0 0 / い 南京大虐殺の体験を少年たちに語る生存者伍長徳さん。大虐殺の現場のひとっ , 漢西門外の護城河のほとりて、。 13 7 12 月 17 日金曜日。掠奪 , 虐殺 , 強姦は相変わら ずれたので石油は頭部にかすかにかかっただけで済ん ず行われ , 増しこそすれ減る様子もない。昨日白昼お だのだった。間もなくまた同様の負傷者が来た。前よ よび夜間強姦された婦女は少なくも 1000 人に上った。 りも更に酷かった。もちろん彼も死んだ。日本軍は機 1 人の可憐な娘は 37 回も強姦された由だ。また日本兵 関銃掃射では中には死なぬものもいるのでこのような は強姦に当たって生まれて 5 カ月の赤ん坊が泣き騒い 方法を選んだのであろう。 だというのでそれを締め殺したという。 12 月 24 日金曜日。 ・・・今日日本兵は農村師資訓練 12 月 18 日土曜日。・・・・・・午後 400 ~ 500 名の恐怖にお 学校の米国旗を降ろし , また昨夜から 2 日にわたって ののく婦女が私達の事務所にやってきて保護を求め , 7 人の日本兵は聖経師資訓練学校に押し入って婦女を 庭先で夜を明かした。 強姦した。私達の事務所の近くで 3 人の日本兵が 12 歳 12 月 19 日日曜日。完全に無政府状態に入った。日 の女子を強姦した。 13 歳の小姑娘も強姦に遭った。私 本兵の放火による火災はますますはなはだしく , 聞け 達が駈けつけたときにはすでに機を失していた。 敗残兵は自首すれば徴罰として夫役を課されるだけ ばなお数カ所を焼き払うということだ。 で , 生命は保証すると日本側は公告した。約 240 人が 12 月 20 日月曜日。暴行は相変わらずやまない。城 自芦して出た。 内は延焼で真赤だ。午後 5 時私はスミス君と同乗して ・・・聞けば機関銃の掃射を受け , また 銃剣術の練習台になった由である。 城内の最も繁華な大平路一帯を見て回ったが , 相変わ らず燃え盛っていた。南行すると日本兵が店舗に入っ 12 月 31 日金曜日。 ・・・ 12 月 19 日から今日まで日本 て放火に取り掛かっており , 更に南行すれば , 日本兵が 兵が放火しない日は 1 日もなかった。昨日クロイゲル 商品を忙しそうに軍用自動車に積み込んでいた。・・・・・・ 君は東門から帰ってきて , 彼が通った 20 マイルの途々 12 月 22 日水曜日。 では家も焼かれ人影もなく家畜も見当たらなかったと ・・・私はスパーリング君と一緒 に近所の池の近くを通ったとき引 50 人の良民の死体が 報告した。 私達は上海の日本新聞と東京日日新聞を読んだが , 転がっているのを見た。手を縛られ , その中の 1 人は のうしよう 頭蓋骨を割られて脳醤が出ていた。おそらく軍刀の犠 早くも 12 月 28 日には各商店とも続々と店を開き , 市場 牲となったものであろう。帰って朝食をとろうと帰途 も常態に復しつつあって , 日本軍は外国人の難民救済 に協力し城内の中国匪徒を粛清し , 南京は安静を取り についたとき路上で偶然にも 1 人の酔っ払った日本兵 が銃剣で青年会の会員の父親を脅迫しているを見た。 戻したと書いてあったのには , 現実の悲惨な話と較べ て苦笑を禁じ得なかった。 彼の妻は恐怖のため気が狂ったようになっていた。 12 月 23 日木曜日。 ・・・お昼 , 事務所に頭部が焼け ーリイ原著「外国人の見た日本軍の アインノヾ 爛れ , 眼も耳も切り取られ , 鼻さえも半分なくなった 暴行』 ( 評伝社 , 1982 年 ) 見るも悲惨な姿の男がやってきた。病院に入ると間も ーリイはイギリスの新聞「マンチェスタ * ティンノヾ なく死んだ。事情はこうであった。日本軍は数百人を ・ガーディアン」の中国特派員。南京大虐殺など について取材 , 整理したものを 1938 年 3 月に出版。 一団として縛り上げ , 石油をぶつかけて焼いたのであ 同年 6 月には , 国民政府の手によって日本語訳も出 る。彼もその中の 1 人であった。ただ彼の繩が少しは 版されたが , 日本軍部からは禁書扱いされたという。 66
