豊臣 - みる会図書館


検索対象: 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む
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1. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

のである。 勝気で、家康の恫喝に決して屈しようとしなかった淀殿は、いわゆる後家の頑張 りで、秀頼に天下を握らせようと望んだ。それは、織田信長の姪らしい考え方だが、 かしづ 天下の名城と豊富な財宝と、豊家恩顧の武将に傅かれている以上、そんな気持にな 淀殿誓紙写 ( 部分 ) るのは当然のことだったろう。 ( 内閣文庫蔵 ) 血筋と信長ゆすりの激しい気性が、豊臣家をもわが子秀頼をも、そして自らをも やがて滅す因となった。 太閤恩顧の家臣の中で、もっとも強力だった石田三成が、関ヶ原の戦いで、一敗 地にまみれて処刑された後、淀殿の身辺はにわかに厳しさを増してきた。あくまで よあん〈「 , , ーいさ〕秀頼母子に臣従を強【ようとする家康にどこまでも屈しま【と、意地を張 0 た淀殿 に、冷静な判断を望むことは無理だった。豊家のためにと思いつつ、彼女は豊臣家 、いわさ、 3 やんりん を滅亡へと導いていった。 とかく感情に支配されやすくて、自分を客観視することが不得手だった淀殿が、 ↓りさ” , つくグタレろ 事実上の主人だった大坂城は、彼女の意のままに動かされた家臣たちと共に破滅の 日を迎えた。 最愛のわが子と共に、淀殿は母情に殉して、自らの運命を火中に投した。 141

2. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

( 大阪城天守閣蔵 ) めで、家康の成功はまさにそのようなサバイバル作戦によるものだった。 そこで家康は、企業戦争の教科書としてもてはやされたが、この家康プームはど うやら不況時代の産物らしい もともと信長は、荒々しい創業者タイプ、秀吉は部下の掌握に秀でた業績拡大型 くりの名手だった。 の経営者、そして家康は組織づ 家康の天分発揮によって、江戸幕府と徳川家臣団は十二分に機能した。もともと 彼は、結束した松平一族の頂点にあって、松平譜代、安祥譜代、三河譜代というよ うに新旧の序列に従った家臣団を組織していて、人の和と結束がいたって強かった。 徳川家康画像ところが政権の完全掌握の前に大きな邪魔者が立ちふさがっていた。それは大坂城 にいる豊臣一族、淀殿、秀頼の母子であった。 すでに家康は、征夷大将軍に任しられて幕府を開き、徳川家の礎を確かなものと していたけれど、秀頼たちが大坂城にいる限り、 いっ秀頼を担ぐ武将が現われない とも限らないのである。 この不安の根を抜き取り、叛逆を企てる者を出すまいと思えば、どうしても豊臣 氏を滅してしまう必要かある。 なんとかして、秀頼母子を殺さすに徳川政権の確立をと、ありとあらゆる方法を イ

3. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

このままならいすれ秀頼の天下がくる。近畿地方の人たちはそう感じていた。 肥満して、自分で褌の紐さえ結べない家康からみると、長身でいかにも若君らし い秀頼の存在は、不気味ですらあった。老人は若者に出会うと無言の威圧を感しる ものである。 小柄で猿面冠者と呼ばれた秀吉の遺児にしては、むしろ祖父の浅井長政によく似 た大柄な美丈夫秀頼の存在は、家康の焦燥を一層掻き立てた。 家康は知らなかったが、この時、秀頼は側室との間に、すでに一男一女を儲けて いたのである。 加藤清正に守られて、秀頼は、毒殺されることもなく、無事に大坂城へ戻ってい っこ。清正や浅野長政、池田輝政、前田利長などといった豊臣家に恩顧のある諸将 豊臣秀頼の署名と花押オ ( 徳川黎明会蔵 ) が相ついで死去したのはその直後のことで、毒殺説が流れているのも無理からぬ所 だった。こうして残る豊家ゆかりの大物は福島正則ただ一人、たしかに家康は仕事 がしやすくなった。ところで、四歳ちがいだから、妻の千姫はこの頃、ようやく少 女から女へと華麗な変身をしようとしていた。 家康は、秀頼が上洛したため、攻め滅す口実を失った。そこで方広寺の鏡に刻ま れた銘に " 国家安康、君臣豊楽。とあるのは、家康を二つに分けて、豊臣の繁栄を 2 123

4. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

うよりも、内攻的な性格をもつ、粘り強くて執念深い官僚タイプの人物だった。 武人派と官僚型、その点で信長や秀吉は武人型、秀忠や三成は官僚タイプの人間 子ノ十 / 秀忠は、あまりにも律義だったため、妻お江の方の言いなりになって、一穴主義 を守らされた。この年上の妻は、実をいうと淀殿の妺だった。母は信長の妹で戦国 時代随一の美女お市の方、そして父は信長・秀吉に滅された湖北の雄浅井長政であ る。 そこで不思議なことに、お市の生んだ娘二人のうち淀殿は、秀吉の側室となって 9 も、つ 徳川秀忠画像大坂城に君臨したばかりか、豊臣家を支えるつもりで豊臣家滅亡の因となり ( 松平西福寺蔵 ) 人のお江は、徳川秀忠の正室となって、徳川家を陰で操ったのだから、豊臣・徳 川の両家は、この姉妹によって動かされたことになる 秀吉・家康がいくら天下の英雄といったところで、いわばそれは働き蜂のような もので、実の所、この二人の姉妹が閨房から男たちを操っていたようなものだった。 ) 一う

5. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

序説・大坂冬の陣 政権交替は、現代でいうと社長の交替といってよいだろう。ところが、徳川家康 は豊臣株式会社の副社長格ごっこゞ、 オオカ秀吉社長の死によって社長の遺児秀頼の後見 人を引受けた。 だが、野心家の家康はすでに独立して徳川株式会社を経営していた。そればかり マーケットシェア かライバル企業の豊臣会社がもっていた市場占拠率を奪取すべく一大攻勢を計画し た。それが大坂の陣の背景であった。 七十の坂を越えた徳川家康は、い よいよ最後の戦いに乗り出そうと決心した。す でに、征夷大将軍に任じられて、江戸に幕府を開き、天下に号令する立場を手中に しているが、目の上のこぶともいうべき豊臣秀頼と淀殿の母子が、大坂城に残って いる 秀頼が大坂城を出て、どこかの地方で一大名として過してくれるのなら、合戦に 訴えなくても天下は丸く治まるだろうと期待して、天下分け目の関ヶ原の合戦以後、 今まで家康は辛抱強く待ってきた。しかし、七十になっては、寿命と追いかけっこ をしなくてはならないから、もう待ち切れないといういが強かった。

6. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

たが、こと不利をハネ返してでも、幸村は徳川方を倒さなくてはならないと思っ オ。彼はだから豊臣家のために戦ったのではなく、自分のために籠城したのである。 豊臣氏の恩顧に酬いるために真田が忠死したとみる人もいるが、彼は、豊臣氏か ら取り立てて恩を受けてはいなかった。もし秀忠が、彼を贈んでいなかったなら、 真田出丸跡図そして温く迎えられたなら、徳川についてもよかっ・たが、その道を閉ざされたと思 ( 大阪城天守閣蔵 ) った所に、幸村の不幸があった。 大坂城は、東北西の三方面には川があったりしてまことに攻め難く、攻撃すると すれば南しかなかった。 南の防衛線の最前線、そこが真田出丸だった。 しかし冬の陣では、二十万と号する関東の大軍を、やや高地にあるから遠望した だけで、さしたる戦いもなく終ってしまい、城方のうかっさによって、大事な総構 いえばかりか、三の丸、二の丸の防衛線まですべてこわされてしまった。 もし幸村が、大坂方の采配を揮っていたなら、こんなへマをするはすはなかった ろうと思われる。 しかし大坂方の指揮系統は、まことに複雑で、一体誰が最終責任を負っていたの かよく分らない。だから、徳川方が、約束に違反して、二の丸、三の丸の埋め立て ふる

7. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

る。それに加えて徳川軍にもかなり戦死者が出ているので、二万人以上の生命が失 われたことは確実である。 五月八日、落城後脱出した豊臣方の将兵はみつけ次第処刑された。京都へ逃げた 落人たちが、百人二百人とかためて斬首されて、長い棚の上に晒された。 さらに、秀頼と千姫との間に子供は生れなかったが、側室との間に生れた一男一 女がいることを知った家康は、残らず見つけ出せと厳命した。そして八歳になる国 松君を京都の伏見で発見すると、すかさす六条河原で首を剔ねた。七歳の女子は、 尼とされて鎌倉の東慶寺に入れられた。こうして豊臣氏は、二代目にして滅び去っ 秀頼の遺児・天秀尼たのである。家康は、念願どおり天下を手中にして、隠居所にしていた駿府へ引上 ( 東慶寺蔵 ) げていった。そして夏の陣の翌年の四月に他界した。 家康最後の一戦、それは天下奪取の大仕事だった。おのれの欲望のすべてを満足 させ、七十五歳まで戦いつづけて一度も負傷しなかった家康の強運に出会っては、 豊家の二代目など物の数ではなかった。 徳川氏は、豊臣氏を滅したばかりか豊家の印象や記億をもすべて消し去るために、 秀吉の大坂城をすっかり埋め尽して、その上に徳川の城を築いた。それが今みる大 阪城である。 161

8. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

千姫 徳川家康を祖父にもち、二代将軍秀忠とお江の方 ( 淀殿の妹で浅井長政とお市の 方との間に生れた ) を両親として生れた徳川千姫は、血統からいうとまことに絢爛 としたものである。 七歳の時、敵中といってよい大坂城へ輿入れした。結婚相手の豊臣秀頼はまだ十 一歳、全くの政略結婚であった。わすか七歳の少女が、敵の人質となった形で、は むしろ るばる大坂へ赴いたのだから、さぞかし辛く悲しい針の筵に坐るような明け暮れだ ったかというと、そうともいえない。 たしかにまわりは豊臣勢色で塗り潰されているが、千姫には、江戸からついて かしづ きた侍や侍女たちがちゃんと傅いている。その上、姑の淀殿は、血のつながる伯母 であって、夫の秀頼とは従兄妹同士である。骨肉相喰む戦国の慣いとはいえ、伯母・ 姪の間は他人よりは親しいはすで、淀殿にしてみれば徳川の血を引く千姫は、憎く もあり可愛いくもあって、この姑と嫁はど微妙な関係はすくなかろう。 淀殿ほどドラマチックで波瀾万丈の人生を送った女性もすくない。その淀殿の目 から見ると、お乳母日傘で育った千姫など甘ったれ娘に見えてしようがなかったろ ) 」う 152

9. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

すでに天下柿は熟し切った。家康は、再建された大仏殿の鐘の銘に難癖をつけて、 いよいよ開戦へと大坂方を追い込んでいった。 これまで徳川と豊臣両家の橋渡し役、周旋役を勤めていた片桐且元を、大坂方は 関東の廻し者と非難して、高野山へ追い払ってしまった。これで大坂方は、家康と の連絡路を自から絶っと同時に、大坂謀反の証拠をつくったようなもので、すべて 家康の思う壺に筋書が運んできた。 方広寺鐘楼片桐且元追放さるとの報に接した家康は、〃してやったり。と手を打って喜んだと いう。すでに彼も七十三歳、一日も早く天下柿をわが手中にしないと、取り返しの よいよ機が熟した〃家康は朝廷に対して、秀頼追 つかないことになってしまう。〃い りんじ 討の綸旨を願い出た。いわばこれは許可書のようなもので、野望の合戦に大義名分 の看板を掲げたようなものである。 絶対に勝てるという見込みかっかないと、合戦に踏み切らなかった家康のことな ので、この生涯最高の一戦に二十万人といういまだかってない大軍を催した。合理 主義者の家康は、たとえ忘恩の徒といわれようと、ここで豊臣氏を滅さないことに は安らかに死ねないと考えて、いよいよ決戦に乗り出した。

10. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

歳で夭折して、秀吉を落胆させた。その悲しみを忘れるために海を渡って出兵したⅧ 秀吉は、九州肥前名護屋城に出張して、淀殿を呼び寄せた。 その翌年、二十七歳で、次男秀頼 ( お拾い君 ) を生み落した。 ところが、老年性結核とも、胃癌ともいわれる不治の病いにかかって、秀吉はに わかに衰弱していった。 慶長三年、醍醐の花見を最後として、秀吉は病み疲れ、八月十八日、伏見城で世 を去った。時に六十二歳、〃くれぐれも秀頼をたのみ参らせ候〃と、家康たち五大老 に遺言していったが、家康が天下を狙っていることは誰の目にも明らかだった。 六歳の秀頼を抱えた三十二歳の未亡人、この女盛りの淀殿をめぐって、石田三成、 大野治長といった男性の名前が取り沙汰されている。 秀吉の正室ねね夫人は、故太閤の冥福を祈るためにいち早く剃髪して、高台院と なった。家康は、高台院のために京都に高台寺を建てて、ねね夫人を手厚く遇した。 ねねの退去した大坂城へ、七歳となった秀頼を伴って入った時、淀殿の運命は定ま ったよ、フなものである。 豊臣家を背負って立とうと決心した淀殿は、秀頼を立派に育て上げて、天下人に 仕立てようとした。正室が尼となって、寺へ入り、側室が、豊臣家の中心に坐った