日本帝国主義は中国を独占し , 中国をその植民地に 質釜健不物鹵・鋼・盟・・各 、響電内編 角中 中第ロの 変えるため , ひそかに長期間たくらんでいた全面的な ー画ま 4 要員 第■事赴 、我き 物衂を青慶等 企ま・第 製第セ學 中国侵略戦争をひきおこした。 1937 年 7 月 7 日夜 , 日 ・・表十■ 第・違地第第太 共ミ 第第時 しっそう ′響 本軍は 1 人の兵士が失踪したことを口実に , 北平西南 第を 1 や冊・ えんべいしよう 真物 の宛平城 ( ワンピンチャン ) 内部に進入して捜索しよ 車血中 を ! 物・ tt うとした。現地の駐屯軍はこのすじ道の通らない要求 を拒否した。日本軍はついに宛平城に向かって射撃を ろこうきよう ま物・ 開始し , 同時に蘆溝橋 ( ルーコウチャオ ) を猛烈に砲 撃した。わが国の駐屯軍は全国人民の抗日の熱いたか 第食 風物禽 まりの影響下にあったので , 奮いたって反撃した。 れが「蘆溝橋事変」である。これより , 中国革命は抗 第・ 第の 日戦争の時期にはいる。 ほくへい 2 日目 , 中国共産党は抗日宣言を発表し , 「北平 ( ペイ ピン ) , 天津 ( テンシン ) に危機が迫っている ! 華北に 危機が迫っている ! 中華民族に危機が迫っている ! 全民族が抗戦を実行することだけが , われわれの活路 錦 0 員 なのだ ! 」とたからかに叫び , 全国の人民が団結して民 族統一戦線の堅固な「長城」を築き , 日本侵略者を中 1 ま - 会まま要 国から駆逐せよ , とよびかけた。全国の人民は熱烈に 中国共産党の主張を支持し , 一致して日本と戦うよう 87 ー一日本侵略者を中国から駆遂せよ , とよびかける中国 共産党のビラ蘆溝橋事件の翌日出されたもの。日本に対 要求した。華北の広範な人民は非常な勢いで抗戦の列 して決然とした措置をとらず , あいまいな態度をとりつづ に身を投じた。 ・・・戦地の農民は食料や草を供出い ける国民政府にあき足らない労働者や農民 , 市民たちはっ 道路を修築し , 負傷兵をかつぎ , 弾薬を輸送した。 ぎつぎと抗日戦線に加わっていった。統一を要求する中国 ・・・大学教授も宣言を発表し , 中国軍の抗日行動を支持 国民の強い声におされ , 国民政府もついに国共合作にふみ きり , 正式に抗日民族統一戦線が成立する。 し , 同時に国民党政府に陸海空軍を出動させて , 北平 , 天津を防衛するため戦うよう要求した。 蘆溝橋の砲声 , 華北の烽火は , 全国の人民を抗日救亡 の道へと向かわせたのであった。 7 月 15 日 , 中国共産党は「国共合作宣言」を提起し , これを国民党に送ると同時に公表した。一方周恩来 ( チョウ・イエンライ ) らを派遣して国民党政府と抗日 民族統一戦線を樹立する問題について交渉した矼しか し国民党政府はまだ動揺していて , 日本と交渉するこ とを考え , 妥協し投降する準備をしていた。 8 月 13 日 日本侵略軍は大挙して上海 ( シャンハイ ) を攻撃し , 進撃して南京 ( ナンキン ) に迫ろうとくわだて , 国民 しようかいせき 党政府に完全な投降を迫った。これは蒋介石 ( チアン チィエシー ) 集団の政治権力と利益を直接脅すもので あり , またアメリカ , イギリス帝国主義の中国におけ 論 る権益を損うものであったので , 国民党政府は対日作 戦にふみきるよう強いられたのであった。国共両党の 協議を経て , 8 月 22 日 , 西北の主力紅軍は国民革命軍 はちろぐん しゆとく 第 8 方面軍 ( 略称八路軍 ) と改称され , 朱徳 ( チュー・タ はうとくかい ー ) を総司令 , 彭徳懐 ( ポン・ターホワイ ) を副総司 ようけんえい 令 , 葉剣英 ( イエ・チェンイン ) を参謀長に任命した。 