ちに対する秀頼側近の家臣たちの嫉視と疑念が強くて、真田幸村のような智謀の名 将を、総構えの片隅である出丸へ追いやって、一部将の地位しか与えなかったとい 真田幸村の手紙 ( 部分 ) う見方もあって、幸村の地位も実ははっきりしていない。 ( 真田道泰氏蔵 ) 真田幸村といえば、人気随一の名将ということになっているが、幸村の身辺には いつも不運の影がっきまとっていた。 信州、上田の城主真田昌幸の二男に生まれた幸村は、天下分け目の関ヶ原の一戦 ( い〉ろ「一」に際して、父昌幸と共に、大坂方に味方した。 「にす , 、ん源平の時代から、家柄と血統を残すために、地方豪族は、兄弟を二手に分け、兄 みを関東方につけさせると、弟を関西方へというように、巧く振り分けて、どちらが ) させ、ろ ( 7 勝 0 ても負けても家柄と血統が存続するように工夫したものである。 のぶゆき そこで真田昌幸は、兄の信幸を徳川方に味方させ、弟の幸村は自分と共に大坂方 ′まあイ第「のを「のために働かせた。 信州上田城に籠った真田父子は、中仙道を進んできた徳川秀忠軍を一手に引受け て、わすか二千の小勢ながら、六万の大軍を十日間も釘づけにしてしまった。 そのため秀忠は、関ヶ原の決戦に遅れて、家康の大目玉を食う羽目となって、終 生、真田父子を憎悪した。当然、殺されるはずだったが、兄信幸の必死の嘆願で、 こも
7 が、霧の中で真田隊が遅れ、各隊はばらばらに徳川方の大軍と遭遇したため、後藤、 薄田とあたら豪傑が、敢えなく討死してしまった。 そして真田隊がようやく戦場に到着したのは午前十一時頃だった。 赤一色の具足に身を固めた真田隊は、全隊一丸となって、精鋭きわまりない騎馬 鉄砲隊八百騎を先頭に立てた一万余の伊達隊めがけて突き進んだ。 伊達の騎馬鉄砲隊は、馬上から鉄砲を射ちかけつつ敵陣に突進するのを常とした。 そして崩れ立った敵陣めがけて精強を誇る伊達の本隊が斬り込んでいく。 その戦法を熟知していた幸村は、全軍三千に折敷を命し、別命あるまで絶対に頭 伊達政宗画像を上げるなと厳命しておいた。 伊達の騎馬鉄砲隊は、委細構わす鉄砲を射ちかけつつ、真田隊めがけて突進して きた。しかし幸村は、相手が間近かに近づくまでしっと辛抱しつづけた。そしてい よいよ眼前に迫ったとみるや、采配をふるって〃かかれ / 〃と命じた。真田隊は、 一斉に立ち上って槍を構えた。そこへ伊達の騎馬鉄砲隊が飛び込んでくる。 ふすま 槍襖の待伏せに出会って、周章狼狽する伊達軍めがけて、真田隊は槍を繰り出し た。これにはさすがの伊達勢も浮足立ち、政宗も味方の不利を認めて、誉田へ退い 一方真田隊も損害が大きかったので、両軍痛み分けの形となって、これまた引 ( 霊源院蔵 ) おりしき こんだ
さなだのでまる 史上名高い真田出丸 ところが、冬の陣に際して大坂城へ入った真田幸村は 大坂城最大の弱点は南方にあった。城南方面は大坂この方面の守備になお不安を感し、惣構堀に南接して おかやまぐち 城から天王寺をへて阿倍野・住吉に到るまで一続きの岡山口に一つの出丸を構築させた。これが真田出丸で 台地であり、攻めるに安く守るに難い地形であった。 あり、冬の陣の攻防では大きな役割を果たした。 秀吉もこれをよく承知していて、文禄三年には特に城本図は、この史上名高い真田出丸の様子を伝える唯 そうがまえばり 南の台地を横切るように惣構堀を築かせて、この方面一の絵画史料で、赤い幟の下、活気あふれる真田隊が の防備を一層堅固なものにしている ( 現在でも空堀通よく活写されている。 りという地名とわすかの地形に名残りを留めている ) 。 のばり
