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検索対象: 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む
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1. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

7 が、霧の中で真田隊が遅れ、各隊はばらばらに徳川方の大軍と遭遇したため、後藤、 薄田とあたら豪傑が、敢えなく討死してしまった。 そして真田隊がようやく戦場に到着したのは午前十一時頃だった。 赤一色の具足に身を固めた真田隊は、全隊一丸となって、精鋭きわまりない騎馬 鉄砲隊八百騎を先頭に立てた一万余の伊達隊めがけて突き進んだ。 伊達の騎馬鉄砲隊は、馬上から鉄砲を射ちかけつつ敵陣に突進するのを常とした。 そして崩れ立った敵陣めがけて精強を誇る伊達の本隊が斬り込んでいく。 その戦法を熟知していた幸村は、全軍三千に折敷を命し、別命あるまで絶対に頭 伊達政宗画像を上げるなと厳命しておいた。 伊達の騎馬鉄砲隊は、委細構わす鉄砲を射ちかけつつ、真田隊めがけて突進して きた。しかし幸村は、相手が間近かに近づくまでしっと辛抱しつづけた。そしてい よいよ眼前に迫ったとみるや、采配をふるって〃かかれ / 〃と命じた。真田隊は、 一斉に立ち上って槍を構えた。そこへ伊達の騎馬鉄砲隊が飛び込んでくる。 ふすま 槍襖の待伏せに出会って、周章狼狽する伊達軍めがけて、真田隊は槍を繰り出し た。これにはさすがの伊達勢も浮足立ち、政宗も味方の不利を認めて、誉田へ退い 一方真田隊も損害が大きかったので、両軍痛み分けの形となって、これまた引 ( 霊源院蔵 ) おりしき こんだ

2. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

一ン 大野治房隊 豊臣方のこの隊の目印 なた は、白地に三本の鉈を描 く旗である。「難波戦記』 に、「岡山表は大野主馬 介、鉈の紋附いたる旗四 五十流」とあって、これ が大野治房隊を示すのは まちがいない。治房隊が 陣取った岡山表は将軍秀 忠が指揮し、そのまわり に水野・榊原・土井・酒 井ら徳川譜代衆が詰め、 先頭に三万の大軍・加賀 前田利常隊がいた。治房 隊のこの日の奮戦ぶりは 100

3. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

大野治長隊 真田隊の後方に備える 大部隊である。隊の先頭 に「白地に宇都宮笠 , の のばり 幟が立っている。「難波戦 記』は、「旗地白宇都宮 三蓋を大野治長の旗と しており、この隊は治長 隊である。治長は、秀頼・ 淀殿の恩寵篤く城中随一 の実力者であったが、淀 殿との間にとかくの噂も あり、大坂方の将兵から ム亠一の信 g 頼を得るにはい たらなかった。七日の開 戦直前、秀頼の下で急拠 きラ 104

4. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

第〇・ 0 ) 後から家康をつこ、つとい う作戦である。その一隊 が明石に預けられた。と ころが、関東方の本多忠 朝がこの日を死に時と覚 な ( 、、悟を決め、諸隊に先んし 斗イて毛利隊に切りこみ始め たため、予想よりも戦闘 が早く始まってしまっ た。こうして明石隊は船 場に孤立した形となって しまったのであった。 117

5. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

まれ、朱総の黒毛の馬で、金の扇子を胸に戦闘を凝視 前田利常隊・井伊直孝隊 図の左上部、白地に梅鉢紋の幟が林立し、後方にはしている青年武将が利常である。 様々な文様の旗指物が続いているのが、前田利常の率金雲で区切られた手前の部隊は、槍を先頭に抜き身 の刀を振りかざして突進する勇猛な戦闘集団である いる加賀金沢藩の大部隊である しはん 前田隊はこの日、将軍秀忠配下の岡山口の先鋒としが、赤地に八幡大菩薩の幟や井桁の大四半などから近 て、豊臣方の大野治房隊と激突した。図はすでに鉄砲江彦根藩井伊直孝 ( 中央馬上の赤具足の人物 ) の部隊 とわかる。 隊による前硝戦が始まっている様子を描いている。部 隊中央、大きく目立っ白母衣・赤母衣の護衛兵達に囲

6. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

なく追いかえし、一説で は寄せ手に一万五千人も の死傷者を出したとい この光景は、まさに出 ・、の当 ~ 一丸の城壁にとりつかんと サする寄せ手の諸隊で、上 のばり から白黒段々の幟は前田 利光隊、その下赤一色の 部隊は当時「井伊の赤備 え」と勇猛をうたわれた 井伊直孝隊、更にその手 前に描かれる矢の根 ( 矢 じり 尻 ) の旗は松平忠直隊で ある。 21

7. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

薄田隼人の碑 働きしてきた神保相成隊三百数十人が進出していて、ちょうど一息いれている所で あった。これをみた伊達政宗は、〃ええい邪魔者めが、射ち払え / 〃と、神保隊めが けて銃火を浴びせかけた。 〃伊達殿、狂乱召されたか、味方でござるぞ〃 神保相成が立ち上って叫んだが、伊達隊は非情にも神保隊を一人残らず射殺して この功績第一主義の伊達 しまった。おのが手柄のためなら、同士討ちも辞さない。 隊に、諸隊は非難を浴びせかけた。 だが政宗は、眉毛一筋動かさなかった。〃たとえ味方なりとも、前線より逃げ込ん で参った以上、撃ち払わねば、味方が総崩れとなり申す。伊達の軍法には、敵味方 の差別なく、かかる場合は撃ち払い申す〃 この政宗の無法を、家康は見て見ぬ振りをし、家臣の訴えも聞かなかったことに して大目に見すごした。それはここで奥州の雄政宗と事を構えては厄介と思ったか らだろう。政宗は、鉄牛のごとく非情な突進をつづけた。 しかしさすが一代の英傑も、老将となって焦りが目立っ結果となった。婿の後押 しをして花を持たせるどころか、その足を引っ張ったというのでかなり味噌をつけ、 差し引きして、政宗はマイナスの評価をこの一戦で受けることになってしまった。

8. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

四天王寺西門付近 がすでに鉄砲・弓・槍などをかかげて徳川方の越前兵 この屏風の右隻六曲半双のほば中心となる位置に四と戦っている場面である。真田隊の後方、白地に宇都 天王寺西門の石の鳥居が描かれている。西向きのこの宮笠の幟は大野治長隊を、また、鳥居の上方 ( 東方 ) 、 鳥居はそのまま現存するが、これよりわすかに南側を白黒段々の幟は毛利勝永隊を示している。ともに豊臣 東西に結ぶ線をはさんで南北両側に、五月七日の朝東方の中心部隊であった。 西両軍が対峙していた。その緊張が破れ合戦に突入し たのが正午頃と推定される。 図は手前に真田幸村隊が茶臼山に陣取り、その前衛 さいもん

9. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

毛利勝永隊 三人衆と呼ばれ、重きをなした。七日の合戦で毛利隊 大坂方で最大の働きをした天王寺ロの毛利勝永の隊は、関東方の本多忠朝、小笠原秀政・忠脩父子を討死 である。背に、金の円月の一部を切りとった形の指物にさせ、比類ない働きをした。勝永は大坂方全軍崩壊 をつけた鎧武者が多く描かれている。これが「金の半の後、大坂城内に引返し自害したと伝える。 さしもの 月の番指物ーといわれるもので毛利隊の目印であった。 毛利勝永は、豊前六万石の大名であったが、関ヶ原 で失領し、土佐で山内家の監視下にあった。冬の陣直 前に土佐を脱出し大坂入城、真田・長宗我部とともに 119

10. 大坂冬の陣夏の陣―カラーで読む

小笠原秀政隊 白地に三階菱の職を押 し ~ 当」て上町台地を北上 する 0 は、信川松本城八 万石小笠原秀政 0 部隊で ある。 秀政は夏の陣にさ し、長男忠脩・次男忠政 ( 0 ち忠真 ) とともに三 千一一百人余り 0 将兵を率 、五月七 、て出陣したが 日 0 決戦では豊臣方の大 野治長隊および毛利勝永 て ~ ・隊と対決。自ら槍をしご 、て麕戦したが、 傷 0 き倒れ、長男忠脩も