支那 - みる会図書館


検索対象: 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮
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1. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

00 ーー蘆溝橋 0 占拠一 = 、軍 0 溝 0 ・ = 、定河 0 、橋 0 , ~ 。 . ー。 0 聞録 0 = 0 出、 0 0 由緒あ 0 橋 をごャ 0 ーー - 指揮を 0 牟 0 廉也大佐牟田 0 ・ = 支那駐屯歩兵第一連隊長て , 蘆溝橋 0 全面衝突を指揮 0 。 35

2. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

一面ではたしかに , 上海・杭州・南京侵攻作戦の 旨を絶するはげしさ 「コロロ、 中国軍の頑強な防禦・ 抵抗戦ーーの客観的な所産であり , その点では , まず , 1937 ( 昭和 12 ) 年 12 月 21 日午後 3 時より , 軍 司令部で開かれた会合において , 中支那方面軍参 謀長より第十軍参謀長に通牒された「注意事項」 きんしゆく 中に , 「 ( 一 ) 軍紀風紀ノ緊粛確立ヲ図ルコト ( 一 支那国民ノ指導上大イニ考慮ヲ要スベキコトナル ニ付同国民ヲ軽侮セザルコト ( 三 ) 国際上ノ関係 ハ相当複雑面倒ナルヲ以テ徒ラニ感情ニ走ル等ノ コトナキ様注意スルコト」 ( 前掲『第十軍 ( 柳川兵団 ) 法務部陣中日誌』 ) とあること , ついで , 同じく 1937 年 12 月 3 日付の第十軍軍法会議の判決において , しようき 中国人民家に放火してこれを焼燬し , それぞれ懲 役 1 年・執行猶予 2 年の判決をうけた 3 名の特務兵 ( 第十二師団所属 ) への判決理由中に「・・・・・・按ズルニ 被告人等ノ本件犯行ノ動機ハ判示ノ如クニシテ畢 いず 竟被告人等ハ孰レモ教育程度低ク且軍隊教育ヲ受 クルコト日尚浅ク敵国ニ対スル憎悪ヲ無辜ノ敵国 人民ニ及ポシタル浅慮ニ出デタルモノニシテ・・・・・」 ( 『中支那方面軍軍法会議陣中日誌』 ) とあることは , そ きよう れぞれ , 留意に値するであろう。 140 海 ? ) 支局に従軍記者・特派員としてついた 26 歳 ース』で知られる虹ロサイドにあった読売新聞 ( 上 ホンキュウ 年 1 月 13 日 , ディック・ミネの絶唱『夜霧のプル ・若いジャーナリストのみた光景 1938 ( 昭和 13 ) タをさしだしておきたい。 こうした主題について , いくらか付加的なデー の小俣行男は , そののち , 中支・南支をあるき , 敗 戦後 , 「五十冊ちかくたまってしまった」「従軍ノ ート」と「新聞のスクラップ」にもとづき , 「一行 の誇張もウソもあってはならない」 ( 「あとがき」 ) という姿勢から , 中国大陸での戦闘の貴重な記録 を仕上げて , 私たち後生を益している ( 小俣行男『戦 場と記者』・ 1967 年 ) 。 そこでの小俣特派員の見聞をできるだけ忠実に ダイジェストしてみよう。 ①支局のあるピャス・アパートのすぐ前の小公 園で , 憲兵が 5 人の中国人をしばって首を切っ ていた。この虹ロサイドでは , 憲兵将校の命令 により , 罪もない中国人がスパイ容疑で斬首さ れていたという。 「日本刀というのは , よくきれますね。手を後 にいわえて , 坐らせ , 刀に水をつけてから振り おろす。スパッと首がとぶんですよ。本当に胴 から離れて宙をとんで , 三尺も前にころがるの です。切り口から噴水のように , 真っ赤な血が 三本ほど強くふき出して , それが次第に弱くな り , 首のない身体がぐたりと前にのめる。まだ つづきをやってるかも知れませんよ 」 0 ②南京市内外の随所で , 掠奪・強姦があいつい だ。日本軍の入城したときにまだ残っていた多 くの建物が掠奪・放火の対象となった ( 憲兵隊・ 法務部・軍法会議のレールにのせられた事件は , たぶん , 「九牛の一毛」に近い件数だったのでは ひとりの連絡員の話。

3. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

ひろがる侵略 1938 年 ~ 1941 年 1938 年に入ると , 日本の中国 ( 第各はさらにひろがって はのびきって , 新しい大規模な作戦を展開することが いった。 できなくなり , 戦争は「持久戦」の段階に入っていく。 日本軍は , 5 月に華中とヒを結ぶ次通の要地・徐州 この年の終りまでに , 日本は 85 万の兵力を華北以南に を攻撃 , 占領し , 8 月から 1 明にかけては , 華中の揚 送っており , 「満州」の 35 万とあわせ 100 万をこえる兵力 子江中流の中心地・漢口を攻撃 , 激戦の未占領した。 が中国 ( 第各に動員されていた。また , 日本軍の死者は また並行して華南の広東も攻撃 , 占領した。 陸軍だけで 1941 年までに 30 万人をこえ , 「支明変費」 しかし , 主要都市や沿岸を占領するだけでは中国軍と は 28 意円 ( 1937 ~ 41 年 ) にも達するという , 未曾有の 民衆を屈服させることはできなかった。日本軍の戦線 戦争となっていた ( 藤原彰『昭和の歴史』 5 ) 。 74 ーー徐州包囲作戦に向かう日本軍 1938 年 5 月 20 日 , 日本軍は徐州を占領し , 両方面 ◎徐州攻撃 軍の指揮官が「歴史的握手」をかわした ( 「東京朝 徐州は 2 つの鉄道が交差する町て、 , 華北と華中を 日新聞」 5 月 26 日号 ) が , 日本軍の作戦を知った中 つなぐ重要な位置にあった。日本は , 徐州付近に 国軍はすて、に退去したあとて、あった。天皇は「赫 集結している中国軍約 50 個師団を包囲して大きな 赫タル勝利」を「深ク満足ニ思フ」旨の「御言葉」 損害を与える作戦をたて , 北支那方面軍と中支那 を発したが , 中国軍を捕捉して打撃を与える作戦 は失敗し , 戦線だけがひろがったのて、あった。 方面軍とが南北から徐州に迫った。 1 、自一瑩 68

4. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

0 ろな部画いれ 西は襲 ウき略ら私認特た , たひ終のるた戦時こてのにな擲 カ と と っ の隊を朝なて侵か こ奪引映とら られちに戦すっ洋戦とめ代これ教 と ~ 星 7 営備兵 スるげ一 かさう国緒関あ平んたじ世そさ学 赤し国てれるでか る 大守那 真過中っさけとな ろのだ始に亡〕にで太ろれは後 , 解大 た姦てユてひ国 北か支 ア開感らで争 ちかで戦ら誤 9 がでなな制つもは 中 半わの 強に 道い的に統傷の法 たが望かの戦まにも書ど 。力と つやなく 時し営報な画後てを況方の 大めつ戦絶 北たのじりはてなるろた 十破大新のら計戦べ信状る土行にフをが三たあるう敗きとず終につ真あこ 後爆北 種知 , 敗す威な知全暴殺ラ頭態 , たがすいがで国らのこよ写でとて 日 午をて のにで , がの険を国・虐グの事もき解対と戦知中か代そにやのるつ 京 た英予 , わ年 , 感献いあ知 日線っ東こいのは道軍危実中害大やちな。私て理に 八鉄も つもの報りる真が殺京聞たうるたしのスし米でがり が実文多でに どでるたのたれ 十満を 0 軍る南新もよあっ長度リ出対点たば四たのにに人で か石たれまよってれさり本す 。どのであ成程ギみ。時つつ って後か一す 匱兵大し 日対した子どのででるイふたのかさらなし戦るので け戦に知いふ捕ぎ 撃 にたつのでた矢かあ・につ戦ならか る敗略をつに逮か にと , もは代占〔ノ、 す那し領 破撃 , 支戦占あの謀とに密にい 員つか国国っ無なは力道か開れや情と者りが世時お を な闘かな中中かてたてリのなはな何事こ験よう中のて 爆襲通る応をで年のこ動機兵な は戦ならが 城 ? をを、一オ ょに部第菊軍る行の憲た ないしいメ滅れ私はがのく体れほ戦そし に何然書たその前を筆 天因線隊戻れ一次四東あの軍 , もで非ら知軍くがってつア破ら 奉原鉄備暴この 関で軍 , はをけた知然本多由にしにに がいを気で偶をき , 述戦と一 も全日がるア布カ日本はとるまく書てど己ゞ = = ロカ一」て の満守又てず営しをがり の知ジ流国 8 日でこす後た著いれの者るえ さ大恥と破まるえ合一件て為 更突軍カ おこ爆じあさ場ル。事つ行もはもをアのの月 う喜最つうぬけ実著いあ 事衝那わ天お移 にをし 貶はなろ驚 , ま きい事 , てに 己軍支 , る道はで話た報る湖な虐在ののかて感ス 奉 両 時撃はあ鉄のと会れ情あ条こ残存る類るじ越リ年にれあにりはと生多たがれう 私で。争こならので柳おのの見オし糸 こゝ公心優ギれきがで利ぎ私』をがつ者かよ 、つ′「 1 ソた戦の的め別のでど隊でって としる勝か争下ろ知読書 本天軍の襲県から 日・支雨軍遂に交戰 我軍北大營の一部を占領 更に本天城を砲撃 北第一整のトを目下をを中 【第天 ~ 人日の第物を報】十 < 日午像一ー一時せ分わが・は北大、の支姦蓄の一駅を当中村大設は 確に官 ) 【・天〒 ^ 日第・ ~ 物報】わが・は・天ミに向って降製をおし午ャニ時 1 【 0 天十 < 日・至報】日支物突のため天駐もの第せ几をび第ュ寺置は . 望氏ネ 左のに ( わ第についた 回答 二や天守慣 0 盟中は可北大響第ま製 ニ・駐表は石見中佐引のもとに叮第の悪安物持にあたる 三・第廿れ 0 は友載様のため第におは 0 支イ兵を物スする 【第天ャハ日發ー至第報】北大物天北方三マイルにおける日支第鋼の物はなほさ かんにつゞはりれて画る天、の第 0 れを及び道守の立守・隊第ニ大隊は・動閣僚組 ( 員し出をるだの勢力を割いてす一時、に向った 愈々 , 昨ル 兩軍衝突の原因 支那軍滿鐵線を爆破 ーー第ら第 わか守備隊を襲撃す 【第天 ~ ・ ^ 日電至黛報】十日午喙ャ時北大隣の西北において第を 0 文都が掲 ! 、紀、ら 題を・籔しわが寺を製第したのてわが 0 皺は時を移女子これに、をし大をを物って 一三ロ 0 0 242

5. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

第 み 4 中隊 ケ法務局へ事件受理報告ヲ為ス。 殺人掠奪後備役陸軍歩兵上等兵 被告人第十軍後備歩兵第四大隊第四中隊 浅ロロロ 後備役陸軍歩兵少尉 吉ロロロロ 犯罪事実ノ概要 後備役陸軍歩兵伍長 高ロロロ 被告人ハ浙江省湖州ニ宿営中 同 内ロロロ 第一 , 昭和十二年十一月二十九日 , 同僚ト共ニ 後備役陸軍歩兵上等兵 金口ロロロ 野菜徴発ヲ思ヒ立チ , 付近ノ桑畑中ニ栽培シア 同 菅ロロロ リタル野菜約五貫目ヲ抜取リ , 同 小口ロロ 第二 , 被告人ハ前記野菜ヲ洗滌スペク付近ノ農 同 田口ロロ 家ニ到リ居合セタル支那婦人三名ニ之ヲ洗滌セ 同 金口ロロ シメントシタルニ , 其ノ中ノー支那婦人ハ早ロ 同 石ロロロ ニ何事力ヲ放言シ野菜ノ洗滌ニ応ズル風ナカリ 同 志ロロロ シヲ以テ , 日本軍人ヲ軽侮スルモノナリトシ所 後備役陸軍歩兵一等兵 鈴ロロロ 携ノ歩兵銃ヲ以テ同女ヲ射殺シタリ。 同 菊ロロロロ 被告人工兵第十六連隊第三中隊 同 茂ロロロロ 掠奪強姦後備役陸軍輜重兵一等兵 同 片ロロロ 上ロロロロ 同 岡ロロ 犯罪事実ノ概要 同 斎ロロロロ 被告人ハ湖州ニ宿営中 , 昭和十二年十二月十 同 大口ロロ 二日朝 , 下士官指揮ノ下ニ城外ニ糧食徴発ニ赴 同 仁ロロロロ キタル際 , 偶々被告人等ヲ避ケテ竹林中ニ潜ミ 同 山口ロロ 居タル支那婦人ヲ認ムルヤ之ヲ農家ニ引入レ強 補充兵役陸軍歩兵一等兵鵜ロロ ( ママ ) 姦シ , 尚付近ノ家ョリ鶏十数羽ヲ五十銭仕払ヒ 補充兵役陸軍歩兵二等兵七ロロロロロ テ持去リタリ」。 同 長ロロロ 「く十二月二十六日晴湖リ、 l\l 被告人ノ取調〉・・・ 同 大口ロロ 以上殺人 く被告事件ノ受理〉 第十軍野戦衣糧廠金山支部 , 左記被告事件軍兵站憲兵隊ョリ捜査報告ヲ受 殺人教唆後備役陸軍主計少尉 岡ロロ 1 3 8

6. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

」デ 3- 第 ~ 下 0 当いい、対をを 0 ′いー第第鹵も予 87 ーーー天津・日本人租界での市街戦 82 ーーー北平に到着した日本軍を歓迎する居留民 8 月 10 日 83 ーーー電線を修理する「天津治安維持会」の日本人 84 ーーー関東軍のチャハル侵略支那駐屯 軍に呼応して , 「満州」の関東軍も参謀長 東条英機中将の指揮て、チャハル侵略を開 始 , 8 月下旬に張家ロ , 10 月中旬には包 頭を占拠した。写真中央が東条中将。参 謀や高級将校を撮影したこうした写真の 多くは , 発表不許可となった 39

7. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

『土岐善麿歌論歌話』・上巻・ 1975 年 ) 。 私もまた , こでの「いのちをふたつもちしも のなし」を「実に人生の厳粛な事実」にかかわる 断定とみなしそれゆえに , 太田水穂の「愛敵思 想」云々の批判を象徴的な意識史的風景とみる。 そして , そこに , 短歌が国民的な普遍性をもった 文芸ジャンルであることの , 一種独自の光栄と悲 惨とをみいだせるように思う ( 国民意識史ーーー精神史 ・思想史と区別されたいみでの民衆の内面史ーーのデータ としての短歌の史料的価値については , 小稿「国民意識に おける日中戦争ーー戦争記・戦争吟を中心として」・ 1973 年 小著『十五年戦争史序説』・ 1979 年所収ーーーがある。 小論は , その延長線上にある習作である ) 。 ・中国人・中国兵のいる風景たとえば , つぎの ような歌の一群がある ( 斎藤茂吉・土屋文明編『支那 事変歌集』・アララギ年刊歌集別篇・アララギ叢書七十七 中山陵一首 篇・ 1940 年 ) 。 146 抗日文字を塗りつぶす吾は 墨汁と筆たづさへて学校の 援護蒋の文字に埃つもりぬ 草原にセメント撒きて固めたる おどおどと進軍の兵を見て居り 砲声の聞ゆる中に部落民は 掘出だされてならべられたり 鉄さびし地雷いくつも道のべに 戦死せる南昌大学生の跡といへば 赤き十字架に涙ぐむなり 頂に敵の焚く火のさむざむと 吹きなびく見て寝る宵ごと 蒋介石を慕ひて帰りし陳君よ 銃もちて吾は戦ひ居るぞ 機関銃座構築をせる我を 狙い射ち来る弾丸の正確にして 戦闘中発見出来ず苦しみき 敵機関銃掩蔽壕の上に佇っかも 西北に二キロ隔たる村落に 土匪出づと電話の声は鋭し 目の前に支那兵あまた死にをれど 嫌悪の感覚の絶えて久しも 命中せし砲弾に打ちあげられし敵兵の 黒きかげ二つ三つ落つるを見たり 射撃はじめし敵の機関銃は二銃なり しばらく畠に伏してうかがふ 息づまり登りし巖のはれゆけば 間近に敵の機銃座があり 血をひける路盡くる谷には 夥しき正規兵の服が脱ぎ捨てありき いぬ えいぺいごう おこ愛だ

8. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

: , 、、あれ筆 物陸 ニ = ース寫眞展會 見よ / 暴虐の支那軍を膺懲して 第炎天下に奮戦する皇軍の活躍を ⑧屋 刻刻査らされるニュース寫眞の超速報 麒為 日皇 円百五円手 ~ = 円第円十 0 を豸了響 守リハ固シ職域奉公 九日よリ三十日まて 。し九月一日 戦ひは勝っぺし ! 国民は見るべしリ 蹊英の空 號風神 ! 動出別特 勇時き壮のた側ムく死赤を從最戦 躍局肉烈个る面のジの誠見軍前雲 ! 銃に躍貎北よ突ヤ報によ記線減ー 後際る血 : をり撃ー道態 ! 各に々 捧のし ! は事提隊ナ離へ園の活た く人て沸 , ー變へ ! ツて民勇躍る ズ決の姿す北 に る支 を・・をれ・、物 れ、を・ 文和用物宿 っ・十明 主催東京朝日新聞社 最島の 阜ポ識歌 / 第をわ出 0 第こわ・を / ・・要っみ 軍第兵少附 岡譲ニ -0 影 十一れ一 ーコレクンキ の友載が費、あ 1 259 ーーーポスター・広告日常生活のあらゆる面て、戦争遂行があおられた。 1 24

9. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

議 0 ′二「をノな 0 4 々 774 ーー第 72 議会開院式に向かう天皇の行列 1937 年 9 月 す明閘府政・信所の懲膺支暴支 4 日に始まった第 72 議会は、、事変議会 " とも呼ばれ , 7 月 以来の日中戦争を国をあげて支援する議会となった。天皇 長那 の開院式勅語も近衛首相や杉山陸相の演説も , 中国に対し いしと宿 けてて ~ も な 「反省」を求め , 「一撃」「脚懲」を加えることが「東洋平和」 のらまか以ー 4 糖る、て編 の果書る ~ みをて知思の物 「正義人道」への道て、あることを強調した。そして貴族院 , 時をはなの 心応に 衆議院ともに将兵への「感謝決議」を採択し , 20 億円をこ のはるる、編 和で東民 える臨時軍事費を可決した。 い日之の掲 て支、の要 辭せ 一日街 0 ~ 、、粤 ! 0 ー 0 、 0 施せず 比象頭新 6 にト 政 を機 } 、る、しよミい長長 の反い すはて に異すびろ 。ー - 物置の設瀘貯方政・ に ~ なを設の ( ので は載い物は 古今東西の歴史において未だ管て類例をみざると ころ で , 之が将来にける結果を考える時には , 独り日支 両国の国交の為のみならず東洋の平和 , 延いては全世 界の平和の為に真に寒心に堪えないものがある。かく の如き国家に対してその反省を求むる為に , 帝国が断 乎一撃を加うるの決意をなしたことは , 独り帝国自衛 の為のみならず , 正義人道の上より見ても , 極めて当 然のことなりと固く信じて疑わぬ。・・ 近衛首相「施政方針」 = 「東京朝日新聞」 19 37 年 9 月 5 日付号外 よ 支那事変勃発以来帝国陸海軍は勇戦奮闘能く敵軍を ようちょう 撃破し , 以って其の暴戻を膺懲し武勲赫々たるものあ り。貴族院は忠勇なる我が陸海軍将校の労苦に対し深 あわ く感謝の意を表し , 併せて其の勇健を祈る。 陸海軍将兵に対する感謝決議 ( 貴族院 , 1937 年 9 月 5 日 ) * 「施政方針」と「決議」は表記を一部改めた。 775 ーー - 事変議会 ' での近衛首相の「施政方針」を伝える 新聞 ( 「東京朝日新聞」 1937 年 9 月 5 日付号外 ) 朕茲ニ帝國議會開院ノ式ヲ行ヒ貴族院及衆議院ノ各員 ニ告ク 帝國ト中華民國トノ提携協力ニ依リ東亞ノ安定ヲ確保 シ以テ共榮ノ實ヲ擧クルハ是レ朕カ夙夜軫念措カサル 所ナリ中華民國深ク帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構へ 逐ニ今次ノ事變ヲ見ルニ至ル朕之ヲ憾トス今ヤ朕カ軍 人ハ百艱ヲ排シテ其ノ忠勇ヲ致シッツアリ是レーニ中 スミャカ 華民國ノ反省ヲ促シ速ニ東亞ノ平和ヲ確立セムトスル ニ外ナラス 朕ハ帝國臣民カ今日ノ時局ニ鑑ミ忠誠公ニ奉シ和協心 サンジョウモッ ヲーニシ贊襄以テ所期ノ目的ヲ達成セムコトヲ望ム 朕ハ國務大臣ニ命シテ特ニ時局ニ關シ緊急ナル追加豫 算案及法律案ヲ帝國議會ニ提出セシム喞等克ク朕カ意 ヲ體シ和衷協贊ノ任ヲ竭サムコトヲ努メョ 第 72 臨時議会開院式勅語 ( 1937 年 9 月 4 日 ) 抑も一国が特定の他の一国を排斥侮蔑することを以 ってその国策となし , 国民教育の方針としてかかる思 想を幼少なる児童の頭悩にまで注入するが如きことは , オヨビ チンココ ンユクヤ ヒヤクカン かくかく も オョビ そもそ 55

10. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

日中 15 年戦争と中国民衆 ーーー庶民誌の立場から 日本の侵略中国 [ 解説 ] 1 . 起点 ・員数の問題 1945 ( 昭和 20 ) 年の敗戦時に , 台湾・ 「満州」をのぞく中国に駐屯してた日本軍ーー - ー支那 派遣軍・支那方面艦隊ーー - の総兵力は , 111 万 3455 名とされ , 対ソ方面以外の「外地」部隊・総兵力 274 万 6073 名に対して , その 40.55 % に相当する。 また , 同年 9 月 2 日の ( 連合国軍 ) 一般命令第 1 号に より , 管理区分された軍隊と一般邦人とのうち , 「中国軍管区」一一「満州」をのぞき , 台湾と N16 。 ライン以北の「仏印」をふくむ。ただし , 「満州」か ら国民政府管理下に引き揚げた者をふくむ一一一に 区処された者は , 311 万 6000 名とされ , 四管区合計 , 499 万 1000 名に対して , その 62.43 % に相当する ( 服 部卓四郎「大東亜戦争全史』第 11 篇く終戦 > ・ 1965 年 ) 。 この点に , まず , 民衆の戦闘体験という視 座にたっとき , 日中戦争が 15 年戦争の全構造のな かで格段に重い位置をしめる素朴な根拠がある ( このことは , 1941 年 12 月 8 日の日米戦争開始時の兵力配備 の問題としても早くから指摘されており , 日米開戦ののち も , 15 年戦争の主戦場が中国大陸であるという認定の一系 列がある一一①井上清「現代史概説」一一戦後第一次『岩波 講座・日本歴史』・ 18 ・く現代 1 〉・ 1962 年②藤原彰「太 平洋戦争」一一同『岩波講座・日本歴史』・ 21 ・く現代 4 > 1962 年③家永三郎『太平洋戦争』・第二編第四章・日本 歴史叢書・ 1968 年 ) 。 この私の小論は , この写真集の理解を深めてい ただくための , ー側面史として , これら先学諸家 136 黒羽清隆 の 1960 年代の視点のバトンをうけつぎつつなされ るものであり , 私の貧弱なしごとの系列のなかで は『日中 15 年戦争』・全 3 巻 ( 教育社歴史新書・ 1979 年 ) 工チュード につながる習作といっていい。 2 . 加害史の諸相 ・ある公式記録 1937 ( 昭和 12 ) 年 12 月 18 日 , 「南京 戦戦没日本軍将兵慰霊祭」がもよおされ , そこに まついいわね 中支派遣軍司令官・松井石根大将 , 新任の中支派 あさかのみややすひこ 遣軍司令官・朝香宮鳩彦王大将 , 第三艦隊司令長 ゃながわへいすけ はせがわきよし 官・長谷川清大将 , 第十軍司令官・柳川平助中将 らが出席した写真があるが , 当時 , 第十軍は , 「覆 めんふ 面部隊」とされており , 柳川司令官は撮影禁止 , その写真は柳川中将のみを消して , 発表が許可さ れたという ( 毎日新聞社『一億人の昭和史』・ 10 ・く不許 可写真史 > ) 。 ーーー第十軍司令官・柳川平助 , 陸士 12 期 , 陸大 24 期 ( 1912 年卒 ) , 一貫して , 騎兵畑をあゆみ , 陸 大教官・騎兵学校長・第一師団長・台湾軍司令官 をへて , 現職につき , 「日軍百万」杭州湾上陸の アドバルーンで知られる大作戦をひきい , のち , プロ その , 親「皇道派」的な傾向を近衛文麿公に買わ れ , 対中国外交の一部分を外務省からうばった問 題の興亜院の総務長官をへて , 第二次近衛内閣の 司法相 , 第三次近衛内閣の国務相を歴任している。 その柳川中将にひきいられた , 『第十軍 ( 柳川兵団 ) 法務部陣中日誌 ( 昭和 12 年 10 月 12 日 ~ 昭和 13 年 2 月 23 日 ) 』は , 「日中戦争 , 太平洋戦争下の日本軍