241- ーー上海の陸軍直営慰安所日本軍の中国女性への強姦があまりにもすさまじいものて、あったため , 司令部が自ら慰安 所開設に乗り出したといわれる。小部屋がならぶ長屋式の建物の前て、兵士たちは順番を待った じゅずつな 奥の煉瓦塀に数珠繋ぎにされていた三人の支那兵を , 分は浸っていた。三十六人 , 皆殺したのだろうか。私 あんゼん 四 , 五人の日本の兵隊が衛兵所の表に連れ出した。敗残 は黯然とした思いで , 又も , 胸の中に , 怒りの感情の渦 巻くのを覚えた。嘔吐を感じ , 気が滅入って来て , そこ 兵は一人は四十位とも見える兵隊であったが , 後の二 人はまだ二十歳に満たないと思われる若い兵隊だった。 を立ち去ろうとすると , ふと , 妙なものに気づいた。 が / 、は 聞くと、飽くまで抗日を頑張るばかりでなくこちらの 屍骸が動いているのだった。そこへ行って見ると , 重 問に対して何も答えず , 肩をいからし , 足をあげて蹴ろ なりあった屍の下積みになって , 半死の支那兵が血塗 うとしたりする。甚しい者は此方の兵隊に唾を吐きか れになって , 蠢いていた。彼は靴音に気附いたか , 不 自由な姿勢で , 渾身の勇を揮うように , 顔をあげて私 ける。それで処分するのだということだった。従いて行 まちはず ってみると , 町外れの広い麦畑に出た。 こらは何処 を見た。その苦しげな表情に私はぞっとした。彼は懇 願するような眼附きで , 私と自分の胸とを交互に示し に行っても麦ばかりだ。前から準備してあったらしく , 麦を刈り取って少し広場になったところに , 横長い深 た。射ってくれと云っていることに微塵の疑いもない。 ち 0 うちょ ひんし い壕が掘ってあった。縛られた三人の支那兵はその壕 私は躊躇しなかった。急いで , 瀕死の支那兵の胸に照 そうちょう ひきがね を前にして坐らされた。後に廻った一人の曹長が軍刀 準を附けると , 引金を引いた。支那兵は動かなくなっ た。山崎小隊長が走って来て , どうして , 敵中で無意 を抜いた。掛け声と共に打ち降すと , 首は毬のように 飛び , 血が簓のように噴き出して , 次々に三人の支那 味な発砲をするかと云った。どうして , こんな無残な 兵は死んだ。 ことをするのかと云いたかったが , それは云えなかっ そら 私は眼を反した。私は悪魔になってはいなかった。 た。重い気持で , 私はそこを離れた。 あんど 私はそれを知り , 深く安堵した。 ーーー火野葦平「土と兵隊』 ( 新潮文庫 , 1953 年 ) ーー火野平「麦と兵隊』 ( 新潮文庫 , 1953 年 ) * 「麦と兵隊』は 1938 年 5 月の徐州作戦を , 「土と 兵隊」は前年 10 月の杭州湾上陸作戦を描いた 横になった途端に , 眠くなった。少し寝た。寒さで 記録文学。 1938 年の夏から秋にかけて発表さ 眼がさめて , 表に出た。すると , 先刻まで , 電線で珠 れ広く愛読された。単純な戦争賛美の文学で はなく , 中国大陸で泥にまみれて戦う兵士の 数つなぎにされていた捕虜の姿が見えない。どうした 労苦がリアルに描かれていることが , 読者の のかと , そこに居た兵隊に訊ねると , 皆殺しましたと 共感を呼んだのであった。引用したのは中国 人捕虜を処刑する場面。処刑がきわめて日常 ム・つた。 的に行われていたことがうかがわれる。 見ると , 散兵壕のなかに , 支那兵の屍骸が投げこま れてある。壕は狭いので重なり合い , 泥水のなかに半 れんがぺい ちまみ つば はなはだ ささら 1 1 4