中華人民共和国・全日制十年制学校初中課本「中 国歴史』 = 野原四郎 / 斎藤秋男編訳「世界の教科書 = 歴史中国」 ( ほるふ出版 , 1981 年 ) * 蘆溝橋事件とその後の日本の侵略 , 中国側の抗日 の動きなどについての中国現行教科書の記述。 しゅうおんらい を . ~ ト十十 を」を 88 ーー抗日民族統一戦線「中華民族万歳」のスローガン の上には , 中華ソビエト共和国旗と国民政府の青天白日旗 が並んて、いる。前年 12 月 , 共産軍との内戦をつづけようと する蒋介石を張学良が監禁して抗日を説き , 共産党の周恩 来が調停にあたった結果 , 国共両軍の内戦を停止すること て、合意がて、き蒋介石が釈放されるという経緯があった。
年以後には , 朝鮮に最も近い長白県地方に根拠地 夜学ヲ開キ之等ヲシテ主義的ニ覚醒セシムル」ば キムイルソン をおいて金日成の指導する祖国光復会が結成され かりでなく , 「父兄中ニモ近時極度ノ農村疲弊ヲ悲 観シ暗ニ之等ノ言辞ニ共鳴スルモノアルニ至」っ た。少なくともこの時期の日本帝国主義側からみ ていたといい , 実質上 , 農民組合が主導する農民 て , これが最大の脅威と目されていたことは事実 の生活圏への官憲の介入を許さぬ二重権力状態を である。また苦しい条件の中でもちこたえている 創り出していた。この史料には定平郡下のある村 国内民衆の脳裏に , 伝説的英雄としての「金日成 の公会堂付属図書室の蔵書リストが紹介されてい 将軍」の名が印象づけられたことも確認できる。 るが , 改造社版『マル・エン全集』とか『帝国主 もちろん , こうした民衆の志向は南部朝鮮でも 義論』『史的唯物論』はもちろん , 『婦人論』『消費 共通であり , また単純に社会主義のイデオロギー 組合の将来』『太陽の国』『ュートピア』『相互扶助 とのみ結びついていたわけではない一例として , 論』『田園工場』『資本蓄積論』などがあり , その 1935 年 , 『東亜日報』に連載された小説『常緑樹』 内容の豊富さ , 多彩さに驚かされる ( 『定平農民組合 のあらすじをみよう。 新聞社の主催する「プ・ナロード運動」に 検挙概況』による ) 。 各地方のこうした「思想悪化」状況に , 官憲側 応じて夏休みに農村の「文盲」退治運動を実践した も一時はさじを投げていた観があり , 表面的には 一組の青年男女が , 単に一時的に文字を教えるだ 思いどおりに政策が貫徹しているかのごとくキャ けでは , 農民の惨胆たる状況は少しも変らないと ンペインしていながら , 内部の秘密資料では「従 感じ , また都会で優雅に暮しながら上から号令を 来「火田民』と蔑視せられ全く吾人の生活と游離 かけて民衆を指導するような知識人のあり方に疑 した存在の如く思考せられていた国境地帯住民が 問を感じるようになる。そして , 学業を投げうっ 共産匪と相通じて果敢な抗日人民戦線運動を展開 てそれぞれ別々の農村に入りきってしまい , 農民 したことは , まことに吾人の悲しい異であった」 と同じ生活をしながら共に生きる道を見出そうと などと慨歎していたのである ( 『思想彙報』 20 号 ) 。 する。かれらは互いに連絡をとり , 励ましあいな 上の引用にもみられるように , こうした国内農 がら , 児童教育はもちろん , 青年たちを組織して 民の闘いとも連携しながら , 国境をこえた満リ、側 共同耕作を行ない , 自力で運動の拠点となる会館 の移住農民を基盤に強力に展開されたのが「抗日 を建設し , 村民の新しい生活と団結を創造してい こでは , より有利な こうとする。かれらの前には地主の妨害 , 官憲の パルチザン」闘争である。 条件に恵まれて , 30 年代前半には一時は小規模な 弾圧等次々に試練がふりかかるが , 粘り強く闘い がら 7 つもの解放区が成立していた。 方を工夫していく。彼は一時は投獄までされ , 彼 ことに 1936 0 一三 236
