十二日早朝より行軍、京加幸〔夾河口〕 に至り露営、二十三日前ロのとおり行軍、金章〔金廠〕村附近で露営、二十四日同行軍、土城子端 の に露営、二十五日午前二時より行軍、夜明け前に銃剣を首にかけて川を渡りこの日は十里ばかり ち 行軍、これ清国には道の修繕することなし、川には橋の一つもなし、二十四日二十五日は山越し士 かんでん 川越し実に困難の行軍、ロ後七時寛甸県町に到着、無事ロ候。かつまたなにぶん命令あるまでこ の地の守備いたし候。 ( 明・ 9 ・ 6 )
後備歩兵第九旅団の編成は七月三十一日に下令され、先に動員された各二個大隊編制の後備歩兵連 隊が旅団に編合された。後備歩兵第九旅団は、八月三日、韓国駐剳軍司令官の指揮下にいれられ、韓 国西北国境の義州附近に派遣するとの命令がだされた。その任務は、主として韓国西北国境を防御し あわせて防御地附近における第一軍兵站管区の一部を警備する、というものであった。その警備区域 は鳳凰城と鴨緑江のあいだとされた。後備歩兵第九旅団は、八月七日から十日までのあいだに原駐屯 地を出発して列車輸送で広島に向かい、八月九日から十二日までのあいだに広島に到着した。これら の部隊は八月十四日 ( 讃岐丸、丹波丸、安芸丸 ) 、八月十五日 ( 博多丸、加賀丸 ) に宇品港を出帆し、二十 日以降、逐次鴨緑江河口の安東県に上陸した。遼陽の会戦の直前であった。 後備歩兵第九旅団は兵站警備部隊として第一軍の後方警備の任にあったが、十月九日、沙河の会戦 がはじまると、城廠にあった旅団の一部 ( 後備歩兵第十九連隊および後備歩兵第三十六連隊の各二個中隊 ) はロシア軍大部隊の攻撃をうけて危機にひんしていた本渓湖守備隊を増援し、本格的戦闘に加入した。 沙河の会戦は、遼陽の会戦で戦力が尽き兵力の補充と弾薬の補給を待っていた日本軍に対して、ロシ ア軍が大規模な反攻にでてひきおこされた会戦であった。 ロシア軍は、日本軍最右翼の梅沢部隊 ( 近衛後備歩兵旅団の一一個連隊、後備歩兵第四連隊、近衛後備騎兵中 隊、砲兵第十二連隊第六中隊、近衛後備工兵中隊の一部 ) および本渓湖守備隊 ( 後備歩兵第三十九連隊の一部 ) に対し、大兵力をもって攻撃をくわえた。日本軍の右翼を迂回して包囲しようという作戦であった。 この戦闘で少数兵力をもって奮戦し、あざやかな戦術をもってロシア軍の企図を挫折させた梅沢道治 少将のひきいる前記の部隊 ( 会戦ののち野戦砲兵を第一一師団後備野戦砲兵第一中隊にいれかえて近衛後備混成
表 1 旅順総攻撃参加主要部隊の損害 戦 負 合 損害 第 回 後備歩兵第 1 旅団後備歩兵第 4 旅団 第 1 師団 戦闘参加兵力 4 , 980 ( 109 ) 3 , 759 ( 116 ) 5 , 438 ( 181 ) 4 , 083 ( 137 ) 2 , 268 ( 117 ) 48.6 % 74.2 % 35.7 % 55.2 % 19.5 % 40.6 % 9 , 026 ( 214 ) 9 , 560 ( 223 ) 12.7 % 17.0 % 8 , 610 ( 306 ) 7 , 610 ( 227 ) 2 , 789 ( 114 ) 36.6 % 50.2 % 第 1 師団 9 , 291 ( 209 ) 死 傷 計 率 ( 288 ) ( 29 ) ( 88 ) ( 7 ) ( 24 ) ( 31 ) 7.6 % 14.5 % ( 46 ) ( 73 ) 1 , 982 760 685 495 190 1 , 645 623 11 , 636 第 9 師団 11 , 197 ( 244 ) 1 , 679 258 955 1 , 213 7 , 461 1 , 000 1 , 668 ( 63 ) ( 4 の ( 195 ) ( 38 ) ( 27 ) ( 11 ) ( 65 ) 損害率 塁合計 堡負傷 進戦死 ~ 戦闘参加兵力 35.8 % 52.8 % 2 , 668 ( 103 ) 第 11 師団 595 9 , 123 2 , 384 1 , 699 11 , 448 ( 248 ) ( 22 ) ( 253 ) ( 78 ) ( 59 ) 18.1 % 24.1 % 1 , 649 ( 61 ) 1 , 054 ( 39 ) ( 1 の・ ( 45 ) ( 55 ) ( 53 ) ② ② 3.8 % ( 85 ) ( 13 ) ( 38 ) 1 , 532 304 4 , 884 2.6 % 95 78 17 3 , 691 29.4 % 50.5 % 1 , 465 1 , 182 283 5 , 287 ( 107 ) 699 ( 35 ) 1 , 615 ( 54 ) 2 , 314 ( 89 ) 43.8 % 83.2 % 5 , 195 ( 103 ) 戦闘参加兵力 第 損害率 合 負 戦 計 傷 死 第 損害率 回 合計 負傷 戦死 戦闘参加兵力 合計 負傷 戦死 戦闘参加兵力 6 27 33 0.6 % 3 , 228 88 212 300 824 1 , 965 356 ( 41 ) ( 73 ) ( 25 ) ( 65 ) ( 10 ) ( 12 ) 2 , 742 ( 119 ) 損害率 31.8 % 38.9 % 第 7 師団 10 , 408 ( 306 ) 1 , 982 ( 99 ) 4 , 224 ( 73 ) 6 , 206 ( 172 ) 59.6 % 56.2 % 1 , 836 ( 51 ) 1 , 468 ( 64 ) 1 , 824 ( 89 ) 19.6 % 42.6 % 37.6 % 60.0 % 第 9 師団 6 , 749 ( 143 ) 339 ( 1 の 722 ( 28 ) 1 , 061 ( 38 ) 15.7 % 26.6 % 9.3 % 18.5 % 後備歩兵第 1 旅団 2 , 871 ( 58 ) 200 ( 14 ) 1 , 605 ( 42 ) 1 , 805 ( 56 ) 62.9 % 96.6 % 第 1 回総攻撃は 8 月 19 日から 24 日まで , 前進堡塁群攻撃は 9 月 19 日から 22 日まで , 第 2 回総 攻撃は 10 月 26 日から 11 月 2 日まで , 第 3 回総攻撃は 11 月 26 日から 12 月 6 日まで , 第 7 師団は 第 3 回総攻撃のみ参加。 ( ) 内は将校 , 全体のうち数。 18 兵士たちの
第九師団の出征 第九師団に戦地派遣命令がくだされたのは、一九〇四年、明治三十七年六月十九日。歩兵第三十六 蓮隊は同二十八、二十九の両日に六本の軍用列車で鯖江駅を出発し、六月二十九日から七月一日のあ いだに逐次広島に到着した。宇品出港は、七月十五日 ( 伊予丸、第二永田丸 ) 、七月十八日 ( 門司丸 ) 、七 月十九日 ( 志賀浦丸、小雛丸、第二元山丸 ) 、七月二十日 ( 土佐丸 ) で、七月十九日から七月二十六日にか けて逐次、遼東半島の柳樹屯に上陸した。上陸と同時に旅順攻略を任とする第三軍の隷下にはいった。 まれすけ 第三軍は軍司令官乃木希典大将、軍参謀長伊地知幸介少将、その戦闘序列 ( 六月三十日発令 ) は、第 一師団 ( 東京 ) 、第九師団 ( 金沢 ) 、第十一師団 ( 善通寺 ) 、後備歩兵第一旅団 ( 東京 ) 、後備歩兵第四旅団 ( 大阪 ) 、野戦砲兵第一一旅団 ( 東京 ) 、後備工兵隊 ( 東京・名古屋・小倉から各一中隊 ) 、攻城砲兵司令部およ び攻城特種部隊 ( 各地要塞で臨時編成された特設の攻城砲兵三個連隊と独立一大隊 ) 、野戦電信隊、軍兵站部 という編成であった。攻囲戦末期に第七師団が増加され、また攻囲戦途中にも二八センチ榴弾砲など 一旅順攻略めざして出征
