その日、流はいつものようにフェンウェイと仲間の中国人少年達と逢う予定でいた。 しかしこのまま正体も分からない尾行者を連れていく事はできない。 自分の中で行動を組み立てているうちに流は本来の冷静さを取り戻していった。 はず 改札を抜けて、いつも向かう筈の大通りとは逆の方向に向かう。 確かこっちには入り組んだ飲み屋街があった筈だ。 遅くもなく速くもない足どりで歩く流の後から一定距離を保った気配はすっと消えない。 ところせま 前方に狭い路地が見えてきた。入り口にはスナックや小料理屋の看板が所狭しと張りつけて ある。 ゆる 流は少しだけ歩調を緩めた。尾行者も歩を緩めるー・・ーー気配がした。 せつな その刹那 流は体ごと路地に突っ込んだ。 ゅうちょう しっそう が、今はそんな悠長な事を言 小さな飲食店の密集した路地は全力疾走には向いてない ってる場合ではなかった。 道に張り出した看板を飛び越え、開店準備をしている店員を避けながら流は走った。 記憶が正しければこの先の路地は金網が張ってあって行き止まり、だがその一角は破られ人 一人が通れるほどの穴が開いていた筈 : : : だった。 「な、なんでこーなってるんだよリ」
から、営業している時以外用心の為施錠を欠かさなかった。 「流くん。部屋に戻ってて」 何か言おうとする流を目で制して美貴はドアに向かった。 「・ : : ・どなた ? いつばく 一拍おいてドアの向こうから低い声が答えた。 「四堂組の者です。こちらに流坊ちゃんがお世話になっていると聞きまして。晃さんがいらっ しやってるんですが」 その声に流は聞き覚えがあった。たしか晃付きの組員のものだ。振り向いた美貴に流は頷い わずちゅろちょ た。美貴は僅かな躊躇の後、ドアの鍵を外した。 なじ 最初に姿を現したのは晃だった。まだ体に馴染んでいない真新しいスーツを身につけてい る。その後から組員が続く。 晃は店内に入るとゆっくりとまわりに視線を巡らせていった。そしてその視界に流を捉える と腕を組んだ。だがなにも喋ろうとはしない。 街ふおん 不穏な空気に美貴が声をかける。 光 「あ、あの、今飲み物を : : : 」 さえぎ 夜 最後まで言わせず晃が遮った。 近くまで来たついでに寄ってみただけだ」 せじよう とら
流の問いに一一人は顔を見合わせた。 ・ : 誰に向かってもの聞いて 「なんだ ? その態度は。今の状況わかってんのか ? 偉そうに : んだっリ」 、追いつめられたこの状況で冷静さを欠かない流の態度は、二人の怒りに火をつけた。 相手は一一人。退路は、、ない。 武器さえもないこの状況の中、残された道はひとつ。 流は気づかれないように頭上に目をやる。 金網は 2 メートルと少し。 一人がジーンズのヒップポケットからナイフを取り出す。飛び出し型のそれは、乾いた音と のぞ えいり 共に鋭利な刃を覗かせた 狭い路地に一瞬、鋭い光がきらめく。 はか 流はナイフから目を離さないまま間合いを計った。相手が踏み込んでくるその時を狙って。 ガシャンー 少年が踏み込んだのと流が両手を背後の金網に伸ばしたのは同時だった。 けんすい そのまま腕に力を込め、懸垂の要領で体を引き上げる。 上手い具合に腰が回り、顔を上げた時流は金網の向こう側に降り立っていた。 えら
217 夜光街 ふうよそお 好都合だった。何気ない風を装い、聞く 「総長はまだ着かないのか . やまて 「山手通りが渋滞だとかって、遅れてるみたいです。到着は十一一時半くらいだそうっすよ」 桐谷は考えた。俺の事がばれていないのなら、ここで四堂を待つより確かな方法を実践でき けいじ るかもしれない。こいつが俺を見つけたのは神の啓示だ。賭けてみよう。 桐谷は決意した。 「そうか。しゃあ、中で待っかな」 みとが 幸い入り口に詰めているのは下っぱの組員達だった。桐谷の薄汚れた格好を見咎めはするが 何も言わず頭を下げる。 「式場は五階の方っす 「ああ、ちょっと小便していくわ」 案内しようとする組員に手を振り、桐谷はトイレに向かった。 この先は幹部連中がうろうろしている。さすがにやつらまで俺の事情を知らないっ て事はないだろう。四堂が到着するまでここに隠れていた方がいい 桐谷は一番奧の個室に入り、鍵を閉めた。 五階の式場は既に正宗の到着を待つだけになっていた。 じっせん
