宗右衛門 - みる会図書館


検索対象: 兵士たちの日露戦争―500通の軍事郵便から (朝日選書)
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1. 兵士たちの日露戦争―500通の軍事郵便から (朝日選書)

田惣右衛門に御通知くだされたく願いあげ候。 ( 明・ 9 ・ 9 ) 亀井の感覚は、戦場における兵士の死を「名誉の戦死」としてではなく、「悲惨なる死」としてと らえ、憐むべきことと感じとっていた。亀井の手紙の文面からもうかがえるように、第一回総攻撃の あと、旅順攻囲戦に参加している兵士たちの手紙には具体的な戦況の報告が少なくなる。 さて生ら幸に御書面のとおり今回の役に従うの栄をえて、去る七月二十六日より出戦っかまっ り、その後数回戦闘に従事つかまつり候えども、残念かないまだ僅少の功も奏せず、実に汗顔の 至りに候。しかし将来はますます職務に勉励し事に従い、国家のため殉忠つかまつる決心にこれ あり候あいだ、さよう御承知くだされたく。まずは御慰問に対し御挨拶まで。 ( 明・ 9 ・ 4 ) 笠松宗右衛門の激励の手紙に対する返信という性格にもよるのであろうが、この朝日与作の手紙の 内容は、紋切り型の決意表明にとどまっている。ただ、朝日の意識のなかで、「殉忠」の対象は「国 家のため」であって天皇のためではない点、つまり兵士たちの光栄の意識はナショナリズムの枠のな かにとどまっていることを指摘しておきたい。 多少なりとも戦況にふれた手紙もはなはだ簡単な内容である。亀井恵照は、「小生数回の戦闘に遭 遇せしもなお無事」 ( 明・ 9 ・ ) と書いただけの絵はがき、たんなる時候あいさつだけを書いた絵 はがき ( 明・・ ) の二通を送っているにすぎない。 118

2. 兵士たちの日露戦争―500通の軍事郵便から (朝日選書)

とどく手紙以外から村の状況を知ることができず、手紙を書く先も笠松家以外になかった。多数の軍 事郵便に共通しているのは、村長の名前も校長の名前も、一度もでてこないことである。笠松家に寄 せられた軍事郵便から出征兵士たちの心を読みとるには、多くの軍事郵便のあて先である笠松宗右衛 門とはどのような人物であったかを知る必要がある。 笠松宗右衛門 福井県大野郡教員会編大野郡人物誌』に笠松宗右衛門の略伝がかかげられている。宗右衛門は、 一八五三年、嘉永六年に羽生村大宮の農・恒次郎の長男に生まれ、一八八七年、明治「一十年ころ、羽 生村とその北隣の芦見村の組合長つまり連合村の村長として約六ヶ月間在職し、一九〇四年、明治三 十七年、羽生村の学務委員として一ヶ年在職した。宗右衛門が村の公職、名誉職についたのはこのご く短い二度だけであり、生涯の大部分を野の人としてすごした。 さらに『大野郡誌』によれば、一八九二年、明治二十五年七月から、一九〇四年、明治三十七年九 月まで、羽生村郵便局長の地位にあった。当時、政府の切手・印紙、為替金などをあっかう村の郵便 局長を務めるには相当の金額の保障金の預託を必要としたので、笠松家は村の素封家に属していた。 笠松常和氏は、郵便局長をやめた理由を、金がかかる仕事だったから、と聞いている旨語っている。 日露戦争がはじまって約半年後に宗右衛門が郵便局長をやめた理由は、日露戦争中の活動が少なから ぬ金額と時間の両方を必要とするものであったことから、いわばボランティア活動に専念するためで あったとも考えられる。ここから先は『大野郡人物誌』の記述を紹介しておこう。

3. 兵士たちの日露戦争―500通の軍事郵便から (朝日選書)

