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検索対象: 戦争の流れの中に―中支から仏印へ
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1. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

外信部から派遣されてきており、揚子江北岸部隊が動くというので、写真の稲津、映画の荒木と組ん で従軍したのだが、師団が北進をはじめたわずか三日目 ( 一月三十日 ) に敵弾に射抜かれたのだ。戦 闘は地味なもので、前面の敵を掃討して脅威を除去しておくための作戦だった。不運な戦死であり、 また中支での同盟通信はじめての犠牲だった。通夜をすますと、翌三日、外信の同僚だった久野が遣 骨を上海に持ち帰った。 同じ日、支局は中央日報社の社屋に移転した。本格的なビルで、館内はスチ 1 ムで暖房されてい た。軍報道班は隣接のビルにおり、私は直ちに報道班長・米花少佐と新聞創刊の準備をはじめた。南 京は二カ月の間にすっかり都市機能を回復しており、見違えるほどの活気を呈していた。私はそうし た市内を取材してまわり、数本の記事を創刊号のために書いオ 戦 略新聞を創刊 攻 京米花少佐と中村支局長、それに私、そして無電の細波孝、下士官の松本伍長に兵二人。これが『南 京新聞』のスタッフだった。南京ではじめて発行される日本語新聞には、日本はもとより世界のニュ 部 ース、大陸での戦況や治安の模様がかかげられる。細波が受信し、中村農夫が取捨選択して見出しを 第 9 つける。私は地元ニ、 1 スを書き、米花少佐が用紙や資材を集め、各部隊への配布部数をきめる。 八日の創刊を前に、上海から松本支社長が深堀報道部長とともに来着。七日夜は、記事の整理、割

2. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

この段階で、十三師団も、さらに京漢線を南下していた十師団、三師団も、 えている。 恐怖の兵団 私は、漢口一番乗りが六師団だと聞いた時、南京従軍のおり、崑山に至る京滬街道を埋めつくした 中国軍の死体を思いだした。犬の子一匹生きていない悽愴な死体街道の光景は、強烈な印象を私の頭 に刻んでいた。 あの時、杭州湾に上陸した六師団は、前面の敵を蹴散らしながら長駆した。そして京滬線上を崑山 に向けて進んでいた上海派遣軍の前方に出て、敵の退路を断ち、そのまま崑山を占領してしまったの 戦である。この時、六師の先鋒部隊は敗走する中国軍の大部隊に追いすがり、これをみなごろしにして 攻遮二無二進撃していったのだが、その時の勢いのはげしさは、単に日本軍の間の語り草になっただけ ロ でなく、中国軍の間にも″恐怖の軍団〃として知れわたった。 漢 そのため長江北岸の中国軍は、相手を六師と知って恐れの意識が強かったのだろう。どの防衛拠点 部 三も徹底抗戦の気迫を示すことなく、被害を最小限度に止めるといった風で退却を重ねた。またこの師 団は、揚子江を利用して兵站の水路補給ができたのも戦略的に有利だった。いずれにせよ、崑山の場 合と同様、第二軍が大別山を越えた時は、すでに六師団が前面に進出しており、漢ロ攻撃の火蓋を切 いっせいに大別山を越

3. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

り、地上からの機銃弾を受けることがある。撃ち落とされる危険もあれば、飛行機能を失って、敵地 四に不時着しなければならないこともある。 「軽爆というのは、いつも地獄をのそいているんですよ。犠牲も多い」 元気のいい少尉が言った。この部隊と馴染みのある荒木は、ニャニヤしてハイボールをあおってい る。この夜、私は久しぶりで活気づき、おおいに飲んだ。そして踊った。 桐柏の爆撃へ 飛行場に着いた時は、一軽爆撃機が六機並んでおり、整備兵たちが忙しげに最後の点検をしていると ころだった。大隊長が荒木と私に地図を示し、攻撃目標は桐柏だという。 桐柏は漢口から二百キロ北方で、京漢線の信陽の東北方七十キロの地点。京漢線を脅かす中国軍の 拠点で、兵器工廠や兵営があるとのこと。荒木と私は、それぞれ同乗の操縦士に引き渡される。三機 ずつの六機編隊で、乗員は各機一一名。操縦士と機銃手だが、私たちは機銃手の席に乗りこむことにな る。敵戦闘機と遭遇したら機銃で戦わなければならない。操縦席の機銃は前方を射つだけで、敵機に 追尾されれば、私の席の機銃が応戦するしかない。 「射てますか」 と私の操縦士の佐藤少尉が言う。

4. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

この南京攻略の戦争は、本格的な攻城戦になっていた。中国軍は南京城を本拠として、その城壁に は重機関銃の網を張り、城外には何層もの防御陣地をめぐらせていた。重機で装備されたト 1 チカ、 ベトンで固められた重砲陣地。迫撃砲、重迫撃砲、山砲が布陣。部落や山林に隠れた戦車が出没す 南京の表門である中山門への道路の東側には紫金山があり、城外には多くの丘陵があるが、これが みなハリネズミのように武装していた。 これに対して日本軍は、正面攻撃をかけたのである。 前線の歩兵部隊の中には重機関銃が進出しており、その後方には山砲、野砲が放列を敷き、また戦 車隊が参人して、敵前戦に機動攻撃をかけていた。さらに制空権を掌握した航空部隊が南京城内をは 戦じめとして、城外の防衛拠点を爆撃した。 略 こうして左翼から六師、百十四師、三師、九師が先陣を竸い、正面の中山門を目指しては十六師が 京陣を進める。派遣軍司令部は十六師の後方にあり、各社の従軍班の主力もこの京滬街道の上にあっ 南 た。そして右には揚子江沿いに十三師が進撃していた。 部 第無電、機能を失う 失敗は、この私たちの背後にカノン砲の部隊が到着して、下騏驎門の要害に砲撃をはじめたことか る。

5. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

十六師団に移る 中央では、十一月二十日に大本営が設置され、無錫攻撃のさ中だった二十四日に第一回の御前会議 が開かれていた。宣戦布告のないままに本格的な戦争体制が固められたのである。こうして首都・南 京は、はっきりと攻撃目標と定められた。そして十二月二日には、中支那方面軍司令官・松井石根の 上海派遣軍司令官兼務が解かれ、朝香宮鳩彦王中将が派遣軍司令官の任に就いた。 この時点で、北は揚子江から南は太湖の南方地域にかけ、上海派遣軍と第十軍が、敗走する中国軍 を追って南京を目指し、大きく包囲する態勢をとりながら進撃していた。 私たちは、十一月二十八日、十人の使役を連れて、無錫を出発、常州へ向かった。ここから私たち は十六師団 ( 大阪 ) につくことになった。十六師団は上海戦がおわってから揚子江下流の白茆口に上 陸した部隊で、兵力の損害は少なかった。そのため、これまで主街道を進んできた九師に替わって、 京滬線上を正面攻撃部隊として進むことになったのである。 私たちは相変わらず鉄道線路の上を歩いた。六十キロを二日かけて常州に到着する。破壊のあとが 無残な街であった。敵の後方兵站基地をつぶすための日本空軍の爆撃のあとである。城内はしんかん と静まりかえっていた。 私たちは写真館だった家に宿営し、壁面に陳列された古い肖像写真に見守られるようにして、残さ

6. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

死んだ部隊 私は、翌朝、一「三の僚友と車を走らせた。担江門の死体はすべて取り除かれ、も早、地獄の門を くぐる恐ろしさはなかった。下関をすぎると、なるほど、深沢のいうとおり、道路の揚子江岸に夥し い中国兵の死体の山が連なっている。ところどころは、石油をかけて火をつけたらしく焼死体になっ ている。 「機銃でやったらしいな」 と祓川が言った。 「それにしても多いなあ」 一個部隊の死体だった。私たちは唖然とした。担江 戦千はこえていた。二千に達するかも知れない どうしてこういうものがあるのか、私たちに 、この長江岸の死んだ部隊とい、 攻門の死体詰めといし 京は分からなかった。 城内に戻って、警備司令部の参謀に尋ねてみた。少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆 部 二襲を受けたので撃滅した、というのが説明だった。

7. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

中でも酒豪の樋口憲吉、大鋸時生の両記者は、頑丈な荒武者タイ。フで、酒気をふりまきながら現れ ると、食卓のわれわれを睨みまわした。私たちが席をあけて迎えようとすると、いきなり樋口が依岡 に詰め寄った。 「お前はいっから支局長になったんか。設営したり、飯をつくったり偉そうな顔をするな」 と言うと、胸倉をつかんだ。 「何をするんだ」 依岡がふりほどいたはずみでドスンと背中を壁に打ちつけた。これで先着組が総立ちになった。 「貴様らばかりいい目を見やがって、オレたちをナメるな」 樋口がたたみかける。大鋸が、 戦「先に着いた者は、あとの者のためにチャンと設営しておくのが礼儀だ。オレたちをどこへ入れるつ もりだ」 攻 京 と割れ鐘のような声でどなった。 南 部 中村農夫の気合い 第 「場所はつくってあるよ、静かにせんかい」 体勢を立て直した依岡が言う。

8. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

南京を攻める 掠奪者の群れ 見事に晴れた一日だった。この朝、城内では到るところで、ドカン、ドカンという音が聞こえた。 掠奪の音である。兵隊は二、三人ずつ組んでは、ナタ、マサカリ、金槌を持ち、避難した無人の家の 錠前を打ち破っていた。戦闘のはげしかったところほど、兵隊の心が荒れるのだろう。崑山でも蘇州 でも、これほど公然たるぶちこわしの音はなかった 戦 略もっとも、崑山、蘇州とちがって、無錫では中国軍は長期抗戦の構えだった。しかし、日本軍の攻 京撃が予想をこえて激しく、そのため急に退却に移ったことによって、家々は中国軍によって荒らされ 南 ることがなかった。 部 第風呂をたてる これまでの日本軍の経験では、前線部隊が都市や部落を占領すると、そこには必ず生々しい掠奪の

9. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

3 「南京大虐殺」とは ″処刑″ 翌日 ( 十二月十六日 ) 、新井と写真の祓川らといっしょに、軍官学校で″処刑〃の現場に行きあわせ る。校舎の一角に収容してある捕虜を一人ずつ校庭に引きだし、下士官がそれを前方の防空壕の方向 に走らせる。待ち構えた兵隊が銃剣で背後から突き貫く。悲鳴をあげて壕に転げ落ちると、さらに上 戦から止めを刺す。それを三カ所で並行してやっているのだ。 引きだされ、突き放される捕虜の中には、拒み、抵抗し、叫びたてる男もいるが、多くは観念しき 攻 京ったように、死の壕に向かって走る。傍らの将校に聞くと「新兵教育だ」という。壕の中は鮮血でま みれた死体が重なっていく。 部 一一私は、これから処刑されようとする捕虜の顔を次々に凝視していた。同じような土気色の顔で表情 はなかった。この男たちにも父母があり兄姉があり弟妹があるだろう。しかし今は人間ではなく物質 として扱われている。

10. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

離脱している。いつの間にか僚機が二機右方に並び、左方にも三機編隊が雁行している。終わったの 1 だ。私は生色を取り戻した。ヘル・ダイビングとはよくも言ったものだ。あれは全くの地獄の責め苦 漢ロ従軍のピリオド やがて基地に帰投すると、私は機外に降りて、フラフラとよろけた。出迎えの大隊長に、 「いやー、ひどい目にあいましたよ。でも、三度目には痛快味が分かりました」 痩せ我慢を言うと、 「失禁しませんでしたか」 と言う。はじめての場合だと、兵隊でも失禁する者がいるというのだ。 これが私の漢ロ従軍のビリオドになった。私が打電した記事は短いものだった。 「陸の荒鷲は京漢線西方の要衝桐柏を急襲して軍事施設を爆撃、兵器廠、兵営などに大損害を与えた」 埋め草にしかならない記事であった。 武漢三鎮の平和 爆撃行の翌日は、武漢三鎮の見物に費やす。須藤宣之助、千葉光寿、板垣重太郎などと漢ロの各国