0 ・・ ( 『アリランの歌』より ) 。 次に , 黄海道安岳郡の富豪で民族主義者として 著名だった金氏一族の後裔 , 現在ソウルに住む金 亀亮氏の回想の一節をみよう。 安岳でも万歳運動が大きく盛り上った時有名に キムハクス なった金学洙という無名人物のことをここに記 録しておきたい。金学洙は「白丁」 ( 被差別民 ) で酒好きで知られ , かれの財産はといえば , 庖 丁一ちょうだけだった。かれは人々に蔑視され , 40 になっても結婚できず , 人々はかれと顔を合 せるのもいやがるほどだった。しかしかれは , 独立万歳の運動を契機に一躍有名になり , 英雄 の称号を受け , 愛国者として多くの人の歓待を 受けるようになった。ほろよい機嫌のかれは民 衆の先頭に立って「大韓独立万歳 ! 」を声高く 叫び , 日本の警察に捕えられたが , 酷い拷問を 受けても少しも屈せず , 「生きても大韓独立万 歳 , 死んでも大韓独立万歳」と , 大声で叫び続 けたのだった。血を吐くようなこの叫びはたち まち安岳の人々の口からロへと伝えられていっ た。人々は、日本人のいない所では、亡国の恨 みをこめて節をつけて歌うのだった。「生きても 大韓独立万歳 , 死んでも大韓独立万歳 ! 」 ( 『新 東亜』より ) 遠く満州の琿春地方に移住していた朝鮮人たち ヘクチョン フンチュン 232 も , 3 月 20 日 , はるかに国内の運動に呼応して集 会をもった。ここでは , 中国側官憲の同情的態度 するよう」呼びかけていたが , これを無視した。 本が邪路より出て世界の平和・人類の幸福に寄与 伝わらなかった。著名な「 3 ・ 1 独立宣言文」は「日 この「深キ感動」の意味が , 日本の統治者には 代史資料』 26 巻 109 ~ 110 頁 ) 。 シテ彼等ノ行動ヲ憐ミ落涙スル者アリシト ( 『現 へタリト云フ , 又警戒勤務ニ服セル支那巡警ニ 女ヲ問ハズ是天ノ命ナリト称シ斉シク万歳ヲ唱 ル , 聞ク所ニ依レバ家庭ニ残留セル者ハ老若男 般ニ深キ感動ニ打タレタルモノノ如ク観察セラ 同感ト答ヘラルルヤ有難フト謝スル者アリ , 落涙スル者或ハ他人ニ握手ヲ求メテ感想ヲ叩キ ヲ表セリ , ・・・群衆中ノ朝鮮人ニシテ感極マリ ハ脱帽シテ両手ヲ高ク揚ゲ万歳ヲ唱へ賛成ノ意 君ハ挙手ヲ乞フ」ト ( 演説を ) 結プヤ群衆一同 大義ノ為能ク身命ヲ投ゲウッノ決心ヲ有スル諸 ノ素志ヲ貫徹セザルべカラズ , 今余ノ述べタル ヲ振ルノ止ムナキニ至ルトモ身命ヲ惜マズ多年 タ川横タハルトモ否強敵アリテ銃火ノ前ニ空拳 故ニ此際我民族ハー致団結シテ仮令行手ニ山マ 和会議ハ端ナクモ韓国独立ノ機会ヲ与へタリ , ・ ( 指導者が ) 「天ハ我ヲ捨テズ , 今回ノ講 憲史料も比較的素直に状景を報告している。 により , 公然と運動することができた。日本側官
ツーを第を第 に 6 強制労働に従事させられる朝鮮人九州・八幡市。右端に監視人が立っている。 - 第朝 , 物第 釜山棧橋多くの朝鮮人がここから連絡船に乗せられ , 日本の下関まて、送られた。 ー 27 、 0 をを一物物既 夏第え一第第を第当第を第を 2 1 6
た兵隊」 , 「道の真中に」「ニュッと出てゐる」「足」 , 「砲車や , 輜重車の下敷きになって踏まれて轢か れて , 轢かれて踏まれて , ソイツをこのカンカン と暑い天日で乾かされて」「煎餅みたいになっちゃ って」いる「兵隊さん」 その「千五百から二 千は下らん」中国軍兵士の死体を日本軍兵士がカ メラにおさめる。 そして , そこでの一会話。 にそれにしても , 友軍の死体は少しもありません 「友軍たとて相当の犠牲は出てゐるのサ。然し一 方は勝ち戦 , 輜重隊がやって来る時分には , 皆綺 麗に片付いてゐるンだよ」。 私は , 南太平洋の島々の海岸でアメリカ軍のと った日本軍兵士の「死屍累々」のシーンを想起す る。「写真」は , かならずしも , つねに「真」を「写」 しはしない。「戦争写真」は , 戦争・戦闘の構造の 反映にすぎない。 ふたたび , 一首をひく ( 前掲『支那事変歌集』・戦地編 ) 。 華々しき戦勝の報書く記者も おびただしかる屍を見む ( 北支・松本基次 ) ・終りにならない終り日中 15 年のたたかいから , なにをうけとり , なにをまなぶべきか ? その解 答は , 一義的でなく , 一様でなく , 多義的・多系 的であるべきだろう。 ェチュ - ド このまずしい習作で私がこころみたのは , 虐殺 いくさ るいるい 150 ・戦闘・抵抗という構図で遭遇しなければならな かった日本・中国両民族の生態の描出であり , 「加 害者」となるところにまで「被害者」として追い つめられた日本軍兵士たち一一一日本人民衆ーーの 戦争体験のあり方のスケッチであった。 