いちのえ る。石段を登りつめると、正面に忠魂碑が立っている。碑の染筆者は陸軍大将一戸兵衛、建立者は羽 生村在郷軍人分会である。 鳥居、灯籠、祭具庫、戦没者氏名碑は戦後の新築であるか、建てなおされたものである。もともと は美濃街道から直接に忠魂碑敷地内にはいるように作られていたのであろうが、戦後の国道一五八号 線の改修拡幅にあたって、忠魂碑への入り口の土地がけずられて道路側に擁壁が築かれたため、擁壁 上の脇道をたどってはいるようになったものと思われる。国道改修に際して、忠魂碑入り口の鳥居周 辺の再整備がおこなわれたものであろう。この構造は、その森厳な環境とあわせて、誰がどうみても、 神社そのもののたたずまいである。私も最初は、村の鎮守の参道かと思い、鎮守の境内に忠魂碑が建 てられているものと考えて石段を登った。鳥居の奥正面に鎮座するのが忠魂碑そのものだけであった ことこ、、 ーレささか驚いた。まぎれもなく、忠魂碑は神社として祭られているのである。おそらくは、 この敷地も笠松宗右衛門が提供したものであろう。 笠松宗一 笠松家への軍事郵便の多くは、笠松宗右衛門あての手紙である。『大野郡人物誌』に紹介されてい るような人柄、しかも出征兵士たち自身がしばしば激励の手紙や慰問の品を送られ、村に残してきた 家族たちまでもが物心両面で世話になっているとなれば、宗右衛門あてに書く手紙の内容も、平常か らとくに親しい間柄の少数を除いては、どうしても堅苦しい、たてまえ論をのべたものになりやすい 実は、第二次世界大戦期の兵士の手紙や日記とちがって、日露戦争当時の兵士たちの日記や手紙を

4. 兵士たちの日露戦争―500通の軍事郵便から (朝日選書)

かなりまとまった あっかうむつかしさは、この点にある。大量の軍事郵便が寄せられたところは 、たいてい笠松家のような村の有力者 数の軍事郵便が発見されたという情報はまだ多くはないが である篤志家の家か、学校の教師の手元か、村役場などである。兵士たちの世代は、その水準につい ては問題があるにせよ、貧農出身であっても一応読み書きができるが、親たちの世代の多くは読み書 きができなかった時代のことである。笠松家のような存在は、家族の消息や村の近況を戦地にもたら す貴重な情報源であり、戦地での無事や身近な戦況報告を故郷の家族に聞かせてくれる、またとない 伝達者であった。宗右衛門あての手紙の内容には、このような制約からきた限界がある。 日露戦争の従軍兵士たちの日記も、戦場で書きつづったそのままの原稿で保存されているものは別 として、発見される多くの日記は凱旋の後に清書されたものである。想像を絶したきびしい戦争体験 を子や孫たちに「家宝」として残したいという動機から、きれいに清書した日記が多く、それだけに 戦後になってから加筆訂正された部分が多い。戦場でつづった日記をもとに清書した日記であるから、村 なまなましい臨場感は残っており、ウソは書かれていないが、世にはばかりのある事実が消され、き羽 野 大 れいごとの日記になりすぎている傾向は否定できない。 県 笠松家に寄せられた手紙の特徴のひとつは、宗右衛門の長男宗一あての手紙がかなりの数あること駢 である。宗一は一八八三年、明治十六年生まれ、日露戦争開始の前年に徴兵年齢に達している。宗一グ あての手紙によれば、当時の宗一はあまり健康状態がよくなかったようである。徴兵検査の結果も、 プ 補充兵役から除かれ、戦争中に召集される可能性はまったくなかったものと推定される。しかし、宗 一の友人たちのなかに、あるいは現役兵として、あるいは補充兵として出征したものが少なくなかっ

5. 兵士たちの日露戦争―500通の軍事郵便から (朝日選書)

