う魂胆を見抜いて、城方のお手伝いをしましようとい 桜門一帯 うことで、あれよあれよという間に作業を強行してし 冬の陣の和睦の条件に、大坂城の堀を埋めるという のがあった。惣構の堀は関東方、三の丸・二の丸の堀まったのであった。こうして和睦成立から一カ月。さ は大坂方という分担であった。和睦の誓紙交換がすんしもの堅固さを誇った大坂城もとうとう本丸だけの、 だ翌日には、関東方はもう堀の壊平に着手、以後夜を何とも浅間しい姿となった。この場面は、本丸正面桜 はだかじろ 日につぐ突貫工事で工事をすすめ、次いで三の丸・二門周辺を描くが、裸城となった大坂城の姿をよく示し の丸の堀・石垣・矢倉の破却に着手した。大坂方の時ている。 間をかせいで破却工事をうやむやにしてしまおうとい 115
合戦始末記 関東方二十万、関西方十万、両軍合わせて三十万の武士たちが、大坂城の内外に ひしめいて、凄絶きわまりない攻防戦を展開したのである。 冬の戦いを前哨戦とすれば、夏の戦いは雌雄を決する本戦といってよい。 ところが前哨戦で家康は策略を用いて、大坂城を裸同然にしてしまった。つまり 作戦勝ちである。関東方は、絶対の権力者徳川家康・秀吉父子を中心に、四天王を はじめとする家臣団が、鉄の団結を誇っている。 びん たとえ大名といえども、神君家康の一顰一笑に一喜一憂した。 ところが大坂には、総大将の秀頼がいるにはいるが残念なことに、指揮官として の資質に欠けていた。しかも経験不足で、過保護青年ときているから丸つきり藁人 形のようなものだった。その上、秀頼の直臣たちは軍事に不慣れな文官が多く、傭 い入れた浪人たちの不信を買っていた。 しかも秀頼たちは、真田幸村たち傭い入れの武将たちを信し切れす、お互いに反 主将なし、しかも指揮系統の混乱した大坂方が、敗北を喫し 目を繰り返していた。 たのは、当然のことだった。 158
慶長二十年 ( 一六一五 ) 元和元年 二十日家康、早くも和議工作を始める。 二十六日鴫野・今福の合戦。 十二月四日井伊・松平・前田隊、真田出丸に寄せるが、幸村らの奮戦で 大敗を喫する 十二月十六日関東方、大坂城内に大砲を撃ち込む。天守閣の柱・千畳敷な ど壊れる。城中動揺する 十七日塙団右衛門、本町橋夜襲。木札をまく。 十八日関東方、和議提示。淀殿、同意する 十九日大坂方、二の丸・三の丸破壊に同意。 二十三日大坂城塁濠、壊平開始。 二十七日城の破壊が内濠に及ぶ。大坂方、約定違反をとがめるも、関 東方続行する。 一月十八日大坂城塁濠の壊平終了。 二月十四日家康は駿府に、秀忠は江戸に帰る 三月大坂方再軍備の報、家康に届く。 四月十八日家康、再び二条城に入る
秀頼・淀殿をはしめ全員 自害して果てたのであっ た。秀頼この時一一三歳、 淀殿は四九歳 ( 「翁草」 ) で あっこ。 画面は、関東方がまだ 山里丸までは入 0 てこな い段階を描いているよう である。 131
ようやく許されて、昌幸、幸村の父子は、紀州高野山の麓にある九度山村に追放蟄 居の身となった。 こうして真田父子は十五年もの長い間、九度山村で蟄居生活を続けることとなっ た。その間に昌幸は、慶長十六年、六十五歳で死去した。 すでに天下は徳川氏のものとなりつつある。しかも徳川氏の天下になっては、秀 忠に憎まれている幸村の生きて行く余地はないものと思われた。秀忠の憎しみをひ しひしと感じる時、幸村は、徳川氏を倒す以外に自分が世に出る道はあるまいと吾 った。