2 収、・搾取流浪・・ 日本の経済侵略 日本の植民地支配は , 1910 年代の「土地調査事業」によ っていった朝鮮の農民たちは , あてどもなく村を離 る土地収奪 , 1920 年代の「産米増殖計画」による米の れ , 見知らぬ土地で過酷な生活を送らねばならなかっ 収そして 1930 年代 , 15 年戦争下における地下資源 た。 の収奪というように , 朝鮮のあらゆる富を根こそぎ奪 目にしみるような青空の下 , ふりそそぐ陽を浴びなが っていった。 ら , 故郷の土地を奪われた悲しみを , ある詩人は「奪 1910 年代から 1920 年代にかけて , つぎつぎと上地を失 われし野にも春はくるか」と歌った。 引ーーー東洋拓殖株式会社略称「東拓」。日本が 1908 年に設立したものて、 , 毎年 , 日本政府から巨額の融資を受けて朝鮮の土 地を手に入れていった。土地調査事業の終了したころには , 7 万 8000 町歩以上の土地を所有し , 朝鮮最大の地主になってい た。東拓の小作料は一般よりもかなり高く , 収奪の方法も悪どかったのて、 , 朝鮮の人々の東拓への怨みは深かった。 地の所有権を失っていった。「調査」が終了した 19 ◎「土地調査事業」 18 年には , 全農民の 80 パーセント近くが小作農な 1910 年から 1918 年にかけて行われた「土地調査事 いし自小作農になっていたという。 業」は , 近代的な土地所有権の確定を名目にした 奪われた土地は大部分が総督府の所有となり , 総 ものだったが , 調査の実務は日本人官憲や地主た 督府はこれを日本人に安く払い下げた。小作農に ちによって行われ , 一般の農民の多くは , 期限付 なった農民は 5 割をこえる小作料のほか , 各種の きの煩雑な手つづきによる自己申告制のため , 土 追加的負担をおしつけられて貧窮にあえいだ。 170
私にとっての「侵略」 ニ郎 家水ー 明治憲法 = 教育勅語体制のもとで , 小学校では国定教科書 , 中学校では検定教科書でそれぞれ教育を受けてきた私にとり , 朝鮮や中国への「侵略」を認識する契機は存在しなかった。当 時の大日本帝国では , ユニオンジャックの旗のひるがえるとこ ろ日の没することがない , と言われる , 全世界に植民地を有する 大英帝国があこがれの的とされており , 明治維新以後 , 日本が 日清・日露の両戦役で大勝利を得 , 台湾・樺太・関東州・朝鮮 などの植民地を獲得し , 第一次大戦に参戦して世界五大強国の ーに列することになったとのほこりに大多数の国民が酔いしれ ていたのであるから , そういう雰囲気のなかで成長した私が , 周 囲のオトナたちの意識に疑問をいだく余地はなかったのである。 植民地支配国家の一員であっても , 内地から一歩も出なかっ た私には , 植民地での被支配民族のおかれていた境遇は想像す ることもできなかったし , 新聞等にも植民地の支配状況はほと んど報道されなかったから , 平凡な市民の間に被支配民族のこ とを真剣に考えるきっかけもとばしかった。内地に大勢の朝鮮 人が移住していたとしても , 私が彼らと接触する機会はなかっ たから , 私にとって被支配民族の問題は意識の内にまったく入 ってこなかった。 少年時代にそのことに多少なりともふれた思い出を求めると すれば , 小学校四年生のときに関東大震災が起り , 「朝鮮人が井 戸に毒を入れる」という流言を聞いた記憶がある程度で , その ときに発生した朝鮮人虐殺事件は小学生の私の耳目にはついに 達しなかった。 小学校の五年か六年のころ , 台湾の少年が転校して私の学級 に編入されたことがある。