。フロローグ福井県大野郡羽生村 羽生村の日露戦争 美濃街道 笠松宗右衛門 羽生村と兵士たち 五二九通の軍事郵便 一一兵士の戦歴ー広島開助の場合 一出征軍の兵士として 早くも脚気で入院 一人で五〇通旅順めざして出征 樺太出征樺太通信和 新設師団に編入 一一望郷の海外駐留 韓国駐剳軍へ 樺太から台湾へ“台湾便り 広島開助の交友関係 下士広島の意識 目次 山村の悲劇 笠松宗一

6. 兵士たちの日露戦争―500通の軍事郵便から (朝日選書)

三韓国の抗日義兵闘争鎮圧 義兵闘争鎮圧へ 韓国抑圧兵力へ 戦後の国家意識の高揚広島開助の帰国 二兵士たちの戦場 一旅順攻略めざして出征 第九師団の出征 笠松宗右衛門の薬攻囲軍の出征 下士の借金”前進陣地の攻略 二旅順総攻撃のあいつぐ失敗 冨田惣三郎の遺書 旅順第一回総攻撃の失敗 負傷兵の手紙盟旅順陥落 戦況通信を禁止 三老兵たちの戦場 後備部隊の動員広島又兵衛の応召 後備兵の戦闘第二次後備隊の出征 150 138 義兵との戦闘 土田権次郎の出征 1 10 弥陀の教えに命を任せ 1 116

7. 兵士たちの日露戦争―500通の軍事郵便から (朝日選書)

自分の無事を「神仏はもちろん、かっ愛顧諸君の御蔭様」と感謝していた真柄も、なれない水上労 働には勝てなかった。真柄は病気で金沢予備病院に後送され、平和到来の喜びを病床にむかえて間も なく死亡した。 第九師団第七輸卒隊の東藤治平は、負傷して後送入院している。負傷の原因はのべられていないが、 補助輸卒隊のおもな輸送手段は国内民間から徴発した荷車、捕獲した鉄道貨車による手押し輸送、ま たは手押し式軽便鉄道 ( トロッコ ) であった。とくに機関車運転のための線路改修が完成していない鉄 道の部分では手押し貨車による輸送がおこなわれたが、線路のくだり勾配では人力による大型貨車の コントロールが困難となり、事故が絶えず、かなりの死傷者をだした。東藤もこうして負傷した一人 であったかもしれない。 くだりて愚生義負傷元師団へ後送されしこと御上聞に達し、御熱情な御尊公様には早速御尋問 行 くだされ、ありがたき御厚志の段千万深謝したてまつり候。御蔭をもって日々全癒、近日中退院 の都合にあいなり候あいだ、他事ながら御休心くだされたく。まずは御礼まで。 ( 明・ 1 ・ % の 士 の 「御上聞に達し」という言葉は通常、天皇の耳に達することを意味している。ここではもちろんその な の 意味ではなく、笠松宗右衛門の耳にはいったことをあらわしている。 手 義森作松は、真柄とおなじ第九師団第八補助輸卒隊に属していた。したがって、当然、その勤務内 容もおなじであった。義森は年賀状のほかに三通の手紙を書いている。

8. 兵士たちの日露戦争―500通の軍事郵便から (朝日選書)

ついては小生儀幸に壮健にて軍務まかりあり候ところ、本月一一十五日出征の命令を受けいよい よ出発いたし候あいだ、さよう御承知くだされたく。御尊家御一同様御身御大切になしくだされ、 国家のため任務御勉強くだされたく。大君の御忠節あらんことひとえに希いたてまつり候。 ( 明 出征する兵士が、自分が国家のために任務に勉め、大君に忠節を尽くす、というのではなく、あと に残る笠松宗右衛門にそのようにしてほしいというのであるから、話は逆である。あるいは召集され た兵士たるもの義務として国家のため尽くすのは当然、という前提のもとに書かれたものか。幸運な ことに広瀬栄松は第十二中隊に属したため、奉天の会戦では小北河守備隊に残され、最前線の戦闘に 参加することがなかった。広瀬はその旨を書き送っている。 次に私こと出発以来特に無異にて去月五日柳樹屯に上陸、その後数日間の行軍にて十九日牛荘 に到着つかまつり、なお北進して二十五日北台子に着、暫時当地に守備、三月五日大民屯に着、 目下当地附近の守備任務に服しおり候あいだ、はばかりながら御休神くだされたく候。 今回奉天陥落については、我が連隊一、二大隊は多大なる損害を受け候えども、我が第三大隊 は後方守備にござ候あいだ、幸か不幸か身命は無事にござ候あいだ、これまた御休神くだされた士 く候。なお金沢在中には御厚情なるお手紙くだされ、これまたお礼申しあげ候。 ( 明・ 3 ・ )

