7 が、霧の中で真田隊が遅れ、各隊はばらばらに徳川方の大軍と遭遇したため、後藤、 薄田とあたら豪傑が、敢えなく討死してしまった。 そして真田隊がようやく戦場に到着したのは午前十一時頃だった。 赤一色の具足に身を固めた真田隊は、全隊一丸となって、精鋭きわまりない騎馬 鉄砲隊八百騎を先頭に立てた一万余の伊達隊めがけて突き進んだ。 伊達の騎馬鉄砲隊は、馬上から鉄砲を射ちかけつつ敵陣に突進するのを常とした。 そして崩れ立った敵陣めがけて精強を誇る伊達の本隊が斬り込んでいく。 その戦法を熟知していた幸村は、全軍三千に折敷を命し、別命あるまで絶対に頭 伊達政宗画像を上げるなと厳命しておいた。 伊達の騎馬鉄砲隊は、委細構わす鉄砲を射ちかけつつ、真田隊めがけて突進して きた。しかし幸村は、相手が間近かに近づくまでしっと辛抱しつづけた。そしてい よいよ眼前に迫ったとみるや、采配をふるって〃かかれ / 〃と命じた。真田隊は、 一斉に立ち上って槍を構えた。そこへ伊達の騎馬鉄砲隊が飛び込んでくる。 ふすま 槍襖の待伏せに出会って、周章狼狽する伊達軍めがけて、真田隊は槍を繰り出し た。これにはさすがの伊達勢も浮足立ち、政宗も味方の不利を認めて、誉田へ退い 一方真田隊も損害が大きかったので、両軍痛み分けの形となって、これまた引 ( 霊源院蔵 ) おりしき こんだ
東西両軍の激突 この屏風にはいたると ころに様々な戦闘場面が 描かれているか、ここに 掲げた場面は、東西両軍 の最先端が今まさに激突 した瞬間を活写したもの で、この屏風全体のハイ 一フィトといってよい この日五月七日正午ご ろ、ます鉄砲隊の撃ち合 いから世紀の決戦が開始 された。続いて弓矢の応 酬、さらに接近して槍合 戦となり、最後は敵味方 入り乱れての白兵戦が展 76
み、淀川・東横堀川は歩 いて渡れるような状態と よっこ。 ここに描かれたのはそ うした時期の場面で河中 にできた大きな中洲に築 山・竹束を構えた寄せ手 の一隊が鉄砲をかまえて 城中をにらんでいる。そ の下流の橋 ( 難波橋であ ろう ) の下を、当時の記 ひざふし 録に「水は膝節タケ計也ー と書かれた言葉そのまま に数人の町人風の男達が 往来する。
山里丸 画面には山里丸の隅櫓 と、山里丸から二の丸に 通じる極楽橋を描く。極 楽橋から二の丸へと続々 と城中の侍女・侍たちが 逃げ出している。 五月八日、秀頼と淀殿、 大野治長・速水甲斐守守 久、それに侍女たちの男 女あわせて三十人が山里 丸の焼け残りの唐物倉に 籠っていた。そこを井 伊・安藤が取囲み、鉄砲 を打ちかけて攻め、火を かけた。このためついに 130
四天王寺西門付近 がすでに鉄砲・弓・槍などをかかげて徳川方の越前兵 この屏風の右隻六曲半双のほば中心となる位置に四と戦っている場面である。真田隊の後方、白地に宇都 天王寺西門の石の鳥居が描かれている。西向きのこの宮笠の幟は大野治長隊を、また、鳥居の上方 ( 東方 ) 、 鳥居はそのまま現存するが、これよりわすかに南側を白黒段々の幟は毛利勝永隊を示している。ともに豊臣 東西に結ぶ線をはさんで南北両側に、五月七日の朝東方の中心部隊であった。 西両軍が対峙していた。その緊張が破れ合戦に突入し たのが正午頃と推定される。 図は手前に真田幸村隊が茶臼山に陣取り、その前衛 さいもん
まれ、朱総の黒毛の馬で、金の扇子を胸に戦闘を凝視 前田利常隊・井伊直孝隊 図の左上部、白地に梅鉢紋の幟が林立し、後方にはしている青年武将が利常である。 様々な文様の旗指物が続いているのが、前田利常の率金雲で区切られた手前の部隊は、槍を先頭に抜き身 の刀を振りかざして突進する勇猛な戦闘集団である いる加賀金沢藩の大部隊である しはん 前田隊はこの日、将軍秀忠配下の岡山口の先鋒としが、赤地に八幡大菩薩の幟や井桁の大四半などから近 て、豊臣方の大野治房隊と激突した。図はすでに鉄砲江彦根藩井伊直孝 ( 中央馬上の赤具足の人物 ) の部隊 とわかる。 隊による前硝戦が始まっている様子を描いている。部 隊中央、大きく目立っ白母衣・赤母衣の護衛兵達に囲
