遠征軍の顔を立てるだけでよいというのが大坂方の思惑だった。ところが、徳川方 は、ほんの名目だけと、大坂方を欺いておいて、その実、大坂城の堅い防備をすべ て崩してしまおうというのが狙いだったから、大勢の人夫を使って、あっという間 に総構えばかりか、二の丸・三の丸の堀まで埋め立ててしまった。 家康の本陣・茶臼山古墳そしてやっと気のついた大坂方が抗議すると、手違いだと言い訳しつつ、どんど ん工事を進め、大坂方が本気で反抗した時は、すでに埋め立てが完了した後だった。 これは徳川方の謀略と大坂方のうかっさ、戦略のなさが招いた結果である。 こうして大坂城は裸城となってしまった。 もうこうなれば、何十日間にもわたる包囲戦など必要としなかった。後は赤児の 手をひねるようなものだというので、家康は、米五升、干鯛一枚、味噌、鰹節、沢 庵だけ用意させ、腰兵糧三日分で十分片づくだろうと断言した。 元和元年 ( 一六一五 ) 四月、家康は生涯打ち止めの最後の一戦に乗り出した。と ころが、あんな小伜相手に鎧など無用であるといって、兜と鎧は近臣に持たせ、自 かたびら 分は茶色の羽織に浅黄の帷子という軽装で、編笠姿に武者草鞋、どこかその辺に出 かける御隠居みたいな恰好で気軽く夏の陣に臨んだ。 しかし、実をいうと下腹がせり出しすぎて鎧が窮屈になってきたための軽装で、礙
う魂胆を見抜いて、城方のお手伝いをしましようとい 桜門一帯 うことで、あれよあれよという間に作業を強行してし 冬の陣の和睦の条件に、大坂城の堀を埋めるという のがあった。惣構の堀は関東方、三の丸・二の丸の堀まったのであった。こうして和睦成立から一カ月。さ は大坂方という分担であった。和睦の誓紙交換がすんしもの堅固さを誇った大坂城もとうとう本丸だけの、 だ翌日には、関東方はもう堀の壊平に着手、以後夜を何とも浅間しい姿となった。この場面は、本丸正面桜 はだかじろ 日につぐ突貫工事で工事をすすめ、次いで三の丸・二門周辺を描くが、裸城となった大坂城の姿をよく示し の丸の堀・石垣・矢倉の破却に着手した。大坂方の時ている。 間をかせいで破却工事をうやむやにしてしまおうとい 115
序説・大坂夏の陣 二の丸、三の丸、そして 冬の陣の和睦は、すべて家康の謀略といってよかった。 いくら取り囲んで 総構えと、二重三重に堀と石垣と塀をめぐらしてある大坂城を、 も、なかなか攻め切れるものではない。 そこで、堀を埋めて裸城にしてしまおうというのが最大の狙いで、それを大坂方 に承知させるために、新規召し抱えの浪人をすべて追放せよとか、淀殿を人質に差 し出せなどという無理難題を吹きかけた。 大坂方は、すでに七十を越えた家康の寿命の短いことを計算に入れて、この際、 和議に応じて、家康の死を待とうとした。 しかし家康の、どうしても豊臣氏を滅さねば死んでも死に切れないという執念の 方が強かった。 そこで和議が成立した。さらにその条件として、総構え、つまり一番外側の土塀 や堀は、わざわざ大坂まで大軍を率いて出馬してきた家康・秀忠の面目を立てるた めに、徳川方で壊してもよいが、二の丸・三の丸の堀は、大坂方で崩すからという ことで妥協が成立した。この埋め立ても、ほんの体裁だけに留めておこう、つまり
慶長二十年 ( 一六一五 ) 元和元年 二十日家康、早くも和議工作を始める。 二十六日鴫野・今福の合戦。 十二月四日井伊・松平・前田隊、真田出丸に寄せるが、幸村らの奮戦で 大敗を喫する 十二月十六日関東方、大坂城内に大砲を撃ち込む。天守閣の柱・千畳敷な ど壊れる。城中動揺する 十七日塙団右衛門、本町橋夜襲。木札をまく。 十八日関東方、和議提示。淀殿、同意する 十九日大坂方、二の丸・三の丸破壊に同意。 二十三日大坂城塁濠、壊平開始。 二十七日城の破壊が内濠に及ぶ。大坂方、約定違反をとがめるも、関 東方続行する。 一月十八日大坂城塁濠の壊平終了。 二月十四日家康は駿府に、秀忠は江戸に帰る 三月大坂方再軍備の報、家康に届く。 四月十八日家康、再び二条城に入る
たが、こと不利をハネ返してでも、幸村は徳川方を倒さなくてはならないと思っ オ。彼はだから豊臣家のために戦ったのではなく、自分のために籠城したのである。 豊臣氏の恩顧に酬いるために真田が忠死したとみる人もいるが、彼は、豊臣氏か ら取り立てて恩を受けてはいなかった。もし秀忠が、彼を贈んでいなかったなら、 真田出丸跡図そして温く迎えられたなら、徳川についてもよかっ・たが、その道を閉ざされたと思 ( 大阪城天守閣蔵 ) った所に、幸村の不幸があった。 大坂城は、東北西の三方面には川があったりしてまことに攻め難く、攻撃すると すれば南しかなかった。 南の防衛線の最前線、そこが真田出丸だった。 しかし冬の陣では、二十万と号する関東の大軍を、やや高地にあるから遠望した だけで、さしたる戦いもなく終ってしまい、城方のうかっさによって、大事な総構 いえばかりか、三の丸、二の丸の防衛線まですべてこわされてしまった。 もし幸村が、大坂方の采配を揮っていたなら、こんなへマをするはすはなかった ろうと思われる。 しかし大坂方の指揮系統は、まことに複雑で、一体誰が最終責任を負っていたの かよく分らない。だから、徳川方が、約束に違反して、二の丸、三の丸の埋め立て ふる
