相当 ) をいう。雑卒とは、輜重輸卒、砲兵輸卒、砲兵助卒、看護卒をいい、いうなれば軍服を着せら れた雑役夫であった。雑卒のうち、輜重輸卒は、糧食器材の運送補給およびこれに関係する雑労働に あたり、砲兵輸卒は野戦砲兵の弾薬輸送にあたり、砲兵助卒は要塞砲兵の弾薬運搬にあたり、看護卒 は衛生勤務の下働きにあたった。 日露戦争に応役した上記の二九万三一六六人の雑卒のうち、二六万五一九六人が輜重輸卒であった。 准士官以下の応役人員一〇六万二八九九人のちょうど四分の一にあたる。これらの輜重輸卒のうちニ 五万二三九九人が戦地勤務に服した。 旧陸軍が存在していたときから誤解があるので、この際念のために説明すれば、輜重兵には兵卒と 雑卒とがあり、輜重兵の兵卒は、他の兵科の兵卒とまったく同様の戦闘兵種で、日露戦争当時でいえ ば三年の現役に服し、騎兵とおなじく乗馬兵種に属し、その主任務は輜重の監視、護衛であった。徴 兵検査で兵種を決定するときの条件も、騎兵に準じかつ計数に明るいものとされていた。 雑卒である輜重輸卒 ( 日中戦争まえに特務兵と改称 ) には、厳密にいえば二種類あった。ひとつは徴兵 検査で現役または第一補充兵役 ( 教育召集なし ) の輜重輸卒とされたもので、現役兵は三ヶ月の在営の のち帰休し、いわゆる在郷現役となる。これらの輜重輸卒は、動員計画上の戦時編制定員のなかに組 みこまれ、第一線部隊などの要員とされた。もうひとつが、戦時臨時編成の後方勤務部隊である補助 輸卒隊に属する輜重輸卒で、主として体格その他肉体的条件の面では一段落ちる第二補充兵役から召 集された。 日清戦争のときには補勳輸卒隊は存在しなかった。陸軍は後方の輸送および雑労働要員として民間
いたし。我郷里にあればいかなる心配いたしても御尊官様のお務めはいたし候あいだ、かくの如 く次第ゆえ御立腹のほどは深く察しおり候えども、是非におよばず、よりて御用捨くだされ。こ の段手紙をもって重々御依頼申しあげ候なり。 ( 明・ 8 ・ 5 ) 伝聞による戦況報告の部分はさておくとして、現役下士を志願した松崎の家庭状況にはかなりきび しいものがあったようである。笠松宗右衛門は松崎の留守宅見舞いも忘れることなくおこなっていた。 これにつづく手紙にも記載されているところから、この留守宅見舞いは引きつづいておこなわれてい た。まだ旅順主陣地を攻撃するまでにいたらないうちに、早くも師団は多くの損害を出し、多くの補 充要員をたてつづけに戦地に送らなければならなかった。第九師団の歩兵は、動員下令時の充員召集 は別として、補充召集、臨時召集とも最初の召集入営期日が八月五日であったので、七月十一日の第 一補充員、八月一日の第二補充員、さらには大藤巳之助がそのなかに入っていた第三補充員は、いず れも野戦隊出征時の留守部隊員から野戦隊に補充されたことになる。 それにしても松崎の旅順攻略に対する見通しのなんと楽観的なことか。しかし、これは松崎にかぎ 0 たことではなか 0 た。当時は軍首脳も将校たちも、第一線の多くの兵士たちも、国民の多くも、み の なこのように考えていたのであった。 ち 松崎は自分の職務を「教官」と呼んでいるが、正式には教育にあたる教官は初級将校の中少尉であ士 り、下士の軍曹が助教、兵の上等兵が助手として、教官を補佐した。なお第一国民兵動員の情報はは やとちりである。そのころ陸軍省は、後備役を五年から十年に延長し、すでに第一国民兵役に編入ず
さすがに現役兵らしく、「君国のため身命を投げうち戦死するは我が軍人の本分なりと決心」した と、精神の高揚ぶりをしめしている。他方、同郷の先輩たちに対する心づかいをも忘れていない。朝 日から薬を受けとった亀井恵照も礼状を書いている。 さて過日は不肖就年なるについて貴重なる妙薬御送投にあずかり、千万ありがたく万謝候。さ て小生ら五月一日復習に応じ候まま充員召集にあいなり候ため、貴処へ立寄り申すべきはずに候 えども、御存じのとおりかかる始末にて御無礼千万の段、ひらに御海容くだされたく候。 ( 明・ 5 ・以 ) 亀井は予備役軍曹であった。