9. 兵士たちの日露戦争―500通の軍事郵便から (朝日選書)

あい変わらず御愛顧のほど、ひとえに御依頼申しあげ候。 ( 明・ 9 ・Ⅱ ) この手紙を見ると、笠松宗右衛門は、松崎の頼みを聞きとどけたうえ、松崎の実家に対し、さらに 援助の手をさしのべたようである。こうして、松崎は後顧の憂いなく、出征の途についた。「次に小 生無事にて二十八日午前三時三十分広島市へ安着つかまつり候あいだ、他事ながら御安心くだされた よろしく く候。なおこの後留守中は四六四九御依頼申しあげ候」 ( 明・・ ) と書いているように、松崎は 旅順陥落直前に旅順にむけて出発したのであった。 前進陣地の攻略 鯖江連隊の海上輸送は第九師団の他の戦列部隊にくらべておそい方に属していた。師団は鯖江連隊 主力の上陸を待っことなく、七月二十六日に戦闘に加入した。鯖江連隊の各中隊は上陸したものから 次々と、前進陣地攻略の戦闘に投入された。 小生ら上陸は去る一一十六日午後清国柳樹屯〈、二十八日より戦闘にくわわり同三十日の戦闘と の 爾来二回、一一十八日の鞍子嶺占領は戦闘三日間にわたり随分難戦の至りにござ候。三十日の鳳凰 ち 山および千大山占領は約一昼夜にわたり、敵は死傷〔者〕を遺棄して退却せり。我が隊の死傷者は士 生らは幸にして無事。 別して甚少に候えども、十七、八名の死傷者あり。小 8 その他患者は数多あり、おもに肺炎、赤痢、下痢などにて、飲用水の乏しとかっ不良なるたと

10. 兵士たちの日露戦争―500通の軍事郵便から (朝日選書)

のぶれば小生出発の際は御多忙中お見送りくだされ、送別の祝酒を賜わり、のみならず結構な るお薬くだされ、御厚意のほどかたじけなく深謝したてまつり候。 ( 明・ 5 ・ ) この文面にもでているが、笠松宗右衛門は、出征する兵士たちにしばしば薬を贈っている。薬を贈 られた礼状が非常に多いので、私は笠松家に伝来の家伝薬でもあるのかと思い、笠松常和氏にうかが ったが、別に家伝薬などはなく、富山の売薬を買って出征兵士たちに贈ったとのことであった。いず れにしても出征兵士たちに、健康第一にとの願いをこめての贈りものであった。事実、戦地からの通 信によれば、この薬の贈りものはずいぶん役だったようである。薬は、召集を受けて村を出発する兵 士たちだけでなく、すでに現役兵として在営中の兵士たちにも贈られた。その一人、朝日与作は書い ている。 かねて待ちおる動員をいよいよ本月九日午前十一時三十分をもって当師団に下令とあいなり、 不日出征の際は生還を期せず、今日まで受けたる御教訓のとおり、君国のため身命を投げうち戦 死するは我が軍人の本分なりと決心つかまつり候ゆえ、さようご安意くだされたく。さて過日は 貴重なるお品御送付くだされ、実に御厚志のほど深謝したてまつり候。なお亀井軍曹殿へもこれの た お渡し申し候あいだ、まずはお礼かたがた御返報まで。謹言。 士 兵 二伸。なお第五中隊森永軍曹殿〔甚五郎。旅順で戦死〕へもあい渡し候なり。 ( 明・ 5 ・ä)