城方 - みる会図書館


検索対象: 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む
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1. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

う魂胆を見抜いて、城方のお手伝いをしましようとい 桜門一帯 うことで、あれよあれよという間に作業を強行してし 冬の陣の和睦の条件に、大坂城の堀を埋めるという のがあった。惣構の堀は関東方、三の丸・二の丸の堀まったのであった。こうして和睦成立から一カ月。さ は大坂方という分担であった。和睦の誓紙交換がすんしもの堅固さを誇った大坂城もとうとう本丸だけの、 だ翌日には、関東方はもう堀の壊平に着手、以後夜を何とも浅間しい姿となった。この場面は、本丸正面桜 はだかじろ 日につぐ突貫工事で工事をすすめ、次いで三の丸・二門周辺を描くが、裸城となった大坂城の姿をよく示し の丸の堀・石垣・矢倉の破却に着手した。大坂方の時ている。 間をかせいで破却工事をうやむやにしてしまおうとい 115

2. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

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3. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

遠征軍の顔を立てるだけでよいというのが大坂方の思惑だった。ところが、徳川方 は、ほんの名目だけと、大坂方を欺いておいて、その実、大坂城の堅い防備をすべ て崩してしまおうというのが狙いだったから、大勢の人夫を使って、あっという間 に総構えばかりか、二の丸・三の丸の堀まで埋め立ててしまった。 家康の本陣・茶臼山古墳そしてやっと気のついた大坂方が抗議すると、手違いだと言い訳しつつ、どんど ん工事を進め、大坂方が本気で反抗した時は、すでに埋め立てが完了した後だった。 これは徳川方の謀略と大坂方のうかっさ、戦略のなさが招いた結果である。 こうして大坂城は裸城となってしまった。 もうこうなれば、何十日間にもわたる包囲戦など必要としなかった。後は赤児の 手をひねるようなものだというので、家康は、米五升、干鯛一枚、味噌、鰹節、沢 庵だけ用意させ、腰兵糧三日分で十分片づくだろうと断言した。 元和元年 ( 一六一五 ) 四月、家康は生涯打ち止めの最後の一戦に乗り出した。と ころが、あんな小伜相手に鎧など無用であるといって、兜と鎧は近臣に持たせ、自 かたびら 分は茶色の羽織に浅黄の帷子という軽装で、編笠姿に武者草鞋、どこかその辺に出 かける御隠居みたいな恰好で気軽く夏の陣に臨んだ。 しかし、実をいうと下腹がせり出しすぎて鎧が窮屈になってきたための軽装で、礙

4. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

慶長二十年 ( 一六一五 ) 元和元年 二十日家康、早くも和議工作を始める。 二十六日鴫野・今福の合戦。 十二月四日井伊・松平・前田隊、真田出丸に寄せるが、幸村らの奮戦で 大敗を喫する 十二月十六日関東方、大坂城内に大砲を撃ち込む。天守閣の柱・千畳敷な ど壊れる。城中動揺する 十七日塙団右衛門、本町橋夜襲。木札をまく。 十八日関東方、和議提示。淀殿、同意する 十九日大坂方、二の丸・三の丸破壊に同意。 二十三日大坂城塁濠、壊平開始。 二十七日城の破壊が内濠に及ぶ。大坂方、約定違反をとがめるも、関 東方続行する。 一月十八日大坂城塁濠の壊平終了。 二月十四日家康は駿府に、秀忠は江戸に帰る 三月大坂方再軍備の報、家康に届く。 四月十八日家康、再び二条城に入る

5. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

たが、こと不利をハネ返してでも、幸村は徳川方を倒さなくてはならないと思っ オ。彼はだから豊臣家のために戦ったのではなく、自分のために籠城したのである。 豊臣氏の恩顧に酬いるために真田が忠死したとみる人もいるが、彼は、豊臣氏か ら取り立てて恩を受けてはいなかった。もし秀忠が、彼を贈んでいなかったなら、 真田出丸跡図そして温く迎えられたなら、徳川についてもよかっ・たが、その道を閉ざされたと思 ( 大阪城天守閣蔵 ) った所に、幸村の不幸があった。 大坂城は、東北西の三方面には川があったりしてまことに攻め難く、攻撃すると すれば南しかなかった。 南の防衛線の最前線、そこが真田出丸だった。 しかし冬の陣では、二十万と号する関東の大軍を、やや高地にあるから遠望した だけで、さしたる戦いもなく終ってしまい、城方のうかっさによって、大事な総構 いえばかりか、三の丸、二の丸の防衛線まですべてこわされてしまった。 もし幸村が、大坂方の采配を揮っていたなら、こんなへマをするはすはなかった ろうと思われる。 しかし大坂方の指揮系統は、まことに複雑で、一体誰が最終責任を負っていたの かよく分らない。だから、徳川方が、約束に違反して、二の丸、三の丸の埋め立て ふる

6. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

合戦始末記 関東方二十万、関西方十万、両軍合わせて三十万の武士たちが、大坂城の内外に ひしめいて、凄絶きわまりない攻防戦を展開したのである。 冬の戦いを前哨戦とすれば、夏の戦いは雌雄を決する本戦といってよい。 ところが前哨戦で家康は策略を用いて、大坂城を裸同然にしてしまった。つまり 作戦勝ちである。関東方は、絶対の権力者徳川家康・秀吉父子を中心に、四天王を はじめとする家臣団が、鉄の団結を誇っている。 びん たとえ大名といえども、神君家康の一顰一笑に一喜一憂した。 ところが大坂には、総大将の秀頼がいるにはいるが残念なことに、指揮官として の資質に欠けていた。しかも経験不足で、過保護青年ときているから丸つきり藁人 形のようなものだった。その上、秀頼の直臣たちは軍事に不慣れな文官が多く、傭 い入れた浪人たちの不信を買っていた。 しかも秀頼たちは、真田幸村たち傭い入れの武将たちを信し切れす、お互いに反 主将なし、しかも指揮系統の混乱した大坂方が、敗北を喫し 目を繰り返していた。 たのは、当然のことだった。 158

7. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

しぎの いまふく 嶋野・今福合戦 大坂城の東から北東方 面にあたる鴫野や今福の 一帯は、当時平野川、大 、淀川の三川が集ま る低湿地であり、城方に とっては天然の要害とも 頼むべき地域であった。 この一帯を奪取して砦 を築くように命ぜられた よしのぶ 上杉景勝・佐竹義宣の両 隊は十一月二十六日を期 窰して各々鴫野口・今福ロ の城兵を攻撃、これを迎 えうつ後藤又兵衛・木村 重成隊らとの間で激しい

8. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

序説・大坂夏の陣 二の丸、三の丸、そして 冬の陣の和睦は、すべて家康の謀略といってよかった。 いくら取り囲んで 総構えと、二重三重に堀と石垣と塀をめぐらしてある大坂城を、 も、なかなか攻め切れるものではない。 そこで、堀を埋めて裸城にしてしまおうというのが最大の狙いで、それを大坂方 に承知させるために、新規召し抱えの浪人をすべて追放せよとか、淀殿を人質に差 し出せなどという無理難題を吹きかけた。 大坂方は、すでに七十を越えた家康の寿命の短いことを計算に入れて、この際、 和議に応じて、家康の死を待とうとした。 しかし家康の、どうしても豊臣氏を滅さねば死んでも死に切れないという執念の 方が強かった。 そこで和議が成立した。さらにその条件として、総構え、つまり一番外側の土塀 や堀は、わざわざ大坂まで大軍を率いて出馬してきた家康・秀忠の面目を立てるた めに、徳川方で壊してもよいが、二の丸・三の丸の堀は、大坂方で崩すからという ことで妥協が成立した。この埋め立ても、ほんの体裁だけに留めておこう、つまり

9. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

秀忠本讎 秀忠ま、 / 父に遅れて江戸 を出立し、一一条城に待「 父と合流 0 後、十一月十 七 0 」は平野郷 ( 現・大 阪市平野区 ) に着讎、主 吉大社」本讎を構えた父 と共に戦况を見守「 か、城方が城内、引きこ もってしまっこ オのを機こ 十一一月四日にま / 本讎を岡 山 ( 現・大阪市生野区 ) へと移しこ。 オ岡山は大坂 城 0 南 0 西約一一一・七キ 0 の也点こ 上・ーある古跡のム 丘でこここ〃 ー席の城郭を

10. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

〈徳川方〉 ( 一五九〇ー一六五九 ) 直政の次男。近江の領国中十五万石を相続した彦根城主。大 井伊直孝 坂の陣では軍功著しく、特に夏の陣では木村重成らを討ち、二日間に三一五の敵首級をと ったという。その功で五万石加増。秀忠、家光、家綱に仕え幕閣の重鎮。三十万石。 ( 一五五五 5 一六二三 ) 長尾政景の子で謙信の養子。賤ヶ岳の戦以来秀吉の家臣とな 上杉景勝 り、関ヶ原合戦時には三成に呼応して挙兵するが、結城秀康のために敗れ会津一二〇万石 から米沢三十万石に減封。冬の陣では大坂方に属し、鴫野・今福で戦う。 さだよし ? ー一六一五 ) 貞慶の子。家康初期の老臣石川数正が秀吉に投じた ( 秀吉自身 小笠原秀政 の計略で ) 時、父と共に秀吉に仕え信濃守。秀吉・家康の媾和ののちは父の旧領松本城、 更に下総古河城に移る。大坂夏の陣では子忠脩とともに大野・毛利隊と戦い、戦死。 ( 一五五六ー一六一五 ) 初め秀吉に仕え賤ヶ岳七本槍の一人。歴戦の士で、秀吉没後 片桐且元 は秀頼輔佐のため、大坂にある。方広寺鐘銘問題の際に大坂・関東の板ばさみとなり、大 野治長らの疑いをうけ大坂城を出るが仔細は不明。冬の陣で東軍に参加、戦後加増。 ( 一五六七ー一六三六 ) 小田原出兵で秀吉に属して以来配下にあり。文禄の役では浅 伊達政宗 野長政父子を救う功あり。伏見城工事助役。関ヶ原合戦時、家康方につき上杉景勝と戦う。 大坂夏の陣では道明寺・天王寺で奮戦。仙台藩六十二万石。 徳川秀忠 ( 一五七九ー一六三二 ) 家康の三男。関ヶ原合戦には参戦するも信州上田で真田昌 168