に二第 ぐ、、い 京橋・備前島橋一帯 七日の合戦にあたっ て、家康は京ロ・堺口に 詰めていた関東方の軍勢 に移動を命じ、道をあけ させた ( 「村越道伴物語留 書し : 窮鼠猫を噛む〃の ことわざにもあるよ、フ に、退路をふさいでしま っては大坂方の死物狂の 反抗にあい、かえって味 方の損害を増すだけと考 えての措置だった。 京橋・備前島橋一帯は、 その逃げ道の一つ京ロで ある。描かれているのは 132
ちに対する秀頼側近の家臣たちの嫉視と疑念が強くて、真田幸村のような智謀の名 将を、総構えの片隅である出丸へ追いやって、一部将の地位しか与えなかったとい 真田幸村の手紙 ( 部分 ) う見方もあって、幸村の地位も実ははっきりしていない。 ( 真田道泰氏蔵 ) 真田幸村といえば、人気随一の名将ということになっているが、幸村の身辺には いつも不運の影がっきまとっていた。 信州、上田の城主真田昌幸の二男に生まれた幸村は、天下分け目の関ヶ原の一戦 ( い〉ろ「一」に際して、父昌幸と共に、大坂方に味方した。 「にす , 、ん源平の時代から、家柄と血統を残すために、地方豪族は、兄弟を二手に分け、兄 みを関東方につけさせると、弟を関西方へというように、巧く振り分けて、どちらが ) させ、ろ ( 7 勝 0 ても負けても家柄と血統が存続するように工夫したものである。 のぶゆき そこで真田昌幸は、兄の信幸を徳川方に味方させ、弟の幸村は自分と共に大坂方 ′まあイ第「のを「のために働かせた。 信州上田城に籠った真田父子は、中仙道を進んできた徳川秀忠軍を一手に引受け て、わすか二千の小勢ながら、六万の大軍を十日間も釘づけにしてしまった。 そのため秀忠は、関ヶ原の決戦に遅れて、家康の大目玉を食う羽目となって、終 生、真田父子を憎悪した。当然、殺されるはずだったが、兄信幸の必死の嘆願で、 こも
合戦始末記 関東方二十万、関西方十万、両軍合わせて三十万の武士たちが、大坂城の内外に ひしめいて、凄絶きわまりない攻防戦を展開したのである。 冬の戦いを前哨戦とすれば、夏の戦いは雌雄を決する本戦といってよい。 ところが前哨戦で家康は策略を用いて、大坂城を裸同然にしてしまった。つまり 作戦勝ちである。関東方は、絶対の権力者徳川家康・秀吉父子を中心に、四天王を はじめとする家臣団が、鉄の団結を誇っている。 びん たとえ大名といえども、神君家康の一顰一笑に一喜一憂した。 ところが大坂には、総大将の秀頼がいるにはいるが残念なことに、指揮官として の資質に欠けていた。しかも経験不足で、過保護青年ときているから丸つきり藁人 形のようなものだった。その上、秀頼の直臣たちは軍事に不慣れな文官が多く、傭 い入れた浪人たちの不信を買っていた。 しかも秀頼たちは、真田幸村たち傭い入れの武将たちを信し切れす、お互いに反 主将なし、しかも指揮系統の混乱した大坂方が、敗北を喫し 目を繰り返していた。 たのは、当然のことだった。 158
ようやく許されて、昌幸、幸村の父子は、紀州高野山の麓にある九度山村に追放蟄 居の身となった。 こうして真田父子は十五年もの長い間、九度山村で蟄居生活を続けることとなっ た。その間に昌幸は、慶長十六年、六十五歳で死去した。 すでに天下は徳川氏のものとなりつつある。しかも徳川氏の天下になっては、秀 忠に憎まれている幸村の生きて行く余地はないものと思われた。秀忠の憎しみをひ しひしと感じる時、幸村は、徳川氏を倒す以外に自分が世に出る道はあるまいと吾 った。だから、関東、関西手切れとなって、大坂方が浪人を傭い入れた時、その招 きに応して大坂に入城することにした。 黄金二万枚 ( 一枚四十八匁もある大判金 ) 、銀三十貫の入城支度金を支給され、さ らに勝利の暁は五十万石の大名に取り立てるという約束の下に、大坂方についた幸 彼ことっては、物的褒賞もさることながら、おのれの手腕力量を存分 村であった。 , 。 に発揮して、ふたたび世に出たいという希望の方がより大きかったものと思われる。 さらに淀殿という女傑が陰で糸を引いている。 けれど、大坂城には主将がいない。 その上、同志討ちゃら内紛やらが相つぎ、織田有楽斎をはしめ関東方に内通してい るス。ハイや裏切者が、数え切れないほどいるとあっては、とても勝利は覚束ない。
毛利勝永隊 三人衆と呼ばれ、重きをなした。七日の合戦で毛利隊 大坂方で最大の働きをした天王寺ロの毛利勝永の隊は、関東方の本多忠朝、小笠原秀政・忠脩父子を討死 である。背に、金の円月の一部を切りとった形の指物にさせ、比類ない働きをした。勝永は大坂方全軍崩壊 をつけた鎧武者が多く描かれている。これが「金の半の後、大坂城内に引返し自害したと伝える。 さしもの 月の番指物ーといわれるもので毛利隊の目印であった。 毛利勝永は、豊前六万石の大名であったが、関ヶ原 で失領し、土佐で山内家の監視下にあった。冬の陣直 前に土佐を脱出し大坂入城、真田・長宗我部とともに 119