塙団右衛門 - みる会図書館


検索対象: 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む
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1. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

4 ・を、当ナ当イを . 塙団右衛門の塚 を任された足軽大将格だが、この日ばかりは一かどの侍大将らしく采配をふるい 本町橋の欄干に腰かけて〃ソレ、進め ! 〃と指図した。彼はこの時、 〃夜討の大将塙団右衛門 と記した木札を宣伝ビラがわりにバラまいて、一世一代の晴れ舞台を飾った。 見たか加藤嘉明、汝は、わしを将の器でないといって嘲りおったが、これで もそううのか いわばそれは勇将の証しといってよかった。だが、彼の晴れ姿はそれつきりだっ た。もっとも大坂冬の陣で大坂方が目ざましい働きをみせたのは、この本町橋の一 戦だけだったから、鼻つまみ者の豪傑が思わぬ冬の花火を打ち上げてくれたことに なる。 けれどこの団右衛門が大坂方の代表選手となるようでは合戦の帰趨は明らかであ 両軍併せて三十万人、この日本最大規模の大合戦で、団右衛門のごとき蛮勇の士 がもてはやされたというのは、すなわち大坂方の人材不足を物語っていることにな る。 る。

2. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

三枚目の豪傑・塙団右衛門 赤鬼青鬼が振り廻しそうな鉄棒を、軽々とふるって大あばれする大坂方の豪傑、 その名も高き塙団右衛門というのは、講談のイメージである。 。一兀 ノン・ダンエモン〃という語感と字面が、なんとなく愛嬌があって贈めない 来、日本人は桃太郎以来、気はやさしくてカ持ちという英雄を好む傾向がある。 大坂方の武将の中で最高のヒーローは真田幸村で、その左右に後藤又兵衛と木村 重成が位置している。しかし、こういう英雄豪傑や誠忠の武将ばかりでは、話が一 向に面白くならない。そこでカは強いがヘマもするという一二枚目が必要というので 講釈師に選ばれたのが、塙団右衛門である。 どういう基準で選んだのか、あるいは大衆芸能家の直感、眼力によるものか、正 しく塙は三枚目豪傑の人選にびったりの人物だった。 生れは尾張の国羽栗郡竜泉寺村で、農夫の小伜だったが、自然児そのままで、毎 日、山野を駈けめぐっているうちに、十五、六歳で大人以上の体格になった。 この大男ぶりが信長の目にとまって馬屋係に召し抱えられ、後に士分の端くれに 加えられた。

3. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

せイ第を : 奮を当 \ をい 交渉も大詰めに近づいた ばん 十二月十七日の未明、塙 けんもっ 団右衛門、米田監物らを 大将とする城方の将兵百 数十人が突如本町橋を渡 はらすか って寄せ手の蜂須賀隊に 攻めこみ、ふいを突かれ たその陣所を散々に荒ら した上、首級二十余をあ げて意気揚々と引きあげ た。後には「夜討の大将 塙団右衛門」と書かれた 札がばらまかれていたと いう。あざやかな奇襲戦 法の勝利であった。 43

4. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

はいけぬ。貴様のような人間をウドの大木と申すのだ 面罵された塙は、誰がこんな所に居てやるものかと、捨て台詞を残して飛び出し ていった。その後、小早川秀秋や福島正則に仕えたが、いすれも長つづきせす、ぶ らぶらしている所へ大坂城で浪人を募集しているという噂を耳にした。見るからに 豪傑然とした巨漢で、なかなかの勇者という評判だったから、酒癖の悪さに目をつ むって、人手不足の大坂方は塙を大野治房の配下に組み入れた。 大坂冬の陣は、両軍睨み合ったままで決戦らしいものは一度も行われなかった。 大坂城の堅固さに驚いた家康は、トンネルを掘ったり、あるいは大筒を射ち込んだ りと、もつばら淀殿の恐怖心を煽ることに専念した。その冬の陣で唯一戦いらしい ものが行われたのは本町橋の夜襲だった。 十二月十六日の夜のことである。本町橋の西詰に夜営していた蜂須賀隊の寝込み を襲って、いきなり城方の武者たちが攻め込んできた。 「それつ、夜討ちじゃー あわてて鎧を探しているうちに、もう荒武者たちが斬り込んできて、たちまち二、 三十人の兵が倒された。 この夜襲を、強行したのが塙団右衛門だった。彼は大野隊の中で足軽二、三十人

5. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

二十二日秀忠、家康に合流する 二十九日樫井にて、戦端開く。塙団右衛門戦死。 五月五日家康は星田に、秀忠は砂に布陣 六日後藤乂兵衛・薄田隼人・木村重成戦死。 七日真田幸村、家康本陣を襲い窮地に陥れるが、越前松平兵によ り討死。本多忠朝戦死。秀頼桜門外まで出るが結局戦場には 出す。火の手本丸に及ぶ。千姫脱出。 八日大坂城、灰燼に帰す。片桐且元、秀頼母子の所在を秀忠に知 らせる。秀頼・淀殿自害。大野治長・毛利勝永ら殉する 二十三日秀頼の男子国松 ( 八歳 ) 、六条河原で斬首 元和二年 ( 一六一六 ) 四月十七日家康没。 六年 ( 一六二〇 ) 一月大坂城再建工事開始 寛永七年 ( 一六三〇 ) 再建大坂城完成 正保二年 ( 一六四五 ) 秀頼の娘天秀尼 ( 鎌倉東慶寺二十世 ) 死去。豊臣の家系断絶

6. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

慶長二十年 ( 一六一五 ) 元和元年 二十日家康、早くも和議工作を始める。 二十六日鴫野・今福の合戦。 十二月四日井伊・松平・前田隊、真田出丸に寄せるが、幸村らの奮戦で 大敗を喫する 十二月十六日関東方、大坂城内に大砲を撃ち込む。天守閣の柱・千畳敷な ど壊れる。城中動揺する 十七日塙団右衛門、本町橋夜襲。木札をまく。 十八日関東方、和議提示。淀殿、同意する 十九日大坂方、二の丸・三の丸破壊に同意。 二十三日大坂城塁濠、壊平開始。 二十七日城の破壊が内濠に及ぶ。大坂方、約定違反をとがめるも、関 東方続行する。 一月十八日大坂城塁濠の壊平終了。 二月十四日家康は駿府に、秀忠は江戸に帰る 三月大坂方再軍備の報、家康に届く。 四月十八日家康、再び二条城に入る

7. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

ところがもともと巨漢というだけで、中味の方はもう一つだったから、大酒をく らって喧嘩ばかりしていた。そ、フなると大男だけに目立ってしようかなくなり、信 長の癇にさわってとうとうクビになってしまった。 捨てる神あれば拾う神あり、可哀想だというので秀吉が拾ってやったが、酒と喧 嘩が過ぎて、同僚の鼻つまみ者となり、やがて居たたまれなくなってどこかへ行方 加藤嘉明 ( 賤ヶ岳合戦図屏風 ) ( 大阪城天守閣蔵 ) をくらました。 次に団右衛門は、賤ヶ岳七本槍の勇士の一人で大名に出世した加藤嘉明の配下と なった。何しろ転々と勤め先を変える男で、どこへ行っても腰が落ち着かない。そ の後、彼は慶長の役で朝鮮半島へ渡って、敵船を分捕るという手柄を立てた。とこ ろが関ヶ原の役で味噌をつけた。 この時、加藤は東軍に属し、従って塙もその部下として西軍、大坂方を向うに廻 して戦った。ある時、敵状を探りつつ、うまく敵をおびき出して来いよと命しられ て、出動したのはよいが、あまり敵陣が整然としていてつけ入る隙がなかったため、 スゴスゴ戻って来た。もっとも置き土産に鉄砲を敵陣へ射ち込んできましたという ・、、ので、加藤はどなりつけた。 「汝は戦さの駆け引きを知らぬのか。そんなことではとても将として部下を率いて

8. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

何しろ身を屈めて草鞋の紐が結べないほど、家康は狸腹になっていたのである。 だが、三日で片づけてみせるという家康の豪語は決して空いばりではなかった。 五月五日、家康・秀忠の父子は京都の二条城を出発して大坂へ向かった。ところ がその朝の一戦て、塙団右衛門が早くも討死、つづいて五月六日、夏の陣の第一日 目となると、まず後藤又兵衛、薄田隼人の両豪傑が戦死したかと思うと、若武者木 村長門守重成まで花と散って、大坂方の憂色が深まった。 決戦二日目の五月七日、天王寺口に布陣する家康・秀忠の本営めがけて、名将真 田幸村に率いられた一騎当千の強者たち三千騎が突進してきた。一時は家康とその 側近が蜘蛛の子を散らすように逃げまどったほどだが、いかに精鋭部隊であっても 衆寡敵せす、やがて関東の大軍に囲まれて真田幸村とその勇士たちも戦死を遂げた。 名だたる大将たちが帰らざる人となって、大坂城はもはや風前の灯、淀殿、秀頼の 母子のまわりに控えている人影は、そのほとんどが女人たちで占められていた。 淀殿四十九歳、秀頼二十三歳、なんとかして二人の助命をというので、大野治長 は最後の切札ともいうべき千姫を命乞いのために城から出した。これは家康にとっ ては願ってもないことで、たった一つの気がかりだった孫娘が無事に戻ったから、 後は遠慮なく総攻撃に移った。

9. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

真っ先から忠朝は突進した。前方に控えているのは、大坂方五人衆の一人、毛利 勝永軍である。忠朝は、飛び交う弾丸や矢玉を物ともせす、ただひたすら疾駆した。 そして群がる敵中に、大身の槍をふるって飛び込んでいった。部下たちが、忠朝を 追ったが、すでに主の姿は、敵中にまぎれ込んでいた。 槍をふるって、向かってくる敵二十人ばかりを突き伏せつつ突進した忠朝は、乗 馬が疵ついたので、徒歩となってなおも戦ったが、群がる敵の槍襖に出会って、と うとう討死を遂げた。つき従う家臣小屋勘解由、大屋作左衛門たちも主と共に戦死 した。その壮烈な戦いぶりを目にした小笠原秀政も、遅れてなるものかと、敵中に 突進して、同しく討死して果てた。 松平忠朝の石碑家康の不興をこうむったため、一死をもって名誉を回復しようとした忠朝や秀政の ( 一心寺 ) 死を賭した働きによって、大坂勢は総崩れとなって、落城を早めた。家康は、後日、 兄の忠政を招くと、忠朝とその家臣に感状を贈って、忠朝の死を無駄に終らせない ようにはからった。虎は死して皮を残し、武人は死して名を留めた、というのが従 来の評価であるが、当時の武将はそんなきれいごとで満足したわけでなく、身を滅 すことによって家系の保存をはかったとみるべきである。個人より家柄や血統を重 くみたのが武士の慣習であった。

10. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

著者略歴 ( くにみつ・しろう ) 邦光史郎 一九一三年、東京に生まれる。高輪学園卒業。作家。著書に『邪馬台国の謎』『古事記を歩 く』『天下分け目の関ガ原』『三井王国』『ニッポンの熟年』『十年後』他多数。 ( わたなべ・たける ) 渡辺武 一九三七年、兵庫県に生まれる。京都大学文学部史学科卒業。国史学専攻。現在、大阪城 天守閣主任。著書に『図録大坂夏の陣図屏風』『大阪城四百年』『写真太閤記』他 ( うちだ・くすお ) 内田九州男 一九四五年、宮崎県に生まれる京都大学文学部史学科卒業。国史学専攻。現在、大阪城 天守閣学芸員。著書に『頓堀非人関係文書』『部落の歴史近畿編』『写真太閤記』他。 ( なかむら・ひろし ) 中村博司 一九四八年、滋賀県に生まれる滋賀大学教育学部卒業。日本考古学専攻。現在、大阪城 天守閣学芸員。著書に『常楽寺山古墳群調査報告書』『写真太閤記』他 ( ひび・さだお ) 日弃貞夫 一九四七年、大阪に生まれる。日本写真専門学校卒業後、スタジオフラッシュに入社。退 社後、フリ ・カメラマンとして活躍中。著書に『丹後路』『大和・熊 写真協力大阪城天守閣・徳川黎明会・新人物往来社・斎藤政秋 野路の音』他