かり兵員少なくなりしため、我が第六中隊より兵卒三十名あまり連隊命令にて不肖も転隊いたし、 二月十八日午後十二時ごろ出発、十九日午前三時敵と衝突、それより引きつづき貴殿らは新聞紙 上にてご存じのとおり、我が鴨緑江軍は総攻撃とあいなり候あいだ、実は戦務多忙、その後残念 ながら不肖も負傷いたし候につき、延引いたすにつき、まっぴら御免くだされたく候。 不肖いまさら申すまでもなく、今回の戦争は実に敵の戦利品、捕虜、死傷者数知れず、見事に ござ候。不肖はいかに残念には、撫順よりわずか手前の孤河子〔孤家子、下馬孤山の北にある小村〕 附近の山〔下馬孤山附近の小高地〕を我が中隊占領のとき、右足の股より腿の方へ小銃弾貫通いたし 候につき、その当座は難儀いたし候えども、日をかさぬるにしたがって全快におもむき候あいだ、 御休意くだされたく候。 六日まで乾河子〔干河子〕野戦病院に休養、五龍ロ定立病院に九日まで休養、十日馬圏子輸送部 にて一泊、十一日下夾河輸送部に一泊、十二日城廠兵站病院に十六日まで休養、十七日南孤山 〔南孤山子〕に一泊、十八日賽馬集兵站病院に十九二十日まで休養、二十日草河城に一泊、二十一 日草河口病室に一泊、これまで担架に乗りて後送、二十二日午前六時出発、七時ごろ停車所に至 り鉄道輸送にて午後五時半ごろ鳳凰城停車所に着、六時ごろ兵站病院に入院、二十七日まで休養、場 一一十八日午前五時病室を出発、午前六時一一十分発車、午後〔数字脱〕時頃安東県兵站病院に入院い た 士 たし候については、この病院にて数日間休養さるるかも否やも知るをあたわず。 兵 さて満州地方はいかなる山の奥いかなる所にても糧食はもちろんのこと、衛生赤十字社員など 行きとどき、また道路および鉄道は我が羽生村で申しあぐるば仁位坂のごとき所一ヶ所二所にも
大藤巳之助は、このあと野戦隊の要員からはずされて補充大隊に編入され、当分のあいだ留守部隊 に残留することになる。松田六松はさすがに現役の憲兵上等兵だけあって、六月十四日付の通信で薬 のお礼だけを書き、出征準備や出征予定日については何もふれていない。この後も、松田の通信は内 容にほとんど具体的な事実の記載がなく、書かれていることはいちじるしく観念的で教条的であり、 ほかの兵士たちの通信の内容とくらべてきわだった特異性をしめしている。 鯖江または金沢を出発して征途についてからの通信は、すでに紹介したように、広島開助が七月八 日に乗船待機のため滞在中の広島から二通、乗船まえに書いたものでありながら、どうしたものか発 信の日付が八月十日になっているもの一通、門司丸に乗船して柳樹屯に上陸した直後に書いたもの一 通を発信している。このうち広島滞在中の一通は、兄の召集という新しい事態に直面して、留守宅の ことを依頼したものであった。広島滞在中に書いた八月十日付の手紙は、七月十五日に他の中隊が出 発した旨を書き、自分の所属する中隊が十八日に出発予定であることを記載してある内容から見て、 十六日か十七日に書かれたものである。 歩兵第三十六連隊第十一中隊の森下貞は、「去月二十八日鯖江駅を発壌つかまつり候。三十日夜に 誉の広島市に落車いたし、なお当今滞在中にこれあり候」 ( 明・ 7 ・ 2 ) と書き送った。 山本京松は、ややくわしく書いている。 ついては本月一日午前八時三分に広島へ無事に着いたし候につき、喜時は対面つかまつり候に つき、兵隊は対面まちびしく候ところ皆々喜ぶことには、いよいよ広島を出発いたすはなしこれ 97 兵士たちの戦場