のばり を並べると、人物五、〇七一人、馬三四八頭、幟一、三八七本、鑓九七四本、弓一 一九張、長刀三六八振、鉄砲一五八挺という具合である。ちなみに狩野永徳筆のか の有名な洛中洛外図屏風 ( 上杉本 ) の人数は、同じ本間屏風の広さの中に約一、八 〇〇人で、これ自身大変な数だが、それにくらべてもこの屏風の数字がいかに多い ものかがわかるであろ、つ。 ところで、戦国合戦絵屏風の中で、戦乱にほんろうされる庶民の姿を克明にとら えたのはこの屏風が唯一のもので、それが左隻が〃元和のゲルニカ〃とまで評され るゆえんである。たしかに数ある戦国合戦の中で大都市で展開されたのは、大坂の 陣のみであり、庶民が合戦絵に登場する必然性は十分にあるのだが、大坂冬の陣図 屏風に登場する庶民の数は非常に少ない。やはり注文者や絵師の製作意図とこの問 題は深くつながっているのであろう。 最後に、この屏風は別称黒田屏風といわれ、黒田長政が参戦記念に戦後描かせた と伝えている。長政の没年は元和九年 ( 一六二三 ) であるから、それ以前に描かれ たことになる。しかしこの成立時期については、美術史家による研究の結果、最近 否定的になりつつあるが、なお定説を得ていない。 やり 165
七日の夕方、寝返り者や間者 ( ス。ハイ ) の放火によって、大坂城は火焔に包まれ、 もはや落城寸前の有様となった。焼け残った土蔵の中で八日の朝を迎えた母子は、 まだ助命の期待をもっていただろうが、自決を促す鉄砲が射ち込まれると、今はこ れまでと、ともに自決して火がかけられた。 こうして家康の予告どおり、わすか三日間で大坂城は落城した。それから後は、 岡山御陣場図 ( 秀忠本陣 ) 屠殺場に他ならす、逃げまどう男女は追い迫る関東方の兵士につかまって、目も当 ( 広島市立中央図書館蔵 ) てられぬ惨憺たる光景が展開された。奥女中たちは衣裳を剥がされて慰みものとな り、男たちは殺されて悲風が吹きすさんだ。 大坂方敗戦の原因中、最大のものはその無策りにあった。それというのも、本 気で豊臣秀頼を守ろうとしたのは大野三兄弟のようないわば側近の臣だけで、彼ら は合戦の仕方も武士の扱いも知らなかった。 天下の名城も、こうなっては素人船乗りに任された巨大戦艦のようなもので、扱 い方を知らないのだから五〇パーセントも機能していないことになる。 いわば夏の陣は、歴戦のべテラン家康と、初陣の素人集団との戦いであって、べ テランに本腰を入れられてはとても勝目がなかった。 かんじゃ
ところがもともと巨漢というだけで、中味の方はもう一つだったから、大酒をく らって喧嘩ばかりしていた。そ、フなると大男だけに目立ってしようかなくなり、信 長の癇にさわってとうとうクビになってしまった。 捨てる神あれば拾う神あり、可哀想だというので秀吉が拾ってやったが、酒と喧 嘩が過ぎて、同僚の鼻つまみ者となり、やがて居たたまれなくなってどこかへ行方 加藤嘉明 ( 賤ヶ岳合戦図屏風 ) ( 大阪城天守閣蔵 ) をくらました。 次に団右衛門は、賤ヶ岳七本槍の勇士の一人で大名に出世した加藤嘉明の配下と なった。何しろ転々と勤め先を変える男で、どこへ行っても腰が落ち着かない。そ の後、彼は慶長の役で朝鮮半島へ渡って、敵船を分捕るという手柄を立てた。とこ ろが関ヶ原の役で味噌をつけた。 この時、加藤は東軍に属し、従って塙もその部下として西軍、大坂方を向うに廻 して戦った。ある時、敵状を探りつつ、うまく敵をおびき出して来いよと命しられ て、出動したのはよいが、あまり敵陣が整然としていてつけ入る隙がなかったため、 スゴスゴ戻って来た。もっとも置き土産に鉄砲を敵陣へ射ち込んできましたという ・、、ので、加藤はどなりつけた。 「汝は戦さの駆け引きを知らぬのか。そんなことではとても将として部下を率いて
慶長二十年 ( 一六一五 ) 元和元年 二十日家康、早くも和議工作を始める。 二十六日鴫野・今福の合戦。 十二月四日井伊・松平・前田隊、真田出丸に寄せるが、幸村らの奮戦で 大敗を喫する 十二月十六日関東方、大坂城内に大砲を撃ち込む。天守閣の柱・千畳敷な ど壊れる。城中動揺する 十七日塙団右衛門、本町橋夜襲。木札をまく。 十八日関東方、和議提示。淀殿、同意する 十九日大坂方、二の丸・三の丸破壊に同意。 二十三日大坂城塁濠、壊平開始。 二十七日城の破壊が内濠に及ぶ。大坂方、約定違反をとがめるも、関 東方続行する。 一月十八日大坂城塁濠の壊平終了。 二月十四日家康は駿府に、秀忠は江戸に帰る 三月大坂方再軍備の報、家康に届く。 四月十八日家康、再び二条城に入る