, 気第第を、 、第を第義 79 スーー一日本兵による斬首 797 から 207 まて、の写真は , 時期や場所が はっきり確定て、きないものだが , いずれ も日本の侵略戦争下の中国て、行われた処 刑。 798 ーー一日本兵による刺殺 92
・、は第姦なを第いを・ツ嘩、。亠を 273 アメリカのワレス副大統領を出迎える蒋介石 1944 年 6 月 274 ーーー中国軍将校に講義するアメリカ兵 1945 年 3 月 ◎敗退する日本軍 日本軍は , 浙轅作戦や大陸打通作戦によって米軍 基地の一部を破壊したが , 米軍はさらに奧地の成 都周辺から日本本土や日本軍を爆撃するようにな トラックや火器など , 中国軍に対す った。また , るアメリカの援助も増加していく。 1945 年 3 , 4 月ごろには , 中国の米軍機は 1000 機 以上に達しており , 日本軍の補給線や鉄道につぎ つぎに銃爆撃を加えたため , 日本軍は夜しか行軍 て、きないほどになった。 1945 年 5 月 , 大本営は戦線を縮小する方針を出し 華南の日本軍は占領地を放棄して北部に退却 , 華 中方面軍も揚子江下流や華北に撤退していった。 米軍機の援護を受けた中国軍がこれを追撃 , 日本 軍の戦線は崩壊していく。そして , 、 8 月 9 日には ソ連が対日戦線に参加 , 空軍 , 戦車 , 大砲を擁す る 150 万の兵が「満州国」に殺到した。 せつかん 130
723 南京に殺到する日本の戦車隊 ◎南京大虐殺 中国軍が上海から退却すると , 日本軍はこれを追 って首都南京に迫った。日本軍は南京一番乗りを めざしてそれぞれが競いあった末 , 12 月 13 日 , つ いに南京を占領する。 この進撃の過程もふくめ , 南京占領にあたって , 日本軍は , 中国兵はもとより , おびただしい数の 一般市民に対しても , 殺害・暴行を加え , 放火・ 略奪を行った。その正確な数を確定することはむ あいつぎ , 天皇は 12 月 14 日 , 「・・・・・・速ニ首都南京ヲ スミ〒カ た。当時 , 日本て、は首都南京の陥落に祝賀行事が 敗戦後 , 東京裁判によってはじめて明らかになっ 界中に伝えられたが , 日本国民には知らされず , この虐殺・暴行は「南京アトロシティ」の名て、世 達した」 ( 中国小中課教科書 ) ともいわれる。 かれたり壊されたりした家屋は全市の 3 分の 1 に ずかしいが , 「殺された者は 30 万人を下らず , 焼ャ賽簽をを , 陥レタルコト , 、深ク満足ニ思フ此旨将兵ニ申伝へ士が背負ているのは , 完成直後の火焔発射器。このため コノムネ 724 ーーー南京城に迫る日本の工兵部隊 12 月 11 日。手前の兵 ヨ」という「御言葉」を発していた。 58 発表不許可となった写真
つ′ン , . ノ いらを クリークに難行する日本軍武昌 145 漢ロ攻撃中 , 負傷した日本兵中国軍の抵抗は激しく , 日本軍は 2 万 2000 人もの戦死傷者をだした。 146
23 ・一一「満州」に派遣される日本赤十字社の看護婦たち 1931 年 11 月 27 日 , 東京駅 22 ( E) ーー歓呼に送られて東京・品川駅を出発する日本の兵 士たち日本国内ては , 新聞が競って戦争報道を行い , 国 民の戦争熱をあおった。 1931 年 12 月 24 「満州」の広野に倒れた日本兵士
