られるか日時を書けと記す。 不力、いっ来られるか分からないと書くと、 「扉にはかけがねをかけるから、来るときには叩いてくれ、是非来てくれ」 といった趣旨を記した。 女は小柄で、目鼻だちがはっきりしており、髪にはウェーブをかけていた。よくも占領直後の町に こんな女がいたものだと驚くほどの美人だった。男が書いた「改めて″迎接〃したい」というのは、 ご馳走したいという意味だろうが、この一家とすれば、掠奪、強姦の被害を受けないように懸命の努 力をしていたということなのだろう。 私は不憫に思った。二人の兵隊は、駄菓子とお茶の接待に満足していた。私はまた来たいと思っ た。しかし、私たちは蘇州滞在の二日間、またこの家を訪れることをしなかった。 上海を出てからはじめて見た美人の顔を思い浮かべながらも、占領者が被占領者の家に、もてなさ れに行くということがはばかられたのである。 裏町の阿片窟 蘇州での二日間、私は寒山寺を訪ね、美しい町並みを徘徊した。この町は戦火による破壊は少な く、避難せず家に止まった住民はかなりあった。兵隊たちは、そういう家には手をつけず、空家にな
死んだ部隊 私は、翌朝、一「三の僚友と車を走らせた。担江門の死体はすべて取り除かれ、も早、地獄の門を くぐる恐ろしさはなかった。下関をすぎると、なるほど、深沢のいうとおり、道路の揚子江岸に夥し い中国兵の死体の山が連なっている。ところどころは、石油をかけて火をつけたらしく焼死体になっ ている。 「機銃でやったらしいな」 と祓川が言った。 「それにしても多いなあ」 一個部隊の死体だった。私たちは唖然とした。担江 戦千はこえていた。二千に達するかも知れない どうしてこういうものがあるのか、私たちに 、この長江岸の死んだ部隊とい、 攻門の死体詰めといし 京は分からなかった。 城内に戻って、警備司令部の参謀に尋ねてみた。少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆 部 二襲を受けたので撃滅した、というのが説明だった。
31 第部上海戦 が当たるときは首をちちめても当たる。これまで隣の戦友が倒れても、自分はかすり傷一つ負わなか ったという戦場の摂理を体得していることもあったろう。しかし、敵弾の来かたが危険だとの判断が あると、先頭の指揮官に従って、道路の左側の溝にいっせいに倒れ伏す。 一番乗り チェコ機銃や小銃弾は、明らかにこの道路上の行進をねらっていた。しかし後方の長屋部隊の重砲 や、下枝歩兵部隊の正面攻撃を受けているため、敵の射撃は必ずしも正確ではなかった。高崎と私 は、何十回も身体をちちめたり、立ち止まって膝をついたり、駆けだしたりしながら、兵隊の合い間 を縫って前方へ急いだ。 間もなく私たちは、従軍記者の腕章をつけた大毎の記者一一人と、写真班と連絡員の四人が、道路わ きで敵弾を避けながら休息しているのに追いついた。私が「よお」と声をかけ、高崎が「お先に」と 一一一一口った。 敵弾は恐ろしかった。シュッ、シ = ッと耳もとを過ぎて行く銃弾には生命の危険を感じつづけた。 一しかし道路に這いつくばりながらも、大山大尉事件の現場に早く行き着きたかった。それも他社に先 がけなければならない。 大毎を追い抜いてからも敵の銃弾に胆を冷やし、伏せたり走ったりで、ようやく虹橋飛行場に到着
37 第部上海戦 「威勢がいいなあ、見直したよ」 と、村上が大きな声で笑った。 。しオオノーでハイボールをあけながら、私は、戦場での一日の苦労 しかし、私 . は . 無念でいっ要、ミっこ。く が水の泡になり、社会面のトツ。フと思い描いたものが、幻と消え去ったことに心が萎えていくのを覚 えた。そして岡村、栗林、井本のいる本社のデスクが懐かしかった。あそこなら、こんな間違いは決 してない : その後、私は東京へ帰った時、当時の新聞紙面を調べてみた。すると朝日の十一月十日づけ社会面 に「恨みの虹橋、感激の万歳」が四段見出しでかかげられ、翌十一日の社会面は、トップ五段で「大 山大尉の霊と劇的対面、脇坂部隊長、凛たる声〃捧げ銃〃、敵機散乱する虹橋」の大見出しで、紙面の 三分の一がこの記事で飾られていた。