両軍の主な武将一覧 明石全登 ( 生没年不詳 ) 名は守重、キリシタンで受洗名ジョアン。宇喜多秀家の臣。関ヶ原 では主家に従い西軍に参加するが九州へ敗走。大坂の陣では大坂方につき、船手で活躍し た。夏の陣に敗れ自殺したとも、逃亡し三年後ゆるされ病没したとも伝えられる。 大野治長 ー一六一五 ) 初め秀吉の臣下で文禄三年伏見城工事を分担。慶長四年秀頼に仕 えるが、同年秋家康刺客の容疑で下野へ追放。ゆるされて家康の上杉討伐に参加。再び秀 頼に仕え、大坂の陣では強硬派の旗頭。秀頼に殉す。弟治房は京都で斬首される。 木村重成 ( 一五九三ー一六一五 ) 幼少より秀頼に仕え、冬の陣では玉造ロ守備。今福・鴫野の 戦で、佐竹義宣・上杉景勝と対する。冬の陣媾和に際し大坂方の正使として、秀忠に面会。 夏の陣では若江の戦闘で、井伊直孝と戦い敗死する。美男子と伝えられる。 後藤又兵衛 ( 一五六〇ー一六一五 ) 名は基次。黒田官兵衛孝高に仕え、一度追放されるが再び 孝高の子長政に従う。朝鮮の役、関ヶ原合戦で功あり、勇名をはせる。長政に従い筑前に 移り一万六千石を与えられるが、のち浪人。冬の陣で秀頼に招かれ、夏の陣で戦死。 真田幸村 ( 一五六九ー一六一五 ) 昌幸の次男。信繁が正名。初め上杉景勝の臣だが、のち秀吉 に仕える。関ヶ原合戦の際、父と秀忠軍を上田城で阻止する。高野山追放後、大坂の陣で 〈大坂方〉 166
序説・大坂夏の陣 二の丸、三の丸、そして 冬の陣の和睦は、すべて家康の謀略といってよかった。 いくら取り囲んで 総構えと、二重三重に堀と石垣と塀をめぐらしてある大坂城を、 も、なかなか攻め切れるものではない。 そこで、堀を埋めて裸城にしてしまおうというのが最大の狙いで、それを大坂方 に承知させるために、新規召し抱えの浪人をすべて追放せよとか、淀殿を人質に差 し出せなどという無理難題を吹きかけた。 大坂方は、すでに七十を越えた家康の寿命の短いことを計算に入れて、この際、 和議に応じて、家康の死を待とうとした。 しかし家康の、どうしても豊臣氏を滅さねば死んでも死に切れないという執念の 方が強かった。 そこで和議が成立した。さらにその条件として、総構え、つまり一番外側の土塀 や堀は、わざわざ大坂まで大軍を率いて出馬してきた家康・秀忠の面目を立てるた めに、徳川方で壊してもよいが、二の丸・三の丸の堀は、大坂方で崩すからという ことで妥協が成立した。この埋め立ても、ほんの体裁だけに留めておこう、つまり
〈徳川方〉 ( 一五九〇ー一六五九 ) 直政の次男。近江の領国中十五万石を相続した彦根城主。大 井伊直孝 坂の陣では軍功著しく、特に夏の陣では木村重成らを討ち、二日間に三一五の敵首級をと ったという。その功で五万石加増。秀忠、家光、家綱に仕え幕閣の重鎮。三十万石。 ( 一五五五 5 一六二三 ) 長尾政景の子で謙信の養子。賤ヶ岳の戦以来秀吉の家臣とな 上杉景勝 り、関ヶ原合戦時には三成に呼応して挙兵するが、結城秀康のために敗れ会津一二〇万石 から米沢三十万石に減封。冬の陣では大坂方に属し、鴫野・今福で戦う。 さだよし ? ー一六一五 ) 貞慶の子。家康初期の老臣石川数正が秀吉に投じた ( 秀吉自身 小笠原秀政 の計略で ) 時、父と共に秀吉に仕え信濃守。秀吉・家康の媾和ののちは父の旧領松本城、 更に下総古河城に移る。大坂夏の陣では子忠脩とともに大野・毛利隊と戦い、戦死。 ( 一五五六ー一六一五 ) 初め秀吉に仕え賤ヶ岳七本槍の一人。歴戦の士で、秀吉没後 片桐且元 は秀頼輔佐のため、大坂にある。方広寺鐘銘問題の際に大坂・関東の板ばさみとなり、大 野治長らの疑いをうけ大坂城を出るが仔細は不明。冬の陣で東軍に参加、戦後加増。 ( 一五六七ー一六三六 ) 小田原出兵で秀吉に属して以来配下にあり。文禄の役では浅 伊達政宗 野長政父子を救う功あり。伏見城工事助役。関ヶ原合戦時、家康方につき上杉景勝と戦う。 大坂夏の陣では道明寺・天王寺で奮戦。仙台藩六十二万石。 徳川秀忠 ( 一五七九ー一六三二 ) 家康の三男。関ヶ原合戦には参戦するも信州上田で真田昌 168