ついては生事二月七日広島市より船名満州丸にて乗船し、同十二日清国大連湾の柳樹屯に着し、 十三日より行軍を始め、道中大合戦の南山などをへて、今十七日八日は得利寺の大合戦場にて行 年、五日目にこの地に一日間滞在し、明十九日より行進す。二月二十九日〔 ? 〕までに遼陽迄到着 の日割にござ候。 さてこの地の模様お咄し申します。毎日晴天なれども昼飯などはこり〔凍り〕て食せず、午後四 蒔ころより午前十一時ころまではひげがこりて、一滴の水でも皆こりて落ちず、毎日土ぼこりに て目も口も開かず、手にはひびがきれて黒くなりて黒猫の如く、毎日の行進先きの食事の模様は、 凱旋のうえお咄し申さねば、書き尽くすことあたわざるの有様なり。かつまた文明の世の中、分 取りし汽車は二時間ごとに通行す。一度に機関車二輛にて貨車の五六十も牽きて通行す。実に勇 ・ましきものなり。汽車には食料馬料を運搬に堪えかね候につき、人馬は乗ることあたわず候。ゅ えに歩行するなり。これより大石橋、海城をへて遼陽に向かう。二度目の旅行先きでこれあれば、 面白きというべし、難儀ともいうべし。まず / 、本年中には凱旋いたし候あいだ、その際縷々申 しのべ候。 ( 明・ 2 ・ ) 井上にとって、蓋平までははじめての土地であったが、海城はにがい思い出に満ちた忘れがたい土 地であった。日清戦争で鴨緑江を越えて清国に侵攻した第三師団は、一八九四年、明治二十七年十一一 月九日海城をめざして前進を開始し、十三日にこれを占領した。しかし、「第三師団の海城を占領せ しより此に駐守すること七十六日、此間敵は海城恢復を図り大軍を擁して同地の三面を包繞し、来攻
ある。内達にたいし、長谷川韓国駐剳軍司令官は、「この際韓国の地理人情に通暁し、且っ暴徒討伐 きゅうじん いっき に最も熟達せる第十三師団を帰還せしむるは九仞の功を一簣に虧くの嫌あるのみならず、軍隊の大な る移動は往往暴徒活動の導火線となりたるの先例亦乏しからざるなり」という理由から、帰還の延期 を陸軍省に上申した。しかし、陸軍省はこの上申を認めなか 0 た。その最大の理由は、この十一月に 実施が決定された師団の新編制〈の移行を遅らせることができないということにあった。 前年九月の陸軍常備団隊配備表の改正により、新しく第十七師団 ( 岡山 ) 、第十八師団 ( 久留米 ) の二 個師団が増設され、戦時中の増設師団も第十三師団が高田 ( 現在の上越 ) 、第十四師団が宇都宮、第十 五師団が豊橋、第十六師団が京都に、それぞれ配置されることにな 0 た。第十三から第十八までの各 師団の歩兵連隊は、日露戦争前からの既設師団の歩兵連隊と適宜入れかえられ、どの師団の編制も日 露戦争の第一線で戦闘に従事した経験を持っ歩兵連隊と新設歩兵連隊との組み合わせとな 0 た。広島 の属する歩兵第五十二連隊は弘前の第八師団に所属がえにな 0 た。この所属がえは連隊兵舎の入れか えをともなうだけに、新設連隊数に見あう兵舎の建築完成をま 0 て、全国一斉におこなう必要があっ た。一九〇八年、明治四十一年の秋季演習を利用し、各連隊は旧兵舎から演習場に出発し、演習終了 後は新兵舎に帰還することに定められた。 この編制がえに間にあうように第十三師団を帰国させなければ、新旧入れかえの各歩兵連隊に対す る新旧所属の各師団長の指揮権は混乱し、収拾がっかなくなる。陸軍省としては、どうしても十一月 までに第十三師団を帰国させなければならなかったのである。