記者 - みる会図書館


検索対象: 戦争の流れの中に―中支から仏印へ
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1. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

へ。するとそこに、兵隊の一群の中に白い箱を抱えた二人の従軍記者が歩いている。福岡日日新聞の 小沢写真部長と蔵原記者だった。箱は戦死した比山国雄写真部員の遣骨だという。 比山らは郷土の六師団についていた。十二日、雨花台の要害を抜き、中華門への突撃がはじまる 時、比山は戦車からとびおりて、その決死隊の出撃の模様にカメラを向けた。その時、城壁から掃射 された機銃弾が頭部を貫通したのだ。正午すぎである。しかし決死隊が城壁に日章旗をたてるまで は、敵弾のため比山の身体は収容することができなかった。 やっと戦車が比山を収容したのは二時間後で、後方に運ばれた遺体は、他の戦死者とともに火葬に された。小沢写真部長が抱いていたのは、福日の社旗で包まれたその遣骨の箱だったのである。高崎 と荒木に代わって福日の二人が車に乗った。そして支局に向けて走っていると、年輩の従軍記者が手 戦をあげている。 後部席で、小沢と蔵原が「豊福さんだ」と叫んだ。それは同じ福日の豊福一喜記者であった。豊福 京は中山門から入城したが、比山戦死の報を聞いて、中華門へ急ぐ途中だったのである。偶然の連続だ った。遣骨はその夜、同盟支局の隣室に安置され、翌朝、小沢に抱かれて上海へ帰った。 部 第芻名の大陣容 十四日は、各門から入ってきた同盟の記者、カメラ、無電が次々と集まってきた。記者の大鋸時

2. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

71 第部上海戦 と言った。佐々木は貴重品の自転車にまたがると、背中を丸め、弾丸のはげしい前方へ走っていっ 前田恒が倒れたのは十時十五分だった。まだどこの社も無電がきていないので、旅団の無線に上海 の報道部まで知らせることを頼む。そして私は、前田恒の戦死の模様を原稿に書いた。上海を出てか らはじめての従軍記者の戦死の報である。無電が到着次第打たなければならない。 読売記者も斃れる 一段落して、昼食の支度をはじめたところに、旅団の将校がとびこんできて、 「また新聞記者がやられたそ」 と大声で告げた。私たちは愕然とした。 「どこの社だ」の尸 いに、将校は「読売だ」と言った。聯隊から連絡があったばかりだとのこと。 ま自転車で行った佐々木か、さいぜん倒れた前田に「しつかりしろ」と呼びかけていた渡辺か、どっ ちだろうか。 一しばらくして「渡辺記者戦死」の報告がとどいた。場所は二百メートル先の脇坂聯隊本部、死亡時 刻は零時五分、敵弾がひどく、まだ収容できないでいるとのことだった。もっとも聯隊からの報告に は、その他かなりの数の将兵の戦死の知らせが含まれていた。

3. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

夜の溜り場 午後七時がすぎると、デスクの記者が減りはじめる。三々五々食事に出かけ、飲みながらオダをあ げる。ハ。 ーこ行く者もあれば、ダンスホールに出かける者もあった。一杯気嫌で社に戻り、夜勤の仲 間に議論を吹きかけたり、部長や次長を飲みに誘いだす者もあった。 「ポケット」「フーケ」「ボアール」などの・ハーや和食の「福村」などが、私たちの溜り場だった。も ちろん、大陸に出かけていくのは社会部だけではない。政治部、地方部、東亜部、それに写真部、映 画部、連絡部からも動員された。顔見知りの者に出張命令がくだると、溜り場のどこかが送別会場と して賑わった。 いくさ いつの時代でもそうだが、青年たちは刺激を求めていた。しかも北支からは、勝ち戦の景気のい、 戦記事が打ちこまれてくる。私たち若手記者の血は騒いでいた。 ーことぐろを巻くと、「人生は冒険とローマンス」と「ロー」 海社会部遊軍の先輩記者・秋田正男はバ。 上のところにアクセントをつけては、若手をあおった。青年たちの間には、狭い日本の中に欝屈してい 部たくないとのムードがあり、秋田の言葉は時代相をよく現していた。 第 また大屋久寿雄という若大将がいた。ソルポンヌ大学で学んだ男で、記者として抜群の能力をそな えていた。岡村部長をバーに引きだしては、酔って青筋を立て、部長を「テメェ」呼ばわりして天下

4. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

占領、あるいは進駐の作戦の中にあった。だから、簡単にいえば、「戦争記者」の記録ということに なるのだが、語感としていささか荒つばい感じがするし、イメージが単純すぎるように思えた。そこ で「戦争の流れの中に」と変えたのである。 記者は偵察機 日本軍が奪取、あるいは進駐した五つの都市は、いずれも相手方の首都であった。そしてこれらの 都市は一つ一つが戦争の中の 0 た。というのは、それぞれの占領または進駐の時点が、戦争をや める機会だったのである。しかし、そうよ、 。しかなかった。そして、さながら大河の流れるように、戦 争はとめどなく広がっていったのである。 私は、新聞記者というものは、偵察機のようなものだと思っている。大東亜戦争の緒戦に「マレー 沖海戦」というのがあった。暎国の主力艦隊をマレー沖にとらえ、海軍航空隊がこれを撃滅した戦闘 である。 その時、はじめから最後まで、上空を旋回しながら、海戦の一部始終を見守っていた一機の偵察機 があった。この偵察機は戦闘には加わらず、眼下に展開される戦いの模様を基地に打電するのを任務 としていたのである。私の前線での役割は、この偵察機と同じようなものだったのではないかと思

5. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

そういう立場から、私は五つの首都への戦いと進駐の記録をまとめておきたいと思った。ところ が、日常の仕事にかまけて、十年たち二十年たち、とうとう三十五年もたってしまった。 すべて勝ち戦 〃三十五年″というのは終戦から数えてのことだが、支那事変の勃発からいうと、四十三年にもな る。これは半世紀に近い昔の一 ) とになるのだが、幸い私には日記があった。それを読み返してみる と、当時の記憶がなまなましく蘇ってくる。支那事変にしても大東亜戦争にしても、すでに多数の記 録もあれば、戦記もある。私はそれをなそるつもりはない。あくまで記者としての自分の体験を中心 に、戦争とはどんなものか、またそれがどのように発展していったかを描いてみたいというのがこの 連載である。 幸か不幸か分からないが、私が従った軍の行動は、すべてが勝ち戦だった。終戦は仏印のハノイで 迎えたが、ここにも″戦闘″はなかった。すなわち私は負け戦というものを知らなかったのだ。いわ にば恵まれた従軍記者だったということができる。そのため、これから書きはじめる五都進攻の物語に じは敗戦の悲劇はでてこない。 ただ私はありのままに、その場の状況を書いていこうと思っている。軍隊の中に入りこんだ丸腰の 記者の目で、見、感じたことをそのままに記していきたいのである。

6. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

178 た。そして翌二十七日には漢陽を接収した。武漢三鎮は、ここで完全に日本軍の支配下に人ったので ある。 その夜、私たちはまだ麻城にいた。朝日の従軍班と新愛知の記者が、あとから加わっていた。いず れも落胆していることでは私たちと同じだった。ニ = ース競争に敗れた記者ほどみじめなものはな 。給水班の辻川部隊のトラック隊もやってきて、宿舎の小学校はいつばいになる。この夜、われわ れは辻川部隊の豚と鶏の料理を山盛りにした馳走の相伴にあずかった。 兵隊たちは、漢口が落ちれば、こんどこそ戦争はおわりだ、と大喜びで気焔をあげ、強いパイカル ( 白酒 ) で何回となく祝盃をあげた。私たち記者団にとっては、同じ酒でもャケ酒だった。 「戦争はおわるだろうさ。しかし、こんな広いところを占領しておいて、すぐ内地帰還というわけに はいかないよ」 飼手が兵隊たちに言っていた。 「もう命の心配はないだろうがね」 「それでいいんだ、いずれは凱旋だろうからな」 伍長がどなるように言い返した。 たしかに、この日からあと、どの兵隊たちの話題も、もつばら内地帰還がいつになるかということ が中、いになった。

7. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

大屋久寿雄の出現 こうして、戦争から平和な都会での仕事の切り替えに戸惑 0 ていた私の前に、大屋久寿雄が姿を現 したのは、私の到着から数日後のことだ「た。大屋は社会部の中堅記者で、部長の岡村二一を酒席で 「テメェ」呼ばわりする剛の者である。 前年十二月に汪兆銘が ( ノイに脱出した時、東京から特派され、影佐機関が汪一行をこの年の五月 に ( ノイの外港である ( イフォンから上海に送りだすまで、その隠密行動に協力していた。しかし汪 兆銘のいなくな 0 た ( ノイには常駐記者をおくだけの = = 1 スはなか 0 た。そこで、大屋が自分の後 任として私を移動特派員に推薦したということだ 0 た。そしていま、事務引きつぎに私を ( ノイ〈連 れていくため香港に現れたのである。 駐 進痩身、蒼白い顔に眉は昻然とつりあがり、その眉間には鋭い相があった。 印 仏日本人芸者 部 ハノイへ発つんだ」 「十一日の船を予約したよ、 と大屋が言った。 「いま仏印にはなんにもない。だから日本の記者は一人もいない。しかし、ヨーロッパを見てごら

8. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

112 生、樋口憲吉、小坂武司、加藤松、深沢幹蔵、写真の稲津巳喜一「無電の菊地久太郎、それに古賀、 手島、中村などの連絡員らで、臨時支局は三十三名とふくれあがった。他社は十名から十五名のてい どだったので、一大陣容となったのだが、これがかえって裏目に出た。 日中は、記者もカメラも取材に出歩いていたので問題はなかったが、夕刻みなが帰ってくると、野 戦支局は人間でいつばいになっこ。 留守居役を引き受けて設営を受け持っていた依岡が、さらに空室をとりこんで居室を広げてはいた ものの、前夜からの先着組がそれぞれの居場所を広げていた。それがあとから到着した者たちの不満 を買った。 後着組の殴り込み 十六師団といっしょに中山門から入った先着組は、東京本社からの記者が中心だった。これに対し て柳川兵団について南西部の各門から入った後着組は、大阪支社や関門支社などからの記者が中心だ った。すでに気心の知れた先着組は前夜同様、この夜も食卓を囲んで賑やかに食事をはじめようとし ていた。そこに、後着組が乗り込んできた。この連中はすでにタ刻から別棟で飲みはじめており、す つかりメートルがあがっていた。彼らは中央の私たちとは面識がない。その中央組が野戦支局をわが もの顔に振る舞っていたのが気に入らなかった。

9. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

73 第部上海戦 が買って出て、次が佐々木写真班、ついで聯隊長と副官の順が決められた。 まず渡辺記者がとびだした。その途端、敵の掃射が出合い頭といったようにはじまり、渡辺の身体 がモンドリ打って路上に落ちた。佐々木の目前三メートルで、渡辺の胸と背中からふきだす鮮血が従 軍服を染めた。 「渡辺」と叫んで、走り寄ろうとする佐々木の身体を、副官が羽がいじめして引き戻した。弾丸が去 って、他の死体とともに渡辺の死体が収容されたのは、それから二時間もあとのことだった。左右の 胸を三つの弾丸が貫通していた。 二つの骨壺 私の従軍記者戦死の記事は、二本になった。佐々木は渡辺の遺体の傍らに戻り、私たちは前田恒の 霊前に漂う香の匂いの中で眠った。その夜、日本軍の夜襲を恐れた敵の銃弾は、終夜はげしく屋根瓦 をたたいた。 翌早朝、兵隊が前田の遺体を裏の畑に運び、火葬に付した。二百メートル先でも渡辺が焼かれた。 一ちょっとした運命の食いちがいで、八名いた記者仲間のうち二人が死んで、骨壺に人ったのだ。 この日 ( 十一月二十六日 ) の午前、火葬が済んだところに無電が到着した。菊地義紀と脇田、中村 両連絡員が使役二人を連れてきたのだ。さっそくたまっていた原稿を打つ。打ち終えると上海から、

10. 戦争の流れの中に―中支から仏印へ

渡辺記者の死体が収容されたのは午後三時半で、遣体は近くの民家に安置され、佐々木が私たちの ところに戻ってきたのが五時だった。その話による戦死の模様はこうだ。 前田恒が倒れた地点から、聯隊本部が前進したのは、二時間でわずか二百メートル。同じ家並みが クリーク沿いにつづいていたが、そこで本部が前進を阻まれたのは、敵側に面する左手の家が途切 れ、十三メートルの空間地があったためだ。 さらに前進するには、全身を露出してその距離を駆け抜けなければならない。 そこにはすでに、味方の死体が収容できないままに散乱していた。情勢を見ながらそこで待機して いた本部の中に、渡辺記者がいた。そこへ佐々木写真班が自転車を乗りつけたのだ。 モンドリ打って : 味方の機関銃は、クリークごえに敵の銃座と撃ちあっており、正午ごろには敵の銃撃が衰えはじめ た。敵は正門のある前方に銃座を移しはじめていたのだった。 そこで聯隊本部の小隊は、空間地をこえて前進する構えをとり、まず先兵三名が走り抜けた。敵弾 はこなかった。次の三名が走った。次いで六名が一団となって走った。六人は無事だったが、この 時、敵の掃射がきた。そこでひとしきり味方の機銃が敵の銃座を射ちまくり、また三名が走る。 こうして成功の公算を確かめてから、聯隊長が進むことになった。このグループの先頭を渡辺記者