毎日もほば同様の扱いだった。 朝日はもちろん毎日も同盟よりすくなくとも二時間は送信が遅れたはずだから、十日には第一報し かはいらず、遅れた全文が翌日の紙面を埋めたのだろう。もし私の記事がそのまま送られていれば、 朝日を含め十日の各紙の社会面を花々しく飾ったことに間違いなかった。 ーを四、五軒飲み歩き、ヘべれけに酔って夜半すぎ「新月」にたど 一その夜、私は村上、井関と、バ りついた。そしてねまき姿で玄関の戸締まりをあけたおかみに、「なんですか、冖こんな遅くに」と叱り つけられた。
り残され、給水班の大型トラックのあとを進むことになっていた。 車がとまっている間は、前後の車両の将校や兵隊たちと情報を交換したり、雑談に花を咲かせた。 東京から来たばかりの新井正義の、中央政界や支那事変全般の動向についての話は、将校たちの関心 を集めた。 新井は、東京で外務省を担当していたので、私は霞クラブでいっしょだった。そのころの新井は、 他社の記者が麻雀卓を囲んだり、オイチョウの場に群がるのに目もくれず、常時省内をまわり歩き、 記事を送稿していた。私には、そのころの仕事ひと筋の新井の印象が強烈だったが、従軍に加わって きた新井には、ユーモラスな半面があった。 車を捨てる 私たちは、この日わずか三キロしか進まなかった。南翔の手前の頭橋で夜がふけたので、給水部隊 といっしょに大休止することになる。給水班の炊いた米飯を分けてもらって、缶詰をあけ晩飯をと る。そして車の中に身体を曲げて寝た。しかし、夜の寒さと窮屈さのためよく眠れず、夜どおし、わ れわれの停止している車列の傍らを前進していく車両と馬、そして戦車の轟音が耳についた。 翌朝五時、暗い中で昨夜の残りの飯を食べ、動きはじめる。四キロ動いて南翔の町に入ったのが正 午すぎだった。この町は二日前に落ちたばかりで、戦火に崩れ、汚れて陰気だった。避難民がわずか
や装備の貧弱な同盟軍がまともに太刀打ちできるはずはない。 しかし広い山地や森林を利用してのゲリラ活動で、しばしば仏印軍を悩ますなど、一応の善戦をつ づけはした。といってこの状態では、仏印軍の攻撃の前に勢力が衰える一方なので、陳中立は、付近 の部落の支持を背景にして、全軍を率いて首都ハノイへの出撃を決意した。途中、各地で義勇軍を集 め、勢力を拡大しながらハノイに人って、一気に政権を樹立しようというのだ。 山根道一の意を受けた氏原、増井の両名は、日本軍の援護なしでのハノイ攻略など無謀すぎること を陳中立に助言し、山岳地帯を拠点とするゲリラ活動で、勢力の拡大をはかるように勧告したが、陳 中立は自分の方針を変えようとしなかった。陳とすれば、五師団から援助、激励を受けていたので、 復国軍が行動をおこせば、必ず日本軍の協力があり得るだろうとの期待を持っていたのだ。 駐 反乱軍の潰滅 進 印 こうして、十二月下旬になって復国軍はいっせいに山をおりて、第一号国道 ( ランソンー 仏 間 ) をハノイに向けて出撃を開始した。この動向を察知していた仏印軍は、ランソン南方の山峡の要 部 四衝に布陣していて、復国軍をはげしく迎撃した。装備も悪く訓練もない反乱部隊は惨憺たる敗北を喫 した。前線部隊は全滅し、後衛はふたたび山中に逃げ込んだ。陳中立は逃走中に捕えられ、仏印軍安 南人部隊の面前で銃殺された。「復国同盟軍」の雄図はわずか二カ月で消滅してしまった。日本軍は、
しかし、上部から「早く出ろ、早く出るんだ」と叫ぶ機銃手の声に意識を取り戻すと、目の前に全 身から血を吹きだした操縦手が死んでおり、前部のエンジンが火をふいている。 身体を動かしてみると、激痛はあるが動く。だが、目先がすべて真っ赤に見える。目をやられたの かと思った。眼鏡を外してみると、血で真っ赤になっている。額から流れ落ちる血が、レンズを染め ていたのだ。エンジンの火が次第に大きくなる。 ヨーチンにうめく 「早く出ろ」と叫んでいた機銃手も、天蓋から出していた顔から頭にかけ血で真っ赤になり、自分で 外に出る力を失っている。