予備役下士は勤務演習のための召集に応じる義務を課せられていた。 演習召集には定期演習召集と臨時演習召集の二種類があったが、この場合の亀井の応召は、師団の動 員にそなえて予備役下士の再教育を目的とする、臨時演習召集であったと考えられる。したがって、 動員下令と同時に演習召集がそのまま充員召集に切りかえられたのである。 当時の召集には、戦時の召集である充員召集、補充召集および国民兵召集、平時の召集である演習 召集、教育召集および補欠召集があった。充員召集は動員の下令により戦時定員を充足するためにお こなう召集をいい、補充召集は充員召集実施後に死傷病などで生じた欠員を補充するためにおこなう 召集をいレ 、国民兵召集は国民軍を動員するためにおこなう召集をいう。充員召集および補充召集の 召集令状の用紙は紅色と定められていたため、この戦時召集令状を一般に「赤紙」と呼んだ。
徴兵制度であった。統計上では、輜重輸卒のなかの現役あるいは第一補充兵役出身の第一線輜重輸卒 と補助輸卒隊所属の輜重輸卒とを分離した数字まよ : : オレカ後者つまり軍人とは名ばかりの、軍服を着 せられた強制労働者の数は、およそ一七、八万人内外に達したと考えられる。決して少ない人数では なかった。 笠松家に手紙を書いた兵士のうち、井上福松、岩崎民五郎、鈴木清五郎、高橋乙松、滝永平兵衛、 東藤治平、真柄武、義森作松の八人が補助輸卒隊所属の輜重輸卒である。うち、真柄は戦病死してい る。ほかに山下与吉は、歩兵第三十六連隊小行李の所属でありー 、ハ行李・大行李は第一線連隊配属の 輜重部隊であるので、現役または第一補充兵役出身の輜重輸卒であったと思われる。笠松宗一と中学 校の同級生であった浅井喜二は、第九師団予備馬廠で手紙の差出人の肩書に輜重兵と書いているので、・ 輜重兵の兵卒であった。 補助輸卒隊の兵士たち 補助輸卒隊に召集された兵士たちの手紙には、大別して二種類の傾向がある。補助輸卒隊の輜重輸・ 卒という身分に対する軍隊内および社会的な評価を意識してか、ことさらに自己の任務や立場を強調 するタイプと、その逆のタイプとである。岩崎民五郎や井上福松が前者に属し、滝永平兵衛や義森作 松をはじめとして、やや前者よりの高橋乙松をも含む他の人々は後者に属する。 岩崎の手紙は三通であるが、そのうち一通は年賀状であり、もう一通は入営あいさつの既製の印刷 はがきである。残りの一通を紹介しよう。 24 ネ
いわゆる「赤紙」は切りとり線がはいった令状と受領証とで一通となっており、市町村役場から直 接に交付され、令状を受けとった本人 ( 本人不在のときは定められた代理者 ) が受領証に署名捺印しなけ ればならなかった。令状の手渡し交付の手続きは厳密にさだめられ、郵送による送達はありえなかっ た。「はがき一枚で召集」といういい伝えはまったく根拠のない俗説である。 演習召集は演習のために在郷軍人を召集することをいい、教育召集は第一補充兵を規定された期間 補欠召集は平時において兵員の定員割れ ( 現役徴集兵の病気免役 の教育のために召集することをいい などによる ) による補欠兵員 ( 徴集順序はあらかじめきめられていた ) の召集をいう。これらの平時召集に 「赤紙」は使われなかった。なお日露開戦後、未動員の軍隊の補充を目的とした戦時召集の制度とし て臨時召集の制度が設けられたが、戦後に補充召集と臨時召集の制度が一本化され、臨時召集という 名称になった。 ヴェテランの現役曹長東藤徳蔵は「出征に際し何よりの品御恵送くだされ、ありがたく拝受いたし 候。仰せのごとく身の保養を守り、壮健の身をもって繁〔潔 ? 〕く従軍出征せん」 ( 明・ 5 ・ 2) と淡々 と書き、現役二等卒の錦古里又は「拙者こと野戦隊にくわわり従軍つかまつれる身にあいなり候あい だ、誠に仕合わせと存じたてまつり候。またこの度は何より結構なるお薬を頂戴し、ありがたくお礼 の 申しあげ候」 ( 明・ 5 ・ 5 ) といささかの気負いをこめて書いている。 ち 充員召集を受けた本田重松が「在郷中は種々の儀引立てにあずかり、過日御親切なる品物までくだ されその上御送付くだされ、お礼の申しようもこれなし。次に迂生本日無事に入隊候あいだ、御寛懐 くだされたく候」 ( 明 5 ・日不明 ) と報告すれば、おなじく召集の森下貞は「野〔生〕たまたま御地を にしごり