だから、関東、関西手切れとなって、大坂方が浪人を傭い入れた時、その招 きに応して大坂に入城することにした。 黄金二万枚 ( 一枚四十八匁もある大判金 ) 、銀三十貫の入城支度金を支給され、さ らに勝利の暁は五十万石の大名に取り立てるという約束の下に、大坂方についた幸 彼ことっては、物的褒賞もさることながら、おのれの手腕力量を存分 村であった。 , 。 に発揮して、ふたたび世に出たいという希望の方がより大きかったものと思われる。 さらに淀殿という女傑が陰で糸を引いている。 けれど、大坂城には主将がいない。 その上、同志討ちゃら内紛やらが相つぎ、織田有楽斎をはしめ関東方に内通してい るス。ハイや裏切者が、数え切れないほどいるとあっては、とても勝利は覚束ない。
第〇・ 0 ) 後から家康をつこ、つとい う作戦である。その一隊 が明石に預けられた。と ころが、関東方の本多忠 朝がこの日を死に時と覚 な ( 、、悟を決め、諸隊に先んし 斗イて毛利隊に切りこみ始め たため、予想よりも戦闘 が早く始まってしまっ た。こうして明石隊は船 場に孤立した形となって しまったのであった。 117
鎧・兜を集める敗走兵 神崎川もこえ、ここは 吹田あたり。大坂城から 相当はなれた。関東方の 追跡はまだ及ばない。命 からからここまで来た か、少し余裕も出てきた。 鎧・兜・刀・衣類は売れ る。追剥ぎ、死者からの ぎとり、とにかく集め る。敗走兵たちは、にわ かに追剥ぎ強盗集団へと 亦夂った。 よろいかぶと 150
に二第 ぐ、、い 京橋・備前島橋一帯 七日の合戦にあたっ て、家康は京ロ・堺口に 詰めていた関東方の軍勢 に移動を命じ、道をあけ させた ( 「村越道伴物語留 書し : 窮鼠猫を噛む〃の ことわざにもあるよ、フ に、退路をふさいでしま っては大坂方の死物狂の 反抗にあい、かえって味 方の損害を増すだけと考 えての措置だった。 京橋・備前島橋一帯は、 その逃げ道の一つ京ロで ある。描かれているのは 132
刈田ーー夏の陣終る が描かれているのか。実はこれは絵師の季節感の取違 いなどではなく、実景であった。冬の陣から夏の陣の 関東方が逃げ道として開けた京街道も安全ではなか った。刈田にすわり込み号泣する女の姿は痛々しい 間にちょうど田植えの時期が入っているが、摂津・河 ところで右隻・左隻とも何カ所も刈田と思われる光内の農民は戦乱のため、この年は田植えどころではな 景を描いている。旧暦五月七日は新暦の六月初旬にあかった。このため夏になっても田は刈田のままだった たっており、田は当然田植え前後の姿をしておらねばのである。根こそぎ刈り取られた豊臣家を象徴してい ならない。刈田は晩秋から冬にかけての光景であるのるようにも見える に、夏の合戦を描くこの屏風に何故季節ちがいのもの かりだ 157
毛利勝永隊 三人衆と呼ばれ、重きをなした。七日の合戦で毛利隊 大坂方で最大の働きをした天王寺ロの毛利勝永の隊は、関東方の本多忠朝、小笠原秀政・忠脩父子を討死 である。背に、金の円月の一部を切りとった形の指物にさせ、比類ない働きをした。勝永は大坂方全軍崩壊 をつけた鎧武者が多く描かれている。これが「金の半の後、大坂城内に引返し自害したと伝える。 さしもの 月の番指物ーといわれるもので毛利隊の目印であった。 毛利勝永は、豊前六万石の大名であったが、関ヶ原 で失領し、土佐で山内家の監視下にあった。冬の陣直 前に土佐を脱出し大坂入城、真田・長宗我部とともに 119