幸 - みる会図書館


検索対象: 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む
134件見つかりました。

1. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

を第イ ~ 真田幸村 ( 右 ) ・大助 ( 左 ) 父子の活躍 部隊はすでに槍・長刀 をしごき、あるいは抜刀 して出撃態勢にある。総 大将幸村が今まさに突撃 命令を下しているところ である。この直後に、茶 臼山南面一帯は激しい白 兵戦と化したのにちがい ない。「もはやこれまで」 との思いが幸村の胸中を しめつけた。豊臣秀頼の 出馬を要請する伝令使と して息子大助が本丸へ派 遣されたと伝えられ、父 92

2. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

読 - をを物 かなかった。武門の誉れと武名を汚さぬために残された道は、玉砕あるのみ、そこ で真田軍団は死神の集団となった。 五月七日の決戦で、幸村が後藤や毛利に遅れて着陣したのは、霧のためというが、 幸村の眼中には、共同作戦より、単独で華々しく敵と渡り合いたい気持が強かった のではあるまいか。 彼はこの日、全軍を赤備え ( すべての武具を赤く染める ) の武具に装わせて、望 みどおり、家康の本陣めがけて突進また突進して、とうとう蹂躙した、そのため難 を避けて、家康は退却したくらいで川中島の謙信が信玄の本陣へ斬り込んでいった ような勢いだった。しかし、それもいっときのことで、間もなく天王寺安居天神付 近で家康の大軍相手に、幸村は華々しい討死を遂げた。 幸村最期の地幸村ほどの名将でも、よい主に恵まれないとその本領を発揮しえないもので、 わば大企業の二代目当主の下で傭兵隊長となって戦ったべテラン参謀の悲劇といっ 、くら指揮官として優秀でも、その才能を巧く使ってくれるオーナー 十 / 廾十 / / し しかし大坂方の組織はガタガタだった。 に恵まれないことにはど、つしよ、つもない そこで彼は集団の中の歯車となるより個人プレイに徹したのだろう。 あたら名将を不本意な戦いで玉砕させてしまったものである。

3. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

ちに対する秀頼側近の家臣たちの嫉視と疑念が強くて、真田幸村のような智謀の名 将を、総構えの片隅である出丸へ追いやって、一部将の地位しか与えなかったとい 真田幸村の手紙 ( 部分 ) う見方もあって、幸村の地位も実ははっきりしていない。 ( 真田道泰氏蔵 ) 真田幸村といえば、人気随一の名将ということになっているが、幸村の身辺には いつも不運の影がっきまとっていた。 信州、上田の城主真田昌幸の二男に生まれた幸村は、天下分け目の関ヶ原の一戦 ( い〉ろ「一」に際して、父昌幸と共に、大坂方に味方した。 「にす , 、ん源平の時代から、家柄と血統を残すために、地方豪族は、兄弟を二手に分け、兄 みを関東方につけさせると、弟を関西方へというように、巧く振り分けて、どちらが ) させ、ろ ( 7 勝 0 ても負けても家柄と血統が存続するように工夫したものである。 のぶゆき そこで真田昌幸は、兄の信幸を徳川方に味方させ、弟の幸村は自分と共に大坂方 ′まあイ第「のを「のために働かせた。 信州上田城に籠った真田父子は、中仙道を進んできた徳川秀忠軍を一手に引受け て、わすか二千の小勢ながら、六万の大軍を十日間も釘づけにしてしまった。 そのため秀忠は、関ヶ原の決戦に遅れて、家康の大目玉を食う羽目となって、終 生、真田父子を憎悪した。当然、殺されるはずだったが、兄信幸の必死の嘆願で、 こも

4. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

散逃 る し分 に 団 家大がに のそすげ裸お真 軍こ康野改取 と と て い生れれ出城け い 略 に治め 田 の 幸 る 幸わも る き ばし 間取房てか と に 村秀る てな彼村なな を 交カ に 忠道 も のほけけ真 冫欠 つ ~ 歩 つ 出は は よ った発どれれ田 は に た 来 、や た 大言 て赴時 のばば フ っ ゼ徳な 坂カ名な く 、長 示かす る と も ら 城が将ら ロ川 小 し者 5 せ ぐ ん . いがな針我な と ど に た さ に の ク ) い の は こ等天だで敗カ い も 部 のま カゝ い 万そ し 下があ北 0 は抗 な つる に . 反 は 弱 く 後た本 、議 い と の 一逆 。な恐 0 、か事 、藤 。多 な に つ 者た ら 曲 言隹 っ る た 正 た んし ) く 信 の と と 臣 だち の た と に ′つ 望 と武家 徳 し 目 か何 の お は た みて大は 門 0 所玉秀 に を 川何 を 自坂 九の さ も 牛勿 っ 方 を、 と頼 へ 託分城分意 し 言斥 し 日月ロ ロ : 発 の い の を通地た 違 う使 し を て え て捕立 さ侍者 り し 系勺し、 がる かて そ恩 ち 目 せ女カ 疋 て を た で、 い 徳て退にれ顧 だ追 の た 貝 を織 。な 川 タ匙 い見を め だ カゞ つ し、 ぇ許 、た返 の刑 も た 田 大す た有 フ 本 。さ と て さ と は、 多 いなな 楽 さ れ かか し ) い と ろ り は ら る 力、 た フ っ幸な と で た村ど をこ聞 つだ と は ろ 自 な の も 左 か は は の し、 る 右おて っ 分 る だ ろ早 と - つ 月ヒ と憎 と に淀 フ く さ 坂 し の しな悪自 。退 城 集 と て 、殿 98

5. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

さに、家康を守っていた直衛隊が、水の引くように逃げ散って、家康さえ一時は危 なかった。 不思議なる弓取りなりと、徳川軍も幸村の死闘りに驚嘆している。 ざれ 大坂落城後、京童の間でこんな戯歌が流布された。 花のやうなる秀頼様を鬼のやうなる真田が連れて退きも退いたよ加護島へ 秀頼が、落城寸前に幸村がかねがね用意していた抜け穴づたいに城外へ逃れ出た、 そして薩摩か琉球で天寿を全うしたという噂さは江戸時代かなりひろまったが、そ の確証はどこにもなく淀殿や真田父子や後藤までついていったというのでは、あま りに話が、つますぎる。 それにしても、落城の混乱に乗って、戦勝者たちはほしいままに虐殺と略奪と婦 女暴行をおこなった。 斬り取り強盗は武士の習いというか、どさくさまぎれに野盗が横行したというの ならともかく、れつきとした諸大名の武士たちが大坂城内にいた町人たちの財物を 奪い取り逃げようとする婦女を犯し、鎧武者を裸にして具足や金目の物を盗んでい ったのだから勝者の傲りがあたら武人を獣と化したとしか言いようがない。 夏の陣で失われた豊臣方の戦死者は一万四千人とも一万八千人とも言われてい わらべ

6. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

ようやく許されて、昌幸、幸村の父子は、紀州高野山の麓にある九度山村に追放蟄 居の身となった。 こうして真田父子は十五年もの長い間、九度山村で蟄居生活を続けることとなっ た。その間に昌幸は、慶長十六年、六十五歳で死去した。 すでに天下は徳川氏のものとなりつつある。しかも徳川氏の天下になっては、秀 忠に憎まれている幸村の生きて行く余地はないものと思われた。秀忠の憎しみをひ しひしと感じる時、幸村は、徳川氏を倒す以外に自分が世に出る道はあるまいと吾 った。だから、関東、関西手切れとなって、大坂方が浪人を傭い入れた時、その招 きに応して大坂に入城することにした。 黄金二万枚 ( 一枚四十八匁もある大判金 ) 、銀三十貫の入城支度金を支給され、さ らに勝利の暁は五十万石の大名に取り立てるという約束の下に、大坂方についた幸 彼ことっては、物的褒賞もさることながら、おのれの手腕力量を存分 村であった。 , 。 に発揮して、ふたたび世に出たいという希望の方がより大きかったものと思われる。 さらに淀殿という女傑が陰で糸を引いている。 けれど、大坂城には主将がいない。 その上、同志討ちゃら内紛やらが相つぎ、織田有楽斎をはしめ関東方に内通してい るス。ハイや裏切者が、数え切れないほどいるとあっては、とても勝利は覚束ない。

7. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

「を第 戦闘ぶりの勇猛果敢さと 相まって、真田の赤備え、 日本一の兵との讃嘆の声 をは一ぎ ( 第 ~ 第当一を後世にまて残した。 画面右下、栗毛の馬の 手綱を締め、赤具足・赤 陣羽織に黒鹿角脇立付の 兜を着し、精悍な顔で采 配を振るっているのが幸 村であり、その左手連銭 葦毛の馬に槍を携えた黒 弩鹿角兜の若武者が息子大 助の晴れ姿である。

8. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

馬上 0 伊達政宗 ( 右 ) と松平 ( 左 ) 五月七日 0 决戦当日、 伊達家 0 記録 0 一「 = 政宗の」でたちょ 明珍作 0 兜」黒半月 0 ーとけど 鎧は黒塗り の仏胸であ「ご / と、 この屏風絵にま それ」該当す人物は見 当らず、その代りこ、《《 銭毛の馬こ くろ かわおど よ、」ゞ 幸威し 0 大鱧 0 成容〈目 立「武将伊達隊 0 中央 部に描かれて、 しる。 これ か政宗その人であ

9. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

たが、こと不利をハネ返してでも、幸村は徳川方を倒さなくてはならないと思っ オ。彼はだから豊臣家のために戦ったのではなく、自分のために籠城したのである。 豊臣氏の恩顧に酬いるために真田が忠死したとみる人もいるが、彼は、豊臣氏か ら取り立てて恩を受けてはいなかった。もし秀忠が、彼を贈んでいなかったなら、 真田出丸跡図そして温く迎えられたなら、徳川についてもよかっ・たが、その道を閉ざされたと思 ( 大阪城天守閣蔵 ) った所に、幸村の不幸があった。 大坂城は、東北西の三方面には川があったりしてまことに攻め難く、攻撃すると すれば南しかなかった。 南の防衛線の最前線、そこが真田出丸だった。 しかし冬の陣では、二十万と号する関東の大軍を、やや高地にあるから遠望した だけで、さしたる戦いもなく終ってしまい、城方のうかっさによって、大事な総構 いえばかりか、三の丸、二の丸の防衛線まですべてこわされてしまった。 もし幸村が、大坂方の采配を揮っていたなら、こんなへマをするはすはなかった ろうと思われる。 しかし大坂方の指揮系統は、まことに複雑で、一体誰が最終責任を負っていたの かよく分らない。だから、徳川方が、約束に違反して、二の丸、三の丸の埋め立て ふる

10. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

幸・幸村父子に西上を阻止され間に合わす。のち兄秀康をおき一一代将軍となった。大坂冬・ 夏の陣には父と共に参戦。武功はないが、幕府組織を確立、強固にするに功あり。 徳義直 ( 一六〇〇ー一六五〇 ) 家康の九男。尾張徳川家の祖。一六〇三年、甲斐二十四万石 に封ぜられ、一六〇七年には尾張に移り、六十二万石に達する。十男の弟頼宣 ( 紀伊徳川 家の祖、五十五万五千石 ) らと共に家康の寵愛をうけ、大坂冬・夏の陣に参加。 ( 一五八二ー一六一五 ) 徳川四天王の一人で名だたる闘将本多忠勝の次男。関ヶ原合 本多忠朝 戦で敢闘、翌年その功により父の旧領上総大多喜城五万石を与えられる。夏の陣では家康 より「親にも似ぬ意気地なし」と面罵をうけ発奮、軍紀を無視した突進で奮戦、戦死。 前田利常 ( 一五九三ー一六五八 ) 利家の四男。妻は秀忠の次女天徳院。冬の陣に参戦、先駆と なり、更に夏の陣でも三万の軍隊を率いて大野治房隊に対するなど、軍功を挙げる。のち 幕府より前田家謀叛の疑いをかけられるが、狂気を装うなどして免れたといわれる。 松平忠直 ( 一五九五ー一六五〇 ) 家康の次男結城秀康の長男。父の死後、越前六十七万石を継 。大坂の陣に参加。特に夏の陣では天王寺茶日山方面にて真田幸村と対戦、これを討っ 功あり。しかるに軍功に対しての所領加増はなく、幕府に不満を抱く。のち豊後配流。 169