生れ - みる会図書館


検索対象: 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む
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1. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

後家の頑張りも、時代が読めずーーー・・淀殿 戦国時代随一の美女お市の方を母に、戦国の美丈夫浅井長政を父として生れたお ちゃちゃ ( 淀殿 ) は、父母の血統から考えて、さぞや絶世の美女だったろうと思わ れている。 事実、醜女であったなら、秀吉に見染められもしなかったろうが、長子、鶴松を 生んでから、彼女は両親の画像をつくらせて高野山の持明院に奉納している。その 持明院に残されている淀殿の画像をみると、ふつくらして体格のよい所は父親似で、 母親と較べると、それほど美人とはいえない。 風にも堪えぬ楚々たる美人であったお市の方と似ても似つかないのは、あまりに も父親に似すぎていたからだろう。 少女時代、おちゃちゃと呼ばれていた彼女は三姉妹の長女で、七歳の時、生れ育 った小谷城と、父や祖父母や弟を失った。 しかも母の兄、自分にとっては伯父に当る人に、居城を攻め滅されたのである。 いくら戦国の世のこととはいえ、多感な少女にとっては堪えがたいショックだった ろう。そして、母が再婚したので養父となった柴田勝家を、こんどは羽柴秀吉のた 138

2. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

それはまさに鎧を身にまとった幽鬼のようなものだった。忠朝、時に年三十四歳、 五月六日、彼は戦場となった天王寺口に到着した。 「明日は、天王寺ロの先鋒を命しる」 よいよ死に時がきたぞと心に銘じた。 指令を受けとった忠朝は、い 言日松本の小笠 ところが、その時、全く同しいだったもう一人の武将がいたイ屮 原秀政だった。彼は、前日、若江の一戦で大坂方の木村重成と戦ったが、戦機を逸 して、家康から手きびしい叱責を受け、この上は、死をもって酬いる他なしと決心 していた。 こうして生きながら幽鬼の大将となった本多忠朝と小笠原秀政の二人は、互いに 心中を語り合って、別れの盃を酌み交した。 「こんど会う時は、三途の川でのう」 「いかにも : ・・ : 」 さて五月七日のことである。今日を晴れと、大鹿角の兜を猪首に着て、黒糸縅の 鎧を身にまとった忠朝は、大身の槍を小脇にして、自慢の駿馬に打ちまたがった。 人間、死を覚唐すれば、何一つこわいものはない。 、 / まっしぐらにただ進め / 「しよいカ おどし

3. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

三枚目の豪傑・塙団右衛門 赤鬼青鬼が振り廻しそうな鉄棒を、軽々とふるって大あばれする大坂方の豪傑、 その名も高き塙団右衛門というのは、講談のイメージである。 。一兀 ノン・ダンエモン〃という語感と字面が、なんとなく愛嬌があって贈めない 来、日本人は桃太郎以来、気はやさしくてカ持ちという英雄を好む傾向がある。 大坂方の武将の中で最高のヒーローは真田幸村で、その左右に後藤又兵衛と木村 重成が位置している。しかし、こういう英雄豪傑や誠忠の武将ばかりでは、話が一 向に面白くならない。そこでカは強いがヘマもするという一二枚目が必要というので 講釈師に選ばれたのが、塙団右衛門である。 どういう基準で選んだのか、あるいは大衆芸能家の直感、眼力によるものか、正 しく塙は三枚目豪傑の人選にびったりの人物だった。 生れは尾張の国羽栗郡竜泉寺村で、農夫の小伜だったが、自然児そのままで、毎 日、山野を駈けめぐっているうちに、十五、六歳で大人以上の体格になった。 この大男ぶりが信長の目にとまって馬屋係に召し抱えられ、後に士分の端くれに 加えられた。

4. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

まれ、朱総の黒毛の馬で、金の扇子を胸に戦闘を凝視 前田利常隊・井伊直孝隊 図の左上部、白地に梅鉢紋の幟が林立し、後方にはしている青年武将が利常である。 様々な文様の旗指物が続いているのが、前田利常の率金雲で区切られた手前の部隊は、槍を先頭に抜き身 の刀を振りかざして突進する勇猛な戦闘集団である いる加賀金沢藩の大部隊である しはん 前田隊はこの日、将軍秀忠配下の岡山口の先鋒としが、赤地に八幡大菩薩の幟や井桁の大四半などから近 て、豊臣方の大野治房隊と激突した。図はすでに鉄砲江彦根藩井伊直孝 ( 中央馬上の赤具足の人物 ) の部隊 とわかる。 隊による前硝戦が始まっている様子を描いている。部 隊中央、大きく目立っ白母衣・赤母衣の護衛兵達に囲

5. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

合戦始末記 関東方二十万、関西方十万、両軍合わせて三十万の武士たちが、大坂城の内外に ひしめいて、凄絶きわまりない攻防戦を展開したのである。 冬の戦いを前哨戦とすれば、夏の戦いは雌雄を決する本戦といってよい。 ところが前哨戦で家康は策略を用いて、大坂城を裸同然にしてしまった。つまり 作戦勝ちである。関東方は、絶対の権力者徳川家康・秀吉父子を中心に、四天王を はじめとする家臣団が、鉄の団結を誇っている。 びん たとえ大名といえども、神君家康の一顰一笑に一喜一憂した。 ところが大坂には、総大将の秀頼がいるにはいるが残念なことに、指揮官として の資質に欠けていた。しかも経験不足で、過保護青年ときているから丸つきり藁人 形のようなものだった。その上、秀頼の直臣たちは軍事に不慣れな文官が多く、傭 い入れた浪人たちの不信を買っていた。 しかも秀頼たちは、真田幸村たち傭い入れの武将たちを信し切れす、お互いに反 主将なし、しかも指揮系統の混乱した大坂方が、敗北を喫し 目を繰り返していた。 たのは、当然のことだった。 158

6. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

4 ・を、当ナ当イを . 塙団右衛門の塚 を任された足軽大将格だが、この日ばかりは一かどの侍大将らしく采配をふるい 本町橋の欄干に腰かけて〃ソレ、進め ! 〃と指図した。彼はこの時、 〃夜討の大将塙団右衛門 と記した木札を宣伝ビラがわりにバラまいて、一世一代の晴れ舞台を飾った。 見たか加藤嘉明、汝は、わしを将の器でないといって嘲りおったが、これで もそううのか いわばそれは勇将の証しといってよかった。だが、彼の晴れ姿はそれつきりだっ た。もっとも大坂冬の陣で大坂方が目ざましい働きをみせたのは、この本町橋の一 戦だけだったから、鼻つまみ者の豪傑が思わぬ冬の花火を打ち上げてくれたことに なる。 けれどこの団右衛門が大坂方の代表選手となるようでは合戦の帰趨は明らかであ 両軍併せて三十万人、この日本最大規模の大合戦で、団右衛門のごとき蛮勇の士 がもてはやされたというのは、すなわち大坂方の人材不足を物語っていることにな る。 る。

7. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

していた。 大坂城中の内紛、意見の不一致は、側近第一等ともいうべき大野兄弟の内輪揉め にもよく現われている。まして新規傭い入れの真田や長宗我部や後藤たちと、大野 三兄弟との間には大きな溝が横たわっていた。それは取りも直さず大野兄弟が全軍 を統帥する器量をもっていないことを意味している。 淀殿の話し相手からのし上って、ようやく一万石の禄高をもらうようになったけ ( 大阪城天守閣蔵 ) れど、武将としてはなんの経験もない大野治長に、海千山千の浪人たちを指揮でき ようはすもなかった。 五月七日の激戦で、後藤又兵衛、薄田隼人、木村重成、真田幸村と、名だたる大 、すなにを ) 亠将がみな討死して【 0 たと聞いて、もう駄目だと大野治長は観念した。 それでもまだ淀殿と秀頼をなんとか生き永らえさせたいというので、最後の切札 も臥である千姫を助命に出した。しかしあくまで母子を滅してしまおうという家康は助 命嘆願を受けつけなかった。今はこれまでと、母子に自決をさせ、治長は、その後 を追った。 しかし弟の治房はいすれにか落ちのびて行方をくらませてしまった。なお末弟は 捕えられて処刑されている。 大野治房の手紙 109

8. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

( 弘経寺蔵 ) うし、少しはいしめてやれと、女の意地悪振りを発揮したかもしれない。だが、豊 臣側にとって、千姫は願ってもない人質であり、最後の切り札だった。 千姫と秀頼の仲は、決して悪くなかった、むしろ仲むつまじかったという言い伝 えもある。しかし秀頼の事績が伝わらないのと同様、千姫についてもほとんど伝え られていない。大坂城における千姫の存在価値は、大坂城最後の時に凝縮されてい るといってよいたろ、つ。 大坂夏の陣の決戦二日目のことである。裸城となった天下の名城は脆くも攻め込 まれて、打って出た後藤又兵衛、木村長門守、真田幸村など、名だたる部将はみな 戦死して、豊臣家の家老ともいうべき大野治長まで傷ついた。そして午後五時、一 千姫姿絵の丸も落ちた。 今はこれまでというので、山里曲輪の蔵の中へ逃れた秀頼、淀殿、千姫の三人は つき従う治長以下二十八人ほどの侍と侍女に守られていた。この時、淀殿は、逃し てなるものかと鬼のような顔つきで、膝の下に千姫の衣裳の裾を、しつかと押えっ けて放すまいとした。そのため、なんとかして千姫を逃そうとした形部卿の局は、 女中に命して、衝立の向うから、 「アレ、秀頼さまッ ! 」 153

9. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

聚楽第という関白の公邸が完成した時、秀吉は長い台の上に金銀貨を山積みにし % て来客にバラまいた。ます宮様や織田信雄、徳川家康などには黄金一千両と銀一万 両を、豊臣秀長には金三千両と銀二万両を、同秀次には金三千両と銀一万両を、と いうように、貴族や大名に大盤振舞いをした。 この時、来客の手土産にバラまいた黄金が〆めて三十六万五千両、これがほんの 手土産がわりというのだからさすが豪勢な太閤である。こういう秀吉であるから、 その住居となった大坂城の屋根瓦はむろん金瓦で、朝日夕日に燦然と輝いていた。 ふつうなら成金趣味と陰口を叩かれるところだが、秀吉ほど豪放だと、これはもう ケタ外れで、まさしく黄金文化の権化というべきだろう。 天下一の天守閣は、莫大な弾薬と兵糧で満たされ、本丸には、大中小の名物座敷 や黄金づくりの茶室が設けられ、さらに見所は、その豪華な寝室だった。 九間四方の大寝室の奥の方に、長さ七尺、幅四尺、高さ一尺四寸という特大製の 寝台が置かれている。この大寝台の上で五尺にみたぬ小男か、ノミのようにハネ廻 っていたのである金具はむろんすべて黄金造り、床わきの違い棚も梨地に黄金の 金具で飾られている 次の間も三間四方の寝所で、こちらはどうやら正夫人のねねが使っていたのだろ とこ

10. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

大坂城を脱出する女たち 無能な秀頼と、感情的な陰の命令者淀殿をトップに戴いて、大坂方の士気は上ら なかった。もし淀殿が権力をふるわす、剃髪して尼にでもなっていたなら、豊家ゅ かりの武将たちが、大坂方の味方をしていたかもしれないのである。 男らしさを誇りとする武将たちは、女の命令者を頭に戴きたがらなかった。この 本能的な武将たちの習性を知ろうとしなかった所に淀殿の救いがたい頑迷さと悲劇 があった。 権勢欲と母情に衝き動かされているだけの女主人に仕えた男たちは哀れだった。 大坂方となって戦うことしか残された道のなかった名将真田幸村のように死をめ ざして、おのれの武勇の最後の見せ場へと突進していった者はよいが、恩賞と出世 を目当てに傭われた将兵たちは、やがて地獄へと突き落されてしまった。 かって秀吉の名誉の印であった金の瓢簟の馬印、百戦百勝して唐天竺までもと望 んだ大欲の人太閤秀吉のシンポルであり、唐にまで聞えた馬印が、夏の陣の三日目、 五月八日には御殿の台所近くに転がっていたのである。それをみつけた二人の女中 が、これが敵の手に入っては豊家の恥というので、粉々に砕いたと伝えられている。 だが、夏の陣の夜、真田軍三千五百名の最後の奮戦は壮烈そのものだった。五月 七日の午後、家康の本堂めがけて全軍一団となって突進していった幸村軍の凄まし