錦古里又 9D6 歩一一等卒 野尻北松叩 ー補充補一等卒は 1 広島開助歩伍長、ー大 2 広瀬作右衛門 広瀬栄松 藤田弥十郎 堀田秀次 9D2 野戦病院 本田重松 % 前田伊之助舞鶴海兵団 真柄武 9D8 補助輸卒隊輜重輸卒 松井利平軍艦吉野一一一等水兵 松栄博 1 < 砲少尉 松崎与之助 歩曹長 松田六松司令部憲兵部憲上等兵 松本長松 9 9 < 段列 松本伝次 摩騰義円金沢予備病院 2 分院 水本喜多松補充大隊 1 宮崎庄吉 宮田清右衛門台湾 宮田勇蔵宇品大連丸 ( 陸軍徴傭船 ) 宮原喜太松補充大隊 宮原津野松歩一等卒 宮本外蔵補充大隊 村合権大夫・ 森下長松 4 森下貞 森永敬太郎 山口新蔵 はは 1 1 封封 はは 1 11 封封 3 封 2 ははは 1 1 2 封 はは 1 2 1 は は は はは 1 1 1 3 1 封封封封封封封封封封封封封封封封封封封 2 2 2 1 2 9 4 2 1 2 2 2 1 17 はは ははは は 2 僧侶・発願寺 村 38 37 外 3 出 1523 身 2 7 15 戦戦病 戦戦 死死死 死死 封封封封封封封封封封封封封封封封封封封封封 2 2 2 3 2 1 2 10 4 2 1 3 2 2 2 26 4 2 1 1 ははははははははははははははははははははははははははは 1 3 1 2 2 3 2 2 4 1 2 2 2 3 2 2 2 1 2 1 1 1 5 24 1 38 38 村外出身 299
笠松家所蔵、日露戦争・戦後関係軍事郵便一覧表 氏名 所属部隊 入営歓送礼兵営通信出征・遣外戦地・外地入院・退院凱旋・復員備考 浅井喜二 9 予備馬廠 10 輜重兵は 1 は 2 封 7 は 4 封 3 は 1 封 2 は 1 朝倉石松 歩一等卒は 1 は 1 封つん 朝日与作 伊井勘七野戦電信隊 は」 1 封つ はは 1 封っ 0 は 1 伊井勘四郎 9D2 野戦病院付 ・ー 10 封 1 石倉石松 石倉甚松・ ー補充大隊 石村石松 9 間 封、 6 は 1 稲葉仁作・ ー補充大隊 乾坤造不明 乾亨 歩少尉 は 2 封 1 井上福松 9 加補助輸卒隊 封 4 2 」 1 井上藤松臨時弾薬歩兵弾薬縦列は 1 は 1 封ーはっ】 岩崎伊平 9 経理部 封 2 岩崎民五郎補助輸卒隊 上野山四郎 大行李は 1 封 3 宇野五郎松 梅垣一男歩少尉 大藤岩三郎予歩上等兵は 1 大藤巳之助 落田金之助後歩一等卒 落田茂 9 6 尾野辰次郎歩特務曹長 面屋弥之助大行李輜軍曹 亀井恵照歩特務曹長 川栄清吉補充隊 川越奧之助弾薬 -a 歩兵 1 縦列 川中和吉 歩一等卒 ははは 1 1 はは 1 はははは 3 1 1 1 封封封封封封 2 1 1 1 は は 3 1 封 2 封 1 人 2 ワ 封 3 封封封 1 1 2 封 1 は 1 村外出身 37 37 僧村 ・侶外 12 8 5 1 19 順身 7 病 戦戦誓 死死寺 死 2 1 3 1 1 1 4 6 1 3 2 1 8 5 3 1 3 2 2 2 10 6 はははははははははは はははははははははははははははは 1 3 1 12 4 3 1 3 2 1 6 2 2 1 1 2 1 2 2 1 1 4 11 1 1 1 村外出身 村外出身