担任の先生は , 差別どころか私たち に国語の自由でないその少年をいたわるように注意したし , 私 たちも彼を暖く包んだと思っている。植民地被支配住民と直接 に接触した唯一の体験であるが , 結局植民地問題を考えるいと ぐちとはならなかった。 むしろ中国に対する差別意識のほうが , いっそう強く周辺に あった。日清戦争以来の中国蔑視が , 前期の強大国日本という 優越感と組み合わされて広く世間にゆきわたっていたように思 われる。「チャンコロ」という言葉が平然と使われていたのは , その顕著なあらわれである ( しかし , 私は朝鮮人蔑視の「ヨボ」 という言葉は一度も聞いたことがなかった ) 。 私が旧制高等学校に入学した 1931 年の 9 月に柳条湖での鉄道 爆破事件が起り , 15 年にわたる中国への侵略戦争が始まった。 当時の新聞の実物を今日でも大切に保存しているが , そこには 次のような見出しが掲げられている。 奉天軍の襲撃から 日支両軍遂に交戦 我軍北大営の一部を占領 24 1
、〔を、物」望、第イ を、 4 を第を であった。これは , 全羅南道光州での日本人学生 量では官憲をしのぐことができない時 , 機動的に による朝鮮人女学生侮辱事件とそれによる日・朝 支援しあえる陣型をつくり出していた。例えば , 学生間の争闘 , それに対する官憲側の一方的で不 1929 年夏 , 辺境の甲山郡で , 官憲が乱暴にも火田 当な対応への怒りを発端として , 全国的に各級の 民の集落を焼き払って住民をあてもなしに追い出 学校の朝鮮人学生が一斉に同盟休校で立ち上った すという事件が起きたとき , 全国各地で支援の行 こうした闘争の中で若い活動家の層が 動が組まれ , 民族紙がキャンペインをはり , っ ものだが さらに厚くなっていった。 した「社会世論」を総督府といえども全く無視す ・ 30 年代農民運動と抗日パルチサン こうした経 ることができなくなって , 代替地を与えるなど一 過の延長線上に生れたのが , 社会主義の理念に導 定の譲歩を余儀なくされたのであった。 かれて新しい社会を展望する , 1930 年代のいわゆ 教育問題も身近な問題としてよくとりあげられ る赤色農民組合運動である。これこそまさに地域 た。一例として , 新幹会以前の事例だが , 慶尚北 の農民自身が主体の運動であった。単に鋭く官憲 道金泉公立普通学校保護者会 ( 普通の父母の組織 ) が , や地主と対決したというだけでなく , 消費協同組 1926 年 5 月 28 日 , 「朝鮮語普及の件」につき次のよ 合を運営し , 逮捕者の家族のためには共同で田畑 うな決議をしている。 を耕して助け , また「学ぶことはカだ」「学んでこ そ生きられる」のスローガンのもとに文化から疎 普通学校は朝鮮人を本位とする教育機関である 外された農民の子弟のための農民夜学を開き , 生 が , 今日の普通学校は日語を専用し , 以て朝鮮 活ぐるみの団結を実現していた。 人をして朝鮮語を忘却せしめ , 幼時より日本の この時期の農民組合運動が最も強力だったのは , 精神を注入せんとするものである。だから我々 東北部の咸鏡道地方であるが , 一例として定平郡 は朝鮮人として朝鮮語を忘れぬよう奨励するた の農民組合をみよう。 1930 年頃 , 人口 8 万弱のこ め , 朝鮮語の時間を増加するよう全朝鮮に社ム の郡の農民組合が , 9 支部 133 班 , 青年層を中心に 的与論を喚起し , 以て積極的運動を開始する。 4 , 602 名の正組合員を擁し , 59 の会館と 37 カ所の夜 ( 「東亜日報』より ) 。 学をもっていた。官憲史料によっても「青少年ニ こうした当然の決議がなされるだけで , 当局側 シテ革命歌ヲ知ラザル者ナク , 青少年婦女子ノ多 が色めきたつような状況があった。 1929 年末から クハ毎夜ノ如ク彼等ノ集会所ニ集合シテ革命ヲ語 30 年にかけての光州学生運動も , 「朝鮮人本位の教 リデモノ練習ヲ行ヒ或ハ警察官又ハ官庁ノ襲撃演 育」を取り戻そうとするこの時期の代表的な闘争 習ヲ為シ , 幼少年ニ対シテハ文盲退治ヲ名トシテ カフサン 235