, し← ( 輩季一真田の赤備え 夏の陣決戦のこの日、 真田幸村隊およそ三千の 奮戦ぶりは、特に目ざま しいものがあった。前 の冬の陣では家康の本陣 に使われた茶臼山に陣取 った真田赱〒村は、ここか ら南へ撃って出、徳川方 の越前兵と激しくつか り合い、隙をついてはし ばしば家康本陣をもおび やかす勢いを示した。 旗指物・吹貫・具足な ど赤一色に統一された真 田隊の華やかさは、その 90
て敵方だった織田信秀 ( 信長の父 ) に売られて以来、彼の一生は忍苦の連続だった。 だから秀吉政権の忠実な臣下として秀吉の命令のままよく働いて耐え忍び、秀吉の 死後、ようやくおのれの野望をあらわにして天下取りに乗り出した。待てば海路の ひょり 日和あり、とはこのことである そればかりか、彼は秀忠という良き後継者を得て、政権の維持を盤石のものとし 秀忠は、父家康の陰に隠れて目立たないが、徳川幕府二百数十年の基礎をつくっ た人物で、単なる守成の人ではない。 幕府体制や全国の武将たちをいかにして組織化するかについて、彼の果たした功 績は決してすくなくない。しかし父とちがって、合戦の指揮能力に優れていたとは 思えない。だから、信州上田の真田攻略に暇取って天下分け目の関ヶ原の決戦に遅 れてしまった。そのため、家康の逆鱗にふれたが、戦場の勇者というよりも、幕閣 の経営者としてオ能を発揮した。彳ー 皮ま、家康の三男に生れ、二代目将軍となってか らは、天下取りに熱中する父を助けて、いわば内助の功を果した。そして創業者の 後を継いで徳川政権の経営に当った。 家康もそして秀忠もどちらかというと、剛毅濶達な、 いかに 9 も雄・々ー ) い八付と、
夜明けの突撃 将軍秀忠が本陣を岡山 に移した十二月四日の未 明、血気にはやる松平忠 直・井伊直孝・前田利光 ( 後の利常 ) ら若き武将 のひきいる寄せ手の諸隊 が、おりからかかる濃霧 そうがまえばり をついて大坂城惣構堀 の一翼をになう真田出丸 へと押し寄せた。この突 然の行動は、しかし城方 将兵の察知するところで あって、出丸をあすかっ ていた真田幸村らは一歩 も敵を城内に入れること
たが、こと不利をハネ返してでも、幸村は徳川方を倒さなくてはならないと思っ オ。彼はだから豊臣家のために戦ったのではなく、自分のために籠城したのである。 豊臣氏の恩顧に酬いるために真田が忠死したとみる人もいるが、彼は、豊臣氏か ら取り立てて恩を受けてはいなかった。もし秀忠が、彼を贈んでいなかったなら、 真田出丸跡図そして温く迎えられたなら、徳川についてもよかっ・たが、その道を閉ざされたと思 ( 大阪城天守閣蔵 ) った所に、幸村の不幸があった。 大坂城は、東北西の三方面には川があったりしてまことに攻め難く、攻撃すると すれば南しかなかった。 南の防衛線の最前線、そこが真田出丸だった。 しかし冬の陣では、二十万と号する関東の大軍を、やや高地にあるから遠望した だけで、さしたる戦いもなく終ってしまい、城方のうかっさによって、大事な総構 いえばかりか、三の丸、二の丸の防衛線まですべてこわされてしまった。 もし幸村が、大坂方の采配を揮っていたなら、こんなへマをするはすはなかった ろうと思われる。 しかし大坂方の指揮系統は、まことに複雑で、一体誰が最終責任を負っていたの かよく分らない。だから、徳川方が、約束に違反して、二の丸、三の丸の埋め立て ふる
