伊藤博文 - みる会図書館


検索対象: 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮
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1. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

10 ーー - 機関銃に守られて王宮にむかう伊藤博文 1907 年 7 月 , 皇帝高宗を退位に追いこんだあと , 新皇帝純宗に会うため王 宮へむかった伊藤は , 朝鮮人を沿道から遠ざけ , 機関銃を要所に据えるなど厳重な警戒をしいた。 日本皇太子の朝鮮訪問燃えあがる反日の高まりをしずめる 12 ーー英親王と伊藤博文 1907 年 12 月 , 韓国皇太子 ため , 1907 年 10 月 , 日本は皇太子 ( 後の大正天皇 ) の朝鮮訪問を行っ 英親王は , 「留学」という名目て、日本に渡ったが , 実 たが , むろん効果はあがらなかった。 質は人質同然てあった。写真は 1908 年 , 東京て、撮影 前列右端が伊藤博文 , 1 人おいて韓国皇太子 ( 純宗の弟 , 英親王李 したものだが , 皇太子に日本の服装をさせ , 後見人 垠 ) , 日本の皇太子 , 韓国皇帝純宗 然として傍に立っ伊藤の姿は , 当時の日本の傲慢な 態度・立場を象徴的に示している。 159

2. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

: 三ツ この直後に射殺された。 ハルビン駅に降り立つ伊藤博文 20 ◎伊藤博文の射殺 一 0 0 裂待 藤一伊咲阪 彈會哩 1909 年 10 月 , 伊藤博文はハルビン駅て、 , 民族主義 をに事鑛 アンジュングン 者・安重根によって射殺された。伊藤は朝鮮植民 正膚 地化を先頭になってすすめてきたため , 朝鮮人の らん亜へ い叩公。↑日 激しい怒りを買っていたのだった。 ヒ人哈狙型新 タヒ總 = 撃話下 安重根は 800 名の義兵を率いて闘ってきた参謀中 公途しに 、 ' 覺颪 心は中て據 将て、もあり , 公判て、は , 伊藤の射殺が「私怨のた 市に東れ 朝チ死於淸は・ めの殺害」て、はなく「祖国の独立と東洋平和」の ーして鐡伊 をりも塲 受ーしのに 享に韓道藤 ためのものて、あることを強調した。日本の非を訴 け報公着 リり人當公 え , 日朝中三国の連携をじゅんじゅんと説く安重 . ムどのリ あ爲ド り狙列 - 根のことばは , 聞くものの胸を激しくゆさぶった 社・・爆調 という。 幻ーー -- - 伊藤博文の射殺を伝える号外 当時 , 岡山の第六高等学校に在学中だった哲学者 の出隆は , 伊藤の死を聞いた友人たちが「『公を殺 民のあいだには , 朝鮮への侮蔑とともに , 独立運 した韓人の肉を呉れればナイフて、みじんに切って 動に対する敵意・憎しみもうえつけられており , 切って , 切りきざんて、やる』だの又は『六高在学 ひふんこうがい 一身を投げうって独立のために殉じた安重根の心 の韓人をなぐれ』だのと悲憤慷慨」したことを記 録している ( 『或る哲学青年の手記』 ) 。日本の一般国 情をくみとることは到底て、きなかったのて、ある。 1 64

3. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

7 ーー - 「韓国統監」伊藤博文「保護条約」締結のさい全権大使となった伊藤博文は , 条約をおしつけたあと , そのまま初 代の「統監」となった。「統監」は朝鮮における実質的な独裁者て、あった。 十死 - は我・ 部第キ : ・・ 0 を第のせ官終朝盛 ◎「保護条約」と高宗の退位 四一突を 名戦謇ず交第解 : 軍礒日 戦 : ぐ官 : 隊物隊を尋覊 死せ 日露戦争に勝っと , 日本の「保護国」化政策はい 歇・ 第式 : 解 : を ての・ っそう露骨になった。 1905 年 11 月 , 元老伊藤博文 兵戦第一我 : 設 : 立 : + 8 弐式 , 會ー午外 , を 卒粤死も九ョ 、銀を - 行 , ・ , り我。実 は日本軍に王宮を包囲させたうえて、 , 自ら朝鮮政 のす中 : 午と すの 、三日 載 : 戦 : 隊た 我 . ”分午 死し死 ? 長 : 府の閣議の場にのりこみ , 脅迫的に「保護条約」 儀 : よ京つ 岳こ急 あ・司し今えーず ~ 午一 : 域や 名、・はし原 : 置四 り侖 0 朝一し筆ん九 ( 第 2 次日韓協約 ) の賛否を問い , これに調印さ 人え意街と 負 : 校 : 久第 時邸 ~ 時 ~ ! はミ笑報四 : 氏こ せた。「保護条約」により , 日本は朝鮮の外交権 に季こ蹊ミ卒え のいっさいを奪い , 「統監府」を設けて実質的な 亠・・掛 ! 相 , し を、、は 8 , 9- ー皇帝退位と軍隊解 植民地支配をはじめることとなる。 散を伝える日本の新聞 , 午相と : の前代黹大 光墻倉懿当、を 誠 「韓帝は断然譲位を拒み 「保護条約」強要の真相が伝えられると , 朝鮮の ・・よ位 : 拒 ; 京城不穏」「武装せる官 景・・位 : わて ' 元に不 ; も 0 特 民衆は憤激し , 各地て、抗議行動がまき起った。『皇 兵 , 憲兵 , 警官其他日本 中 : えを・ち : 行 . 央 , 巡査憲兵は民衆を慰撫し の土暴訂 : 城新聞』は「我が 2000 万の同胞よ , 生きるべきか , て王城に近寄らしめず厳 をつべ式ー等三ぇ 死すべきか・・・・・・ああ痛恨のきわみなり」と訴えた 。多、し準ょ决 重に警戒中なり」などと っ四”日 鑒粤大こ備す名 : ある。また軍隊の解散が が , 執筆者は逮捕投獄され , 新聞は廃刊に追いこ を ' 院 : 理・子 激しい抵抗にあったこ ま・讓 : ん、・、ゼ まれた。 も読みとれる。 ( 「東京日 日新聞』 1907 年 7 月 20 日 , 日本はさらに , 1907 年夏 , 「保護条約」が無効て、 るの。ても、て 八、・・域こ調ー儀 ' 軍・ 8 月 2 日号 ) コチョン あることを国際世論に訴えようとした皇帝高宗を スンジョン 強引に退位させ , 息子の純宗にその地位を譲らせ 事・警察権を一手に握るにいたる。 た。以後 , 高宗は 12 年にわたって日本によって軟 これら一連の朝鮮支配の政策は , アメリカ・イギ 禁される。同じ夏 , 日本はまた , 「第 3 次日韓協 リスなど「列強」の承認のもとに行われたものて、 約」をおしつけて朝鮮の軍隊を突如解散させ , 軍 もあった。 158

4. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

朝鮮 1904 年 1945 年 1. 日本による植民地化ーー 日露戦争力、ら「日韓併合」まで ◎日露戦争 ◎「保護条約」と高宗の退位 ◎義兵の闘い ◎伊藤博文の射殺 ◎「日韓併合」 ◎「武断政治」 2. 収奪搾取・流浪・・ 日本の経済侵略 ◎「土地調査事業」 ◎奪われる米 ◎朝鮮の日本人 ◎流浪する人々 3.3 ・ 1 独立運動の叫びーー 1919 年 ◎独立への熱い想い ◎過酷な弾圧 4. 関東大震災と朝鮮人虐殺 1923 年 ◎自警団による虐殺 ◎軍による拘束・虐殺 170 ー 188 178 154 5. さまざまな戦いと弾圧ーー 独立軍から抗日パルチザンまで ◎独立軍 ◎ 1920 ~ 30 年代の民衆運動 ◎上海臨時政府 ◎日本の「満州」侵略と朝鮮民衆 ◎抗日パルチサンと光復軍 6. 侵略戦争ドの朝鮮ーー 1937 年 ~ 1945 年 ◎「皇民化」政策 ◎強制労働・強制連行 ◎徴兵 ◎解放 日本植民地下の朝鮮民衆 梶村秀樹 私にとってのイ第各」 家永三郎 知るだけで九、ことではなし 鈴木亮 私にとっての & 15 本多公栄 5 246 243 241 ーー 226 206 194

5. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

山東出兵と張作爆殺 / 柳条湖事件 を侵略の拡大 / 第一次上海侵略 「満州国」と満州プーム / 満鉄 / 熱河侵攻 蘆溝橋事件と華北侵略 第ニ次上海侵略 / 南京大虐殺 徐州攻撃 / 武漢攻撃 / 広東攻撃 ゆきづまる戦況 / カイライ政権と宣撫工作 平頂山事件 / 人体実験 中国の民衆と中国軍 日本軍の素顔 / 捕われた中国人 侵略をささえたものーー・マスコミと教育 太平洋戦争下の日中戦争 / 日米開戦 つづく侵略と破壞 / 敗退する日本軍 〔朝鮮侵略〕 日露戦争 / 「保護条約」の強要 義兵の闘い / 伊藤博文の射殺 / 「日韓併合」 「武断政治」 「土地調査」 / 奪われる米 朝鮮の日本人 / 流浪する人々 1 独立運動 / 過酷な弾圧 関東大震災と朝鮮人虐殺 独立軍 / 一九ニ〇ー三 0 年代の民衆運動 上海臨時政府 / 日本の「満州」侵略と朝鮮 抗日パルチサンと光復軍 「民化」政策 / 強制労働・強制連行 徴兵 / 戦時下の抵抗 / 解放 日本の侵略中国朝鮮 解説・黒羽清隆 / 梶村秀樹 〔中国侵略〕 ほるぶ出版 821 ー 533 三 6 ー 7791

6. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

: 000 、 、二、当を 1 ダゞ一 ソウルのロシア公使館前で朝鮮国王高宗に謁見を強要する日本軍 1895 年 10 月 , 日本軍と一部民間人によって王后を殺さ れ , 王宮を脅かされた高宗は , 一時ロシア公使館に難をさけたが , 日本軍は大砲まて、もちだして国王をおどかそうとした。 明治政府は , 不平等条約など欧米から受けた痛手 1894 年の春 , 朝鮮の農民たちが反封建・反侵略の を , 朝鮮をはじめとするアジアへの侵略によって 闘い ( 甲午農民戦争 ) に立ち上がると , 日本は「居 留民保護」の名目て、大量の軍隊を朝鮮に送りこん 埋めあわせることを早くからもくろんて、いた。明 だ。そして , 朝鮮政府の依頼て、出兵していた中国 治政府の大久保利通・伊藤博文と西郷隆盛・板垣 ( 清 ) 軍と対立 , 同年 7 月には , 朝鮮を舞台に日清 退助との間て、行われたいわゆる「征韓論争」も , 戦争をはじめる。日本にとってはじめての近代戦 「征韓」そのものについては一致しており , それ て、あったこの戦争は , なによりも朝鮮の支配権を を , いつ実行するかの論争にすぎなかった。 めぐる戦争て、あった。 1876 年 , 日本はペリーの来航の仕方をまねて , 軍 日清戦争に勝った日本は , 朝鮮に対してわがもの 艦 7 隻を江華島沖に動員して朝鮮政府を脅し , う むをいわさず「日朝修好条規」を結ばせる。この 顔にふるまい , 露骨な内政干渉を行おうとするが , 民衆の怒りを背景に朝鮮政府内にも自立への動き 条約は , 朝鮮における日本人居留民の治外法権の が強まっていった。思い通りにことが運ばない ほか , 朝鮮に輸出される日本の商品に朝鮮政府が とにいらだった日本は , 1895 年 10 月 , 王宮に乱入 いっさい関税を課さないという内容をふくむ , き わめて不平等なものて、あった。日本は , 欧米に強 して , 王后の妃を虐殺してしまう。妃が反日 いられた不平等条約を , いっそう不平等なものに の黒幕て、あると勝手にみなしたためて、あった。前 代未聞のこの蛮行に , 朝鮮民衆の抗日の意識は全 して朝鮮におしつけたのて、ある。以後 , 日本の略 国にみなぎっていく。 奪的な朝鮮貿易がはじまる。 152

7. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

陳述や獄中で執筆した「東洋平和論」などを読む こうした統治者の不安感が民衆に伝染 まして , と , 自主的な開化の思想をもって世界史の流れに あの関東大震災時の朝鮮人虐殺さえ引 したとき , 立ち向かおうとした理路整然たる民族運動家であ き起したことを考えれば , ことは重大である。 侵略者の姿は全くカッコいいものではなく , 醜 ることが分る。 こうした朝鮮人の積極的思想表現から , 私たち 悪なものである。日本を弁護したいあまり , この は , 私たちに欠けている多くのものを学びとるこ ことを認めまいとするような精神は , 卑怯でひょ とができる。それは , 見ようとしなければ全然見 わである。 えないが , 見ようとする気になれば , 誰にでも見 2 . 3 ・ 1 運動は単なる「暴動」ではない えるものである。 ・「亡国の民」の情熱 私たちは逆にまた , 侵略者の側の心細さ , みつ 「いまは他人の土地ーー奪わ ともなさ , 内面の荒廃などについても知る必要が れし野にも春は来るのか・ ・・」と歌ったのは詩人 イサンファ ある。侵略する側から作られた虚勢をはった資料 李相和であった。そのほかにも , 美しくも感傷的 では , 通常それは慎重におおいかくされているも な詩が数多くある。「亡国の民」という言葉は , 日 のだが , 完全にかくしきれるものではない。 本人の文章の中にも , 旅情をそそる感傷的な意味 1906 ~ 07 年の頃 , 韓国統監として赴任し , 植民 のかぎりではしばしば登場する。 3 ・ 1 運動に理 ゃなぎむねよし 地化への軌道をしく最先端に立った伊藤博文が家 解を示した数少ない日本人である柳宗悦も , 初期 族に書き送った手紙などを見れば , かれが内心朝 には , 自分の感傷を投影させて , 朝鮮芸術の特質 鮮人の怒りをひしひしと感じており , 万一を覚悟 を「悲哀の美」という一語で概括していた。 3 ・ 1 運動の時 , 首 だが , 国を奪われることのつらさは , 単なる詩 していたことが分る。また , 相であり弾圧の総責任者であった原敬の日記を見 人の感傷ではなく , もっとリアルな民衆の生活実 ても , 「人心の変化」への不安にとらわれていた ' 感だった。 1910 年 8 月 29 日 , 完全植民地化を意味 とがよく分る。朝鮮人から独立思想を奪い去るこ する「日韓併合」条約調印が公表され , この日か とが不可能であることを感じていたからこそ , 統 ら一切の行政が朝鮮人の意志と人権を完全に無視 治者はあれほど神経質にその表現を弾圧したので して , 道義性をもたぬ銃剣のカで強行された。以 ある。植民地化の初期 , 外出するさいは必ず猟銃 後 , 民族運動家たちは , この日を「国恥記念日」 を携えて出たという農村部在住の日本人地主やそ として , 毎年独立回復の闘いへの誓いを新たにし の家族たちの精神生活は , 決して自由でも幸福で 続けた。 もなかっただろう。 植民地朝鮮では , 「世界の一等国民」をかさに着 228

8. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

ツー のことが文部省の検定方針を下から支えてきたと 写真にも , 侵略の冷酷無惨さを直視する意味でふ れる必要があるが , 歯を食いしばった朝鮮人の表情 もいえよう。 朝鮮民衆についての肯定的なイメージをもたぬ の背後にどんな生活実感があり , 無表情のうらに まま , 「侵略」を現象面からだけみるならば , そこ どんな誇り高い精神がかくされているかを , そこ に生れるのはせいぜいいわゆる同情史観であり , から読みとることはなかなかむずかしいのである。 「確かにひどいことをしたものだが , 結局相手がだ 実際は , 日本人の多くが , 日清・日露の両戦争 らしがなかったからではないか」とか「あんな気 に勝ち , 「坂の上の雲」をみつめてひたすら坂をか の毒な目にあわなくてすんだ日本に生れてよかっ け上り , 「世界の一等国」とのばせ上っておのれを た」というような考え方に到達しかねない。厳し 見失ってしまった頃 , 一見うちひしがれているよ い状況の中をもちこたえてきた朝鮮民衆の人間性 うにみえた朝鮮人の中に , むしろ人間らしさや冷 の輝きにうたれるなかで , はじめて「侵略」の真の 静な判断力が保たれていたといえる。 意味が見えてくるのではあるまいか。教科書が当 1905 ~ 10 年の植民地化の時期 , 朝鮮の教育制度 面そう簡単に変らないとするならば , 私たちの自 の日本化の任務を帯びて乗りこんだ官僚 , 俵孫一 は , 「思慮ナキ下流ノ人民ニ至ッテハ , 或ハ曰ク日 発的な営みとして , 事実に即して認識の欠落を埋 語ヲ学バシメ日本ニ送リテ日本ノ兵隊トナスモノ めていかなければなるまい。 ・見えにくい内面の想いところで , 侵略や抑圧 ナリ , 曰ク日本ノ労働者ニナス積リナリト , 浮言 流説ーニシテ止ラズ」と朝鮮民衆の危惧を一笑に の現場を示すなまなましい写真を見るたびに , い つも気になることが一つある 付したが , 実際には「下流ノ人民」の見通したと 侵略軍側は物質的条件も保証されているから , おりになっていったのであった。 えいせいせきじゃ また , 著名な衛正斥邪派の儒者で , 日露戦争後 とりすまして「威厳」と体面を保って写っている の植民地化過程に抗して義兵を挙げ , 日本軍に囚 のに対し , 抵抗する側は服装もばらばらだし苛烈 チェイクヒョン えられたまま死んだ崔益鉉は , 「信を棄て義に背く な闘いのために骨と皮というばかりにやせている。 それに , そういう写真は大抵抑圧する側から写し 日本の路線が行きづまらないはずはなく , 日本は 必ず亡びるであろう」と予言した。当時の日本人 ているから , 抑圧される側は苦痛に顔をゆがめ歯 を食いしばっていたり , 無表情ににらみかえして は誰もこの予言に耳を傾けようとしなかったが , いたりする。日本軍人がぶざまにのけぞったこと 40 年後には実際かれの予言のとおりになった。 アンジュングン だってあったろうに , そんな写真はあまり見られ 安重根は , 日本では一般に伊藤博文を暗殺した ないのである。もちろん , こうした抑圧側からの テロリストとしてだけ知られているが , その法廷 0 一三 22 /

9. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

22 ー一死刑 2 日前 , 2 人の弟 ( 左端 ) と神父 ( 後向き ) に遺言する安重根 涙ぐむ 2 人の弟に安重根は「悲しむ ことはない。祖国と民衆のためにす べてをささげたのに , なんて、悲しむ ことがあろうか」と語ったという。 23- ーー安重根を護送する馬車 いって残虐無道のことを致されました。その為に義兵 凡そ世の中では小さき虫類でも一身の生命財産の安 いわ の将校も少なからず戦死しました。公爵の政策がその 固を祈らぬものはありません。況んや人間たる者は , 通りで , 一人を殺せば十人 , 十人を殺せば百人の義兵 それらの為には十分に尽さねばならぬことと思います。 が起るという有様ですから , 施政方針を改善しなけれ 然るに公爵が統監としてのやり方は , 口には平和の ば韓国の保護は出来ぬと同時に , 日韓間の戦いは絶え 為というけれども , 実際はそれに反しています。 公爵は統監として韓国に来て以来 , 韓国の人民を殺し , ぬと思います。 伊藤公爵その者は英雄にあらず , 奸雄で奸智に長け 先帝を廃位せしめ , 現皇帝に対しては自分の部下の如 ているから , その奸智を以って韓国の開明は日に月に くに圧制し , 人民をば蠅を殺すが如くに殺してしまい 進んでいると新聞に掲げしめ , また日本天皇陛下や日 ました。 本政府に対しては , 韓国は円満に治まって日に月に進 第 3 回公判における安重根の陳述 ( 「第 3 回公 判始末書」 ) 歩しているといって欺いているので , 韓国同胞は皆其 罪悪を憎みて公を殺害するの心を起しています。人は ・・・その後十数万の義兵が起ったので , 太皇帝より詔 誰として生を楽しまざる者なく , 死を好むものではあ し 0 うしゅばうかん 勅を下し , 国の危急存亡の際 , 袖手傍観するのは国民 りませぬ。それのみならず , 韓国民は十数年来 , 塗炭 たるものの務むべき道でないということがありました の苦しみに泣いていますから , 平和を希望することは から , 国民はいよいよ奮激して今日まで日本兵と戦い , 日本国民よりも一層深いのであります。・ 今に治まりませぬ。それによって十万以上の韓国民が 第 5 回公判における安重根の陳述 ( 「第 5 回 たお 殺されました。皆それらのものも国事に尽して仆れた 公判始末書」 ) ならば本懐でありましようが , いずれも公爵の為に虐 殺され , 甚しきは頭から縄を通して社会を威嚇すると * 原文は片仮名。句読点 , 漢字など表記を改めてある。 かんゆう 165

10. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

写真提供者 / 出典 [ 中国 ] アメリカ公文書館 776 , 778 , 723 , 770 , 202 , 203 , 207 , 270 , 235 , 236 , 243 , ・ 248 , アメリカ国防総省 222 , 223 , 224 , 225 , 77 , 3 み 39 , 42 , 48 , 777 , 772 , 7 / 8 , 7 / 9 , 277 , 213 , 226 , 237 , 249 , 252 205 , 206 , 208 , 209 , 229 , 230 , 257 , 263 , 49 , 70 , 94 , 780 , 200 , 232 , 233 , 275 , 220 , 264 , 265 , 「朝鮮」 東亜日報社ーー - 28 , 30 , 37 , 57 , 52 , 53 , 87 , 88 , 89 , 97 , 54 , 32 , 5 , 6 , 34 , 55 , 92 , 72 , 36 , 58 , 94 , 734 , 78 , 38 , 68 , 95 , 736 , 60 , 720 , 722 , 723 , 125 , 67 , 62 , 63 , 64 , 738 , 739 , 740 , 79 , 22 , 24 , 25 , 26 , 27 , 39 , 47 , 48 , 49 , 50 , 76 , / 9 , 83 , 84 , 85 , 707 , 702 , 705 , 709 , 敬称略 770 , 720 , 727 , 724 , 266 , 268 , 269 , 270 , 277 , 272 朝鮮日報社ーー -87 , 86 朝鮮新報社ーー -2 , 4 , 59 , 742 65 , 66 , 735 , 汎アジア文化センタ 64 , 66 , 71 , / 4 , 7 乙 79 , 毎日新聞社一一一 9 , 74 , 75 , 193 , 794 , 195 , 196 , 207 770 , 711 , 772 , 113 , 722 , 107 , 708 , 777 , 712 , 738 アメリカ公文書館 779 , 70 , 95 , 702 , 707 , 708 , 109, 99 , 136 , 75 み 221 , 246 , 104 , 705 , 106 , 177 , 132 , 76 , 82 , 724 , 135 , 737 , 188 , 789 , 79 , 24 , 25 , 27 , 37 , 84 , 85 , 89 , 90 , 91 , 726 , 12 乙 128 , 130 , 40 , 93 , 34 , 93 , 毎日新聞社ーーーー 732 姜徳相 77 , 74 , 林えいだ 3 , 15 , 33 , 56 , 48 , 97 , 779 , 98 , 56 , 74 7 99 , 57 , 65 , 6 9 , 70 , 106, 777 , 133 740 , 767 , 22 み 24 み 741 , 762 , 228 , 250 , 744 , 774 , 237 , 257 , 146 , 四 7 , 238 , 255 , 748 , 798 , 240 , 256 , 749 , 750 , 151 , 155 , 799 , 204 , 272 , 274 , 241 , 242 , 244 , 245 , 267 , 267 75 , い 77 , 78 , 82 , 728 , 130 「施政 25 年史』 ( 朝鮮総督府 , 1935 年 ) ーーー 29 , 174 『朝鮮ってどんなとこ』 ( 高橋源太郎著 , 朝鮮印刷株式会社 , 原知之・原三千子一一一 782 , 坂上涼子 -- ー -- -- -- -183 , 786 , 790 785 , 187 , 797 , 792 『日支事変と無敵皇軍』 ( 北陸毎日新聞社 , 1937 年 ) ーーー 73 , / 6 , 81 , 83 , 86 , 103 , 714 , 720 , 234 , 239 『報道写真海軍作戦記録』 ( 支那事変記念海軍写真帖刊行 会編 , 国際報道株式会社 , 1944 年 ) - ーー 48 , 92 , 96 , 7 , 101 , 721 , 143 , 747 , 763 , 764 , 77 / 「南満州鉄道株式会社三十年略史』 ( 南満州鉄道株式会社 , 1929 年 ) ーーー 37 『朝鮮ノ過去現在及将来』 ( 小田倉徳寿著 , 1929 年 ) 42 , 727 『土幕民の生活・衛生』 ( 京城帝国大学衛生調査部編 , 書店 , 1942 年 ) - ・ - ーー 44 , 46 『満鮮』 ( 山本実彦著 , 改造社 , 1932 年 ) ーーー 43 , 45 『東洋拓植株式会社ニ十年史』 ( 1928 年 ) ーーー 35 『国境警備記念集』 ( 平安北道警察 , 1937 年 ) ーーー 80 , 103 , 104 41 , 岩波 100, 1937 年 ) ーーー 57 , 59 , 60 , 61 , 62 , 787 , 184 「満州写真帖』 ( 1927 年 ) ーーー 43 , 63 「満州国現勢』 ( 満州国通信社 , 1933 年 ) ーーー 27 , 47 「昭和七年上海事変』 ( 尚美堂・華和公司 , 1932 年 ) 32 「昭和七年上海事変記念写真帖』 ( 第三艦隊司令部 ) 30 , 28 , 35 「同盟グラフ』 ( 同盟通信社 ) 1941 年 6 月号 7 月号ーー 765 , 8 月号ーーー行 3 , 10 月号 259 , 1942 年 7 月・号ーーー 258 , 259 , 260 「世界画報』 ( 国際情報社 ) 1941 年 12 月号ーーー 16 7 , 774 768 , 769 , 「アサヒグラフ』 ( 朝日新聞社 ) 1927 年 7 月 20 日号 - ーー 7 「週刊朝日』 ( 朝日新聞社 ) 1942 年 1 月 4 日号ーー 254 「日満特報』 ( 日満経済協会 ) 1934 年 6 月号ーー -- 53 「新しき朝鮮』 ( 朝鮮総督府情報課編 , 朝鮮行政学会 , 1944 年 ) ーーーー 178 , 73 7 * 写真を提供いただいた方 , 撮影などに御協 力いただいた方に御礼申し上げます。 なお , 著作権の不明な写真があります。お 気づきの方は , ほるぶ出版まで御連絡くだ