遠征軍の顔を立てるだけでよいというのが大坂方の思惑だった。ところが、徳川方 は、ほんの名目だけと、大坂方を欺いておいて、その実、大坂城の堅い防備をすべ て崩してしまおうというのが狙いだったから、大勢の人夫を使って、あっという間 に総構えばかりか、二の丸・三の丸の堀まで埋め立ててしまった。 家康の本陣・茶臼山古墳そしてやっと気のついた大坂方が抗議すると、手違いだと言い訳しつつ、どんど ん工事を進め、大坂方が本気で反抗した時は、すでに埋め立てが完了した後だった。 これは徳川方の謀略と大坂方のうかっさ、戦略のなさが招いた結果である。 こうして大坂城は裸城となってしまった。 もうこうなれば、何十日間にもわたる包囲戦など必要としなかった。後は赤児の 手をひねるようなものだというので、家康は、米五升、干鯛一枚、味噌、鰹節、沢 庵だけ用意させ、腰兵糧三日分で十分片づくだろうと断言した。 元和元年 ( 一六一五 ) 四月、家康は生涯打ち止めの最後の一戦に乗り出した。と ころが、あんな小伜相手に鎧など無用であるといって、兜と鎧は近臣に持たせ、自 かたびら 分は茶色の羽織に浅黄の帷子という軽装で、編笠姿に武者草鞋、どこかその辺に出 かける御隠居みたいな恰好で気軽く夏の陣に臨んだ。 しかし、実をいうと下腹がせり出しすぎて鎧が窮屈になってきたための軽装で、礙
中村博司 大坂冬の陣図屏風解説 この屏風は、大坂夏の陣に先立っ慶長十九年 ( 一六一四 ) 冬に戦われた大坂冬の 陣を描いた唯一の絵画史料として、近年とみに名高いものである。現在は屏風の形 をとっているが、もとは狩野家に代々伝えられた粉本 ( 手本 ) をもとに江戸末期に 模写された数十枚の紙片であり、それが現在の形態になったのは大正十四年のこと である。 そうがまえばり 内容をみると右隻では、右端に将軍秀忠と大御所家康の陣所、左端に惣構堀と東 横堀川で守られた大坂城惣構・三の丸を配し、その中間にさまざまな旗をひるがえ して群集する東軍諸隊を描く。中でも圧巻は真田出丸の攻防戦を描いた部分で ( 左 上端 ) 、史上名高いこの戦闘の有様がまことに見事な筆で活写されている。一方左隻 では何といっても秀吉の建てた大坂城の全貌を一望に見おろす構図が素晴しい。 ところで本屏風には、左隻左上端に鴫野・今福合戦 ( 十一月二十六日 ) 、右下端に 本町橋夜討 ( 十二月十七日 ) 、右隻には真田出丸の攻防 ( 十二月四日 ) という具合に、 時間的には全くバラバラの事件が一緒くたに描かれてあって、いわば合戦全体のハ ィ一フィト集であるとい、つこともできる。
大坂城を脱出する女たち 無能な秀頼と、感情的な陰の命令者淀殿をトップに戴いて、大坂方の士気は上ら なかった。もし淀殿が権力をふるわす、剃髪して尼にでもなっていたなら、豊家ゅ かりの武将たちが、大坂方の味方をしていたかもしれないのである。 男らしさを誇りとする武将たちは、女の命令者を頭に戴きたがらなかった。この 本能的な武将たちの習性を知ろうとしなかった所に淀殿の救いがたい頑迷さと悲劇 があった。 権勢欲と母情に衝き動かされているだけの女主人に仕えた男たちは哀れだった。 大坂方となって戦うことしか残された道のなかった名将真田幸村のように死をめ ざして、おのれの武勇の最後の見せ場へと突進していった者はよいが、恩賞と出世 を目当てに傭われた将兵たちは、やがて地獄へと突き落されてしまった。 かって秀吉の名誉の印であった金の瓢簟の馬印、百戦百勝して唐天竺までもと望 んだ大欲の人太閤秀吉のシンポルであり、唐にまで聞えた馬印が、夏の陣の三日目、 五月八日には御殿の台所近くに転がっていたのである。それをみつけた二人の女中 が、これが敵の手に入っては豊家の恥というので、粉々に砕いたと伝えられている。 だが、夏の陣の夜、真田軍三千五百名の最後の奮戦は壮烈そのものだった。五月 七日の午後、家康の本堂めがけて全軍一団となって突進していった幸村軍の凄まし