プノと = ・プ - 十十・ の時に一に化開いたのである。そして 3 ・ 1 運動 の中で目ざめた多くの若者が , 以後 , 民族解放の 闘いをいっそう発展させていった。私たちは , 教 科書にもそれだけは辛うじて出てくる 3 ・ 1 運動に ついての知識を手掛りとして , さらに視野を民族 運動の全体像に拡げていくべきなのである。 3 . 1920 ~ 30 年代の民衆運動 ・新幹会運動の時期朝鮮の民族解放闘争は 3 ・ 1 運動の軍事力による鎮圧をもって終ったわけで はない。それどころか , それ以後にむしろ , 民衆 の中により広い基盤をもっ質の高い運動に発展し ていったのである。 それなのに , 現在の教科書がそれをいこじに無 視しているのは , どういうことだろうか ? 光リ、 N 学 生運動も元山ゼネストもあるいは新幹会や農民運 動のことも , 全然出てこない。今日の南北の国家 形成の淵源にかかわる大韓民国臨時政府や抗日パ ルチザン・祖国光復会のこともほとんど取りあげ られていない。これでは朝鮮民衆史の一貫した流 れが見失われてしまう。 ところで , 韓国の歴史学者姜万吉氏は , 近代ナ ショナリズムの発展段階を 3 期に区分する見方を 提唱している。即ち , 19 世紀後半の国家主義的ナ ショナリズムの段階 , 20 世紀初頭から 3 ・ 1 運動 期にかけての有産市民主導の国民主義的ナショナ リズムの段階 , そして 20 年代以後に始まり 1945 年 解放後に展開する民衆が主体の民族主義的ナショ カンマンギル 234 ナリズムの段階である。この現在まで続く第 3 の 段階はまた , 民衆運動がイデオロギー的に分岐し て解放後の南北分断体制をもたらすにいたり , の「分断」を克服して民族の統一を回復すること こそが民衆の課題である時代でもあるという。 確かにロシア革命の成功ととりわけレーニンが 鮮明に打ち出した反帝国主義の姿勢は , 当初 , 急 進的な民族主義者に好意的に受けとられた。 20 年 代初頭から多くの若い活動家たちが系統的にマル クス・レーニンの理論を研究するようになり , そ の一部はやがて自ら社会主義者となって既成の民 族主義を批判していく。かくして , 1925 年にはソ ウルに , 朝鮮共産党が結成された。 しかし , これは完全な地下組織で大きく成長す ることができず , 民衆運動が大きな拡がりをもっ と同時に社会主義が土着化する契機ともなったの は , 1927 ~ 31 年の新幹会運動であった。 新幹会は , マルクス主義者と非妥協的な民族主 義者が協同戦線を組んで創出したものである。民 衆が生活の現場で民族解放を闘う全国的大衆運動 体で , 最盛期には 140 余の支会と 4 万余人の会員 をもった。各支会は自律的に地域での具体的な民 族問題をとりあげ , 幅広い大衆運動を組織した。 新幹会運動の中で , 民衆の多くが社会問題に目を 開き , 万民が共に生きられる社会をめざして , い かに闘っていくかを体得していった。 全国的に張りめぐらされた献身的な地域活動家 の目にみえないネットワークは , 地域内だけのカ
0 を。 86 ーー - 黒板に書かれた抗日決起をうながすスローガン 87 ( 左 ) ーー農村啓蒙運動 1932 年頃 掛早科ー 外己一刃科ー 動三しト旦期生率 報日東価主 88 ーー - 「ヴ・ナロード」を 呼びかけるポスター東亜 日報が主催したもの。民族 をの独立と自立をめざして , 文化から隔てられた農民の 中て、識字教育と意識変革を 第追求した。 い廠し ソウルの西大門刑務所 日本の植民地支配に抗して闘った人たちの多くが投獄されていた。 1934 年 89 197
