漢 - みる会図書館


検索対象: 戦争の流れの中に―中支から仏印へ
326件見つかりました。

1. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

漢ロ陥 ~ 洛 翌朝、衛生隊の検水班といっしょに城内に入る。コレラが猖獗をきわめたという町は、しんかんと して人気がない。空爆で家屋は壊れ、瓦礫が散乱し、廃屋の椅子、卓子にはクモの巣が張っている。 崩れた煉瓦塀で朝鮮烏が啼き交わし、痩せた犬が彷徨している。三十八聯隊の一個中隊が警備してい 戦るというが、城壁にでも散らばっているのだろう、人影一つ見えない。検水班は井戸を片端から調べ 攻たが、コレラ菌はないとのこと。私たちは安心して、城内の一角に残された小学校の一室にアンテナ ロ を張る。 漢 十月二十六日の正午だった。上海との連絡がつくと、その第一ニ = ースは、なんと″漢ロ陥落″だ 部 三 0 た。愕然として、直井の受信原稿を片端から奪いと 0 て読む。前夜、先鋒部隊が漢ロの一角に突人 3 し、この早朝から、主力部隊が市内を掃討中だという。 麻城から漢口まではまだ百キロもあるのだ。やっと大別山を突破して、これから漢ロ攻略戦に参加 2 武漢三鎮おちる ひとけ

2. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

蒋総統は重慶へ 漢ロでは、蒋介石総統が防衛軍の指揮をとっていたが、日本の大軍の包囲網が次第に圧縮されはじ めた十月十六日に重慶に後退した。この時点は、日本の新軍団が南支の &( イヤス湾に上陸して広東に 迫っていたので、蒋介石は、その方面への軍事対応にも迫られていたのである。 蒋総統は退去に当たって、武漢の指揮を周恩来、朱徳らの共産軍首領にまかせた。それを受け、共 産軍は日本租界に火を放ち、漢陽の鉄工場など工業施設を破壊し、あらゆる建造物や壁面に共産軍の 宣伝文を書きつらねた。その中には「打倒蒋匪」などの字句もあって、入城した日本軍を驚かせた。 市民の避難はすでに八月からはじまっており、漢ロ、武昌、漢陽三市には、下層階級や避難先のな 戦い住民二十万人が残留していた。また防衛の共産軍も、二十四日から退避をはじめ、二十六日には抵 攻抗する防衛部隊は、ほんのひとにぎりしかいなかったのである。 ロ 漢麻城の酒宴 部 = 一六師団の主力は、一夜明けた二十六日に漢口に入り、午後一時には全市を占領した。激烈だ 0 た南 7 京戦とはまるで違って、漢ロではほとんど無血のうちに全市の接収がおわった。 南から武昌を攻めていた台湾部隊の波田支隊も、二十六日に武昌に入り、午前十一時に掃討を終え

3. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

182 「生きていただけ、めつけもんですわい」と懐かしげな目をして笑った。 ひたすら漢ロへ 私は、十三師団の一行を見送って、ふたたびトラックで進発した。やっと広安に着くと、十六師は すでに黄坡まで前進したという。ここで京都日日の岡本記者と読売の連絡員がトラックに乗り込んで くる。そして前進。黄坡に着いたのは夜に入ってからだった。しかし、そこにいたのは六師の一個大 隊で、十六師は本道を離れた部落にいるとのこと。十六師も十三師も漢口には入らず、周辺に駐留す ることになっていたのだ。森、新田もどこにいるか分からない。 私はとうにこの二人と連絡をとることはあきらめていた。ただもう、ひたすら漢口にたどりつきさ えすればいいと考えるだけだった。 トラック隊は、家々に灯がともり居心地のよさそうな黄坡をあとにして、そのまま走りつづけた。 午前一時、車がとまる。川にさえぎられて多数のトラックや車両が並んでいて動く気配がない。私た ちは眠りに落ちた。 漢ロ支局に入る こうして、私が漢口に入ったのは、その翌日、十月三十一日だった。川を渡船で渡ると六師の乗用

4. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

せず、寝たきりになった飼手は、翌四日の病院船で上海へ向かう。すると、その夜、塚原俊郎班が宇 多中尉を伴って支局に現れた。 宇多隊は、光州から信陽をまわり、京漢線を南下する途中で、塚原班に出会った。これを乗せて走 るうち、路傍に座り込んでいた追及兵の津吉英雄を発見したというのだ。津吉は私の親友だった。電 通の同期人社で、政治部に配属されていた。この年の五月に召集されて十六師団の九聯隊に入隊、補 充兵部隊として盧州から九聯隊を追っていた。しかし津吉はこの部隊から落後したのだ。追及兵にな って後方を歩いているうちに漢ロ陥落を知ったのである。 ョワシだよ。マラリアにやられてへタりこんでおった」 「あれはツヨシじゃない、 塚原が大きな声でいった。津吉を拾った夜、宇多は塚原と津吉をもてなし、翌日、花園市 ( 信陽、 戦漢ロの中間地点 ) の野戦病院に津吉を送りこんだ。 攻「あんな弱い奴に鉄砲持たしたって仕方ない。病気が治ったら、漢ロの司令部にでも転属させた方が ロ 、、。俺がなんとか頼んでみよう」 漢 と宇多が言う。 部 第 野戦病院 私は、その翌日 ( 五日 ) 、タ・ ( コ、羊かん、ゆで小豆などの菓子類から肉の缶詰、パイ缶、新聞雑

5. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

離脱している。いつの間にか僚機が二機右方に並び、左方にも三機編隊が雁行している。終わったの 1 だ。私は生色を取り戻した。ヘル・ダイビングとはよくも言ったものだ。あれは全くの地獄の責め苦 漢ロ従軍のピリオド やがて基地に帰投すると、私は機外に降りて、フラフラとよろけた。出迎えの大隊長に、 「いやー、ひどい目にあいましたよ。でも、三度目には痛快味が分かりました」 痩せ我慢を言うと、 「失禁しませんでしたか」 と言う。はじめての場合だと、兵隊でも失禁する者がいるというのだ。 これが私の漢ロ従軍のビリオドになった。私が打電した記事は短いものだった。 「陸の荒鷲は京漢線西方の要衝桐柏を急襲して軍事施設を爆撃、兵器廠、兵営などに大損害を与えた」 埋め草にしかならない記事であった。 武漢三鎮の平和 爆撃行の翌日は、武漢三鎮の見物に費やす。須藤宣之助、千葉光寿、板垣重太郎などと漢ロの各国

6. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

車があり、鹿児島新聞の記者が乗っている。これに同乗して漢口市に入ったのだ。さすが武漢三鎮、 揚子江上流の最大都市といわれるだけに、市の郊外から人家が密集している。しかし家々は固く扉を とざし、住民の姿は少ない。まず日本租界に入り、同盟支局を探していると、浜口連絡員と・ハッタリ 出会う。 「直行便のおかげで、二日前に着きましたよ」 笑っている顔はきれいになっている。服装も小ざっぱりしている。案内されたのは、同盟の大きな 社旗のかかげられた石造り二階の大きな建物だった。先着の仲間たちが昼食の最中で、その中から飼 手が手を広げて迎えてくれる。森も前日着いたという。坂田二郎と吉井もいる。坂田班は第二軍司令 部といっしょに光州にいたのだが、司令官・東久邇宮が京漢線の街道を急行するのに従って、これも 戦二日前に漢ロ入りをしたのだという。 攻この時、すでに漢口にいた同盟の仲間は、記者で飼手、坂田のほか、高見達夫、前田廉、小栗周三 ロ郎、須藤宣之助、千葉愛雄、小山武夫、樋口憲吉、千葉光寿、香川邦彦、井関実、木村孝一。写真が 漢 森武二郎のほか、荒川穆、今井祐一「造道豊喜、高崎修。映画が牧島貞一、八住紫朗、悟道照夫。無 部 三電が直井潔、吉井四郎のほかに小坂武、田中盛文、石橋岩蔵、兼村穣、それに細川操縦士ほか四名の 飛行機 ( 同盟機 ) 要員だった。私を含めて三十二名の社員と、約二十名の連絡員がいたわけだ。

7. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

飼手、直井が発病 この夜の食べすぎ、飲みすぎが原因だったのだろう。翌日から飼手が腹痛に見舞われた。アメー 赤痢との診断だった。そのあと、こんどは直井がガタガタと震えはじめた。顔色が蒼白になって、寒 いという。マラリアだった。呉湾のあたりで潜伏していたものが、ここにきて発病したのだ。二人と も漢ロ陥落で気落ちしたところを病気につけこまれたのだ。 もう急いでも仕方がない。 この日は、夕刻になって、山田隊のトラックで二時間ほど前進して宋埠 にとまる。そして翌日 ( 二十八日 ) 飼手と直井は、永野、浜口両連絡員に守られて、漢ロ直行のトラ ック便で出発した。私は田神連絡員と二人で黄安に向かい、十六師にいるはずの森写真班と新田連絡 戦員を拾って、ひと足遅れて漢口に行くことになる。 しかし、ことは簡単ではなかった。黄安への道はトラック、車両の渋滞で遅々として進まない。十 攻 ロ六師の車両のほかに十三師の車両もまじ 0 ている。私が乗 0 た辻川部隊のトラックに同乗していたの 漢 は、十六師三十三聯隊の原隊を追及している上等兵と二等兵の六人組だった。行軍からの脱落兵と病 部 三院からの復帰兵で、原隊を追っているうち、兵站や便乗トラックでい 0 しょにな 0 て仲間を組んだの 9 だという。渋滞の車上はこの兵たちの放談で賑わっていた。

8. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

144 こうして八月中旬になると、ようやく漢ロ作戦が動きはじめた。大作戦に向けて陣形を整えるため の動きたった。同時に、年明けと予定された広東作戦も繰りあがる気配が強くなった。私は落ちつか なくなった。本社では二大作戦に派遣する記者の人選をはじめていたのだ。 そして九月に入って、私は部長の岡村二一に呼ばれた。 「またひとっ冖ってくれんか」 「どこですか」 「漢ロだ」 私の体内には、にわかに精気が蘇った。漢ロは南京戦の延長でもある。傍らにいた次長の栗林農夫 がニャリと笑っ一一 = ロった。 「こんどは俺もかけるよ」 「へえ、あなたかですか」 私は、この戦争に否定的だった次長の顔をみた。栗林は前線指揮者の立場で広東作戦に従うのだと その夜、私は栗林に連れられて「福村」に行った。栗林は例によって日本酒の盃を傾け、「白玉の 歯にしみとおる秋の夜の : : : 」と牧水の歌を口ずさんだ。そして、 「東京にいては何も分からん、戦争の中に入ってみたくってね」

9. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

この段階で、十三師団も、さらに京漢線を南下していた十師団、三師団も、 えている。 恐怖の兵団 私は、漢口一番乗りが六師団だと聞いた時、南京従軍のおり、崑山に至る京滬街道を埋めつくした 中国軍の死体を思いだした。犬の子一匹生きていない悽愴な死体街道の光景は、強烈な印象を私の頭 に刻んでいた。 あの時、杭州湾に上陸した六師団は、前面の敵を蹴散らしながら長駆した。そして京滬線上を崑山 に向けて進んでいた上海派遣軍の前方に出て、敵の退路を断ち、そのまま崑山を占領してしまったの 戦である。この時、六師の先鋒部隊は敗走する中国軍の大部隊に追いすがり、これをみなごろしにして 攻遮二無二進撃していったのだが、その時の勢いのはげしさは、単に日本軍の間の語り草になっただけ ロ でなく、中国軍の間にも″恐怖の軍団〃として知れわたった。 漢 そのため長江北岸の中国軍は、相手を六師と知って恐れの意識が強かったのだろう。どの防衛拠点 部 三も徹底抗戦の気迫を示すことなく、被害を最小限度に止めるといった風で退却を重ねた。またこの師 団は、揚子江を利用して兵站の水路補給ができたのも戦略的に有利だった。いずれにせよ、崑山の場 合と同様、第二軍が大別山を越えた時は、すでに六師団が前面に進出しており、漢ロ攻撃の火蓋を切 いっせいに大別山を越

10. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

142 久戦の方針で、兵を養い物資を蓄える態勢をとっていた。しかし、ここでも現地軍の動きが中央を引 きずる形で徐州会戦がはじまろうとしていた。 , リし、 徐よ津浦線 ( 天津ー浦ロ間の鉄道 ) の要衝で、北支 軍と中支軍の中心地点にあった。 中国側はこの一帯に大軍を集中して、堅固な防衛陣を固めていた。このため、前面の敵を掃討する ということで前進を繰り返していた北支からの攻撃軍が、徐州に近い台児壮で潰滅的な打撃を受ける という事態がおこった。この敗戦が引き金になって、日本軍は主力部隊を投入して、北と南から徐州 を攻めることになった。日本軍は激しい抵抗を受け、上海以来の乱戦になった。しかし、四月から五 月にかけてようやく中国軍が退却に転じ、徐州は日本軍の手に落ちた。しかし、この間の日本軍の犠 牲と消耗は大きかった。現地軍はその態勢のたてなおしにかなりの日時を要したのである。 単調な日々 徐州が落ちると、次の目標は漢ロと定められた。秋に武漢三鎮 ( 漢ロ、漢陽、武昌 ) を陥れ、年が 明けて広東作戦を実行するというのが大本営の計画だった。漢口には蒋政権がおり、広東は南支那の 中心である。この二つの重要地点を収めれば、事実上、中国全土を押さえることになり、蒋政権がさ らに奥地の重慶こ退避しても、もはや地方政権にすぎなくなる。北京と南京に樹立された新しい現地 政権を拡大し、」れを新中国の統一政権とするというのが、軍政両面からの構想だった。