いま , そのスケッチを仕上げて , 私はせつに思 うーーー戦争史像に定型はなく , 一見 , 異端とみえ , 或る種の変型とみえる歴史像に , 戦争史像の新し い結実が顕現するばあいが少なくない , と。そし て , そのための方法的視座は , みずからの戦争史 像に , 「敵・味方」双方の「人間たち」をどう呼吸 させるかの手だてを吟味することである。いまは 亡き竹内好が林語堂の『モメント・イン・ベキン』 に登場する「道教信者の老人」について論じたこ とばを借用すれば , 「いわば最小抵抗戦線における 抗戦の民族的イデオロギイ」「追いつめられた民衆 が , 追いつめられたことをテコとして自力で立ち あがるときの掛け声」 ( 竹内好「中国人の抗戦意識と日 本人の道徳意識」・ 1949 年一一『日本と中国のあいだ』・ 1973 年 ) について , 私は考えてゆきたい。 ( 1983 ・ 2 ・ 23 )
3 大名付近 眼の鋭き少年二人 土民らのなかに我等を見てしを忘れず 南翔にて 敵軍の遺棄死体見てあはれめど 葬る間なき急追撃ぞ 2 月以来大原衛生調査班に勤務 , 多くの 山西人の屍体を集めた一首 かっ 次々に舁ぎこまれる屍体 みんな凍ってゐる , ガッガッ凍ってゐる 某日襲撃ありたれど敵殆ど全滅す さんべいせ 散兵線敷きしまま並びて倒れゐる 敵兵の服みな新しき 捕虜にせし十五六歳の少年兵の 面輪が時にうかぶことあり 9 月 15 日 逃げおくれ遂にたふれし支那兵は 変装用具持ちてありけり 数百の苦力のなかに眼光の 鋭きありて言よく解す 昭和 12 年 9 月 8 日 , 松花江に臨む小山地帯に て匪団と激戦を交へこれを殲滅す。この時我 は身に 2 弾を受けたるも奇蹟的に死を免る 匪の足跡を中に挾みてうづくまり 四五十と言ひ百とささやく 乱れ散る足の音は聞きぬ ひたむきに戦ふわれの右左に 傷つきし残敵壕の中より 鍋を投げ鉄瓶を投げて抵抗をしつ 楊柳アカシアはてなき京漢線上 遺棄死体見つつ進みし心云ひがたし 文盲階級を漢民族の総ての如く 臆面なく笑ふ無知も悲しも 対岸の支那兵のせししはぶきは 間近く聞えて吾を驚かす また , たとえば , つぎのような歌の一群がある ( 大日本歌人協会編『支那事変歌集』・戦地編・ 1938 年 ) 。 逃げまどふ敗残兵は食に餓え 山を下りてわれに挑めり 監視線通る支那人ひとりひとり 訊問すれば答は似たり 上海ニュース ゴシック赤き支那新聞に 敵といふ文字ところどころに見えはじめたり 呉淞クリーク付近 敵軍の迫撃砲弾うなりすぐる 夜半の塹壕に冴え冴えとをり 9 月 22 日大冊河激戦 死際の言葉わかねどうら若き 支那兵は母よと呼びにけむかも ほりよ おもわ よは みぎひたり 1 4 7
、きをいー て突発的な一過性の衝動的「事件」ではなかった。 例えば『白凡逸志』の著者金九は , 強烈な民族 思想の持主であるが , 植民地化直後に秘密結社新 幾つかの体験記録を紹介しよう。まず , 当時学 生で , 3 ・ 1 運動への参加をきっかけに民族解放 民会にかかわったことにより逮捕され , 猛烈な拷 闘争に身を投じ , やがて中国に渡って社会主義者 問を受けたことを記しながら , 次のようにものべ に成長していったキム・サンの回想である。 ている。 我々は先生の後について町に出た。何千人とい 最初に私の姓名をたずねた奴 ( 警官 ) が , 夜明け うほかの学生や町の人たちと列を組んで , 歌を まで休みもしないのを見て , わたしは , 奴らが いかにおのれの国の任務に忠誠であるかを感じ うたったりスローガンを叫びながら , 町の中を 取った。「奴らはすでに奪い取った他人の国の命 行進した。私は自分の心臓が破裂するのではな 脈を絶やそうとして夜を徹しているが , 私は自 いかと思うほどうれしかった。誰もかれも喜ん でいた。私は興奮してしまって一日中食事を忘 分の国を取り戻す事業のために , 何度徹夜した れていた。