第朝扉 ンン 者成 放日 マッす 都己 コカ 「世ガ ロる し」・ら 万像 る外争弓外可阜ゼだキせら 7 帥肖 元の 2 ーーー解放の日 , ソウル西大門刑務所から出てきて解放 万歳を叫ぶ政治犯たちと , これを歓迎するソウル市民たち ◎解放 1945 年 8 月 15 日 , 日本はポッダム宣言を受諾 , 降 伏した。 日本の敗戦は , とりもなおさず , 40 年におよぶ日 本の朝鮮植民地支配が終わったことを意味した。 その日 , 朝鮮の人々は国民服やモンべを脱ぎすて て朝鮮の服を着 , 太極旗をかざして「方歳 ! 」の 叫びをあげた。 こうして , 政治的にも経済的にも精神的にも , 朝 鮮をふみにじってきた日本の朝鮮侵略は終わりを 告げたのて、ある。 225
37 ーーー「満州国」国務院と参議府いずれも実体はなく , 日本の支配をおおい隠すためのものて、あった。 ◎「満州国」と「満州」プーム 1932 年 3 月 1 日 , 「満州国」の建国が宣言された。 長春が「新京」と名を改められて首都となり , 「大 同」という年号も定められた。元首ともいうべき 執政には , 天津からひそかに連れ出されていた清 朝最後の皇帝溥儀が就任した。 建国宣言には「王道楽土・五族 ( 漢・満・蒙およ び日・朝 ) 協和」の理想がかかげられていたが , いたるところに日本人が入りこんて、行政の実権を 握り , 関東軍司令部が事実上の「満州国」政府て、 あった。 日本国内て、は , 新聞・雑誌・ラジオが、、満蒙プー ム ' ' をあおり , 経済恐慌のあおりをうけた資本家 や失業青年たちが , プームにのって「満州」 りこんて、いった。日本人移民のための土地は関東 軍の指揮のもと , 極端な安値て、現地農民から強制 収用された。 土地収奪や重税に苦しむ中国人を関東軍の武力て、 脅かすことによって「満州国」は成り立っていた のて、ある。 24 38 ーーー執政溥儀と秋鴻夫人
奢新 0 45 ー -- - 「満州」へ出発する移民団東京駅。日本人移民のための土地は , 現地農民から強制収用した。 京 の月 溥年 けふの御儀な 皇天の璽を拜し 要に・ ? み一を第ー け溥儀執政御登極第の儀“ ! ー帝聞 は新 改元輝く新帝の首途 国都新京の大典 - ・第本載物 ! - ー一家・の一角」名、第々の・をあげた第ーに第のてを物員 - ー・気の としてを大灘ら第・氏を・ ~ てよ、ここ・・、、・叡第はにーしていよ第。 , ・ 0 ま・ 0 第一 ~ 両 いよけふこそ物第て覆けられる・第太典の日だ ! 物鋼・・が鼻に物る = 〒万員き - 第編を - ー 4 ー 第第のままー , 立っー物京」いて・かに・げれるのである、この日三日■ー " ま・ ? ・ 0 、・ の・歳を等らせられた・第・氏は京ー天第に震れた天第に地いて占式に甲第 0 - 。ー ! 、ーを第 第も物の・を行はせられて・火↓り第されまいで宮・第にてーの・を行 ! ー月っ 登極の儀 ~ 年と 2 きにー′第ト、ー 任か 第、つ , .70 : ー直 東洋 官制 法令公布儀は はせられる、正十動民・に物・あせられる第は鋼し ( 第使のーを第、年被を「ま・」ーのををを ! ・ ー邏められ、要を・き、・第、を簽・・をーをー、質を載して書れ ( ・ 0 ~ ー - ・ー 0 ・専 - 天のみにひたらしめ、・またーの大・」物じたるのをーし・ム、大の天 ト宝ーと 誌ま、畿・ご興して内載に外交に第や ( 物ーの・一物はこ、に -4 、第みされる・ー・要・、な のであミーは大物ーた・・ーー - こ