攻撃 - みる会図書館


検索対象: 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮
58件見つかりました。

1. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

2 たーー艦隊からの砲撃の支援をうけ , 中国人の死体を越えてすすむ海軍特別陸戦隊中山路 , 2 月 5 日 29 ーーー海軍陸戦隊北停車場付近 広東街 30 ーー - 野砲による攻撃 - ーー - 閘北を爆撃する日本の水上機 28

2. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

日本軍の上海・閘北攻撃直後 , 捕えられた中国人即日 , 射殺された。 25 ◎上餠受略 日本は , 「満州国」樹立から列強の目をそらすため はるか南の上海侵略をこころみる。 上海は中国の抗日運動の最大中心地て、あったが , 共同租界を中心に 2 万数千人の日本人も居留して おり , 柳条湖事件以来 , 緊張が高まっていた。 ごんきなう 1932 年 1 月 18 白 , 勤行中の日本の僧侶 5 名が , 中 国人数名に襲われるという事件が起ると , 日本は ぞくぞくと上海に軍艦を集結させた。上海周辺に 配備されていた中国軍・第 19 路軍も臨戦体制をと 1 月 28 日深夜 , ついに市街戦がはじまった。 日本軍は砲爆撃の援護て、攻撃をくり返したが , 予 期に反して中国軍の抵抗は激しかった。日本は 「満州事変」の死傷者をはるかに上まわる 3000 名 余の死傷者を出し , 中国側は軍だけて、 1 万 4000 名 , 一般市民 2 万名前後の死傷者を出した。 3 月 3 日 , 戦闘は停止され , やがて日本は撤兵す るが , 3 月↓日にはすてに「満州国」建国宣言が 出されており , 日本のもくろみは成功した。敗戦 / 第物巐 ~ ー 後 , 当時の上海公使館付武官田中隆吉少佐が行っ た告白によれば , 僧侶襲撃事件も , 日本側が中国 人を買収して行った謀略て、あったという。 26 ・一一上海の日本租界を見まわる在留日本人 20

3. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

743 ーー漠ロ攻撃のため揚子江をさかのばる日本軍艦艇 ◎漢ロ攻撃 漢ロは , 隣りあう武昌・漢陽とあわせて「武漢三鎮」 と呼ばれ , 南京陥落以後は国民政府の諸機関が集 まっている重要な都市て、あった。 1938 年 8 月 , 大本営は「漢口付近の要地を攻略占 拠すべし」という命令を下した。日本軍は日中戦 争開始以来 , 最大規模の 30 万の兵力を投入し , 四 方面から漢ロへの攻撃を開始した。 要衝・漢ロ防衛にあたった中国軍の抵抗は激しく , 血みどろの山岳戦がくりひろげられた。熱暑の下 , 多発するマラリアの猛威による消耗もあり , 日本 軍は 2 万 2000 人にのばる戦死傷者を出した。 10 月 25 日 , 日本軍は炎と煙のくすぶる漢口に突入 , 翌 26 日 , これをほば占領したが , 中国軍の主力と蒋 介石はすて、に退去したあとて、あった。 揚子江から中国軍砲兵陣地を攻撃する日本軍の大砲 744 70

4. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

75J ーー海南島占領 1939 年 2 月 762 ーー中国兵捕虜を監視する日本兵 1940 年 1 月 25 日 ビルマルートへの爆撃日本軍は , ビルマルートに 粤漢鉄道への爆撃「西南輸血路」と呼ばれ , 中国 764 よる米英の蒋政権援助を断っため激しい爆撃を加えた。 軍にとって重要な物資ルートて、あった。 ' を 4 76 ひーーー南昌を攻撃する日本軍 1939 年 3 月 161 ーー「抗日分子」の探索上海 1939 年 7 月 ーえつかん / 8

5. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

ひろがる侵略 1938 年 ~ 1941 年 1938 年に入ると , 日本の中国 ( 第各はさらにひろがって はのびきって , 新しい大規模な作戦を展開することが いった。 できなくなり , 戦争は「持久戦」の段階に入っていく。 日本軍は , 5 月に華中とヒを結ぶ次通の要地・徐州 この年の終りまでに , 日本は 85 万の兵力を華北以南に を攻撃 , 占領し , 8 月から 1 明にかけては , 華中の揚 送っており , 「満州」の 35 万とあわせ 100 万をこえる兵力 子江中流の中心地・漢口を攻撃 , 激戦の未占領した。 が中国 ( 第各に動員されていた。また , 日本軍の死者は また並行して華南の広東も攻撃 , 占領した。 陸軍だけで 1941 年までに 30 万人をこえ , 「支明変費」 しかし , 主要都市や沿岸を占領するだけでは中国軍と は 28 意円 ( 1937 ~ 41 年 ) にも達するという , 未曾有の 民衆を屈服させることはできなかった。日本軍の戦線 戦争となっていた ( 藤原彰『昭和の歴史』 5 ) 。 74 ーー徐州包囲作戦に向かう日本軍 1938 年 5 月 20 日 , 日本軍は徐州を占領し , 両方面 ◎徐州攻撃 軍の指揮官が「歴史的握手」をかわした ( 「東京朝 徐州は 2 つの鉄道が交差する町て、 , 華北と華中を 日新聞」 5 月 26 日号 ) が , 日本軍の作戦を知った中 つなぐ重要な位置にあった。日本は , 徐州付近に 国軍はすて、に退去したあとて、あった。天皇は「赫 集結している中国軍約 50 個師団を包囲して大きな 赫タル勝利」を「深ク満足ニ思フ」旨の「御言葉」 損害を与える作戦をたて , 北支那方面軍と中支那 を発したが , 中国軍を捕捉して打撃を与える作戦 は失敗し , 戦線だけがひろがったのて、あった。 方面軍とが南北から徐州に迫った。 1 、自一瑩 68

6. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

海軍旗を先頭に広東に侵入する日本軍中国軍のトーチカを爆砕した煙が上がっている。 747 受けることなく , 香港の東バイアス湾に奇襲上陸 , ◎広東攻撃 10 月 21 日 , 広東を占領した。上陸以来 10 日て、広東 日本は漢ロ作戦と並行して , 華南の中心都市・広 を占領したため , 日本の新聞は「神速皇軍」「世界 たいしよう 東 ( 現・広州市 ) 攻略作戦を企てた。広東・香港ル 戦史稀有の大捷」 ( 「東京日日新聞」 10 月 22 日号 ) と ートは , 欧米からの「援蒋物資」の 80 % が通過して 報じたが , これは中国軍の主力が漢ロ防衛に集中 いたといわれ , 中国にとって重要な供給路となっ して手薄になっていたためて、あった。 ていた。この供給路を断っことが広東攻撃の大き 戦闘による日本軍の損害はわずかて、あったが , コ なねらいて、あった。 レラなどの伝染病患者が続出 , 飲料水の不足や暑 1938 年 10 月 12 日 , 日本軍の主力はほとんど抵抗を さのため , 軍馬 1000 頭以上が死んだという。 / 2

7. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

755 ーー共産軍に応戦する日本軍の負傷兵 1939 年 6 月 20 日ごろ , 華北・大行山脈。戦線を拡大しすぎた日本軍は「点と線」 を確保するだけの状況になっていく。 ◎ゆきづまる戦線 日本の参謀本部は , 1938 年の「年内に於いて事変 の終結を期す」ことをねらっていた。同年 10 月の 漢ロ占領は , 漢ロ周辺に国民政府の主力が集まっ ていたこともあり , これて、戦争が「終結」するの て、はないかという期待を抱く日本人も多かった。 しかし , 中国は屈服しなかった。漢ロ陥落後の 10 月 31 日 , 蒋介石は「全国軍民に告ぐるの書」を発 表して , 長期抗戦の決意を表明した。 また同じ 10 月 , 中国共産党の毛沢東も , 中央委員会総会の席 上て、 , 全民族の統一と団結によって長期持久戦を 戦いぬくことを訴えていた。 いつほ。う , 日本軍の戦線はのびきっていた。同年 11 月 , 陸軍は , 中国においてこれ以上の占領地域の 拡大を行わないことを決めた。その後も海南島のを 占領や南昌などの都市への攻撃 , 奧地・重慶やビ ルマルートへの爆撃など , 日本軍の侵略攻撃はっ づいていくが , その支配地域はしだいに広大な中 国の中の「点と線」にすぎなくなっていく。 756 ーー濁流の中を渡河する日本軍 ー 4 当〕べを / 6

8. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

2 全面的侵略の開始 1937 年 日本は , 1933 年 5 月 , 日中イ響戈軍事協定によって「満 蘆溝橋事件の 1 カ月後日本は上海への攻撃を開始し , 州国」を長城線までひろげたあとも , ヒ侵入の機会 中国軍 0 光攵しい抵抗にあうが , 11 月に占領 , 12 月には をうかがっていた。「満り乢プームが下火になって , 日 中国の首都南京を攻撃 , 占領する。この間日本は日露 本の財界も陸軍も , ヒの豊かな資源と市場に目をつ 戦争をはるかに上まわる軍隊を中国ロ庵貴したにもか かわらず , この闘いを「戦争」と呼ばず「支井郎変」 けはじめていたのである。 また , 対ソ戦に備えるためにもヒを支ドにおくこ ( 初期には「北支事変」 ) と呼んだ。「戦争」と呼ぶ名目 とカ要とされ , 「防共」「赤イび方止」の名目の下ヒ がなかったことと , 中立国からの軍需品の輸入を石崗呆 を国府から切り離す工作も陸軍を中心に行われた。 できなくなるのを恐れてのことであった。 1937 年 7 月の蘆溝橋の衝突にはじまる日中全面戦争は , しかしその名称にかかわりなく , 今世紀のアジアで こうした経緯を背景に起された戦争であった。 最大の各戦争がはじまったのであった。 ◎蘆溝橋事件と華北侵略 1937 年 7 月 7 日夜 , 北平 ( 北京 ) 郊外て、 , 日本の支 那駐屯軍の一中隊が夜間攻撃の訓練を行っていた。 10 時 30 分すぎ , いったん演習を中止しようとして 。 : 鷙尉 いたが , 兵士が錯覚したものか , 機関銃の空砲を 新物をド ! 羈い 発射した。その直後 , 演習地の南側から , 数発の 実弾射撃を受けた。清水節郎中隊長はただちに部 明て、あった。不明兵は 20 分後に発見されたが , 報 告を受けた牟田口廉也連隊長は , 翌 7 月 8 日午前 4 時 23 分 , 中国軍に対する攻撃を命令した。これ の が , その後 1945 年 8 月まて、つづく , 中国との全面 戦争の発端となった。 事件そのものは , そのころ頻発していた日中両軍 の小さな衝突事件のひとつにすぎず , 柳条湖事件 68 ーー蘆溝橋事件を伝える新聞現地にいた中国軍第 29 軍を 「札付の抗日軍隊」としている。 ( 「読売新聞」 7 月 9 日号 ) のような謀略事件て、もなかった。 8 月 11 日には現 地て、 , 蘆溝橋からの撤兵、責任者の処罰など中国 古ゴヒロ 満州国 側が全面的に譲歩する停戦協定も結ばれていた。 しかし , 同じ 11 日 , 日本の近衛内閣は「重大決意」 南ロ を表明し , 新たな軍隊派遣を決定した。そして , 日本国内と「満州」などから急派された軍隊が現 蘆溝橋 地に到着すると , 7 月 28 日 , 北平 ( 北京 ) , 天津へ 添州 の総攻撃を開始したのて、ある。以後 , 日本は華北 一帯に戦線をひろげていく。 居庸関 島 山海関 . 皇 \ 秦 密雲 / 北平 ( 北京 ) 通州 郎坊 開平 唐山 曲ノ、 定 天津 大沽 塘沽 白河 渤 海 保定 34

9. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

住ロ、 LII 6 一 員 海 海 毒 0 再度の上海侵略 日本は , 華北の総攻撃を開始した 1937 年 7 月 28 日 , 全面戦争に備えて , 揚子江流域の各都市にいた居 留民に上海集結を命じた。上海はかねてから抗日 民族運動のさかんな町て、あり , 日本人居留民も多 数いたのて、 , 情勢はにわかに緊迫した。 8 月 13 日夜 , ついに日中両軍の戦闘が開始される。 そして , 翌 14 日に中国機による爆撃が行われると , 日本は台湾・丿し州から華中の各都市への渡洋爆撃 を行い , 以後 , 制空権を握って爆撃をくり返した。 8 月 15 日 , 中国は全国総動員令を発して抗日の体 制を固め , いつほ。ラ日本政府は事実上の宣戦布告 ばうれい ようちょう ともいうべきに支那軍の暴戻を膊懲」するという 声明を発表する。 上海の中国軍は救国の意欲に燃えて激しく闘い 日本はつぎつぎに軍隊を投入したが , 3 カ月間に 4 万人の死傷者を出すという大きな損害を受けた。 しかし , 11 月 5 日 , 日本軍が大挙 , 杭州湾に上陸 すると , 背後を突かれた中国軍は南京方面へ総退 却していく。 「一ミド 物第に薹に 93 ーー上陸用大発動艇に馬や荷を積み込む増援の陸軍部隊 44

10. 写真記録 日本の侵略中国・朝鮮

大ーを ッ第一 一国 ′、 0 1 、行ーー天津租界で中国人の身体検査を行う日本兵 9 月 18 日以来 , 天津や北平には「満州」から飢え た避難民が殺到した。また , 天津て、は 11 月 8 日 , 日 本軍の謀略による暴動が起され , 混乱に乗じて旧 清朝皇帝溥儀がひそかに連れ出された。 占領した。 そして , 12 月 28 日には錦州攻撃を再開して , 翌年 日本の「満州」侵略 ( 日本て、は「満州事変」と称 1 月 3 日に占領 , さらに 2 月 5 日ハルビンまて、占 領し , 「満州」の主要都市をすべて占領下においた。 し , 中国て、は「 9 ・ 18 事変」と呼んだ ) は , さらに 日本の侵略をいきどおる中国民衆の闘いは , スト ひろがっていく。 ライキ , 日本商品ポイコットなど , 上海を中心に 1931 年 10 月 8 日 , 関東軍の飛行機が錦州を爆撃し 激しく展開されていくが , 日本て、は「守れ満蒙帝 た。錦州には , 奉天を追われた張学良が政府を設 国の生命線」というスローガンの下 , 多くの国民 また関東軍は 11 月には , 北部「満州」 けていた。 こうこうけい へも兵をすすめ , 激戦の末 , 昻々溪 , チチハルを が戦争にひきこまれ , 熱狂していった。 ◎ひろがる侵略