この三月一日には , 何百万人もの朝 ことがあったろうか」と , みずからを省みて恥 ずかしさを禁じえず , 身を針のむしろの上に横 鮮人がみな食事することを忘れたろう。我々が たえているような気持だった。「愛国者であると 通りかかった時 , 一人の白髪の老人が階段の上 「さあ , 自認していた私も , 実は亡国の民の根性を持っ に現われて , しやがれ声で叫んだ これで , 死ぬ前に朝鮮の独立がみられるぞ / 」。 ていたのではないか」と思うと , 涙が目にあふ これが私として最初の , 政治意識の目ざめ れた。 だった。大衆運動の力がまさに私の存在の根っ やがて彼は , 3 ・ 1 運動後に上海に渡り , 大韓 こまでゆすぶり動かしたのだ。一日いつばい , 民国臨時政府の中心人物となっていった。 私は町を走りまわり , どのデモにでも加わって ・民衆の体験した 3 ・ 1 運動 叫び歩き , とうとう声がつぶれてしまった。そ このように独立の 正当性についての確信に支えられた持続する志が , の夜は学校新聞の編集を手伝った。新聞には , 1919 年 , 有利な国際条件にめぐりあい , あの巨大 あの壮麗な語句を何度もくり返して書いた。私 は , 自分が世界の一大運動の重要な一部分とな な 3 ・ 1 運動の昻揚を生み出したのである。 200 万 を超える人々が自発的に行動に立ち上ったのも , り , ついに最も幸福な黄金時代が来たと信じて 以心伝心共感しあえる民族独立の思想が , 民衆の いた。その数週間後に伝わってきたヴェルサイ 中に根づいていたからであろう。 3 ・ 1 運動は決し ュの裏切りのショックは言語に絶するものだっ キムグ 231
て、 0 / 、彎ド , を、を 「お母さん会いたいおなかがすいた故郷に帰りたい」九州・豊州炭鉱の朝鮮人寮の壁に書かれたハングル 728 入る もあ 人と 「れ飯 ラ ヒ集州 な九 , レⅵえ ( す引丘〒引・三 9 ん ッ完ュ てわ - 十ノし′イ ! 、 1 & ? , 0 ブズレ が闘 をし ス社賭 、可食舞ふ第お・キ宿・半 4 を 4 、月 ネ会を 0 なよ るの 篤記た 》第な「一をを第・介己准支 年は - を可をや 4 危旨っ 亡るか 版 0 秘第 , : 方亨・箜ク屬、イ可 死れな ノられ 子等ら 妻守 《、も 4 、イ当第言小弟可ど 母のと 証約束 契 ↓ 6 、フ スルーいー 鮮時が を 4 を 4 ( 。簷又第すえ え↓、第 安乞颪 9 時れ 2 レ
海軍旗を先頭に広東に侵入する日本軍中国軍のトーチカを爆砕した煙が上がっている。 747 受けることなく , 香港の東バイアス湾に奇襲上陸 , ◎広東攻撃 10 月 21 日 , 広東を占領した。上陸以来 10 日て、広東 日本は漢ロ作戦と並行して , 華南の中心都市・広 を占領したため , 日本の新聞は「神速皇軍」「世界 たいしよう 東 ( 現・広州市 ) 攻略作戦を企てた。広東・香港ル 戦史稀有の大捷」 ( 「東京日日新聞」 10 月 22 日号 ) と ートは , 欧米からの「援蒋物資」の 80 % が通過して 報じたが , これは中国軍の主力が漢ロ防衛に集中 いたといわれ , 中国にとって重要な供給路となっ して手薄になっていたためて、あった。 ていた。この供給路を断っことが広東攻撃の大き 戦闘による日本軍の損害はわずかて、あったが , コ なねらいて、あった。 レラなどの伝染病患者が続出 , 飲料水の不足や暑 1938 年 10 月 12 日 , 日本軍の主力はほとんど抵抗を さのため , 軍馬 1000 頭以上が死んだという。 / 2