牧島は機銃手を下から押しあげるようにして、天蓋から外にいっしょに転 げ落ちた。 戦車は敵の野砲の直撃を受けたのだった。砲弾は戦車の前面を打ち砕き、その破片が戦車の内外に 飛んで、機銃手の顔面を襲うとともに、車内では操縦手を斃し、車内をとびまわって牧島の全身を傷 つけていた。額と耳の上を大きく裂き、背中を切り、両腕に多数の鉄片が食いこんだ。このうち耳上 の傷が激痛を発し、額と背中の切り口からの血は止まらなかった。 牧島は機銃手を抱えると、後方に走った。間もなく土手の下に赤十字をつけた看護兵が二人いたの で、そこに倒れこんだ。看護兵は手早く牧島の両腕の鉄片を抜きとり、頭に包帯を巻いた。ようやく
3 「統帥乱れて : : : 」 南方進出の機運 このころ、東京でも政局は混迷していた。米内内閣は国内経済を回復し、基幹産業に力をつけるこ とに懸命で、そのためには対米関係の改善に努力を傾注する必要があった。しかし、欧州戦線でのド ィッ軍の快進撃が連日新聞のトツ。フを埋め、日本は独伊と組んで南方に進出すべきだとの声が勢いを 得はじめていた。 駐 進長期の見通しよりも、当面の暗い沈滞を打ち破ることへの期待である。そして仏印に監視団を入れ 印 たことを、南進の第一着手として、まず北部仏印への進駐を待望する空気が軍部の中に高まってい 仏 た。これが対米関係を重視する政府の慎重論とぶつかりあって、政局が動揺した。その結果、米内内 部 四閣は、消極的で優柔不断というレッテルを貼られ、強硬派に突きあげられるようにして辞職すること 1 になる。 こういう中で、ハノイにいた私は、本社から帰還命令を受けていた。南方攻略の基点になる仏印の
闘で前歯を二本折るといういたでを受けた。 びしょ濡れで湖からあがった二人のフランス人は、寒そうな身振りをしながら三人目の男につき添 われて店外に消えた。なぜ社旗を取ったのかは明らかにされなかったが、これは取った方に非がある ので、中村の行為は乱暴ではあったにしても、とがめられるには至らなかった。 あとで分かったことだが、このフランス人三人は、いずれもランソン守備隊の少尉で、そのころ次 第にはげしさを増してきた南方のタイとの国境紛争のため、カンポジアに向かうためハノイに滞在中 だったとのことだった。 集団の殴り合い これはたまたま私の身辺でおこったことだが、喧嘩沙汰にはこの種の単純なものが多かったし、言 葉が通じず、習慣が異なることからくるわずかな誤解が、平素からの敵愾心に火をつけたのだ。 シ 1 」というナイトクラブがあった。ハノイ 芸妓の町カムテン通りのいちばん奥に「サン・スー ではいちばん大きな遊び場で、もとはフランス人中心のクラプだった。しかし、この年の暮れには様 相が一変して、日本人が大顧客となり、それに進駐特需で懐ろがうるおった安南人や華僑の客が増え ていた。 ある夜、私たちがこの一角に屯していた時のことだ。日本人客は商社や銀行の若い者、それに飛行
244 交渉は外交的態度で行われたが、国境には二万の大軍が待ち構えている。本国の援助を得られない 仏印側としては、要求の目的が主権をおかすものでないという以上、これを受け入れざるを得ない状 况にあった。 そして八月末には交渉が妥結した。平和進駐協定である。協定は九月五日に調印され、ハノイで進 駐の細目についての話し合いが進められていた。ところがその最中に、突然、国境線に屯していた五 師団 ( 中村明人中将 ) の一部が越境進入してしまった。これは協定違反であり、仏印の主権侵害であ る。硬化した仏印側は協定を白紙に戻してしまった。 武力進駐の強硬論 越境したのは、鎮南関警備隊長・森本宅二中佐の率いる一個大隊で、進駐命令の遅いのにしびれを きらせて国境を越えたのである。このころ広西省側に駐留していた日本軍の生活は低劣な条件の下に あった。宿営地は戦争に荒れ、後方からの補給はすくなかった。ところが、目の前には平和で豊かな 楽園がある。一刻も早く入りたいとの誘惑が強かったのだ。 この時は、軍隊の衝突はなかったものの、森本大隊長は軍規違反できびしい叱責を受け、後方に移 送されて軍法会議にかけられることになる。