「密偵」として逮捕された中国人 華北 244 第い 捕虜となった中国軍の従軍看護婦 1939 年 , 華中 245 日本軍が収奪したものを運ばされる中国兵捕虜 247 246 ーー - 捕虜収容所の子ども華北 ◎捕虜たち 日本軍に捕えられた中国人たちは , 簡単に処刑さ れることも多かった。兵士て、も農民て、も同様だっ た。残された写真に見る捕虜たちの表情は , 当然 のことながら暗い 捕虜を写した写真は , 当時ほとんど発表不許可と なった。処刑を覚語した , なにごとかを訴える表 情の写真だけて、はなく , 日本兵とカくらべに興ず る捕虜の写真なども , 「捕虜となかよくする行為 は好ましくない」という理由て、不許可となった。 , 1942 年以降 , 約 2 万名の中国人捕虜が日本 に送られて強制労働に従事させられた。その中の 15 % の人が栄養失調て、死亡したといわれる。 捕虜を待つ運命は , きびしいものて、あった。 248 ・一 -- ー女性兵士をふくむ中国兵捕虜 1 1 6
ハルビンに向かう日本の戦車隊 1932 年 1 月 28 日。日本軍は 2 月 5 日にはついにハルビンも占領し , 「満州」全域の主要都市と鉄 ・な道沿線を支配下においた。 2 ー -- - 遼西攻撃に向う日本軍 19 ーー捕虜となった中国兵 遼河以西制圧作戦の手はじめに , 日本軍は盤山を占領した。 12 月 29 日 ,
日と捕虜 加害者の顔・被害者の顔 を二 . 二・・ゞ・をはをを 108 の日本人て、もあった。中国の子どもに手をさしの ごくふつう しかし , 日本軍の兵士の一人一人は , 軍」のイメージとはほど遠いものて、あった。 その実態は , 日本国内て、誇らし気に喧伝された「皇 けんでん 姦 , 放火 , 略奪などを長期間にわたって行った。 日本軍は侵略軍として , 中国人に対する虐殺 , 強 〇日本軍の兵士たち 2 引ーーーー「焼きっくす」手前は日本兵 べたり , 中国の民衆と親しげに話している写真は , 日本軍のイメージ・アップのために撮られたもの も多いが , 真情の一面を示していることもたしか て、あろう。故郷からの手紙に殺到したり , 食事に 興じたりする姿も , ごくふつうの人間のありふれ たようすだ。あたりまえの , ふつうの人間が , 侵 略戦争の狂気の中て、は , 思いもかけない残酷な役 割を担うのて、ある。
大ーを ッ第一 一国 ′、 0 1 、行ーー天津租界で中国人の身体検査を行う日本兵 9 月 18 日以来 , 天津や北平には「満州」から飢え た避難民が殺到した。また , 天津て、は 11 月 8 日 , 日 本軍の謀略による暴動が起され , 混乱に乗じて旧 清朝皇帝溥儀がひそかに連れ出された。 占領した。 そして , 12 月 28 日には錦州攻撃を再開して , 翌年 日本の「満州」侵略 ( 日本て、は「満州事変」と称 1 月 3 日に占領 , さらに 2 月 5 日ハルビンまて、占 領し , 「満州」の主要都市をすべて占領下においた。 し , 中国て、は「 9 ・ 18 事変」と呼んだ ) は , さらに 日本の侵略をいきどおる中国民衆の闘いは , スト ひろがっていく。 ライキ , 日本商品ポイコットなど , 上海を中心に 1931 年 10 月 8 日 , 関東軍の飛行機が錦州を爆撃し 激しく展開されていくが , 日本て、は「守れ満蒙帝 た。錦州には , 奉天を追われた張学良が政府を設 国の生命線」というスローガンの下 , 多くの国民 また関東軍は 11 月には , 北部「満州」 けていた。 こうこうけい へも兵をすすめ , 激戦の末 , 昻々溪 , チチハルを が戦争にひきこまれ , 熱狂していった。 ◎ひろがる侵略