幡製鉄の合併、国鉄民営化な ど、財界にややこしいことが 起こると必すあらわれるので、 「財界の鞍馬天狗」と呼はれ た。いまでいうと「白馬の騎 士」みたいなところもあるの かもしれないが、なんだかそ れより志が高そうな気がする。 気がするだけかもしれないが。 一月八日には、「小森のお ばちゃま」こと映画評論家の 小森和子死去。新旧の東京都 庁をつくった建築家の円下健 三は九一歳で、三月ニ一一日に、 俳優の松村達雄は、九 0 歳で 六月一八日に亡くなっている。 若くして亡くなった人もい た。漫画家の中尊寺ゆっこ ( 四一 l) は一月三一日に、フ オーク歌手の高田渡 ( 五六 ) は四月一六日に、歌手の本田 美奈子・ ( 三八 ) は一一月六 白に亡くなった。合掌。 産したジャケットの洋服の処分セールをやった京橋 のダイエーに出かけたのである。サイズが合わなくて、結 局何も買わないで帰ったのだが。 その ><Z ジャケットの創業者の石津謙介が亡くなった のは、五月二四日だった。中内より一〇歳も年長の九三歳 だった。あえて比較すれば、中内とは対照的な生きかただ ったといえそうだが、 その一〇歳の年の差のあいだの日本 社会の変化も想像させるのである 中内叨と同じ日に、後藤田正晴も亡くなった。そのちょ っと前までテレビに出演し、かくしやくとして、たとえば 小泉首相の靖国参拝を諫めていたので、意外な感じがした。 だがもう九一歳だったのだ。 警察官僚から田中内閣の官房長官となり、「カミソリ」 の異名を取った。宮沢内閣では、法務大臣と副総理を歴任 した。政界引退後は「政界のご意見番として、積極的に 発言していた。何も怖いものがない小泉首相は、一向に耳 を貸す気配はなかったが。
・メモランダム 財界の大物では、ほかに中 山素平が亡くなった ( 一一月 一九日 ) 。九九歳だった。元 日本輿業銀行頭取。日産とプ リンスの合併、富士製鉄と八 0 中内功 月一九日、ダイエ 1 創業者の中内功が亡くなった。 八月一一六日に脳梗塞で倒れ、それが一般に知らされ たのは九月一四日だった。こういういいかたは、ちょっと あれだけれど、私は、あっけなかったなという印象をもっ た。そのタフな経歴から、もっとしぶとく生き続けると思 っていたのだ。苛烈なフィリピン戦線を生き残り、家業の ーチェーンを築き上げ、価格決 薬局から始めて巨大ス 1 定権をメーカーから小売店に奪取するという流通革命を成 し遂げた。松下電器との三〇年戦争はその象徴だった。中 内の評伝『カリスマーー中内切とダイエ 1 の「戦後」』を 書いた佐野眞一氏は、その死に寄せて、中内は、「経営者 というより、哲学者、革命家だった」といっている。享年 八三。中内は、一二〇歳まで生きるといっていたそうだ。 消費者として生きるほかない時代に生まれ育った私は、 中内叨の思想 ( よい品をどんどん安く ) に深く浸透されて いた。だがその一方で、中内が提供する商品には、すでに 魅力を感じない世代にも属していた。喜んでダイエーの店 舗に足を運んだという思い出は、じつは一度しかない倒 100
・メモランダム 四月八日におこなわれたヨ ハネ・パウロニ世の葬儀には、 当然のことながら世界各国の 首脳やその代理が参列した。 アメリカからはブッシュ大 コンクラーベ 四 月二日、ロ 1 マ法王ヨハネ・パウロ二世が亡くなっ た。ローマ法王という存在の重さが、どれくらいな ものなのか、私みたいな者には、どうもびんと来ていない ( 白状すれば、わが天皇陛下についても、私はいま一つ実 感がもてないでいるのだ。両権威に対する感覚の鈍さは、 ひょっとしたら私が受けた戦後民主主義教育のせいなのか もしれない。責任転嫁するみたいだけども ) 。 それはともかく、非常に高齢であったとしても、人の死 は痛ましいものだが、 この世界最高級の宗教者の場合は、 そういう印象はちっとも受けなかった。死を超越している と、漠然と思いこんでいたのかもしれない。法王の死が告 げられたとき、サンピエトロ広場に集まった六万人の民衆 が一瞬静まったと新聞に書いてあった。そのあと期せずし て拍手が起こったのだという。その記事を読んだとき、私 は、なんだか心が温まった。人が死んで、温かい気持ちに なったのは、そのときが初めてだった。そしてそれが、そ しささか の重みになかなかびんと来ない私が、「法王」に、、 でも近づけた瞬間だったのかもしれなかった。 122
