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検索対象: 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む
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1. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

( 弘経寺蔵 ) うし、少しはいしめてやれと、女の意地悪振りを発揮したかもしれない。だが、豊 臣側にとって、千姫は願ってもない人質であり、最後の切り札だった。 千姫と秀頼の仲は、決して悪くなかった、むしろ仲むつまじかったという言い伝 えもある。しかし秀頼の事績が伝わらないのと同様、千姫についてもほとんど伝え られていない。大坂城における千姫の存在価値は、大坂城最後の時に凝縮されてい るといってよいたろ、つ。 大坂夏の陣の決戦二日目のことである。裸城となった天下の名城は脆くも攻め込 まれて、打って出た後藤又兵衛、木村長門守、真田幸村など、名だたる部将はみな 戦死して、豊臣家の家老ともいうべき大野治長まで傷ついた。そして午後五時、一 千姫姿絵の丸も落ちた。 今はこれまでというので、山里曲輪の蔵の中へ逃れた秀頼、淀殿、千姫の三人は つき従う治長以下二十八人ほどの侍と侍女に守られていた。この時、淀殿は、逃し てなるものかと鬼のような顔つきで、膝の下に千姫の衣裳の裾を、しつかと押えっ けて放すまいとした。そのため、なんとかして千姫を逃そうとした形部卿の局は、 女中に命して、衝立の向うから、 「アレ、秀頼さまッ ! 」 153

2. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

大坂城を脱出する女たち 無能な秀頼と、感情的な陰の命令者淀殿をトップに戴いて、大坂方の士気は上ら なかった。もし淀殿が権力をふるわす、剃髪して尼にでもなっていたなら、豊家ゅ かりの武将たちが、大坂方の味方をしていたかもしれないのである。 男らしさを誇りとする武将たちは、女の命令者を頭に戴きたがらなかった。この 本能的な武将たちの習性を知ろうとしなかった所に淀殿の救いがたい頑迷さと悲劇 があった。 権勢欲と母情に衝き動かされているだけの女主人に仕えた男たちは哀れだった。 大坂方となって戦うことしか残された道のなかった名将真田幸村のように死をめ ざして、おのれの武勇の最後の見せ場へと突進していった者はよいが、恩賞と出世 を目当てに傭われた将兵たちは、やがて地獄へと突き落されてしまった。 かって秀吉の名誉の印であった金の瓢簟の馬印、百戦百勝して唐天竺までもと望 んだ大欲の人太閤秀吉のシンポルであり、唐にまで聞えた馬印が、夏の陣の三日目、 五月八日には御殿の台所近くに転がっていたのである。それをみつけた二人の女中 が、これが敵の手に入っては豊家の恥というので、粉々に砕いたと伝えられている。 だが、夏の陣の夜、真田軍三千五百名の最後の奮戦は壮烈そのものだった。五月 七日の午後、家康の本堂めがけて全軍一団となって突進していった幸村軍の凄まし

3. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

序説・大坂冬の陣 政権交替は、現代でいうと社長の交替といってよいだろう。ところが、徳川家康 は豊臣株式会社の副社長格ごっこゞ、 オオカ秀吉社長の死によって社長の遺児秀頼の後見 人を引受けた。 だが、野心家の家康はすでに独立して徳川株式会社を経営していた。そればかり マーケットシェア かライバル企業の豊臣会社がもっていた市場占拠率を奪取すべく一大攻勢を計画し た。それが大坂の陣の背景であった。 七十の坂を越えた徳川家康は、い よいよ最後の戦いに乗り出そうと決心した。す でに、征夷大将軍に任じられて、江戸に幕府を開き、天下に号令する立場を手中に しているが、目の上のこぶともいうべき豊臣秀頼と淀殿の母子が、大坂城に残って いる 秀頼が大坂城を出て、どこかの地方で一大名として過してくれるのなら、合戦に 訴えなくても天下は丸く治まるだろうと期待して、天下分け目の関ヶ原の合戦以後、 今まで家康は辛抱強く待ってきた。しかし、七十になっては、寿命と追いかけっこ をしなくてはならないから、もう待ち切れないといういが強かった。

4. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

のばり を並べると、人物五、〇七一人、馬三四八頭、幟一、三八七本、鑓九七四本、弓一 一九張、長刀三六八振、鉄砲一五八挺という具合である。ちなみに狩野永徳筆のか の有名な洛中洛外図屏風 ( 上杉本 ) の人数は、同じ本間屏風の広さの中に約一、八 〇〇人で、これ自身大変な数だが、それにくらべてもこの屏風の数字がいかに多い ものかがわかるであろ、つ。 ところで、戦国合戦絵屏風の中で、戦乱にほんろうされる庶民の姿を克明にとら えたのはこの屏風が唯一のもので、それが左隻が〃元和のゲルニカ〃とまで評され るゆえんである。たしかに数ある戦国合戦の中で大都市で展開されたのは、大坂の 陣のみであり、庶民が合戦絵に登場する必然性は十分にあるのだが、大坂冬の陣図 屏風に登場する庶民の数は非常に少ない。やはり注文者や絵師の製作意図とこの問 題は深くつながっているのであろう。 最後に、この屏風は別称黒田屏風といわれ、黒田長政が参戦記念に戦後描かせた と伝えている。長政の没年は元和九年 ( 一六二三 ) であるから、それ以前に描かれ たことになる。しかしこの成立時期については、美術史家による研究の結果、最近 否定的になりつつあるが、なお定説を得ていない。 やり 165

5. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

0 、 4 軍議が召集され、治長も 天王寺口から城内に呼び もどされた。したがって この大部隊の中に治長の 姿はない。 結局治長は秀頼・淀殿 と死を共にするが、最後 の手段として秀頼・淀殿 助命を条件に千姫を城外 に脱出させるのが、この 治長であった。 105

6. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

東西両軍の激突 この屏風にはいたると ころに様々な戦闘場面が 描かれているか、ここに 掲げた場面は、東西両軍 の最先端が今まさに激突 した瞬間を活写したもの で、この屏風全体のハイ 一フィトといってよい この日五月七日正午ご ろ、ます鉄砲隊の撃ち合 いから世紀の決戦が開始 された。続いて弓矢の応 酬、さらに接近して槍合 戦となり、最後は敵味方 入り乱れての白兵戦が展 76

7. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

階の窓には戦況を見守る女性の顔が描かれている。中 大天守最後の姿 秀吉創建の大天守である。五層の外観を細部まで克には感極まって泣いているのか、目をおさえている者 明に描いており、天守に関する資料がほとんどないだすらいる。この大天守は七日大坂方崩壊の中焼け落ち にこの絵を 現在の天守閣は昭和六年 ( 一九三一 ) けに貴重なものである。最上層は望楼 ( 展望台 ) で回た。 廊をもつ。その黒塗りの壁面に鷺と虎を配す。また唐モデルに再建されたが、黒壁は白壁に、鷺は鶴にかえ ちどりはふ 破風と千鳥破風には金箔瓦が用いられていたように見られている。 しとみ える。窓は、蔀のように、下から押しあげ、つつかい 棒をたてて開けており、なかなか興味深い。二階・三 から 129

8. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

していた。 大坂城中の内紛、意見の不一致は、側近第一等ともいうべき大野兄弟の内輪揉め にもよく現われている。まして新規傭い入れの真田や長宗我部や後藤たちと、大野 三兄弟との間には大きな溝が横たわっていた。それは取りも直さず大野兄弟が全軍 を統帥する器量をもっていないことを意味している。 淀殿の話し相手からのし上って、ようやく一万石の禄高をもらうようになったけ ( 大阪城天守閣蔵 ) れど、武将としてはなんの経験もない大野治長に、海千山千の浪人たちを指揮でき ようはすもなかった。 五月七日の激戦で、後藤又兵衛、薄田隼人、木村重成、真田幸村と、名だたる大 、すなにを ) 亠将がみな討死して【 0 たと聞いて、もう駄目だと大野治長は観念した。 それでもまだ淀殿と秀頼をなんとか生き永らえさせたいというので、最後の切札 も臥である千姫を助命に出した。しかしあくまで母子を滅してしまおうという家康は助 命嘆願を受けつけなかった。今はこれまでと、母子に自決をさせ、治長は、その後 を追った。 しかし弟の治房はいすれにか落ちのびて行方をくらませてしまった。なお末弟は 捕えられて処刑されている。 大野治房の手紙 109

9. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

示してほしいと、諸将が懇請したにもかかわらず、遂に最後まで、大将としての働 きを示さすに終った。 もし秀頼が陣頭に立ったなら、豊家恩顧の徳川方諸将はとてもまともに戦えまい と思われたが、遂に秀頼はそれをしなかった。こんなことで生死の関頭のくぐり抜 けられようはすはない。 くるわほしいい 五月八日、山里曲輪の干飯蔵にこもって、結局何もしないまま、自決して二十三 歳の短い生涯を果てたのである。 それはまことにロポット的若殿の半生であって、自分らしい生きかたをしたとは いえないままに終った。 秀頼生存説があって、落城寸前に船で海上へ逃げのびた秀頼母子が、徳川の世と 豊臣秀頼の黒印なった後も南九州に隠れひそんで、死ぬまで世に出ることがなかったというが、果 ( 大阪城天守閣蔵 ) してど、つだろ、フか ともあれ秀頼は、天下人の資質のない、形だけの二代目に終ってしまった。なに 。 2 ぶん幼児の頃に父秀吉と死別し、たった一人の後継ぎというので、ただただ祭り上 げられ、自からの意志どうり生きることなく、運命のいたすらに身を委ねて死んで いったようなものだった。 125

10. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

研究実験してみたけれど、結局は、秀頼母子の存在そのものが、反逆を誘う要因に なると分った。まして淀殿が、主人面をして家康を見下そうとする限り、諸大名の 手前、放ってはおけなかった。 将軍はつねに諸大名の上に君臨して尊敬される存在ではなくてはならない。家康 このまま は七十というおのれの年齢を考えた時、おそらく然としたに違いない。 最後の詰めを怠り、止めを刺さすにおいたのでは、後世の笑い者となり、徳川政権 の前途を危くする。 すでに大坂城に貯えられた黄金を散じさせ、豊臣恩顧の諸将も黄泉の客となって 旅立った以上、いよいよ機は熟した。これなら九分どうり勝利は間違いないと計算し 尽した末に、ようやく家康は腰を上げた。 十七歳で初陣を経験して以来、約五十年間、戦いに次ぐ戦いの人生だったが、家 康はすべての戦いに勝ち抜いてきたわけでなく、何度も敗北に近い屈辱をなめたが、 ボクシンクでいう負け強い選手として、リングに留まっているうちに、チャンスを つかんでチャンピオンの座についた。 戦国の世に、七十五歳の長寿を保ち、しかも長い武将生活のうち一度も負傷もせ す、つねに太陽に向って進んでいったということは、よほど強運でなくてはできな