四天王寺西門付近 がすでに鉄砲・弓・槍などをかかげて徳川方の越前兵 この屏風の右隻六曲半双のほば中心となる位置に四と戦っている場面である。真田隊の後方、白地に宇都 天王寺西門の石の鳥居が描かれている。西向きのこの宮笠の幟は大野治長隊を、また、鳥居の上方 ( 東方 ) 、 鳥居はそのまま現存するが、これよりわすかに南側を白黒段々の幟は毛利勝永隊を示している。ともに豊臣 東西に結ぶ線をはさんで南北両側に、五月七日の朝東方の中心部隊であった。 西両軍が対峙していた。その緊張が破れ合戦に突入し たのが正午頃と推定される。 図は手前に真田幸村隊が茶臼山に陣取り、その前衛 さいもん
上司に恵まれなかった名将ーーー真田幸村 大坂方の主将といえば、当然、、秀吉の遺児豊臣秀頼ということになるが、この二 十二歳になった白面の貴公子は、もとより実戦の経験もなければ、大軍を指揮した こともない、いわばお飾りである。 では実際に全軍を指揮した者がいるのかというと、否であった。 淀殿の側近にあって、人々と財政の全権を握っていた大野治長は、わすか一万石、 つまり全軍を指揮できる貫禄に欠けていた。その上、戦さについてなんの見識もな 主将というには軽すぎた。といって、淀殿の叔父に当たる織田有楽斎は、年長 ではあるが、根が茶人で、武事に疎く、まして関東に通じているという評判が立っ て、誰からも信頼されていなかった。 大坂方の最大の不幸は、このように主将のいないことだった。 そこで大坂城に迎え入れられた大名のクラスのれつきとした武将たち、真田幸村、 長宗我部盛親、毛利勝永の三名が尊敬されて三人衆と呼ばれていた。これに明石掃 部、後藤又兵衛の二人を加えて、大坂五人衆と称する人もいる。 この五人衆が、重要な軍議を行ったといわれているが、事実は、こうした客将た
両軍の主な武将一覧 明石全登 ( 生没年不詳 ) 名は守重、キリシタンで受洗名ジョアン。宇喜多秀家の臣。関ヶ原 では主家に従い西軍に参加するが九州へ敗走。大坂の陣では大坂方につき、船手で活躍し た。夏の陣に敗れ自殺したとも、逃亡し三年後ゆるされ病没したとも伝えられる。 大野治長 ー一六一五 ) 初め秀吉の臣下で文禄三年伏見城工事を分担。慶長四年秀頼に仕 えるが、同年秋家康刺客の容疑で下野へ追放。ゆるされて家康の上杉討伐に参加。再び秀 頼に仕え、大坂の陣では強硬派の旗頭。秀頼に殉す。弟治房は京都で斬首される。 木村重成 ( 一五九三ー一六一五 ) 幼少より秀頼に仕え、冬の陣では玉造ロ守備。今福・鴫野の 戦で、佐竹義宣・上杉景勝と対する。冬の陣媾和に際し大坂方の正使として、秀忠に面会。 夏の陣では若江の戦闘で、井伊直孝と戦い敗死する。美男子と伝えられる。 後藤又兵衛 ( 一五六〇ー一六一五 ) 名は基次。黒田官兵衛孝高に仕え、一度追放されるが再び 孝高の子長政に従う。朝鮮の役、関ヶ原合戦で功あり、勇名をはせる。長政に従い筑前に 移り一万六千石を与えられるが、のち浪人。冬の陣で秀頼に招かれ、夏の陣で戦死。 真田幸村 ( 一五六九ー一六一五 ) 昌幸の次男。信繁が正名。初め上杉景勝の臣だが、のち秀吉 に仕える。関ヶ原合戦の際、父と秀忠軍を上田城で阻止する。高野山追放後、大坂の陣で 〈大坂方〉 166