北川菊松 9 9 2 北山和吉 桑原久太郎 1 斎藤仁太郎軍艦吾妻・対馬 ( ー大 2 ) 斎藤正真 斎藤正太軍艦日進 斎藤ロロロ・ ー補充大隊 酒井京松軍艦三笠・比叡 島田玉吉 鈴木清五郎補助輸卒隊 高崎次二 高島与造 高橋乙松 9 補助輸卒隊 高橋外蔵補歩一等卒 高橋久吉駆逐艦速鳥・軍艦吾妻 滝永平兵衛 9D1 補助輸卒隊 田中栄蔵艇隊水雷艇 補歩一等卒は 1 田中奥治郎間 田中仁吉軍艦富士 土田太郎右衛門 9 東藤治平 9D7 補助輸卒隊 歩曹長 東藤徳蔵 東藤松治歩上等兵 冨田善次郎後歩上等兵は 1 冨田惣三郎 予歩上等兵は 2 00L ・ー 堂下奥左衛門 道念七蔵 9 9 < 2 e-) 長田外吉 西川末松 9 P* 補充隊 西川忠吉軍艦吾妻 封 1 は 0 1 封 1 1 封っ 0 2 は 2 封 3 封 1 封 2 は 2 封 2 は 1 封 1 封 1 ははは はは 1 1 1 封封封封封封封封封封封封封封封封封 4 3 1 1 2 1 3 2 1 6 5 1 2 2 3 8 ははは はははは は 3 1 1 1 3 3 封 1 、は 1 はは 1 1 封 -1 は 1 38 37 3 8 7 8 25 戦戦戦 死 死死死 封封封封封封封封封封封封封封封封封封封封 封封封封封封 1 7 8 1 1 2 2 4 4 3 1 1 4 1 4 1 9 1 2 2 1 1 4 4 6 はははははははははははははははははははははははははは 4 1 2 1 3 6 5 2 1 2 7 2 2 1 3 1 2 4 3 2 9 戦死 8
封 2 山下与吉 9 小行李 封 6 は 7 山端甚之助 山本京松 9 9 < 段列 封 1 は 1 封 8 は 1 吉原岩蔵補充大隊間 封っ朝 2t2 義森作松 9D8 補助輸卒隊 吉森吉蔵 吉森由松叩ー 合計 封幻は封は引封は間封 9 は封 5 は 7 笠松家所蔵、日清戦争・戦後関係軍事郵便一覧表 氏名 所属部隊 入営歓送礼兵営通信出征・遣外戦地・外地凱旋・復員 封っ 0 封っ 0 は 1 井上藤松 3 3 < 10 浦井恵正補充大隊 浦井龍音 3 封 4 っ 封っはつ 落田金之助四、台湾本部 封りは -0 封は 00 は 1 封 3 尾野辰次郎 封 1 河原清吉佐世保鎮守府大和艦 土田四郎平 封 1 は 1 封 1 はり 東藤松次 3 2•-70 冨田岩松四補充隊 封 3 堂下奥左衛門 封 2 封つは 1 錦古里繁松輜上等兵 封 1 はは 1 野尻三代松四補充隊—e-) 広島又兵衛 摩藤義円朝鮮南浦患者宿泊所 森下長松 3 は 1 封 00 封れ 0 は 1 森永治太 6 40 1 封 1 は 1 封 1 はつ 山本才市 6 2 吉森吉蔵 3 2•-4 日露戦争に再出征 は 4 封はり封 4 は 1 封四は % 封行ーは 合計 分類は書簡の内容によって判断しておこなった。階級の記入は初出 ( 戦病死者は死亡時 ) により、その後の進級は考慮していない。「封」は封書、「は」は手 書きのはがき、「印」とあるのは定形文を印刷したはがきのことである。 2 略記号は次のとおり。ー師団、Ⅱ近衛、日旅団、»-äⅡ後備部隊、•- 日歩兵 ( 連隊 ) 、 < 卩野砲兵 ( 連隊 ) 、Ⅱ工兵 ( 大隊 ) 、Ⅱ輜重兵 ( 大隊 ) 、 -a= 大 隊、Ⅱ中隊、各符号の前に付した数字はその団隊番号である ( ー後備歩兵連隊 ) 。階級の予は予備役、後は後備役、補は補充兵役の略。 はは はは . 日・ 1 封 1 はは 封 2 日露戦争に再出征 日露戦争に再出征 日露戦争に再出征 日露戦争に再出征 日露戦争に再出征 日露戦争に再出征 日露戦争に再出征 日清戦争後入営、日露戦争出征 日露戦争に再召集 日露戦争に再出征 考 243 1 2 9 6 2 ははははははは 232 1 1 2 1 4 14 1 = ⅱ 8
四羽生村の兵士たちの奉天会戦 死闘と凍傷 馬群鄲戦の負傷兵 世界空前の大会戦 奉天会戦の第九師団 三十六連隊の北進内地からの補充兵 生き残った仕合わせ戦死はお気の毒 老兵部隊の敗走 三手紙のなかの兵士の意識と行動 一後方勤務の兵士たち 金に不自由の滞陣生活 戦地は誠に不快 商人浅井喜二の応召 「四十近くの老将軍」中国住民の苦しみ 凱旋直前に病気入院 平和風吹き凱旋待っ後方勤務の土方兵 一一それぞれの戦争体験 二人の一年志願兵 沈黙の勇者ル海軍からの通信川 「輜重輸卒が兵隊ならば」 捕虜一八〇を銃殺 南樺太占領部隊 補助輸卒の戦病死 補助輸卒隊の兵士たち 242