152 「ちょっと来てくれ」 「えつ、おい。京也ー あわ さっさと席を立ち、歩きだした京也を一一人は慌てて追った。 三人は人でごった返すアルタの地下を抜け、京也を先頭に地下道を三丁目方向に向かった。 いせたん 伊勢丹に着くと京也は地下食料品売り場からエスカレーターで一階に上がり、真っ直ぐ化粧 品売り場に向かった。 「どういう事だよ、京也 たまりかねて問うフェンウェイに、京也は前方を指さした。 奥まったその場所は化粧品とは別の香水のコーナーだった。それぞれメーカー別に特色を出 したプースが並んでいる。 ひとつのシンプルな造りのプースに京也は向かった。二人も続く。 「流、この香り、嗅いでみてくれ」 カウンターの上の紙片を、京也は流に渡した。流は恐る恐る紙片を鼻に近づけた。 これだ、この香りだ ! あの時のスイカー 確かにあの時のあの香りー 「これはロードウ・イッセイ。オゾン系の自然指向の香水なんだ。水つばいって流が言ってた
199 夜光街 うたた寝している。その横を起こさぬようそっと通り抜け、店を出た。 高級クラブが並ぶ通路はしんと静まり返っている。敷きつめられたカーベットは流の足音を 吸い込んでいった。 観葉植物に飾られたエントランスを出ると早朝の風が流の頬を撫でていった。 - 朝の光が街の りんかく 輪郭と溶け合っている。 これからやろうとしている事を知ったら木佐はまた怒るだろうな。朝焼けに目を細めなが ひそ ら、流は密やかに笑った。 不思議な気持ちだった。 なぜ自分は向かっていくのだろう。 何に ? それさえわからないのに。 だけ・ど 流の思考が止まった。 遠くガードレールに腰掛ける人影があった。 きりたに まさか桐谷 : ・ ぎねん 一瞬わいた疑念を流は打ち消した。すらりと伸びた手足はあの男のものであるはずがない。 足は自然に人影に向かっていた。近づくごとにそれが少年である事がわかった。 ほおな
仲間はどこにでもいる。支配人が日本人でも、裏にまわれば中国人経営の店、路地裏、コマ 劇場前広場、ゲームセンター とど 大人達の目の届かない場所で、少年達は夜を駆け抜ける。向かってくるやつらは叩き伏せ る、誰も止めない、止めさせはしない。 この街で、流は自由だった 父の寝室へ向かう途中、流は応接室で十数人の男達を見た。多分、組幹部付きのボディーガ ードたろ、つ くろぬ いしぺいぞ そういえば屋敷の石塀沿いに黒塗りの外車が何台も停まっていた。 よぎ 幹部会でも開かれているのだろうか。ふと過った考えを流は振り払った。正宗は数カ月前、 の手術を受け十日ほど前に退院してきたばかりなのだ。 「流か。はいれ」 しようじ 庭に面した障子が音もなく横に滑る。 た・ 0 一礼して端座した流の前にいたのは父だけではなかった。 すべ
そのまま横に移動して、流の視線はそこで止まった。 オフホワイトのシンプルなドレスを着た女性が鍵盤に向かっている。色素の薄い、長く柔ら りんかくふちど かそうな髪が彼女の輪郭を縁取っている。 鍵盤に視線を落とすその女性はまるで、そう、百合だーー思い至って再び視界に彼女を捉え 鍵盤を滑る指は抜けるように白くて細い せんりつ ふと旋律が途絶える。流の視線に気づいた女性が顔を上げた。 視線が、ぶつかる。 「いらっしゃい、お客様。こちらのカウンターへどおぞお とつじよ 突如脳天気な声が響きわたる。 うかが くだん 視線を巡らすと件の男がカウンターの前のストウールに腰を下ろし、にやにやとこちらを窺 っている。 ほう 一瞬にして顔に血が登る。今の惚けた顔を見られていたー こうまく 「ちょっと一臣 ! やめなさいよ。そういう純真な青少年をからかう態度は公僕にはどうかと 思うわ」 流が口を開くより先に男を怒鳴りつけたのは今までピアノに向かっていたその美女だった。 かずおみ とら
Ⅷ「ばかをいうなっリ俺がやらせたとでも一言うのか 憤然と立ち上がった田島の顔が赤く染まる。 「きさまら、どういうつもりだっ ! ずっと四堂のために体はってきたこの俺に向かって 「わかっています。だからこそ田島さんと腹を割って話がしたかったんです」 かば 今にもっかみかかりそうな田島から正宗を庇うように、木佐が制した。 木佐の真摯な瞳に、田島の拳は途中で止まった。 しんし
179 夜光街 狭い道に一台の車が停まっている。 / ルバーのべンツ 5 00 ガチャ。 後部座席のドアが開き人影がゆっくり降り立った。街灯を背にしているせいで顔の判別はっ かない 続いて運転席と助手席から一一人。 しどう 「四堂流だな」 低い押し殺したような声。 流は無言だった。構わず男は流に向かって歩きだした。一歩ずつ近づくたびに明かりが輪郭 を照らしだしてゆく。 首筋に一筋汗が流れてゆく 一一人の目前で男は足を止め、顔を上げた。 それは きりたに 「ーー・」ー桐谷 : : : さん」 りんかく