2 収、・搾取流浪・・ 日本の経済侵略 日本の植民地支配は , 1910 年代の「土地調査事業」によ っていった朝鮮の農民たちは , あてどもなく村を離 る土地収奪 , 1920 年代の「産米増殖計画」による米の れ , 見知らぬ土地で過酷な生活を送らねばならなかっ 収そして 1930 年代 , 15 年戦争下における地下資源 た。 の収奪というように , 朝鮮のあらゆる富を根こそぎ奪 目にしみるような青空の下 , ふりそそぐ陽を浴びなが っていった。 ら , 故郷の土地を奪われた悲しみを , ある詩人は「奪 1910 年代から 1920 年代にかけて , つぎつぎと上地を失 われし野にも春はくるか」と歌った。 引ーーー東洋拓殖株式会社略称「東拓」。日本が 1908 年に設立したものて、 , 毎年 , 日本政府から巨額の融資を受けて朝鮮の土 地を手に入れていった。土地調査事業の終了したころには , 7 万 8000 町歩以上の土地を所有し , 朝鮮最大の地主になってい た。東拓の小作料は一般よりもかなり高く , 収奪の方法も悪どかったのて、 , 朝鮮の人々の東拓への怨みは深かった。 地の所有権を失っていった。「調査」が終了した 19 ◎「土地調査事業」 18 年には , 全農民の 80 パーセント近くが小作農な 1910 年から 1918 年にかけて行われた「土地調査事 いし自小作農になっていたという。 業」は , 近代的な土地所有権の確定を名目にした 奪われた土地は大部分が総督府の所有となり , 総 ものだったが , 調査の実務は日本人官憲や地主た 督府はこれを日本人に安く払い下げた。小作農に ちによって行われ , 一般の農民の多くは , 期限付 なった農民は 5 割をこえる小作料のほか , 各種の きの煩雑な手つづきによる自己申告制のため , 土 追加的負担をおしつけられて貧窮にあえいだ。 170
氏は 40 年前 , 日本軍部の懐柔政策によって , 少年ラマ僧として , 京都の知恩院にあずけられた。太平洋戦争末期である。故国に 出した手紙にたいへんおなかがすくと書いたために , 文浩少年 は , 死ぬほど憲兵になぐられたという。 フホホトは青い ( フホ ) 城 ( ホト ) という意味だが , 国民党 時代は帰綏とよばれ , 日本の占領時代は厚和と変えられ , 新中 国になってからフホホトにもどった。抗日戦中内蒙古には遊撃 根拠地がっくられ , 山西省と綏遠省にまたがる解放区がっくら れた。 ここにも侵略の事実があった。中国だけではない。朝鮮はも ちろん , モンゴル人民共和国 , 東南アジア諸国 , インド , スリ ランカ , 太平洋に日本は侵略し支配した。 そのことを , おとなや教師は , きちんと自覚し , そしてそれ を子どもたちに伝えているだろうか。 みじかい中国旅行から帰り , 夏休みもおわった。 9 月末 , 教 職課程の東洋史を選択している大学生にきいてみた。 「日露戦争と朝鮮の関係について知っていることを書きなさ 33 名のうち 26 名は何も知らなかった。それでも「朝鮮の問題 から戦争になった」と書いたもの 4 名。「日露戦争後 , 朝鮮は日 噎 本の植民地となった」が 2 名。「朝鮮をめぐって日露戦争がおこ り , 日本の勝利で , ロシアに , 朝鮮における日本の優越権を認 めさせ , 朝鮮の植民地化をすすめた」と 1 人が書いた。 三 日露戦争のことは , 小学校でも中学でも高校でも学んだはず だ。それなのに , 日露戦争を学んで朝鮮や中国のことが印象に 三 のこるように学んでいないのは , 教育者の怠慢ではないだろう か。 日本の子どもたちは , 高校を出るまでに , 現代史を学んでい ないものが多い。日本の侵略の事実も学んでいない。教師が教 えていないのである。 いまはもう , 戦争体験を伝えようという時代ではない。それ が無意味だなどといっているのではない。学校教育の中できち んと教師がとりあげなければならないことなのである。 教科書にきちんと書いていない , 書かないようにさせられて いるという問題は , 正されなければならない。だが , 日本の現 行教科書は「文部省検定済教科書」だということ , 文部省は , 日本の侵略の事実をかくすか , できるだけ目立たぬように書か せようとしていることは , わかっていることである。 だから , 先に書いたような生徒を大学に送りこむのは , 教育 者の怠慢といわねばならないだろう。 本多勝ー『中国の旅』を読んだ高校 2 年生はいう。 「この本を読むまで , ばくは日本軍が中国人にこのようなしう ちをしたことは全く知らなかった。日本の教科書の内容で , な 0 244