家康 - みる会図書館


検索対象: 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む
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1. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

このままならいすれ秀頼の天下がくる。近畿地方の人たちはそう感じていた。 肥満して、自分で褌の紐さえ結べない家康からみると、長身でいかにも若君らし い秀頼の存在は、不気味ですらあった。老人は若者に出会うと無言の威圧を感しる ものである。 小柄で猿面冠者と呼ばれた秀吉の遺児にしては、むしろ祖父の浅井長政によく似 た大柄な美丈夫秀頼の存在は、家康の焦燥を一層掻き立てた。 家康は知らなかったが、この時、秀頼は側室との間に、すでに一男一女を儲けて いたのである。 加藤清正に守られて、秀頼は、毒殺されることもなく、無事に大坂城へ戻ってい っこ。清正や浅野長政、池田輝政、前田利長などといった豊臣家に恩顧のある諸将 豊臣秀頼の署名と花押オ ( 徳川黎明会蔵 ) が相ついで死去したのはその直後のことで、毒殺説が流れているのも無理からぬ所 だった。こうして残る豊家ゆかりの大物は福島正則ただ一人、たしかに家康は仕事 がしやすくなった。ところで、四歳ちがいだから、妻の千姫はこの頃、ようやく少 女から女へと華麗な変身をしようとしていた。 家康は、秀頼が上洛したため、攻め滅す口実を失った。そこで方広寺の鏡に刻ま れた銘に " 国家安康、君臣豊楽。とあるのは、家康を二つに分けて、豊臣の繁栄を 2 123

2. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

〈徳川方〉 ( 一五九〇ー一六五九 ) 直政の次男。近江の領国中十五万石を相続した彦根城主。大 井伊直孝 坂の陣では軍功著しく、特に夏の陣では木村重成らを討ち、二日間に三一五の敵首級をと ったという。その功で五万石加増。秀忠、家光、家綱に仕え幕閣の重鎮。三十万石。 ( 一五五五 5 一六二三 ) 長尾政景の子で謙信の養子。賤ヶ岳の戦以来秀吉の家臣とな 上杉景勝 り、関ヶ原合戦時には三成に呼応して挙兵するが、結城秀康のために敗れ会津一二〇万石 から米沢三十万石に減封。冬の陣では大坂方に属し、鴫野・今福で戦う。 さだよし ? ー一六一五 ) 貞慶の子。家康初期の老臣石川数正が秀吉に投じた ( 秀吉自身 小笠原秀政 の計略で ) 時、父と共に秀吉に仕え信濃守。秀吉・家康の媾和ののちは父の旧領松本城、 更に下総古河城に移る。大坂夏の陣では子忠脩とともに大野・毛利隊と戦い、戦死。 ( 一五五六ー一六一五 ) 初め秀吉に仕え賤ヶ岳七本槍の一人。歴戦の士で、秀吉没後 片桐且元 は秀頼輔佐のため、大坂にある。方広寺鐘銘問題の際に大坂・関東の板ばさみとなり、大 野治長らの疑いをうけ大坂城を出るが仔細は不明。冬の陣で東軍に参加、戦後加増。 ( 一五六七ー一六三六 ) 小田原出兵で秀吉に属して以来配下にあり。文禄の役では浅 伊達政宗 野長政父子を救う功あり。伏見城工事助役。関ヶ原合戦時、家康方につき上杉景勝と戦う。 大坂夏の陣では道明寺・天王寺で奮戦。仙台藩六十二万石。 徳川秀忠 ( 一五七九ー一六三二 ) 家康の三男。関ヶ原合戦には参戦するも信州上田で真田昌 168

3. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

慶長十五年 ( 一六一〇 ) 十六年 ( 一六一一 ) 十九年 ( 一六一四 ) 一一月家康、諸大名に名古屋築城を命する 三月家康、二条城にて秀頼と会見する 六月加藤清正没。 七月方広寺大仏殿鐘銘事件起こる 八月片桐且元ら、釈明のために駿府へ。家康、且元に鐘銘毀滅を 命する 九月且元ら大坂に帰る 十月一日且元、大坂城を出る。家康、諸藩に出陣を命する 二日秀頼、諸国の浪士を大坂に集める書を発する 七日真田幸村・後藤又兵衛・長宗我部盛親・毛利勝永らの将士、 続々と大坂入城。 十月十一日家康、駿府を発する 二十三日秀忠、江戸を発する。家康、二条城に入る 十一月十日秀忠、伏見城に入る 十一月十八日家康・秀忠、天王寺茶臼山にて合流。 十九日冬の陣、戦端開く。

4. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

( 大阪城天守閣蔵 ) めで、家康の成功はまさにそのようなサバイバル作戦によるものだった。 そこで家康は、企業戦争の教科書としてもてはやされたが、この家康プームはど うやら不況時代の産物らしい もともと信長は、荒々しい創業者タイプ、秀吉は部下の掌握に秀でた業績拡大型 くりの名手だった。 の経営者、そして家康は組織づ 家康の天分発揮によって、江戸幕府と徳川家臣団は十二分に機能した。もともと 彼は、結束した松平一族の頂点にあって、松平譜代、安祥譜代、三河譜代というよ うに新旧の序列に従った家臣団を組織していて、人の和と結束がいたって強かった。 徳川家康画像ところが政権の完全掌握の前に大きな邪魔者が立ちふさがっていた。それは大坂城 にいる豊臣一族、淀殿、秀頼の母子であった。 すでに家康は、征夷大将軍に任しられて幕府を開き、徳川家の礎を確かなものと していたけれど、秀頼たちが大坂城にいる限り、 いっ秀頼を担ぐ武将が現われない とも限らないのである。 この不安の根を抜き取り、叛逆を企てる者を出すまいと思えば、どうしても豊臣 氏を滅してしまう必要かある。 なんとかして、秀頼母子を殺さすに徳川政権の確立をと、ありとあらゆる方法を イ

5. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

すでに天下柿は熟し切った。家康は、再建された大仏殿の鐘の銘に難癖をつけて、 いよいよ開戦へと大坂方を追い込んでいった。 これまで徳川と豊臣両家の橋渡し役、周旋役を勤めていた片桐且元を、大坂方は 関東の廻し者と非難して、高野山へ追い払ってしまった。これで大坂方は、家康と の連絡路を自から絶っと同時に、大坂謀反の証拠をつくったようなもので、すべて 家康の思う壺に筋書が運んできた。 方広寺鐘楼片桐且元追放さるとの報に接した家康は、〃してやったり。と手を打って喜んだと いう。すでに彼も七十三歳、一日も早く天下柿をわが手中にしないと、取り返しの よいよ機が熟した〃家康は朝廷に対して、秀頼追 つかないことになってしまう。〃い りんじ 討の綸旨を願い出た。いわばこれは許可書のようなもので、野望の合戦に大義名分 の看板を掲げたようなものである。 絶対に勝てるという見込みかっかないと、合戦に踏み切らなかった家康のことな ので、この生涯最高の一戦に二十万人といういまだかってない大軍を催した。合理 主義者の家康は、たとえ忘恩の徒といわれようと、ここで豊臣氏を滅さないことに は安らかに死ねないと考えて、いよいよ決戦に乗り出した。

6. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

序説・大坂夏の陣 二の丸、三の丸、そして 冬の陣の和睦は、すべて家康の謀略といってよかった。 いくら取り囲んで 総構えと、二重三重に堀と石垣と塀をめぐらしてある大坂城を、 も、なかなか攻め切れるものではない。 そこで、堀を埋めて裸城にしてしまおうというのが最大の狙いで、それを大坂方 に承知させるために、新規召し抱えの浪人をすべて追放せよとか、淀殿を人質に差 し出せなどという無理難題を吹きかけた。 大坂方は、すでに七十を越えた家康の寿命の短いことを計算に入れて、この際、 和議に応じて、家康の死を待とうとした。 しかし家康の、どうしても豊臣氏を滅さねば死んでも死に切れないという執念の 方が強かった。 そこで和議が成立した。さらにその条件として、総構え、つまり一番外側の土塀 や堀は、わざわざ大坂まで大軍を率いて出馬してきた家康・秀忠の面目を立てるた めに、徳川方で壊してもよいが、二の丸・三の丸の堀は、大坂方で崩すからという ことで妥協が成立した。この埋め立ても、ほんの体裁だけに留めておこう、つまり

7. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

何しろ身を屈めて草鞋の紐が結べないほど、家康は狸腹になっていたのである。 だが、三日で片づけてみせるという家康の豪語は決して空いばりではなかった。 五月五日、家康・秀忠の父子は京都の二条城を出発して大坂へ向かった。ところ がその朝の一戦て、塙団右衛門が早くも討死、つづいて五月六日、夏の陣の第一日 目となると、まず後藤又兵衛、薄田隼人の両豪傑が戦死したかと思うと、若武者木 村長門守重成まで花と散って、大坂方の憂色が深まった。 決戦二日目の五月七日、天王寺口に布陣する家康・秀忠の本営めがけて、名将真 田幸村に率いられた一騎当千の強者たち三千騎が突進してきた。一時は家康とその 側近が蜘蛛の子を散らすように逃げまどったほどだが、いかに精鋭部隊であっても 衆寡敵せす、やがて関東の大軍に囲まれて真田幸村とその勇士たちも戦死を遂げた。 名だたる大将たちが帰らざる人となって、大坂城はもはや風前の灯、淀殿、秀頼の 母子のまわりに控えている人影は、そのほとんどが女人たちで占められていた。 淀殿四十九歳、秀頼二十三歳、なんとかして二人の助命をというので、大野治長 は最後の切札ともいうべき千姫を命乞いのために城から出した。これは家康にとっ ては願ってもないことで、たった一つの気がかりだった孫娘が無事に戻ったから、 後は遠慮なく総攻撃に移った。

8. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

ニ番手のマラソン・ランナー 徳川家康は、つい最近まで狸親父といってあまり評判がよくなかった。特に阪 では忠臣蔵の吉良上野介と並んで不人気だった。 冬の陣で結んだ停戦協定に違反して堀という堀を次から次へと埋めて、あたら天 下の名城を裸同然として騙し討ちにした、あんなアン・フェアーな武将は武士の風 上に置けないと、太閤びいきの大阪人はいまだに歯ぎしりして口惜しがっている。 秀吉の陽性に対して家康は陰性である。つねに耐え忍ぶことによって自分の立場 を保ちつづけてきた家康は、いわばトップランナーの疲れを待ちつつ、隙を狙って 食いついていく二番手のマラソン・ランナーのようなものだった。 ところが戦後、三河の小大名からのし上ってとうとう天下を手中にした家康の成 功物語が出版され、それが評判を呼び、しかも現代企業の経営戦略に役立っという ので、大いにもてはやされた。 というのは、企業競争がもともと陰湿で、敵の隙を狙って小股をすくうような仁 義なき戦いを繰り返し、ともかく生き残ればそれでよい、大きくなればそのプロセ スで何があろうと大企業としてもてはやされるという、勝てば官軍的土壌があるた ーー家康

9. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

( 大阪城天守閣蔵 ) 家康は、秀吉の正夫人ねねを保護して手厚く遇したけれど、あくまで徳川氏の天 下を認めようとしない淀殿には手を焼いた。 そこで二代目と定めた秀忠に征夷大将軍の官職を譲ることによって、もはや豊臣 氏に政権を渡しはしないぞという意向を示した。そしてさらに、秀吉との約束を守 って、孫姫の千姫を大坂へ嫁がせた。秀頼十一歳、千姫七歳、家康にすれば、これ で秀頼も義理の祖父となった自分に頭を下げやすくなったろうと期待した。一方、 大坂方は、千姫というまたとない人質が手に入ったと喜んだ。 両者のすれちがいはさらにつづき、家康は、つい目の前にプラ下っている天下柿 を限めしそうに眺めていた。 豊臣秀吉木像何故、家康は、こんなに辛抱したのだろうか。それは、加藤清正、福島正則、浅 野幸長といった秀吉子飼いの武将が健在だったからで、もし不用意に大坂城を攻め ようものなら、加藤、福島たちが大坂方につくだろうし、そうなると、太閤恩顧の 武将たちがいっ叛旗を翻すか知れたものではないのである。 家康は、かならす勝てるという成算のない戦さには乗り出さなかった手堅い男で ある。そこで大坂城を守る〃人と金〃の切り崩しに専念した 慶長十六年五月、居城熊本へ帰る途中、船上で病いを発した加藤清正は、熊本にⅡ

10. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

序説・大坂冬の陣 政権交替は、現代でいうと社長の交替といってよいだろう。ところが、徳川家康 は豊臣株式会社の副社長格ごっこゞ、 オオカ秀吉社長の死によって社長の遺児秀頼の後見 人を引受けた。 だが、野心家の家康はすでに独立して徳川株式会社を経営していた。そればかり マーケットシェア かライバル企業の豊臣会社がもっていた市場占拠率を奪取すべく一大攻勢を計画し た。それが大坂の陣の背景であった。 七十の坂を越えた徳川家康は、い よいよ最後の戦いに乗り出そうと決心した。す でに、征夷大将軍に任じられて、江戸に幕府を開き、天下に号令する立場を手中に しているが、目の上のこぶともいうべき豊臣秀頼と淀殿の母子が、大坂城に残って いる 秀頼が大坂城を出て、どこかの地方で一大名として過してくれるのなら、合戦に 訴えなくても天下は丸く治まるだろうと期待して、天下分け目の関ヶ原の合戦以後、 今まで家康は辛抱強く待ってきた。しかし、七十になっては、寿命と追いかけっこ をしなくてはならないから、もう待ち切れないといういが強かった。