は秀頼に与し、冬の陣で真田出丸を築き名を挙げる。夏の陣で天王寺付近にて戦死。 、つままわり 薄田隼人 ー一六一五 ) 初め秀吉の馬廻。豪傑岩見重太郎が前身ともいわれる。のち秀頼 に仕えて三千石。冬の陣では博労ケ淵を守り活躍するが、遊女のところであそぶ間に落と されたといわれる。夏の陣で雪辱を期し奮戦。水野勝成の兵川村新八郎に討たれる。 ( 一五七五ー一六一五 ) 元親の次男。土佐二十二万石の領主だったが、関ヶ原で 長宗我部盛親 西軍に与し、小早川秀秋の裏切りで退却を余儀なくされる。長い浪人生活の後、大坂入城。 冬・夏の陣で活躍。藤堂高虎に大損害を与えるが、捕えられ三条河原で斬首。 ( 一五九三 豊臣秀頼 ー一六一五 ) 秀吉の次男にして大坂城主。母は淀殿。秀次の高野山追放に 伴い豊臣の世嗣となるが、関ヶ原の敗戦によって徳川の一大名に転落。一四年冬家康と戦 端を開くも、不利な条件で和議。翌夏再び挙兵するが落城自害。妻千姫は出城する。 塙団右衛う 「 ( 一五六七ー一六一五 ) 名は直之。初め秀吉の臣加藤嘉明の家人で、文禄の役で軍 功あり。関ヶ原合戦後、嘉明のもとを去り、小早川秀秋、松平忠吉、福島正則に次々と仕 えるが、嘉明の干渉で浪人。大坂入城後は大野治房隊に属し、冬・夏の陣で大活躍。 毛利勝永 ー一六一五 ) 初名は吉政。父は小倉城主吉成。秀吉の臣。慶長の役で活躍。関 ヶ原合戦では西軍に参加し、父とともに土佐へ追放されるがのち単身大坂入城。夏の陣で は、徳川方の本多忠朝、小笠原秀政・忠脩父子を破るが、落城に際し城中で自刃。 167
毛利勝永隊 三人衆と呼ばれ、重きをなした。七日の合戦で毛利隊 大坂方で最大の働きをした天王寺ロの毛利勝永の隊は、関東方の本多忠朝、小笠原秀政・忠脩父子を討死 である。背に、金の円月の一部を切りとった形の指物にさせ、比類ない働きをした。勝永は大坂方全軍崩壊 をつけた鎧武者が多く描かれている。これが「金の半の後、大坂城内に引返し自害したと伝える。 さしもの 月の番指物ーといわれるもので毛利隊の目印であった。 毛利勝永は、豊前六万石の大名であったが、関ヶ原 で失領し、土佐で山内家の監視下にあった。冬の陣直 前に土佐を脱出し大坂入城、真田・長宗我部とともに 119
う魂胆を見抜いて、城方のお手伝いをしましようとい 桜門一帯 うことで、あれよあれよという間に作業を強行してし 冬の陣の和睦の条件に、大坂城の堀を埋めるという のがあった。惣構の堀は関東方、三の丸・二の丸の堀まったのであった。こうして和睦成立から一カ月。さ は大坂方という分担であった。和睦の誓紙交換がすんしもの堅固さを誇った大坂城もとうとう本丸だけの、 だ翌日には、関東方はもう堀の壊平に着手、以後夜を何とも浅間しい姿となった。この場面は、本丸正面桜 はだかじろ 日につぐ突貫工事で工事をすすめ、次いで三の丸・二門周辺を描くが、裸城となった大坂城の姿をよく示し の丸の堀・石垣・矢倉の破却に着手した。大坂方の時ている。 間をかせいで破却工事をうやむやにしてしまおうとい 115
幸・幸村父子に西上を阻止され間に合わす。のち兄秀康をおき一一代将軍となった。大坂冬・ 夏の陣には父と共に参戦。武功はないが、幕府組織を確立、強固にするに功あり。 徳義直 ( 一六〇〇ー一六五〇 ) 家康の九男。尾張徳川家の祖。一六〇三年、甲斐二十四万石 に封ぜられ、一六〇七年には尾張に移り、六十二万石に達する。十男の弟頼宣 ( 紀伊徳川 家の祖、五十五万五千石 ) らと共に家康の寵愛をうけ、大坂冬・夏の陣に参加。 ( 一五八二ー一六一五 ) 徳川四天王の一人で名だたる闘将本多忠勝の次男。関ヶ原合 本多忠朝 戦で敢闘、翌年その功により父の旧領上総大多喜城五万石を与えられる。夏の陣では家康 より「親にも似ぬ意気地なし」と面罵をうけ発奮、軍紀を無視した突進で奮戦、戦死。 前田利常 ( 一五九三ー一六五八 ) 利家の四男。妻は秀忠の次女天徳院。冬の陣に参戦、先駆と なり、更に夏の陣でも三万の軍隊を率いて大野治房隊に対するなど、軍功を挙げる。のち 幕府より前田家謀叛の疑いをかけられるが、狂気を装うなどして免れたといわれる。 松平忠直 ( 一五九五ー一六五〇 ) 家康の次男結城秀康の長男。父の死後、越前六十七万石を継 。大坂の陣に参加。特に夏の陣では天王寺茶日山方面にて真田幸村と対戦、これを討っ 功あり。しかるに軍功に対しての所領加増はなく、幕府に不満を抱く。のち豊後配流。 169