・メモランダム 悪い悪いとは聞いていた長 男と次男の仲が、一一子山親方 の死後、ほんとうに悪かった んだということが明らかにな った。次男の貴乃花親方が民 0 大関貴ノ花の二子山親方が亡くなったのは五月三〇 日だった。享年五五。私よりわずか一歳年長の名大 関の土俵を、じつは私はあまり見ていない。貴ノ花の新入 確 幕は一九六八年一一月で、私は一七歳だった。当時、すで に大抵の一七歳の少年は、相撲を熱心に見ることはなくな っていたのだ。私は大鵬は嫌いだったが ( 巨人・大鵬・ 焼きのなかで好きなのは卵焼きだけだった ) 、夢中で相撲 を見たのは結局大鵬の時代までだった。 ところで貴ノ花の名前が高まったのは、その大鵬を引退 に追い込んだことによる。七一年の五月場所、貴ノ花との 対戦に敗れ、この大横綱は引退を決意したのだ。私自身は、 その相撲史的に大変重要な勝負を見たかどうか覚えていな 申し訳ないが、それほど無関心になっていたのだ。 ただ私は、貴ノ花という力士は、力士というよりスポー ツマンだなというふうには眺めていた。スポーツマン的に 身体能力は高かったかも知れないが、力士としてはやはり 軽量に過ぎたようだった。大関は長くっとめたが、その一 方では「クンロク大関」と揶揄された。大してめざましい 2 1 8
・メモランダム 0 ニ年に、日本中の話題と なったアゴヒゲアザラシの 「タマちゃん」は ( 新語流行 語大賞を受賞 ) 、いすこにか 去ったが、〇五年一一月ニ日 風太くん 風 太くんは、千葉市動物公園にいる二歳のオスのレッ サーパンダで、あるとき、彼はどうしたわけか、う しろ足で立とうと思いついたのだった。物見高い性格だっ たという説もあるが、いずれにしてもこの珍獣は、二本足 で立ち上がり、どうかすると一〇秒かそこらも直立してい たのだそうである。 五月に、風太くん、直立すの報がマスコミで取り上げら れると、物見高い点ではレッサーパンダをはるかにしのぐ 人類が、一目見ようとこの愛嬌者に殺到した。風太くんは にわかに、全国的な人気者となった。 だが、残念とい、つべきか、むしろよかったとい、つべきか、 その人気はすぐに低迷することになった。二〇〇二年に ( もうそんなになるのか ) 、多摩川その他に出没したアゴヒ ゲアザラシのタマちゃんほどには、プームは長続きしなか った。注目されたのは、ほんの数週間程度だったのではな あんまり人々が殺到したので、恐れをなして立ち上がれ なくなったとかそういうわけではなかった。風太くん以外 190
政民営化問題では、周知の通 りのハイテンシ rn ンぶりだっ た。しかもその一種の逆上は、 総理になるより遙か以前から 持続したものである。 耐震強度偽装題に関して は、明らかに興味がなさそう だった。ぶらさがりで記者に インタピュウされているとこ ろをテレビ一一ユースで見たが、 おざなりにしやべっていると いう感しがした。関心のない 質問に答えるときは声に張り がなくなり、不機嫌ではない にしても、なんだか疲れてい るなという感じになるのだ。 経済問題を竹中大臣に丸投 げしているように、」この問題 も国土交通大臣に丸投げして いるのかも知れないが、人命 に関わるだけに、郵政民営化 のときみたいに先頭に立って もらいたい気がする。 不況の建設業界では、ヒュ 1 ザ 1 みたいな施主が一番強い ということ。次が木村建設みたいになんとか仕事を取った ところだとい、つこと 「下請け業者は勝手に叩き合いをする。代わりはいくらで もいるのだよ、という状況だな」と彼は自嘲的にいった。 姉歯もその一つだろうというわけだ。 こんなケースは、業界では稀なんだろうか、それともわ りにしばしばあることなんだろうかときいてみた。私が一 番ききたかったのはそれだったのである。友人は電話の向 こうで一瞬黙り、そしてため息をつき、いった。 「いくら土建屋でも ( 彼は自分のことをそういっているの だが ) 、ふつう、そこまではやらないよ」。 私は、少し救われた気がした。町の至る所に建っている マンションの相当多くが、耐震強度を偽装されたものだと したら不安どころではないからである。 そのあと、私と彼はだらだらとらちもない話をえんえん とした。二人は互いに信頼はしていないが、気の置けない 仲ではあったのである